和紙

上下水道
蛇足
□■上下水道

世界の人口は 60 億を越えていますが、その内、家庭で利用する水道や井戸などが無い人は約 11 億人と言われます。
下水にいたっては 24 億人の人が利用できません。
そのため、汚染された水が原因で毎年 220 万人が死んでいます。そのほとんどが5歳以下の子供です。

と言うことで、今日は日本の上下水道の歴史のお話です。

上水道の話
江戸時代の頃の世界の大都市の人口はロンドン 90万 パリ 60万 ニューヨーク6万 江戸 100万と言われています。(1800年頃)(江戸は120万と言う説もあります。理由は武士の数がわからないからです。武士の数は各藩の軍事機密だったからです。)

そして、17、8世紀の頃、上水道があったのは江戸とロンドンだけでした。
江戸は常時使えましたが、ロンドンは週3日、7時間/給水日でした。
パリに至っては19世紀までは水道がありませんでした。

江戸っ子の自慢は「
水道の水で産湯を使った」でした。
天正18年(1590)市内の小石川の流れを使った、
小石川上水が神田方面に引かれます。
これが、やがて井の頭の湧き水を利用した
神田上水(1629頃)になります。
その後、人口の増加に対処するため、多摩川の羽村に堰を設け四谷大木戸まで約43kmの水路を掘削します。
これが
玉川上水(1653)です。

江戸市内では地下3mに石樋や木樋が埋められ、各町の所々に浅井戸である溜桶(ためおけ)が設けられここから水をくみ上げました。見かけは井戸と同じです。
江戸の
上水井戸は6480ヶ所、武家屋敷には1ヶ所、町屋は共同でした。

井戸端会議」の語源はこの上水井戸です。
配水管総延長150km。もちろん、給水人口・給水面積とも世界一でした。

もっとも、古代ローマの水道は総延長500kmに及ぶと言われています。今でも遺跡が残っていますね。

下水道の話
いまだに日本は下水道の普及率の低さが問題にされますね。
江戸時代の日本では、あまり問題ではありませんでした。川に放流しても公害なんて起きませんでした。
というのも、合成洗剤なんて無いし、し尿は農家が買いとって肥料として使ったし、もちろん農薬も無し。
隅田川で白魚(しらうお)が獲れていたくらい綺麗だったのです。隅田川に船を浮かべての川遊びも盛んでした。

一方、ヨーロッパはとなると、し尿を肥料として使う習慣がありませんでした。
下水の無い時代は窓から外に投げ捨ててたっていうからすごい。
ですから、パリでは下水道が出来る以前は男性が建物側を歩くのがエチケットだったとか。

パリでは、伝染病の流行もあって、下水道を完備したわけです。
ところが下水処理場があるわけで無し、セーヌ川なんて臭さくて傍にも寄れなかったそうです。
ビクトル・ユーゴの「
レ・ミゼラブル」第五部第ニ章は「巨獣のはらわた」と題しすべて下水問題にあてられています。
「飢えは畑から、病気は川からやって来る」ため「下水道は間違った考えである」(1862年頃)と書いているくらいです。
彼はし尿の肥料化(中国の例を引用しています)を念頭においていたのです。

では、水に関する言葉を幾つか紹介しますね。
年寄りの冷水
江戸では、神田 ・ 玉川上水の余り水を江戸城の外堀に落としていました。
この水を船で運んで本所、深川の住民に売りました。
水売りが杉の葉を立てた桶を担いで「ひゃっこい、ひゃっこい」と砂糖入りと称し、一杯四文売り歩いていたのです。
この水で、お年寄りは腹痛を起こすことが多かったことから生まれた言葉だとされています。

寝耳に水
寝ている人の耳に水を入れては駄目ですよ! 病気になってしまいます。
この言葉は「寝耳に水の音が聞こえる」の意味です。
この水の音、鉄砲水のことだと言われています。

水商売
江戸時代、西両国町の河岸に、よしず張りの"水茶屋"が多く並び休憩処としてお茶を出したり冷や水を売ったりしていました。
やがて、女中を置き、座敷を設けて宴会が出来るようにしたりしました。
そのため"水茶屋"は酒場の意味になり、酒を扱う商売が「水商売」と言われるようになりました。

水掛け論
狂言「水掛婿」で、舅(しゅうと)と婿(むこ)が各々の田へ引く水を奪い合って水の掛け合いをします。
ここから来た言葉だとされています。


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