アイリーン
〜竜を夢見る少女〜

プロローグ
第一章 運命のクラス分け
第二章 フィレックの理由
第三章 一枚の落し物
第四章 ボーストの暴走
第五章 不思議なメッセージ
第六章 きれいな花には裏がある
第七章 七竜草と眠れるドラゴン
第八章 テュンデルの秘密
第九章 ふたりの特訓
第十章 続・ボーストの暴走
第十一章 白の魔法
エピローグ
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――↓―――――↓――― ここから本編 ―――↓―――――↓――

 

   プロローグ


 大きなドラゴンの背には、ひとりの小さな少女が乗っていた。満面の笑みを浮かべ、大きくて長いドラゴンの首に、小さく短い自分の腕を回している。
 淡い紫色の髪が風になびく。両手が塞がっているために、風のしたいようにさせるしかなかった。
 少女の視界には白と青以外の色は一切入ってこない。
 見下ろす一面は真っ白な雲。その雲は白いさざ波のようにも見える。
 見上げれば、雲ひとつない青い空がある。雲が下にあるために、空には青色だけが広がっている。
「すごーい! 雲の上ってこんな風になってたの!」
 少女は初めて見る光景に感動して、無邪気に叫んだ。
 興奮で頬を上気させ、ドラゴンの首に回していた腕には無意識に力が込もる。そのために、ドラゴンの首はぎゅっと締められてしまっていた。
 空よりもほんの少し濃い色のウロコをしたドラゴンは、首を締められていても何も言わずに、少女を背にしたまま優雅に空を飛び続けている。
 遮る物のない日光が少女の肌に突き刺さるが、少女はそのことを気にせずに、ひと時の幸せを味わっていた。
 髪の色と同じ大きな紫色の瞳はクルクルとよく動き、様々な光景をしっかりとその目に焼きつけていた。
 初めは興奮に浮かれていた少女だったが、しばらくすると、代わり映えのしない景色に飽きてきてしまった。そっとドラゴンの首に自分の頬を押し当てて、振動を伝えるようにして話しかけた。
「ねぇ、今度は雲の下に行って欲しいなぁ」
 少女がそう伝えると、ドラゴンは了解したのか、一度大きく浮かび上がった。それから角度をつけて雲の中に入り込んでいった。
 ほぼ四十五度の角度で雲の中に突っ込んだドラゴンは、速度を落とすことなく雲の中を突き進んでいく。
 ドラゴンの身ならば平気なのかもしれないが、その首に取りついている少女にとっては、雲の中の居心地は決してよくない。肌にまとわりつく空気は重く、呼吸もしづらい。
 両のほっぺたをいっぱいに膨らませて、少女は必死にドラゴンの首にしがみついていた。目を開けていることでさえ困難なために、少女はぎゅっと目をつむったまま、ドラゴンの背中にしがみついて雲の中を進んでいた。
 ほんの数秒後、少女を取り囲む空気の質が変わった。
 少女が目を開くと、ドラゴンはもう雲の下に出ていた。上空にある分厚い雲のためか、薄暗くなっている景色が目に入り込んできた。
「うわ……あんなに小さいんだぁ」
 見覚えのある――しかし、知っている物よりもうんと小さい建物が眼下を流れていく。
「みんな……まだ寝てるのかなぁ」
 少女は心配そうな顔をして、遥か下にある建物の周囲を見ていた。
 あまりにも遠すぎて、はっきりとは見えない。辺り一面が真っ白な雪模様の中、ほんの一部分だけ緑色の場所があった。
 少女はその緑色を見つけると、少しだけ安心したように口元を緩めた。
「もう、今さらなんだかんだ言ったってしょうがないよね、きっと。よぉ〜っし、あたしひとりで楽しんじゃおう!」
 少女が元気に叫ぶと、その声が聞こえたのか、ドラゴンが大地に近づくように舞い降り始めた。
 ぐんぐんと地面が近づいてきて、建物の大きさもどんどんと大きくなっていく。
 その間、人の気配だけはずっとないままだった。
「あたしだけしか起きていないんだ……。ちょっとひとり占めしてるみたいで気分がいいなぁ」
 建物が少女の記憶と同じくらいの大きさになった時、少女の目には雪の中で唯一緑色の部分である草原と、そこで倒れている友人たちの姿が映った。
 うつ伏せやら仰向けやら、全員がでたらめに倒れている。
「ゴメンね、みんな。ホントは一緒に乗りたかったんだけど……」
 少女は倒れている人間の中の何人かに対してあやまっていた。
 建物よりも大きなドラゴンが通り過ぎても、誰も起き上がることなく倒れたままでいる。
 ドラゴンがまた浮上を始めてしまったために、少女は目だけを地面に向けていた。
 一旦雲の近くにまで浮かび上がったドラゴンは、今度は建物からどんどんと離れていくように飛び始めた。
 一面の雪景色の中、ドラゴンは一直線にひとつの場所に向かっていた。
 少女の目に入ってきたのは、そこだけ白ではなく七色に光っているような景色だった。
 いくつもの七色の花が、雪の中からひょっこりと顔を覗かせている。
 ドラゴンは、その七色の花畑の上にまで飛ぶと、そこで制止してしまった。
 七色の花からは、七色の花粉が噴き出している。少女はその花粉を吸い込まないように、紫色に光っている右手で口と鼻を覆っていた。
 しばらくすると、ドラゴンは七色の花畑を離れて、また飛び始めた。
 ぐんぐんと進んでいくと、今度はさっきとは違う七色の花畑が見えてきた。
 ドラゴンはまた花畑の上に止まり、花粉を体に浴びていた。
 そのあともいくつもの花畑に止まっては、その場で花粉を浴び続けた。
 少女は、ドラゴンの行動に身を任せている内に、たった一日で世界を一周してしまったことに驚いていた。
 おそらく全部の七色の花畑を巡ったのだろう。ドラゴンは、また少女が見覚えのある場所まで戻ってきた。
「もう……お別れなの……?」
 少女の問いにドラゴンは答えない。
 ゆっくりと降下して、ふわっと大地に降り立った。
 長い首を下げて頭を地面に着け、少女を降りさせようとしている。
 少女はしばらく背中に張りついていたが、そのままでいてもどうしようもないので、諦めて首を伝って地面に降りた。
「ありがとう。あたし、楽しかったよ……。じゃあね……おやすみなさい」
 ドラゴンは一度だけ少女の頬に大きな頭をすり合わせた。
 少女が大きな頭を撫でると、ドラゴンはフワリと浮かび上がり、雲よりも高くへと飛び去ってしまった。
 ドラゴンを見送った少女は、そのままずっと分厚い雲で覆われている空を見つめ続けていた……。



   第一章 運命のクラス分け


 アイリーンは掲示板を睨みつけて、ほっぺたを膨らませていた。
 しばらくその場で微動だにしなかったが、やがて紫色の髪が大きくふるふると震え始めた。
「納得できないっ!」
 バンッ! と大きな音が鳴ると、哀れにも掲示板を支えていた木の足の一本が、半ばからポッキリと折れてしまった。
 ちょうど今まで掲示板があった場所に、両手を突き出した格好になってしまったアイリーンは、こめかみに大粒の汗を浮かべていた。
 冷たい目をした周りの生徒たちのコソコソとした話し声は嫌でも耳に入ってくるが、今はこの場をどう言い逃れようかを考えるので精一杯だった。
 ついさっきまでの怒りもどこへやら、アイリーンの頭の中は、逃げるか隠れるかの二択に支配されていた。
