和紙

蛤(はまぐり)
蛇足
□■蛤(はまぐり)

蛤は「浜の栗」で、貝殻が栗の実の形に似ていることに由来します。
ずいぶん昔から食べられていたようで、縄文時代の貝塚では蛤が最も多く出土するそうです。

虫偏
蛤と言う漢字は虫偏ですね。実は、貝類は漢字では虫偏です。
蜆(しじみ)、浅蜊(あさり)、牡蠣(かき)、栄螺(さざえ)など。
虫偏のつかない、赤貝、北寄貝(ほっきがい)、青柳などは日本でつけた名前です。

逆に貝偏は、お金に関する字です。貝偏の字に貝を表す漢字は全く無いそうです。
買、販、財、貨、貯、賃、資、貿のように。これは昔の人が子安貝などをお金の代わりに使ったからだといわれています。

桑名の焼き蛤
弥次さん、喜多さんの「
東海道中膝栗毛」の中にも、松かさの火で焼いた香ばしい「桑名の焼き蛤」の宣伝の様子が書かれています。
また、「その手は桑名の焼き蛤」という言葉があるほど、 三重県の桑名は、蛤の名産地です。いえ、でした。最盛期に3,000トンあった水揚げが現在は40トンだといいます。

いまや、日本の蛤はまぼろしです。天然の蛤が獲れるのは、有明海(熊本)、周防灘(大分・宇佐)、伊勢湾(桑名)の三ヶ所だけ、99%が輸入物です。
鹿島灘、伊勢湾などで養殖は行われています。

江戸時代の川柳に「はまぐりをつぶてになげる汐干がた」と言うのがあります。
拾った蛤を投げて遊んでいる風景、あ〜、もったいない。^^;

ちなみに、『守貞漫稿』によれば、江戸末期の売り値は、江戸で、小蛤一升が二十文、京坂は、五、六十文から百文といいます。(一文=10〜20円見当です)

■貝殻の用途
貝合わせ
平安時代には蛤の殻を使って「貝合わせ」といった遊びがありました。
蛤の貝殻は同じ貝でしか、ピッタリ合わないという特徴を生かした遊びです。
貝殻の内側には左右、同趣向の絵を描いたり、和歌の上の句と下の句を分けて書いたりしたようです。

室町時代になると、嫁入り道具のひとつとして、「貝合わせ」の蛤の殻を入れた「
貝桶」を持参する風習が出来ました。 お婿さんの方に、先に届けた「貝桶」と、お嫁さんがお輿入れの時に持参した「貝桶」の中には、それぞれ360個の殻が入っていて、一年を通じての夫婦和合の願いがこめられていたといいます。

★また、ぴったり合うと言う特性を活かして、京都の舞妓の
紅入れや、膏薬(こうやく)や丸薬をいれる容器として利用されました。

★その他、
碁石の白石として日向産の蛤が珍重されましたし、貝殻を砕いた粉にニカワを混ぜて白い絵の具としても利用されました。

蛤御門(京都御所)
★名前の由来
もともとこの門は、新在家門と言われていたのですが、
宝永の大火(1708年)の時、それまで閉ざされていた門がはじめて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえられ、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。

蛤御門の変(禁門の変)
江戸時代末期の元治元年(1864年)、この門の周辺で長州藩と御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました。
この闘いが「蛤御門の変」で、門の扉には、今でも、その時の鉄砲の玉跡が残っています。
この戦いで松下村塾で高杉晋作と共に秀才と並び称された
久坂玄瑞が 24 歳で死んでいます。

蜃気楼
二枚貝の中で泳ぐことが出来るのはホタテガイだけです。
蛤は粘液を出し、潮の流れに引っ張られるようにして移動します。そして環境のいい所まで来ると、粘液を切り離して着底します。つまり、蛤は粘液によって移動するんです。

さて、
とは大きな蛤のことで、大蛤の出す粘液(=気)に現れた楼閣が蜃気楼ということで、昔の人は蜃気楼は大蛤の仕業と考えていたようです。
「史記・天官書」に「蜃気、楼台を象(かたちづく)る」と出てきます。
また、蜃気楼の事を「海市」と言う言い方もします。
空中楼閣という言葉も蜃気楼と言う言葉から出たといわれます。

漁夫の利(「戦国策‐燕策」に載っている話です)
中国の戦国時代のお話です。
趙国の王は燕国を攻めようとします。それを知った燕国の王は蘇代(そだい)を使者として送ります。
蘇代は来るときに見たと言って、次のような話をします。

大きな蛤が口を開けている所に、シギが来て蛤をつつきました。
蛤は食べられては大変とシギの嘴を挟んだまま口をしっかり閉じてしまいました。
そのように争っていると、そこに漁師が来て、しめたとばかり両方とも取っていってしまいました。

燕国と趙国が争っていると強い秦国に攻められることを比喩していたのです。
蘇代の話で両国は仲良くしたといいます。

「鷸蚌(いっぽう)の争い」といいます。  蚌:どぶがい、はまぐり

■「
ぐれる」については、「Vol.14 逆さ言葉」を参考にして下さい。


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