和紙

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成人の塩分の一日の最小必要量は1.3gです。厚生労働省は一日の塩分摂取量を
8g以下にするように指導していますが、いっこうに減らないようです。皆さん取りすぎていませんか。

食塩には舌の
アミノ酸、うま味への感度をおよそ数倍(犬の実験では5倍)増強することがわかっています。
このため、塩の少ない食事は塩味のみならず、うま味まで急激に薄くなり、減塩が苦しいといわれています。

減塩テクニックは料理の際、塩を数回に分けて入れるといいようです。
これによって、表面に塩が濃く残り、結果的に食べたとき塩を濃く感じることができます。
減塩を気にしてはいるが、薄味では物足りないという方にお勧めの調理法です。

うどんには塩が欠かせません。
小麦粉をこねて生地にするには、小麦粉の中のたんぱく質がグルテンに変わる作用を利用します。
この粘性のあるグルテンの形成に塩が不可欠なのです。
麺にするときは3.5%、餃子の皮などで2.5%の塩が必要です。茹でる時も3.5%の塩水にする方が良いと言われています。

塩と言えば
相撲を思い出しますが、なぜ塩を撒くのでしょう?
土俵に塩を撒くのは、取り組み前に身を清め、正々堂々と闘うことを誓う儀式として、江戸時代から始まった習わしです。
一般的には十両以上の力士が撒きます。
塩には殺菌効果があるので、力士が擦り傷を負っても化膿したりしません。
一日に撒いている量は45キロだそうです。

他に塩にまつわる話として
"
敵に塩を送る"と言うのがあります。
優劣を競っている相手が困っている事を知ってそれを助ける行為をした者へその行為をたたえるたとえに使われますね。
これは、今川氏真(うじざね)と北条氏康が共謀して甲斐への塩の供給を断ったのに対し、宿敵の上杉謙信が武田信玄に塩を贈った故事に由来します。
しかし歴史家の間では贈らなかったほうに傾いているそうです。
当時越後の塩が松本の市場に運ばれていて、その塩の販売を止めなかったのは事実のようです。

もう一つ塩といえば"
忠臣蔵"ですね。
吉良家は三河の吉良の海岸で塩釜法で塩を作り、江戸の市場を支配していました。
浅野家が常陸国(茨城)笠間から赤穂に国替えになったとき塩釜法を教えました。
浅野家は江戸市場への進出の為、焼塩にして綱吉に献上(歯磨き用)します。
やがて、「将軍家御用達」になった赤穂塩の売れ行きが伸び、吉良の塩が押され気味になります。
ここに忠臣蔵の原因があるとする説です。

では、塩に関する言葉をいくつか。
■「
塩梅」が良いとは、ほどよく配する、うまく処理するの意味ですが、もともとは「えんばい」がなまって「あんばい」となったものとされています。
江戸時代の料理の世界では、基本的に塩と梅酢をお吸い物や汁の調味料に用い、これによって味の調節をしたのが語源のようです。

手塩にかける
昔は、おのおのお膳に、小皿に盛った塩をつけ、めいめいで味加減をしました。(不浄のものを除く意味があるともいわれます)
このように他人任せにしないで自分で塩加減をすることから「手塩にかける」という言葉がうまれます。
やがて、「他人の世話にならない」の意味から「自分の手で育てる」「世話をやく」と言う意味に変化してきました。

盛り塩
飲食店の玄関先に盛ってある「盛り塩」。あれって何のためでしょう?
中国の皇帝の後宮は美妃三千人と言われる状態。皇帝は夜毎、羊車(*)に乗って美妃を訪ねます。
ある美妃が一計を案じ塩を玄関に盛っておきました。
羊はその塩にひかれ屋敷の前に止まっってしまいます。
この故事にちなんで、来て欲しい人を招き寄せるおまじないとして玄関に塩を盛るようになったといいます。
塩に引かれてお店に入るようでは”羊”なみってことでしょうか? ^^;

サラリーマン
サラリーマン(salary man)は和製英語です。正しくはsalaried man.
語源は古代ローマでは兵士の報酬に塩を支給したことによります。ラテン語の塩(sal)と人間(arius)を一つにして俸給の意味ができ、これが英語に入ってsalaryとなりました。

行平鍋(雪平鍋)
料理に使う鍋に行平鍋(ゆきひらなべ)がありますね。行平は在原業平の兄です。
この鍋の名は、在原行平が須磨で海女に潮をくませて塩を焼いた故事に 因むといいます。
塩を焼く器を雪平鍋と呼んだところから、陶器の平鍋を雪平鍋というようになりました。今では金属製が多いようですが・・・。

(追記)
2001.04.20
行平は小倉百人一首に「立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む」の歌があります。
謡曲「松風」によると、彼は須磨に配流されて、松風・村雨と言う二人の汐汲女と恋を語ったことになっています。三年後に都に戻ります。

(*)さっかあやめさんのご指摘で訂正しました。(牛→羊) 
「盛り塩」の故事来歴ですが歴史書にちゃんと記載されたお話なんです。
「資治通鑑」の「晋紀」の中の
西晋の武帝(司馬炎236〜290)の太康二年春三月の条に「詔して孫皓(前年に降伏した呉の皇帝)の宮人五千人を選びて宮に入る。帝は既に呉を平らげてより頗る遊宴を事とし政事に怠る。掖庭殆ど将さに萬人ならんとす。常に羊車に乗り其の之(ユ)く所を恣ままにせしむ。至れば便(スナハ)ち宴寝す。宮人競て竹葉を以って戸に挿し、鹽汁を地に灑(ソソ)ぎ、以って帝の車を引く」とあります。
武帝は南方の呉を滅ぼし天下を統一したのですが、後宮も統一したためハレムの収容人員倍増(何と10000人!)のインフレが現出してしまって、後宮の美女たちも必死で工夫したのが牛ではなく羊の気を引くための「盛り塩作戦」だったてわけなんです。

で、なぜ羊車が牛なのかですが、
羊車は漢・晋の時代に後宮で使用された車なのですが、羊とは祥すなわち善の意で、羊車は善飾の車であり、実際にヒツジが曳いたのではないようです。引いたのは、犢(こうし:子牛)で、童子が馭したようです。

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