「今の大きな音は何です? ……あぁ、これはどうしたことでしょう」
 アイリーンが掲示板から背を丸めて離れようとしていた時、薄い赤色をした髪の毛を上品に結い上げた女性がやってきた。
 二十代半ばのその女性は、去年までアイリーンのクラスの副担任だったスミレ・アングル先生だった。
 眼鏡の奥の淡いブルーの瞳には、悲しみの色が広がっている。
「これはどうしたのですか?」
 スミレ先生は近くにいた生徒のひとりに、無残な傷口を見せている掲示板の足を指差して、こんなことになってしまった原因を聞いてみた。
 正面から目を覗き込まれたその少女は、告げ口になるのが嫌だったが、答えないのも不自然だったので、とりあえずうしろを振り返るだけに留めた。
 だがそれだけで充分。スミレ先生は、ギクッとなって自分を見ている小柄な少女の元に歩み寄り、襟首をガシッと掴んだ。
「アイリーン、これはどういうことです?」
 スミレ先生はしゃがんでアイリーンの目を覗き込んだ。汗が止まらなくなってきたアイリーンは、目を逸らすことができなかった。
「きちんと理由を説明してください。理由によっては、相応の罰を与えなくてはいけませんから」
 にっこりと笑顔を浮かべて、アイリーンにとっては笑顔でいられない内容を口走る。
 言い逃れもできない、もちろんこの場から逃げることもできそうもない。
 諦めたアイリーンは正直に話すことにした。
「あの、結果に納得がいかなくて……」
「結果? 何の結果です?」
「その、クラス分け……」
「はぁ、なるほど。アイリーン、あなたは確かCクラスでしたよね。今年も」
「……うん」
「それで、それのどこが不満なのですか?」
「だって! ……あたし、今回はがんばったんだよ!? 今までうまくいかなかった科目もうまくいったし、学科だってちゃんとできたし……」
 だんだんと勢いを失っていくアイリーンの声は、微かに震えていた。
 アイリーンに見せつけるように持っていた掲示板の足を地面に横たえると、スミレ先生は少女の頭の上に手を乗せた。
「アイリーン、なにも上のクラスに行くだけがすべてではないのですよ。Cクラスでもきちんと勉強はできます。それは確かに多少は扱いに差が出るかもしれませんが、わたくしはあなたたちのことが好きですから、差別はしませんよ」
「でも、Cクラスのままだと、また駄目クラスって……」
 アイリーンの手は自然と拳をかたどっていた。その拳は小さく震えている。
「あなたはそんなことを気にしているのですか? 他人に言われただけで、あなたは駄目クラスの駄目人間になるのですか? 違うでしょう?」
「あたしは、あいつらを見返してやりたい。だから一生懸命勉強して、進級試験もがんばったのよ。でも……結局Cクラスのままだったから」
「それでもいいのですよ」
「えっ?」
「みんな勘違いしているようですが、別にCクラスは成績が悪いからというだけの理由で分けられているわけではないのですよ。ちょっと言い方が悪いかもしれませんが、みんなひと癖もふた癖もある人ばかりが集められているのです」
 スミレ先生はピンと人差し指を伸ばして、優しい口調でアイリーンに言い聞かせた。
 とんでもなく悪い言い方をされたほうのアイリーンは、ちょっとだけ困ったように眉を寄せたが、そこにはすぐに笑顔が浮かんだ。
「あたしもひと癖あるのかな?」
「はい。アイリーンは三癖くらいありますね」
「それはないでしょう、スミレちゃ――」
「スミレ先生」
「ス、スミレちゃ! ……先生」
「よろしい」
 にこにことした笑顔のままだが、スミレ先生の拳はすでにアイリーンの前頭部に命中している。じっくり見ていなければ、きっとスミレ先生の手の動きを追うことはできないだろう。そのくらいの速さと正確さが秘められていたゲンコツだった。
 涙目で頭を押さえるアイリーンは言葉もない。ひどいことを言われたあげく、ひどいことをされている。立派な被害者なのだが、自分にも掲示板を折ったという非があるために、強く反抗することもできない。
「頑張った結果Cクラスだったのは残念でしたが、そんなに悲しむこともありませんよ」
 強烈なゲンコツを喰らった結果、アイリーンの目には涙が浮かんでいるのだが、当の加害者であるスミレ先生には自覚はまったくない。勝手に悲しみの涙と解釈しているのだ。
「わたくしは今年もまたCクラスの副担任になりました。担任は今年から、新しくスコルド先生が就くことになりましたけれど」
「えっ! どうしてスミレちゃ――!! ……スミレ先生じゃないのぉ? もうこれで三年も副担任じゃない」
「わたくしは別に副担任でも構いません。院長が指示なさることなのですから。その詳しい考えはわたくし程度では理解も困難なことなのですよ」
 顔は変わらず笑顔のままだが、口調にはどこかトゲがある。スミレ先生は立ち上がり、アイリーンにも立つように勧めた。
「でも、担任が誰かなんて別にどうでもいいことです。それとは別のことですが、アイリーン、嬉しいことにCクラスはひとりを除いて去年のままのメンバーなのですよ」
「えぇ! どうしてまたそんなぁ……。だって、テュンデルとかはAクラスの実力があるじゃない? アイスだって、別に成績も態度も悪くないのに」
「先ほども言いましたけど、別にクラス分けは成績だけがすべてではないのですよ。たまたまCクラスにはほとんど変化がありませんでしたが、代わりにAクラスからB三クラスまでには変化がありますよ」
「え、じゃあ、ボーストはクラス落ちしたのかな?」
「あいにく、彼はAクラスのままです。よほどひどいことでもしない限り、彼がAクラス以外になることはきっとないでしょうからね」
 スミレ先生の言葉で、アイリーンの顔には明らかに嫌悪の色が浮かんでいる。
 次にボーストと会った時に、きっと彼が嫌味を言ってくるだろうことが、簡単に予想できたからだ。
「……ボーストのことはもうどうでもいいわ。ところで、ひとりを除いて同じメンバーって話だけど、そのひとりって誰なの?」
「あら、掲示板で確認しなかったのですか? きちんと名前が載っていましたよ」
「え……だって、その、掲示板は……」
「あらあら、そう言えばそうでしたわね。掲示板はアイリーンがしっかりと折ってしまったのでしたね」
 うつむくアイリーンの顔は紅潮している。自分の名前を確認した時点で、まるで後先を考えずに掲示板を叩き折ったことを、今になって恥ずかしく思っているためだ。
 スミレ先生は足元にある掲示板の足を小さく転がしながら、アイリーンの顔を無理矢理起こさせた。
 ビックリして両目と口を大きく開いているアイリーンだったが、スミレ先生は自分が何もしていないように続けた。
「いきなりでは驚くかもしれませんから、今の内に言っておきましょう。新しくCクラスに来るのは、元B一クラスのフィレックですよ」
「えっ、フィルが!?」
「はい。残念なことに三ランク落ちですね」
「……でも、どうして?」
「それはですね、彼が進級試験を受けなかったからですよ。もしも悪い成績だったのならば、まだどうにかなりましたけど、試験を受けていなければ、最低評価がくだされるのは当然のことですから」
