和紙

蛇足
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今日は日本の
国花「さくら」のお話。もっとも、桜でもヤマザクラが国花。
ちなみにイギリスは薔薇、中国は牡丹/梅、カナダはサトウカエデなど。

「さくら」の語源
さくらの語源については、いくつかの説があります。
その一つに、古事記に登場する「
木花開耶姫」(このはなさくやひめ)に関係するお話です。
「木花開耶姫」は、霞に乗って富士山の上空へ飛び、そこから花の種を蒔いたと言われています。
その時に蒔かれた花が「木花開耶姫」の名前から「サクラ」と呼ばれるようになったと言う説です。
古事記では、彼女は神武天皇の曾祖母にあたります。

また、さくらの「さ」は穀霊(穀物の霊)を表す古語で、「くら」は神霊が鎮座する場所を意味し、「さ+くら」で、
穀霊の集まる依代(よりしろ)を表すという説もあります。

桜の歴史
平安時代より以前は、野生の桜を鑑賞していたようです。
万葉集の頃は花と言えば梅でした。それは、梅を愛でる大陸の文化に貴族たちがあこがれたためでしょう。桜(42首)を詠んだ歌は梅(118首)のそれに比べて少ないのです。

平安時代になると、野生の桜を移植して鑑賞するようになりました。
桜の花見の風習は、9世紀前半に嵯峨天皇が桜の花を愛でるために紫宸殿の左近の梅を桜に替えさせ、花宴節という行事を始めたのが最初と言われています。
当時は上流社会の文化だったようです。

「世の中にたえて桜のなかりせば人の心ののどけからまし」 
在原業平(825-880)

また、12 世紀の
西行法師(1118-1190)は多くの桜の歌を詠んでいます。
「ねがはくは花のしたにて春しなむそのきさらぎのもちづきのころ」

桃山時代には、豊臣秀吉が吉野と醍醐(京都)で盛大な花見を催しました。花見の楽しみが一般に知られるようになり、大衆にも一層身近なものになりました。

江戸時代には、奈良県の吉野山から江戸に移植しました。三代将軍家光が上野に寛永寺を建てて吉野の桜を移植し、また隅田川河畔にも桜を植えました。
八代将軍吉宗は飛鳥山と小金井に桜を植え庶民の花見を奨励しました。

江戸時代の初期には、桜が一気に散る様が武士に嫌われたようですが、泰平の世になり、歌舞伎の忠臣蔵で「花は桜木、人は武士」という台詞が使われたことで、武士の桜嫌いは消えていったとも言われます。
更に、江戸時代末期に登場し、あっという間に全国に広まったソメイヨシノのおかげで、日本中に花見の風習が広く普及していきました。

一方、兵士は桜のように潔く散るべしとして、戦争中は軍国主義の道具として使われた悲しい歴史もありました。

ソメイヨシノ
単に桜といえば、今では染井吉野(ソメイヨシノ)を指しますが、古くは山桜のことを指しました。
江戸末期に染井村(現在の東京都豊島区)に住む植木職人が、オオシマザクラとエドヒガンの交配により作り出したと言われています。
花形が端正なうえ、花付きが多いので満開時も、散りぎわの花吹雪も、美しいとされます。
現在では全国の桜の約8割がソメイヨシノだそうです。

■ところで、
露店商などで、客を装って購買意欲をあおる人のことも"さくら"と言いますね。
この語源も多くの説があります。

芝居の"ただ見客"を「さくら」といったことからと言う説。
客を装い、パッと派手なことをいってパッと消えるのを「さくら」になぞらえたものです。
江戸時代の芝居小屋には、頼まれて役者に声をかける者のための特別の桟敷がありました。

他に、知らぬふりをしてこっそり援助することを“桜を切る”といったことからと言う説もあります。
鉄元禅師が一切経の版木を作る時、版木用の桜材が不足して困っているのを助けようと、桜の生木を枯木だと称して、どんどん切らせたという古事に由来するものです。

馬肉のことをさくら肉と言いますが、その語源はというと・・・。
これまた、いろんな説があります。

肉の色が桜色だから。
桜の咲く時期が馬肉が一番おいしいから。
こんなところがいい線でしょう。

アンパンは明治7年に生まれました。
木村安兵衛が当時人気のなかったパンに"あん"を入れることを考案しました。
発売すると評判になり銀座店では 1日で 15,000個も売れたと言います。
その2年後、明治天皇への献上用として国花の
桜の花の塩漬けをのせ、大いに喜ばれたそうです。

レンタルと言うと、随分新しい考え方のような気がしますが、江戸時代からありました。
あの有名な吉原の夜桜はレンタルでした。
桜の時期になると三河島の植木屋に頼んで低く仕立てた桜を100本ほど移植し、花が終わると取り除きました。
江戸時代って結構進んでいたんですね。
そう言えば
先物取引も江戸時代で、日本が一番最初だと言います。


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