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春秋戦国 その2
□■春秋戦国 その2

覇王に関する有名な言葉 その2です。

■史上初の覇王は、あの太公望が建てた「斉」の国でB.C.685に即位した
桓公(かんこう)です。
優秀な部下、
管仲(かんちゅう)・鮑叔牙(ほうしゅくが)の力によります。
この二人の親友同士から「
管鮑(かんぽう)の交わり」と言う言葉ができたました。

官につく前の管仲は、鮑叔牙と商売をした際には分け前を多く取ったり、仕官した後も三度にわたって主君に追い出されたり、戦場でも逃げ出したりして恥知らずな男と思われていました。
しかし、鮑叔牙はそれは管仲に守るべき年老いた母がいたからだと、全てに理解を示しました。
そのため管仲は「私を産んだのは母だが、私を分かってくれているのは鮑叔牙である」とまでいっています。

管鮑の交わり:(斉の管仲と鮑叔とは非常に仲がよく、いつも親密に交わったという故事から)深く理解し合った親密な交わり、仲むつまじい交際をいう。

管仲の著書には、あの有名な「
衣食足りて礼節を知る」と言う言葉があります。
蛇足ですがこの言葉、正しくは「倉廩(そうりん)充ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」で、省略の仕方が少し変。^^;

ついでに、「九九」のお話を。
「九九」の歴史は古く、記録では、斉の桓公(B.C.685-643) が人材を求めた時に、「九九」を暗記しているという特技で採用された者がいたという記事が残っています。
「九九」という言い方は、当時「九九、八十一」から始まる形式だったことに由来します。

■次に、前回書いた
「楚」の荘王が絡む話です。
荘王は、ある日大きなスッポンが獲れたので「鄭」の霊公に贈りました。
そこで霊公は部下達を召集します。
子公は召集された時、「食指(人差指)が動くからきっと美味しい物にありつけるぞ」と子家に話しながら登城しました。これが「
食指が動ごく」の語源なのです。

ところが、その話を聞いた霊公は気に入らなくて、子公に食べさせずに追い返してしまいます。
立ち去る時、子公は指でスープをなめて帰りました。
それを見て激怒した霊公の様子から、子公たちはこのままでは殺されると逆に霊公を殺してしまいました。
う〜ん、食べ物の恨みは恐ろしい!

食指が動く:(鄭の子公がひとさしゆびの動いたのを見て、ごちそうになる前ぶれだと言ったという故事から)食欲がきざす。また、広く、物事を求める心がおこる。
食指を動かす:自分のものにしたいという気をおこす。欲しがる。

■楚の荘王と
晋の文公のお話です。
文公は晋の 24 代目の君主。姓は姫、名は
重耳です。

父の献公の寵愛した驪姫(りき)は自分の生んだ奚斉(けいせい)を太子にしようと考え、太子申生(しんせい)を計略で殺します。
重耳は身の危険を感じ国外に逃亡します。
諸国を放浪し、最後に楚の国にたどり着きます。楚の荘王は重耳を遇します。

荘王は「将来、帰国されたらどのように私に報いてくれますか?」と聞きます。
荘王は金銀財宝は有り余るほど持っています。
そこで重耳は「万が一、晋楚の間で戦いになれば、三舎を避(さ)けましょう」と返事をします。
三舎は三日分の距離で90里、約60kmほどです。

放浪生活18年、やがて帰国した重耳は文公となります。62歳の時です。
間もなく、宋国を助けるため楚と戦うことになります。
両軍が遭遇した時、約束どおり、90里だけ退却します。
しかし楚の軍は敵が逃げ出したと思い追撃します。
しかし、90里行ったところで撃破されてしまいました。

三舎を避く:三舎の距離だけ退くということから、相手を恐れはばかって避ける、へりくだる、あるいは遠くおよばないなどの意味に用います。

■そしてなんと言っても有名なのが「
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」ですね。
越との戦争で敗死した呉王闔盧(こうりょ)の孫の
夫差(ふさ)は、祖父の仇を忘れないために薪の中に臥して身を苦しめ、ついに越王の勾践(こうせん)を負かしました。
一方勾践もゆるされると、苦い胆を食事の度に出させ、それをなめては敗戦の恨みを思い出して、ついに夫差を破ってその恨みを晴らしたというお話です。

で、このお話の中で登場するのが西施(せいし)。「
西施の顰(ひそみ)に倣(なら)う」で有名ですね。
越王勾践は西施を呉王夫差に献上し、夫差がその容色に溺れた隙をついて呉を滅ぼしました。

西施の顰に倣う:(西施が胸を病み、苦し気な顔をしたのを、美のしぐさと思い込んで里の醜女がまねたところから)むやみに人のまねをして、世間の物笑いになること。また、人にならって事をする場合に謙遜していう語。(荘子・天運篇)

奥の細道の芭蕉の句の中に「
象潟(きさかた)や雨に西施がねぶの花」というのがあります。
解釈は、雨に濡れる象潟のネムノキの花を見ていると、世に言う西施の美しさとはきっとこのようなものだったのかと思えてくる。
象潟は当時,仙台の松島と並ぶ景勝地九十九島の地でしたが、芭蕉は男性的な松島に対して、雨の降る象潟で女性的な美しさを見出したのでしょう。
残念ながら、文化元年の地震で陸地化してしまいました。


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