 スミレ先生の言うことはもっともだったが、アイリーンはどこか釈然としない。
 フィレックにも試験を受けなかったなんらかの理由があったはずだ。だが、結局彼はCランク落ちという不名誉を受けてしまった。あと一歩でAクラスという位置にいただけに、彼の悔しさは強いだろう。
 そう思い始めると、アイリーンはフィレックの気持ちが知りたくなってきた。
「先生、フィルはどうにかならなかったの? 再試験とか、面接とか」
「それならやりましたよ。本試験の一週間後に再試験を」
「でも、それじゃ……」
「そうですね。彼はその試験をクリアできなかったのです。本試験欠席でB三クラス落ち、そして再試験不合格でCクラス落ちです」
 スミレ先生の淡々と事実だけを伝えるしゃべり方に、アイリーンは胸が痛む思いだった。
「アイリーン、そろそろ教室に行きなさい。もう間もなく、新学期最初のホームルームが始まりますから。わたくしも、あまりのんびりしていたら新担任に怒られてしまいますからね」
 スミレ先生の優しい微笑みに、気持ちが落ち込みかけていたアイリーンにも笑顔が浮かんだ。
 今ここでアイリーンがフィレックの今後のことについて考えたところで、それはなんの意味もない。話を聞くも慰めるも、それは彼に会ってからでも全然遅くはない。
 スミレ先生は掲示板の足を拾い上げると、そのまま何も言わずにアイリーンに背を向けて、倒れていた掲示板がどうにか立たないかと四苦八苦している小柄な女性の元に向かった。
「あっ、スミレ先生、話は終わったのか? だったら手伝ってくれよ。ボクじゃ重くて持ち上がんない」
「アイリーンがしっかりと壊してくれましたからね。大丈夫ですよ、ウィルウィンド先生。すぐにカルマー先生がいらしてくれますから。カルマー先生ならば、きっとすぐに直してくれますよ」
「これアイリーンがやったのか? まぁ、こんなことをする奴は、アイリーンかボーストくらいしか思いつかないけど」
 ウィルウィンドという名の小柄の女性教師は、教室に向かうアイリーンの背中に意地悪な笑みを向けた。
 背中がゾクッとなったアイリーンは慌ててうしろを振り返る。そこではそ知らぬ顔で掲示板を支えるウィルウィンド先生と、遠くに手招きをしているスミレ先生の姿があっただけだ。

 アイリーンが教室に入った時には、すでにほとんどの生徒が席についていた。空いている席はわずかにふたつきり。ひとつがアイリーンの席だろう。だが、今の段階ではどちらが自分の席なのかはわからない。
「アイ、こっちよ」
 ドアから近い席と窓側の席とを交互に見比べていたアイリーンの耳に、よく馴染んだ声が入ってきた。
 声のしたほうに目をやると、窓際の空いている席のうしろの席に座る、きれいな青色をした髪の毛を長く下ろしている少女が、小さく手を振っていた。
 少女の名はイセリア。髪よりも濃い色をした目からは、知的で力強い光がうかがえる。
「アイスっ! 今そっち行くよぉ!」
 アイリーンは自分の席がわかったことで、迷いもなく窓際の机に向かった。
 その途中に他のクラスメイトの顔を眺めてみると、そのどれもが去年までと同じ顔ばかりだった。
 そこから考えると、もうひとつの空いている席はフィレックの物なのだろう。現に彼は今教室にはいない。
「ねぇ、どうしてアイスはまたCクラスなのぉ? アイスの成績ならB三どころか、いっきにB一にでも行けそうなのにぃ」
「さぁね。わたしは別にどこのクラスだって構わないんだけど。重要なのは自分がなにをできるかを知っておくことだけよ」
「は〜、相変わらずむずかしいこと言うわねぇ」
「どこが難しいのよ? やれることをやれ、そう言っているだけなのよ」
「あ、それならわかりやすいかも。アイスはむずかしい言い回しが好きだからねぇ」
「アイが簡単に考えすぎているだけよ」
 イセリアはほんの少しだけ肩を竦めた。それからアイリーンの頭の上に自分の手を乗せた。
 ふたりは同い年のクラスメイトであるのにも関わらず、身長や性格の差から姉妹に見えてしまう。ふたりの接し方も、彼女たちをそう見せてしまっている要因となっている。
「ねぇ、あたしさぁ、今回の試験はがんばったつもりだったのよぉ。だけど、結果はこの通り。ちょっと自分に自信をなくすところだったわよ」
「アイはどうしてそんなに進級にこだわるの? Cクラスでさえもままなっていないのに」
「それ、グサッと来た……。あのさ、やっぱりなんでも一番を目指すのは悪いことじゃないでしょ? あたしだって、勉強とかでも一番を取りたいのよぉ。そりゃ、Aクラスはムリだろうけど、B二クラスくらいには行けるんじゃないかな、って」
「それは無理よ」
「どうしてよぉ?」
「千里の路も一歩から。よく言うものだわ」
 イセリアの言葉に、アイリーンの頭の周りにはハテナが浮かんでいた。難しい顔をして、挑むようにイセリアを見つめている。
「……ふぅ。Aクラスに行くためには、まずCクラスからってこと。一気に飛ばそうだなんて考えが甘すぎるわよ」
「そう、よね……。もう一度勉強して、次回に備えることにするよ」
「それがいいわね。大体、アイが簡単にAクラスに行けるようだったら、テュンデルなんかはとっくに教師になってるわよ」
「グサッ……。アイスは本当のことを言いすぎだよぉ」
「いいじゃない、自分でも本当のことだってわかってるんだから」
「それは、そうだけどぉ〜。もうちょっと、やさしい言葉をかけてくれてもいいんじゃないのかなぁ?」
「あんたはそんなことをわたしに期待しているわけ? よく考えないでも慰めなんてしないことは、アイが一番知っているでしょう?」
 イセリアはやれやれと肩を竦めながら首を横に振る。
「それに、アイは慰められるんじゃなくて、慰めるほうじゃないかしら」
「え? それどういう意味?」
「そう……アイは知らなかったのね。あのね――」
 イセリアが話そうとしたちょうどその時に、教室のドアが開き、そこからスミレ先生と大柄な男性が入ってきた。
 体格のいいその男性は、今年からCクラスの担任になるスコルド先生だった。
 深緑の濃い髪の毛と、彫りの深い顔立ちによって、黒い瞳は陰になってしまい、より真っ黒に見える。
 従来の魔法使い像である、痩せて知的という印象からは遠く離れている。だが、彼は有能な魔法使いであり、そして有能な教師である。やや性格に難はあるが……。
「全員揃っているようだな。もっとも、初日から遅刻するようだったら目も当てられないがな」
 一同を見渡したスコルド先生は、ひとつだけある空席を見てピクリと眉が跳ねたが、すぐにそこにいるはずの者に思い当たり、何事もなかったかのように話を続けた。
「某女生徒が掲示板を壊す前に見た者なら知っていると思うが、今年からひとり駄目クラスのメンバーが増えることになった」
 思いっきり自分のほうを見たまま話すスコルド先生に、アイリーンは恥ずかしさと同時に、微かな怒りを覚えた。
 ほぼ名指しの恥さらしはともかく、自分の受け持つクラスを、その担任が『駄目クラス』と言ったことに腹が立ったのだ。
「改めて紹介する必要があるかどうかはわからんが、一応本人に自己紹介してもらう。……さぁ、入れ」
 スコルド先生と目配せしたあと、スミレ先生が一度ドアから出ると、すぐに戻ってきた。うしろには真紅の髪の少年を従えている。
