和紙

蛇足
■火消しに関連するお話
★火消のいろいろ  
 ☆定火消  若年寄配下の幕府組織、江戸城周辺10ヵ所ありました。
         俗に十人火消しと言います。  
 ☆大名火消
  ・所々火消:幕府の主要施設を守るための火消しです。
  ・方角火消:江戸城からの方角に応じて受け持ちました。
  ・三町火消:近隣の出火の際に出動。
  ・奉書火消:緊急の大火の場合に幕府が出動を命じました。
 ☆私設火消
    ・加賀鳶
   ・御見舞火消、八町火消、五町火消、  
 ☆町火消

★め組の喧嘩
歌舞伎の通称「め組の喧嘩」、正式には「
神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」といいます。
文化2年(1805年)2月、江戸芝神明の境内で花相撲が催されたとき、力士と「め組」の町火消との間に起こった死傷者が出た喧嘩に題材を得たものです。

★浅野内匠頭長矩(1667-1701 あさのたくみのかみながのり)
忠臣蔵で有名な、浅野内匠頭長矩は、大名火消(奉書火消:蛇足参照)として江戸の民衆に人気があり、赤穂浅野家の消防術、消防隊は江戸随一と噂されていました。 忠臣蔵のお芝居で火消装束を使うのもこのあたりに関係ありそうです。

★振袖火事の因縁
承応3年(1654)3月、浅草諏訪町の麹商、大増屋十右衛門の娘、お菊が上野のお山の花見で、寺の小姓らしき若い男に一目惚れしました。 お菊はその小姓を探し求めますがわからず、その小姓が着ていたのと同じ模様の振袖を作り愛用しました。
お菊は翌年恋わずらいで亡くなったといいます。
葬儀は本郷丸山の本妙寺で明暦元年1月16日に執り行われ、娘の棺には、その振袖が掛けられました。

当時は、棺に添えられた服などは、寺の湯灌場で働く者がもらい、処分していいと言う習慣がありました。

この振袖は、本郷元町の鞠屋、吉兵衛の娘、お花の手にわたります。お花もこの振袖が気に入り愛用しますが、翌明暦2年の正月に突然死んでしまいます。そして、この振袖はやはり棺に掛けられたのでした。
次にこの振袖を手に入れたのは麻布の質屋、伊勢屋五兵衛の娘、梅乃です。 梅乃もこの振袖を気に入り愛用しますが、彼女もまた翌年の正月、突然死んでしまいます。

この梅乃の葬儀の場に、娘の三周忌のために寺を訪れた大増屋と、一周忌のために訪れた鞠屋が居合わせて、棺にかかった振袖を見て驚きます。
三人は、不思議な因縁を感じ本妙寺の和尚に相談しましたが、お寺の方も捨ててはおけないと、この振袖を供養してお焚き上げすることにしたのでした。

■江戸の改暦と改革
「Vol.10の暦」にも書いたのですが、日本では862年以降、
宣命暦と言う暦が使われていました。 江戸時代になって、月食が2日もずれていたので徳川家康は暦官を追放しました。
1685年に渋川春海による
貞享暦(じょうきょうれき)が採用されます。
吉宗は西洋天文学に基づく改暦を目指しますが、果たせず亡くなります。 彼の死の2年後、
宝暦暦(1753年)が採用されますが、改悪だったといいます。
そこで、松平定信が
寛政暦(1797年)を採用します。 寛政暦は古参の天文方の妨害でそれほど良くは改良されませんでした。
次の改暦は
天保暦(1844年)でこれがいわゆる太陽太陰暦と言われる暦で、明治5年の太陽暦の採用まで使われました。

吉宗の改暦は享保ではなく宝暦にずれ込みましたが、以後、寛政・天保と江戸の三大改革に改暦が結びついているのは面白いですね。

■足高制の導入
従来は家柄によってつける役職が決まっていました。しかし、これでは人材が不足し、家格の低いものでも上位の役職につくことができるようにする必要が生じました。
そこで、「足高(たしだか)の制」を定め、役料の制度を定着させて人材の登用を推進しました。
この原型は5代将軍綱吉の時代に生まれています。

■メンデルの葡萄
メンデル(Gregor Johann Mendel 1822-1884)がエンドウマメを用いて、「遺伝の法則」を発見したのですが、彼は醸造用のブドウも交配や品種改良の実験のために葡萄も栽培していました。
その株分けされたものが小石川植物園にあります。

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