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春秋戦国 その1
蛇足
□■春秋戦国  その1

今日は中国のお話です。ずっと昔、
春秋戦国といわれる時代のお話です。

西暦で言うとB.C.770〜B.C.221 年って言いますから、日本はまだ縄文時代、そして最後の一世紀弱が弥生時代、そんな古い時代なのです。
でも、この時代が百家争鳴し百花が斉放した輝かしい「中国四千年史におけるただ一度の」黄金時代。唯一輝いた時代なのです。

私達が知っていたり、聞いたりする、老子、荘子、韓非子、孫子、孔子、孟子、猛嘗君、楽毅、申不害、張儀、蘇泰、重耳etc.etc.は皆、この時代の人。
それに、よく使われる故事・名言・ことわざの実に8割以上がこの時代に出来たものだと言われています。

今日はその中で話題の多い、
楚の荘王(在位B.C.614〜B.C.591)に関係するお話をまとめてみました。

楚の荘王は
「3年鳴かず飛ばず」で有名な王です。
彼は即位後、「一切の諫言(かんげん)を許さず。あえて諫する者は容赦なくこれを誅す。」と布令を出しました。
そして3年の間一切政務を顧みることなく、もっぱら後宮にこもって酒色におぼれていたと言われます。
しかし、実はその間、荘王はひそかに臣下の評価を下していたのです。

3年後、その評価をもとに約半数の臣下を罷免し、処罰しました。
そして、歴史の表舞台に登場してきます。これが「鳴かず飛ばず」の語源です。

広辞苑では:(史記楚世家「三年不蜚不鳴」による) 将来の活躍にそなえて何もしないでじっと機会を待っているさま。
現在では、長いこと何も活躍しないでいることを軽蔑していうことが多い。

彼はその後、春秋五覇(春秋時代の五人の覇者)の一人に数えられます。
覇王(はおう)は諸侯の中でリーダー格の存在です。
覇王のメンバーにはいくつか説があるんですが、彼はどの説にも入っています…。

[孟子告子下] 斉の桓公、晋の文公、秦の穆公(ボクコウ)、宋の襄公、楚の荘王。
[荀子王覇] 斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭(こうりょ)、越王勾践(こうせん)

この覇王に関する有名な言葉が
「牛耳る(ぎゅうじる)」という言葉です。
牛耳る=「牛耳を取る」:諸侯会盟(血盟)の場で、覇王がいけにえの牛の耳を握ったことから作られた言葉です。
つまり牛耳は覇権の象徴です。

「鼎(かなえ)の軽重を問う」
当時、周王朝〔東周王朝は廃墟となった今の長安から洛陽に
九鼎(きゅうてい)を移していたので辛うじて「天子」と称していましたが。〕は有名無実の状態でした。

鼎と言うのは、もともと、炊事用のものでしたが、神にささげる犠牲(いけにえ)を煮るようになって祭器となりました。
鼎の足は三本でしたから、今でも
鼎立(ていりつ)、鼎談の様に三を意味する場合に用いますね。

伝説では夏(か)の
禹(う)王が洪水を治めて開いた九つの地から銅を集めて九鼎を鋳造し、王位の象徴として夏、商(殷)、周の三代に伝えられたとされています(日本でいう三種の神器に当たるのでしょうか)。
荘王はこれを持ちかえるため、つまり周王朝の座を奪う気で、その形状、大小、軽重を聞いたとされています。
B.C.606年の事です。

広辞苑:鼎の軽重を問う 
[左伝宣公三年](周の定王の時、楚の荘王が周室伝国の宝器である九鼎の大小・軽重をたずねた故事による)
統治者を軽んじ、これに代って支配者になろうとする野心のあること。
転じて、ある人の実力を疑ってその地位を覆そうとすることのたとえ。

この九鼎の後日談です。
それから約300年後、時の
秦の武王はこの鼎を抱えようとしました。彼は大男で剛力自慢だったのです。
しかし、彼はその鼎の重さに腰砕けになり、鼎の下敷きになってそのまま息をひきとってしまいます。
今でも、
「鼎を扛(あ)ぐ」とは、力の強いことのたとえに使われます。

彼は荘王と同様、周王朝の座を奪う気だったのです。しかし、機が熟していなかったのですね。
歴史は彼にノーを突き付けたのです。
そして、かれの5代ほど後の
秦の始皇帝がやっと春秋戦国時代に終止符をうつことになります。(B.C.221年)

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