「ここに立って自己紹介をしろ」
 スコルド先生が教壇を譲ると、少年はガチガチに緊張したままその場所に向かった。明るい茶色の目を泳がせて、しきりに唇を舐めている。
 何度か口を突き出してしゃべろうとしているが、なかなかうまくいかず、その度に唇を舐め直す。
 小さな舌打ちがスコルド先生の口から漏れたが、スミレ先生の鋭い視線を浴びると、罰が悪そうにあさっての方向に視線を逸らせた。
「あ、あの……知ってると思うけど、フィレック・メソナリーです。今年からこのCクラスで、学ぶことになったので……よろしくお願いしまっす!!」
 フィレックが勢いよく頭を下げると、その軌跡は教壇へと吸い込まれた。
 ゴンッ、と大きな音と、フィレックの息が漏れる音が重なった。
「あ〜あ、フィルってば、緊張しすぎよぉ」
「しょうがないわよ? クラスの移動はそんなに多くないんだから。しかも、それがCクラスじゃ面目丸潰れだものね」
「いっそ開き直ったほうが楽しそうなのに」
 恥ずかしさと痛みに涙を浮かべているフィレックは、どうしていいかわからずにオロオロとしている。助けを求めるようにスコルド先生を見ようとして、すぐにやめてスミレ先生に視線を移した。
 スミレ先生は困ったようにフィレックを見つめていたが、やがて彼のそばに歩み寄り、そっと肩に手を乗せた。
「もういいわ。席につきなさい」
 軽く背中を押されたフィレックは、よろけるようにして自分の席に向かった。
 小さく溜め息をつくと、スミレ先生は教壇をスコルド先生に譲った。
「さて、全員揃ったところで説明を始めるが、一度しか言わないからよく聞いておけ。二度も説明をするのは手間だから、聞き逃したら誰か他の奴に聞け。もっとも、聞き逃さないでいてくれるのが一番いいのだがな」
 口元に底意地の悪い笑みを浮かべながら、スコルド先生はスミレ先生に紙を配らせた。
 その紙には、いくつかに区切られた枠が書かれているだけだ。
「おまえらは今年から三学年の科目を選択することになる。今年からは『毒』と『天候』のふたつが選択魔法に加わる。今まで通りの『炎』『氷』『風』『雷』『地』の五科目を加えて、七つの科目の中から三つを選ぶことになる。もちろんどれを選ぼうが、それはおまえらの勝手だ」
 それからスコルド先生は、今配った紙に選んだ科目を書くように伝えた。
 アイリーンたちは三年生だから、この作業も三度目である。言われなくてもやることはわかっているが、毎年説明をしなくてはいけないのは担任の勤めなのだ。
「それから、選択科目のほうは二ヵ年以上学んだ物は、他の科目と変えてもいいぞ。ただし、合計で四科目以上は取るなよ。どうせそんなにできはしないからな。取っておくだけ取っておいて、『はいできませんでした』じゃ、担任をしている俺の恥だからな」
「スコルド先生!」
 汚い物でも見るような目つきで生徒たちを見るスコルド先生の態度を見かねて、スミレ先生が横から警告の声を飛ばした。
 うるさい、とでも言いたげな目つきでスミレ先生を一瞥すると、スコルド先生は表情こそ改めたが、さっきまでと変わらない口調で続ける。
「ああ、『魔法使い心得学』は今年で最後になるから、しっかりとやっておけよ。こんな魔法使いの基礎を学べないような奴には、魔法使いになる資格などありはしないからな」
 もう一度警告の声を発しようとしていたスミレ先生だったが、説明の終わったスコルド先生は、逃げるように窓側に設置されている簡素な椅子に座ってしまった。大仰に腕と足を組み、あからさまな狸寝入りを始めてしまった。
「ねぇ、今日のスコルド――先生、結構荒れてない? 怒りっぽいのは変わんないけど、なんかイヤなことでもあったのかなぁ?」
「さぁね。おおかた、駄目クラスの担任にさせられたことが不満なんじゃないかしら。随分とやりたがっていたみたいだからね、担任職」
「そうなんだ。でも、なれたんだったうれしいんじゃないの?」
「夢と現実とのギャップには、大抵悩まされるものよ。憧れの担任職と現実の担任職……受け入れるまでには相当時間がかかりそうね」
 チラチラとスコルド先生の動きを監察しながら、アイリーンはイセリアに話しかけていた。
 今やっている科目選択は、別にひとりで黙って決めることはないのだが、あまりうるさくするとスコルド先生が怒り出すから、誰も相談しようとはしていない。
 担任としてCクラスに就くのは初めてのスコルド先生だが、彼は教師として『地魔法』も教えている。そのため、一年の時から『地魔法』の授業を取っている者は、嫌でもスコルド先生の怒りを我が身に一度は浴びているのだ。
 スコルド先生の噂はアイリーンたちの先輩からも漏れており、知ろうとしないでも勝手に知ってしまうほど蔓延している。
 アイリーンは『地魔法』を選択していないために、直接スコルド先生の授業を受けたことはない。だが、スコルド先生を怒らせないほうがいいことは、もうしっかりと予習していた。
 それでもおしゃべりをしてしまうのは、十代前半の少女には珍しくもなんともないことだ。アイリーンにしろ、イセリアにしろ、それは変わることはない。
「ねぇ、アイスは今年はなにを選ぶの? あたしは『天候魔法』をやってみたいんだよね」
「そうね……本当は『氷魔法』一本に絞りたいところなんだけど、合計三つは選ばないといけないのよね。『炎魔法』はどうも相性が悪いみたいだけど、相反する系統っていうのも持ってると面白そうだからね」
「で、結局なにがやりたいのよぉ?」
「……そうね、わたしも『天候魔法』にしようかしら。本当は『雷魔法』をやってみたいけど、二年遅れの開始だと、ついていけるか心配なのよね」
 イセリアは、チラと金髪のテュンデルのほうを見る。
 テュンデルは、イセリアとは反対の通路側でうしろの席に座っている。ペンがサラサラと動いているので、選ぶべき科目は既に決まっているようだ。
「だったら一年生と受ければいいじゃない? なにも三年生と同じ授業に途中参加することはないでしょ? 二年分を自習するしかないのよ? それはやっぱり大変だよ」
「確かにその方法もあるけど、それだと『雷魔法』を四年生の分までしか学べないのよ。全部の系統をまんべんなく使えるのもいいかもしれないけど、できればそれぞれを最大まで学んでおきたいの。だけど、『毒魔法』と『天候魔法』なら、みんなが同じスタートだから不利はないでしょう?」
「へぇ〜、あたしなんか魔法がうまくコントロールできれば、それで満足だけど」
「アイはいいのよ。あんたは『風魔法』の才能だけは学院一だから。そこまで凄い力がコントロールできないっていうのはもったいないものね」
 イセリアの真面目な口調に、アイリーンが驚いたような表情を浮かべた。
 それからいきなりイセリアは、アイリーンの顔を強引に前を向かせた。
 ほぼ同時にスコルド先生が身動ぎし、首を重そうに回し始めた。
 しかし、すぐにそのまま元の位置に戻り、また動かなくなった。
「……あれ、ホントに寝てるみたいねぇ。あたしはてっきり寝たふりだと思ってたんだけど」
 机の端に手を乗せて、ぐっと身を乗り出すようにしてスコルド先生を見ていたアイリーンは、じーっと見ていても気づかれないことで、ようやく彼が寝ているのだろうという判断をくだした。
