和紙

吉宗
蛇足
今回は幕府中興の祖と称される、吉宗(1684-1751)をとりあげます。

■生い立ちなど
紀州藩徳川光貞(みつさだ)の四男で、幼名は源六、のちに、新之助(11歳)と言いま した。母は身分の高い家の出身ではありませんでした。
名前は、頼方(13歳)、吉宗 (22歳)と変わります。
彼は180cm以上あったと言います。当時の男子の平均身長は157cmほどです。
力も強 く、相撲取りに勝った話や鉄砲で猪を叩き殺した(撃ったのではない ^^;)話が残 っています。
猪の急所は「こめかみ」だそうで、ここを殴ったのでしょうね。

兄達の相次ぐ死により紀州藩主になります(22歳)。
綱教(つなのり、1705年5月41歳没)、頼職(よりもと、1705年9月26歳没)

6代将軍家宣(いえのぶ、1713年4月)の死の後、7代将軍候補を争った、尾張家の吉 通(1713年7月25歳没)、五郎太(1713年10月3歳没)が相次いで死にます。
そして、3年後7代将軍家継(いえつぐ、1716年4月8歳没)の死で、8代将軍の座 が転がり込んできます。享保元年(1716)のことです。

この絶妙のタイミングでの競争相手の相次ぐ死、幸運なのか策謀なのか・・・。^^;

彼以降の将軍はすべて吉宗の子孫からでます。(15代の慶喜は水戸家から一橋家に 養子になっています。一橋家は吉宗の四男宗尹(むねただ)の家系です。)

■吉宗は中興の祖と言われるほどですから、多くの実績を残しています。
享保の改革、町火消し制度の制定、目安箱の設置、小石川療養所の設置、洋書の解 禁、刑法の制定、足高制の導入などなど。

★享保の改革
江戸の3大改革は「
享保の改革(1716-1745):徳川吉宗」、「寛政の改革(1787-93): 松平定信」、「天保の改革(1841-1843):水野忠邦」と言われます。
実はこの三人、因縁があります。
松平定信は吉宗の孫です。そして、水野忠邦は吉宗を支えた勝手方(財政担当)兼務 の老中筆頭、水野忠之(ただゆき)の子孫に当たるのです。
吉宗は
水野忠之大岡忠相の二人を抜擢し、補佐役として改革を推進したのです。

「世の中にかほどうるさきものはなし、ぶんぶというて夜もねられず」 
蜀山人
は有名ですが、寛政の改革をからかったものです。
蜀山人(大田南畝)は江戸戯作文芸界の帝王として君臨していましたが、上の狂歌が 原因で官憲からにらまれ身の危険を感じ、以後下級役人として一生を終えます。

★町火消し
明暦の大火(1657年:
振袖火事)の後、火除地(ひよけち:空き地)や広小路を設けま した。
享保3年には、
町火消の制度化、享保15年「いろは四十八組」を発足します。
「へ、ら、ひ」組は語感が悪いので「百、千、万」、最初から「ん」は無かったの で47組、後に「本」を追加して48組になりました。
それ以外に、本所・深川にも16組あります。

☆おじゃんになる
火事が鎮火すると半鐘をジャンジャンと二度鳴らしたことからきています。
もとも とは、終了の意でしたが、今は、物事が不首尾に終わること、駄目になることを言 いますね。

☆振袖火事
同じ振袖を手にした三人の若い娘達が次々と死んでしまい、その供養にとその振袖 を火に投じた時、突然の強い風で舞い上がり本堂に火がつきました。(蛇足参照)
江戸は80日間、一滴も雨が降っておらず、火は二日間にわたって燃え広がり、焼失 町数800町、死者10万人を出す大惨事になりました。
この時、
江戸城本丸も焼け、以後再建されていません。
死者は、
本所回向院(えこういん)にまつられました。

この振袖火事の翌日に生まれたのが有名な
新井白石です。
新井家は焼け出され避難 先で彼は生まれます。そのため、幼い頃から「火の児(こ)」と呼ばれました。

★目安箱
目安とは訴状のことです。幕府に対する要望や不満を、人々に直訴させる目的で設 置され、吉宗みずからが開封したそうです。
この制度、吉宗が紀州藩主だった頃、和歌山城の一ノ橋門外に置いた「
訴訟箱」 がルーツだと言われれています。

この目安箱で採用されたのが、江戸の町医者、小川笙船(しょうせん)の意見で享保 7年(1722年)に小石川御薬園内に設置された無料療養施設、施薬院(
小石川養生所) です。
黒澤明監督、三船敏郎主演の映画「赤ひげ(昭和39年)」にもなった、山本周五郎の 「
赤ひげ診療譚」の舞台です。
赤ひげのモデルは小川笙船だと言われます。

☆小石川御薬園
小石川御薬園は現在、
小石川植物園(正式には東京大学大学院理学系研究科附属植 物園)として一般に開放されています。
日本で最も古い植物園でニュートンのリン ゴやメンデル葡萄、精子が発見されたイチョウとならんで、小石川養生所の井戸が 残っています。
あの大正12年(1923年)の関東大震災では避難者の飲料水として役立 ったといいます。

★青木昆陽とオランダ語
青木昆陽(1698-1769)と言えばサツマイモで有名ですね。
江戸の三大飢饉の一つ、享保の大飢饉(餓死者1万2千)を背景に、将軍徳川吉宗に 「
蕃薯考(ばんしょこう)」により、飢饉対策用としてサツマイモの栽培を進言しま した。
後に「
甘諸(かんしょ)先生」と呼ばれるようになります。

吉宗はキリスト教関係以外の西洋学術書の輸入を解禁しました(1720年)。これによ って、オランダ語の研究が進展し、医学、本草学(植物学+鉱物学)、兵学などのヨ ーロッパの学問の日本移入が行われました。

元文5年(1740)、吉宗はお抱え医師の野呂元丈(薬草学の先駆者で、和蘭医方の基礎 をつくりました)とともに、青木昆陽に蘭学研究を命じます。
青木昆陽にオランダ語を習ったのが、解体新書で有名な
前野良沢です。

★刑法
寛保2年(1742年)「
御定書百箇条」を編纂しはじめて刑法らしきものが成立します。
これより先、享保5年(1720年)、犯罪者に対する属刑(正刑に追加される刑)として 入墨の法制化がなされています。
入墨は左腕に線を1〜2本入れて、前科者の印としました。土地によって文様が異な っていたようです。 ですから、腕までの文身(ほりもの)は禁止されていました。
現在は、入墨と言う言葉が彫り物・文身と区別せずに使われますが、江戸時代は はっきり区別されていたのです。

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