「考えごとをしていて、そのまま油断して寝てしまったんでしょうね。でも、これはこれでよかったわ。起きていられるよりは、寝ていてもらったほうが話がしやすいからね」
「あはは。アイスも結構真顔できびしいこと言うよねぇ。まぁ、あたしはアイスのそんなとこが好きなんだけど」
「ありがとう。別にひどいことを言ったつもりはないと思うけど、アイがそう思ったのならそうなんでしょうね」
 軽く微笑を浮かべ、イセリアは配られていた用紙に『炎魔法』、『氷魔法』、『天候魔法』の三つの科目の名前を書き記した。さらに、別の欄には『占い学』、『魔法文字学』、『有用な魔法の組み合わせ学』の三つを書いた。
 一方のアイリーンのほうは、選択魔法に『風魔法』、『氷魔法』、『天候魔法』の三つ。選択科目には『防衛術』、『治癒学』、『有用な魔法の組み合わせ学』の三つを選んだ。
 ふたりとも計六科目の授業を受けることになる。今選んだ授業は今年一年間継続され、途中で変えることはできない。そのために、選択には慎重になりやすいのだが、結局は自分のやりたい科目を選ぶことがいい、ということが先輩たちからの助言として受け継がれている。
「さて、スコルド先生はお疲れのようですから、わたくしが代わりを務めさせてもらいます。みなさん、もう記入し終わりましたか?」
 スミレ先生がひとつ間を置くと、生徒たちはそれぞれ別の方法で肯定を示した。
「では、一番うしろの席の人が、順に前の人の用紙を回収してきてください」
 そう言われると、イセリアは両手を机について立ち上がった。
 青色の髪の毛がさらりと顔にかかる。イセリアが手で軽く払うと、髪の毛はふわりと広がってから、彼女の背中に落ち着いた。
 その時に甘い香りがアイリーンの鼻をかすめた。
「それでは、これでホームルームを終了します。今日は授業がありませんので、寮に帰ってお話するなり、図書室で勉強するなり、自由にして構わないですよ」
 スミレ先生に笑顔で言われると、教室にはようやく生徒の話す声が広がった。
 その声で、スミレ先生が起こすまでもなく、スコルド先生の目が開いた。
 うるさそうに眉をしかめたが、ホームルームが終わっていることに気がつくと、スミレ先生から用紙を受け取り、そのまま無言で教室から出ていってしまった。
「アイスぅ〜、ようやくしゃべれるわぁ」
「ずっとしゃべっていたような気がするのは、わたしの気のせいなのかしら?」
 アイリーンは無邪気に笑い、席を立ってうーんと伸びをした。窓から身を乗り出し、外の景色を眺める。
 校舎の周りには開けた草原があり、遠くは森に囲まれている。その森をずっと進むと、やがて高い山に行き当たる。森の中には泉があるようなのだが、アイリーンたちは目にしたことはない。
「明日から、また日常が戻るのね」
 イセリアがアイリーンの横に並びながら、しみじみと言葉を漏らした。
「そだね」
 たったひと言だけ返し、アイリーンはイセリアの横顔を見つめた。
 緩やかに吹く風に、イセリアの長い髪が揺られている。アイリーンより頭ひとつ半以上背の高いイセリアは、アイリーンの目からは随分と大人びて見える。身長だけでなく、顔立ちも大人っぽいために、そう見えてしまっても仕方はなかった。



   第二章 フィレックの理由


 ホームルームが終わり、アイリーンたちはCクラス専用の休憩室に来ていた。
 全校生徒用の食堂もあるのだが、そこは夕食以外ではほとんど利用されることはない。多くの生徒は各クラス用の休憩室を利用して、おしゃべりのために、飲み物や軽い食事をとる。
 もっともアイリーンとしては、Aクラスのボーストに会うのが面倒だったから、いつも彼の現れないこの休憩室を選んでいるだけなのだが。
「……それでさ、ついムカッときちゃって、思いっきり突いちゃったのよね。そしたら『バキッ!』とか言っちゃって!」
「どうしてそこで掲示板にあたるのかしら。すぐ物にあたっていたら、周り中の物が全部壊れちゃうわよ?」
「いや、ね……あの時はそんなことまで考えているよゆうがなかったから……」
「その短慮な性格は改めたほうがいいわ。確かに全力で前に進むアイは好きだけど、思いっきりぶつかりすぎなのよ。あんたはいいかもしれないけど、見てるこっちがヒヤヒヤしてくるわ」
 苦笑いを浮かべて、イセリアはジュースをひと口飲む。
 イセリアが飲んでいるのは、透明な赤色をした飲み物である。軽い飲み口と、あっさりとした風味で、気分を落ち着かせてくれる効果があるのだ。アイリーンの前にあるのは濃い黄色の飲み物だ。見た目通りドロッとした食感で、飲んだというよりは食べたといったほうが近い。それを証明するかのように、この飲み物を頼むとスプーンも同時に渡されるのだ。
「別にあたしだって好きで壊したわけじゃないのよぉ。その、ついなのよ、つい」
「『つい』で迷惑かけてたんじゃ話にならないわよ。他の人は大体先に見ただろうから、アイが壊してもそれほど被害はなさそうだけど。それでも、何人かはやっぱり迷惑したでしょう?」
「う〜、たぶん……」
「誰が迷惑したかはわからないからしょうがないけど、掲示板を直してくれた先生にはあやまっておくようにしなさいね」
「は〜い……」
「返事が悪い。もう一度ちゃんと言って」
「……はい、わかりましたぁ」
「よろしい」
 にこっと笑顔を浮かべて、イセリアは不満そうな顔をするアイリーンの頭に自分の手を乗せた。そして、グリグリとその頭を撫でた。
「なんかアイス、スミレちゃんみたい」
「それはそうよ。だって、真似したんだから」
「なんだぁ、どーりで。今朝のことが繰り返されたみたいだったよ」
 ちょっと困ったように笑うアイリーンだった。
 イセリアは口元を手で押さえて、こらえ切れずに笑いを漏らしていた。
 アイリーンは憮然としたまま、イセリアの笑いがひとしきり終わるまで、黄色のジュースを飲んで待っていた。
 軽く一分は笑っていたイセリアは、アイリーンの不機嫌そうな顔に気づいて、また笑い始めた。
「ちょっとちょっとぉ、なんでそこで笑うのよぉ?」
「あはは、あのね、アイの顔が面白くて……あははは」
「顔がおもしろいはないでしょうよぉ……」
「ごめんごめん。でも、本当に面白かったから。そんなにほっぺた膨らませてたら落ちてきちゃうわよ」
「落ちないわよ! まったく、しつれいねっ」
 ますます顔全部が不機嫌になってしまうアイリーンを見て、イセリアはますます笑いをこらえるのに苦労していた。
 アイリーンの頭を両手で掴んで大きく左右に揺らせながら、イセリアはアイリーンのことをなだめていた。
 ぷぅと唇を突き出したまま、アイリーンはされるがままになっていたが、その視界に赤い髪の少年を捉えると、途端に真面目な顔に戻った。
「アイ、フィレックよ」
「うん。今気づいた」
 アイリーンの頭から手を離すと、イセリアはフラフラと歩きながら席を探しているフィレックに手招きをした。
 しばらく視線をさまよわせていたフィレックは、やがてイセリアのその行動に気がついた。
 トコトコと駆け寄ってきて、テーブルの空いている席に座った。
 丸いテーブルのために、イセリアが少し動いて、三人が正三角形を描くように座り直す。
「フィレックは今までどこに行っていたの? 随分遅かったみたいだけど」
「ああ、僕……オレ、間違えてB一クラスの休憩室に行っちゃったんだ。去年までそこだったから……」
「そう。それはしょうがないわね。習慣っていうのはそう簡単に治るものでもないからね」
「ああ。早く慣れるようにしないとな。今日からここが休憩室だからな」
 情けない笑顔を満面に浮かべながら、フィレックは照れ臭そうに頭を掻いていた。
 そんなフィレックをアイリーンはただじーっと真剣な顔で見つめている。
「ど、どうしたんだ、アイリーン?」
 ようやくその視線に気がついたフィレックは、やたらとドギマギしながら、必死にその動揺を隠そうとしていた。
「ねぇ、フィルはなんで試験受けなかったの?」
「えっ! それは……風邪ひいちゃったから」
「試験受けなきゃクラス落ちなのは知ってたよね?」
「あぁ……そりゃもちろん。まぁ、アイリーンは試験が終わってすぐに家に帰っちゃったから知らなかっただろうけど、オレは試験前後に何日も寝込んでたんだよ。そのくらい重い風邪じゃ、試験なんて受けられないし、仮に受けたっていい成績は残せなかっただろうから、どの道クラス落ちはしてただろうけど……」
「じゃあ、再試験は? あったんでしょ? フィルなら合格できたんじゃないの?」
 アイリーンの身がだんだんと乗り出してきたので、フィレックの体はその分だけ無意識に仰け反っていく。
 端から見る状態にあるイセリアだけが、そのこっけいさに笑いを噛み殺していた。
「ちゃんとオレの話を聞いてくれよ。今言ったけど、試験後も風邪が長引いていたんだ。だからその間は勉強なんて全然できなかったんだよ。風邪が治って三日後に試験じゃ、実習はまだしも学科は無理だよ。大体、再試験が難問だってこと、アイリーンわかってる?」
「知らないわよ! それよりどうしてCクラスになっちゃったのに、そんなにへらへらしてられんの! はずかしいでしょ? くやしいでしょ?」
 アイリーンに詰め寄られたフィレックは、とうとう仰け反ることもできなくなり、襟元を掴まれてしまった。
「そりゃ、平気じゃないけど……決まっちゃったものは、もうどうしようもないんだよ。だから、オレはCクラスで精一杯頑張るだけだよ」
「……ウソ言ってない?」
「言ってないよ。別にCクラスだからって恥になるわけじゃないだろう? イセリアだっているし、テュンデルだっている。それに……アイリーン、おまえだって」
 言ってから、フィレックは落ち着きを失っていた。テーブルの上に置いていた手の指が、何度も小さく動いている。親指同士を合わせるように打ちつけ、目はアイリーンから逸れてイセリアへ向いている。
「……わかった。フィル自身が気にしてないなら、この話題はもうやめにする」
「そうしてくれると助かるよ。実は、親に怒られるのだけが心配で心配で……」
「そっか、まだ知らないのかぁ」
「うん。だけど、多分学院のほうから連絡が行っちゃうと思うんだ。始めの長休みになるのが怖いっていうのは、ちょっと本当のこと」
「でも、案外フィレックの家族なら怒らないんじゃないかしら? 本人の前で言うのもなんだけど、あんたの家族って変人揃いだからね」
 赤いジュースをひと口含んで飲むと、イセリアが真面目な口調で言った。
「そ、そう言われるとそうかもしれないな。逆に喜んじゃったりして、なんてね」
「ねぇフィル……家族をバカにされたら怒ってもいいんだよ」
「え? でも、別にイセリアはオレの家族を馬鹿にしたわけじゃないだろ? それに、やっぱり本当のことだけに、怒ろうにも怒れないってのが正直なところなんだけど」
 あはは、と乾いた笑いをしながら、フィレックは随分と落ち着きを取り戻していた。
 話が一旦切れたようなので、フィレックはひとこと言ってから席を立った。
「……だってさ。本人は平気みたいだから、問題はあの男よね」
「うん。ボースト……ぜったいフィルに絡んでくるよ」
「きっと、あんたにも絡むでしょうね。ふたつもいじれるところがあって、彼もさぞ満足だろうから」
 アイリーンとイセリアは同時に嫌そうな顔をして、それからお互いのその同じような顔を見て笑い合った。
 休憩室にはさっきまで一年生が楽しそうにおしゃべりをしていたが、新しいところに興味が移ったのか、いっせいにいなくなってしまっていた。
 そのために、今まで気づかなかった人物の姿がふたりの視界に入ってきた。
「あ、テュンデルじゃない! めずらし〜」
「そうね。あんまり見かけないからね、彼は。どうする……呼んでみる?」
「う〜ん……来なさそうだけど」
 苦笑を浮かべて、アイリーンは金髪のテュンデルを指差した。
 テュンデルは壁際の席にひとりで座り、ほとんど水にしか見えない透明なジュースを飲んでいるようだった。
 壁際の席で壁を向いているために、その表情は見えない。だが、壁と話していないのならば、彼はひとりでいるはずだ。
「ためしにあたしが声かけてみるよ。まぁ、ムダだとは思うけどね」
 楽しそうな笑みを浮かべたまま、アイリーンは席を立って壁側のテーブルに向かった。
 他の生徒たちが談笑する輪を通り抜けてテュンデルのほうに近づくと、どうやら彼は本を読んでいたらしいことがわかった。
 アイリーンは話しかけようかどうか一瞬だけ迷い、すぐに答えを出した。
「ねぇ、テュンデル?」
 アイリーンの気配に気づいていたのか、テュンデルの手元の本は閉じられていた。
 声をかけられたことで、ようやくテュンデルはアイリーンにその碧色の目を向けた。無言の目線がアイリーンに言葉の続きを促せている。
「あたしたちあっちで話してるんだけど、テュンデルも来ない? ひとりよりも大勢のほうが楽しいでしょ?」
 じっとアイリーンの顔を見上げていたテュンデルは、やがて目を離すと立ち上がった。
「一緒に来てくれるの!?」
「いや……休憩が終わったから外に出てくる。悪いがその話は断らせてもらう」
「そ、そう……用があるんなら別にいいけど」
「悪いな」
 それきりアイリーンのことを振り返りもせずに、テュンデルは休憩室から出ていってしまった。
 ひとり取り残される形になったアイリーンは、その背中を呆然と見送り、姿が見えなくなると意識を取り戻した。
「なんだかなぁ……」
 ひとりつぶやいて、イセリアの待つテーブルに戻っていった。
「やっぱりダメだったみたい」
「そう……残念ね」
「あいつは真面目なんだけどなぁ。悪い奴じゃないんだけど、ああも愛想が悪かったら、簡単には友達はできないよ」
「あれ、フィルはずいぶんテュンデルの肩持つのねぇ」
「これ、肩持ってるのかな? ……まぁ、いいけど。一応あいつの事情は知ってるからな。あんなに頑張ってる奴のことを悪くは言えないよ」
 今はいなくなったテュンデルのうしろ姿があった場所を見て、フィレックは感慨深げにうなずきながら話している。
 手元に置いてある澄んだ海のような色をしたジュースは、もう半分近くなくなっている。ついさっき取りにいって、アイリーンが少し席を外していた間にこれだから、彼はよほど喉が渇いていたのだろう。
「テュンデルさ、あたしが来たから外に行っちゃったのかなぁ?」
「アイリーンが話しかけなくても、どっちみちテュンデルの奴は外に行ってたと思うよ。人が多いところ、嫌いだったはずだから」
「実はあたし、テュンデルがめずらしくここにいたのにはなにか意味があったのかな、とか考えてたんだ」
「なんにもないよ。休憩してただけで意味深な行動だって言われていたら、テュンデルには気の休まるところがなくなっちゃうじゃないか」
「……そう、だよね。やっぱりあたしもテュンデルを特別視しちゃってるのかな。ホントはふつうにおしゃべりしたいんだけど」
「その内、きっと話せるようになるわよ。テュンデルだって、本当は望んでひとりでいようとは思っていないでしょうから」
 イセリアは、中身の少なくなったグラスをゆっくりと回しながら、その中身を見つめている。彼女の話す声には、どこか憂いのようなものが含まれているように感じられる。
「ところでさ、これからどうするの?」
「どうするって、なんのこと?」
「いや、いつまでも休憩室にいるわけじゃないだろう? そのあとどうするかってことだよ」
「う〜ん……アイスはどうするの?」
「わたし? わたしは図書室で調べ物をする予定だけど」
「だってさ。あたしは別に今日は勉強する気にはなれないから、部屋に戻ろっかなぁ?」
 『いつもする気ないくせに』というイセリアの指摘はまるで無視して、アイリーンは同じ質問をフィレックに向けた。
「オレは……オレも別に何もすることはないかな」
 かすかに目を泳がせながら、フィレックはイセリアに何やら目配せをしていた。
 それで彼が何を言いたいのか察知したイセリアは、笑いを含んだ声でこう言った。
「アイ、やることないんだったらフィレックにつき合ってあげたらどうかしら? どこかに行きたそうに見えるから」
「そう、なの?」
「あ、う、うん。西の草原の奥にきれいな花が咲いているのを見つけたんだ。今も咲いているかどうかはわからないけど、アイリーンにも見せてあげたいなって思ってたんだ」
「ホント! ねぇ、その花って何色だった?」
 予想外のアイリーンの食いつきに、フィレックはたじろいでしまった。
 いざ何色と聞かれると、瞬時に答えが出てこない。思い出そうとしても、記憶の糸を手繰り寄せることができないでいた。
「ちょ、ちょっと待って! 去年のことだから、すぐには思い出せない……」
「うん、わかった。早く思い出してね」
 ワクワクとした表情で、アイリーンはフィレックの顔を覗き込んでいた。
 隣のイセリアは、さらに時間がかかるだろうな、と思いながら、残りのジュースを静かに飲んでいた。
「お、思い出した!」
「ね、それで、何色だったの!」
 たっぷり五分くらいたってから、フィレックはようやく記憶の中の花に色がついて見えた。
「どうして思い出せなかったのかがわからないけど、あれ、普通の色じゃなかったよ」
「ねぇ、もしかして七色の花だった?」
「え? よくわかったね。そうなんだ、本当に鮮やかな虹色の花だったよ。だから、それをアイリ――」
「ウソ! すごーい! ねぇ、アイス、七色の花ってやっぱり!」
「……もしかして、アイの言っていたあの話?」
「そうよ、きっとそうよ! フィル、すごい! ありがとう! だいすき!」
 満面の笑みのアイリーンに抱きつかれて、フィレックの顔は真っ赤になってしまった。
 抱きついているほうのアイリーンは、興奮状態のままその首をぐいっと締めつけた。
 なんだなんだとアイリーンたちのほうを見ていた他の生徒たちは、ただ騒いでいるだけだと気づくと、すぐに関心を失った。
 だんだんと青ざめていくフィレックを見かねて、イセリアはアイリーンの体をフィレックから強引に引き剥がした。
 自分が危うくフィレックを殺しかけていたことなど露知らず、アイリーンは今度はイセリアに抱きついた。
「こらこら。アイ、少しは落ち着きなさいよ」
「だって、もしかしたらドラゴンに会えるかもしれないのよぉ? それなのに落ち着いてられると思う?」
「だけど、まだそうと決まったわけじゃないでしょう。早計は落胆を増すだけよ」
「……え、なにがどうしたって?」
「あのね、期待はずれのことも考えておいたほうがいいわよ」
 簡単に言い直したが、多分アイリーンが聞いていないことはイセリアにはわかっていた。
 アイリーンは興奮すると周りが見えなくなってしまう癖がある。それを知っているからだ。
「えっと、ゴホッ……話についていけないんだけど……」
 青い顔から一転、顔を赤くしているフィレックは、女の子ふたりの話している内容が全然見えてこなかった。自分が、花を見にいこうと誘ったはずが、どこで話がずれてしまったのだろう。フィレックは小さく溜め息をついた。
「あぁ、ごめん。この子ちょっと興奮気味だから、わたしが教えてあげるわ」
「そうしてくれると助かるな。ドラゴンとか七色の花とか、話が童話じみている」
「それはそうよ。だって童話なんだから」
「……はい?」
「アイは小さいころから、ドラゴンの背中に乗って空を飛ぶことが夢だったのよ。大昔にいたという、今は童話の中だけの生き物のね」
「だって、いないんだろう、今は?」
「いないわね。いえ、もしかしたらいるのかもしれないわ。だけど、わたしは今まで見たことも聞いたこともないわ」
「オレもない。そもそも、ドラゴンに乗りたいって言う人間自体に、会ったことがないと今まで思っていたくらいだ」
 チラと興奮状態覚めやらぬアイリーンを見て、フィレックは話を続けた。
「まぁ、新しい一面が知れて嬉しいけど」
「聞こえている時に言ってあげなさいね、そういうことは」
「……頑張ります」
「話戻すわよ。それでね、童話の中だと、ドラゴンって実は絶滅しているわけじゃないみたいなのよ。どこかに隠れているだけで、今もずっと生き続けているっていう話」
「い、いるのか?」
「さぁね。いるかもしれないし、いないかもしれない。自分の目で見て初めて信用するわ。とにかく、アイの話だと、ドラゴンって不思議な習性があって、花が一面に咲き乱れる頃に、ただ優雅に空を飛ぶんだって言うのよ。しかも、それが普通の花じゃなくて、七色の花なのよ」
「お、おお……うまく繋がっているなぁ」
「そうでしょう? だからアイがこんなになっちゃったのよ」
 よしよしと、まるでペットをなだめるようにアイリーンの頭を撫でて、イセリアは困ったように笑顔を浮かべた。
 アイリーンはぎゅっぎゅっとイセリアの腰に巻きついていた。
「でも、なんだかんだ言っても、結局は童話の話だからね。アイにはいつまでも子供の心を持っていて欲しいとは思うけど……」
「……」
「ん? なに考え込んでいるの?」
「……決めた。オレは信じるぞ!」
「ふぅ……ここにもひとり夢見人が出てきちゃったわね」
 軽い溜め息だけを残して、イセリアは休憩室の窓から外の景色を見つめていた。
 ここからでは見えないが、西の草原の端には今でもその七色の花は咲いているのだろうか。それを確かめるには、実際に見にいく以外に方法はない。
 見にいったアイリーンとフィレックに聞くという方法もあるにはあるが、どうせなら自分で見にいきたい。そんな思いがイセリアの中に広がり始めていた。
「フィレック、悪いけどわたしも一緒に行くわ」
「え! なんでまた! せっかく――」
「わたしも夢見人ってところかしらね」
 ふふっと不敵に笑って、イセリアはフィレックにウィンクをした。
 文句を言おうと思っていたフィレックだったが、結局その文句は喉の奥に流れていってしまった。



   第三章 一枚の落し物


「なんか、こうして三人で歩くのもひさしぶりねっ!」
「そうね。フィレックとは一年生の途中からは離れちゃっていたからね」
 休憩室を出てから、アイリーン、イセリア、フィレックの三人は校舎から出るために廊下を歩いていた。
 建物の四階に設けられている各クラスの休憩室は、それぞれがかなり離れて設置されている。Aクラスが一番広くて窓から見える景色がよく、Cクラスに向かうにつれて狭く悪くなっていく。清潔さだけが唯一どこも同じなのである。
「なんだかんだで、授業で一緒になったりしてたから、そんなになつかしくはないんじゃないのか?」
「フィルはわかってないわねぇ。授業で一緒とかじゃダメなのよ。一緒の時間を過ごすのが楽しいの。ちゃんとそこらへんは区別してよねぇ」
「そういうもんなのか? 確かに、オレも……三人でいたほうが楽しいとは思うけど」
「本当は、アイとふたりのほうがよかったりしてね」
 ちょうど階段の一段目を降りていたフィレックは、イセリアの言葉に足を踏み外しそうになった。慌てて手すりに掴まり、なんとか転落だけは免れることができた。
「ばっ! そんなこと思ってないよ! ……さ、三人でいるこの時間が貴重なんだよ」
「あらそう。それじゃあ、わたしの気のせいかしらね」
 イセリアは口元を手で覆い、目に笑みを浮かべながら、真っ赤になって慌てているフィレックを見ている。
「あたしはアイスもいたほうが楽しいなぁ。フィルって、アイスがいないとあんまりしゃべんなくなっちゃうんだもん」
 そこまで言ってから、アイリーンはハッとして何かに気づいたように目を大きく見開いた。
「ど、どうしたんだよ……?」
「わかった! あのさ、フィルってさ、アイスのことが好きなんでしょ? だから、アイスがいないとしゃべらなくなっちゃうんだよね?」
「なっ! なんでそうなるんだよ!」
 新事実が発覚して気分が高揚し始めたアイリーンは、慌てるフィレックの背中をバンバンと叩いた。
「テレないテレない。あたしたちの仲なんだから、隠しごとはダメだよ。今まで気づかなかったあたしがおバカなんだけど」
「だから、違うって言ってるだろ! イセリアは大事な仲間だけど、好きとかそんなんじゃないよ」
「ホントに?」
「ほんとほんと。こんなことで嘘言ってどうするんだよ」
「ふ〜ん……なぁ〜んだ、つまんな〜い」
「いや、つまらなくていいよ……」
 ふぅ、と額の汗を拭い、フィレックはよろけっ放しだった階段をどうにか突破した。
 少し後方のイセリアは、笑いが止まらないのか、その間中ずっと肩が震えていた。
 一階につくと、正面には大きなドアがある。この校舎に備えられている出入り口の内、生徒に解放されている唯一の物だ。
 ドアにはいくつかのストッパーがあり、普段は一段階しか開かないようになっている。それでも、同時に十人ほどの生徒が利用するには充分である。
 試験や運動会の時には最大限に解放され、多くの生徒が楽に出入りできるようになる。
「西の草原って、あっちだっけ?」
「違うわよ。そっちは南。西はこっちよ」
 アイリーンがあてずっぽうに指差した姿勢のままでいるので、イセリアが強引にその体を九十度回した。
「おー、そうだっけ。いまいち方位ってわかんないのよねぇ」
「いいかげんに覚えなさいよ。『炎魔法』の授業をしている場所が南。『氷魔法』が北。それから、『風魔法』が西で、『雷魔法』が東よ」
「あ! それならわかりやすいよ! ……でも、ふたつしかやってないから、それ以外はわからないかも」
「ふたつわかれば残りもわかるわよ」
「まぁまぁ、あまり遅くならない内に早く行こうよ」
 眉をへの字に寄せて、うーと唸っているアイリーンの姿がおかしいので、フィレックは笑顔を浮かべていた。
「あっちが西で……南が……? う〜」
 ブツブツと繰り返しているアイリーンを挟んで、イセリアとフィレックが並んでいた。
 アイリーンたちが向かっている西の草原の奥は、校舎からは徒歩だと片道で二時間近くはかかってしまう。
「しっかし、こんなに歩くのひっさびさだから、意外と疲れちゃうわねぇ」
「そうね。わたしは学校でも家でもあんまり遠出はしないからよけいだわ。運動不足になりそうだから、たまにはこういう機会もいいものね」
「オレは結構出歩いてるよ。休日は学院探検をやってるから」
「『がくいんたんけん』? なにそれ?」
「そのまま、この魔法学院の秘密を探しちゃおう、ってこと。まぁ、正確に言えばちょっとしたピクニックってところかな」
「それ、ひとりでやってるの?」
「ああ。いつもひとりだよ。だって、秘密の場所とかはあまり大人数に知られたくはないだろう? だから、隠されたいい場所をオレの中だけにしまっておきたいんだ」
「フィルにはフィルなりのこだわりがあるのねぇ。でも、あたしフィルにいっぱい教えてもらっちゃってるけど、いいの?」
「あ、うん……いいよ。アイリーンとイセリアは特別だから」
 のんびりと雲が流れている空を仰ぎ見て、フィレックは風を感じるように目を閉じた。
 イセリアはそんなフィレックを見やり、彼の心中を察するようにその横顔を見つめていた。
「そう言えばさ、去年の終わりごろにフィルに呼ばれたことあったよね?」
 アイリーンに尋ねられて、フィレックは空に向けていた視線をアイリーンに移した。
「ああ……あったな」
「その時さ、あたし待ち合わせ場所に向かおうとしたのよね。でも、北北東の『みずうくいわば』ってところがわかんなくて、結局行けなかったのよ」
「そうだね」
「あのさ、あの時のこと、まだあやまってなかったよね? 手紙は書いたけど、直接あやまっていないの、今の今まで忘れちゃってた。……あの時は行けなくてゴメンね」
 深々と頭を下げるアイリーンを見て、フィレックは困ったように頭を掻いた。
 助けを求めるようにイセリアを見たが、彼女は肩を竦めただけでいる。
「アイリーン、オレは別に気にしてないからいいよ。まぁ、ちょっと寒かったけどさ」
「ホントにゴメンね。時間になってから自分が迷ってることに気づいたから……。連絡しようにも、どうやればいいかわかんなかったから……」
「だからいいよ、気にしないで。たいした用事じゃなかったから」
 フィレックは人差し指でアイリーンのおでこを軽く小突いた。
 アイリーンはほんの少しだけ痛がるようにしてから、次の瞬間には大げさに痛がり始めた。
「わ〜ん……アイスぅ、フィルがいじめるよぉ!」
「コラッ! 駄目でしょ、アイをいじめちゃ」
「うっ……ご、ごめんなさい」
「あははっ! ジョーダンよ、ジョーダン」
「……わかってるよ」
 ふてくされながらもどこか嬉しそうにして、フィレックはアイリーンのおでこをペチッと軽くはたいた。
 アイリーンは今度は痛がらずにただ笑っていた。

 楽しくしゃべりながら、随分とゆっくりとしたペースを保って三人が歩いていると、前方左のほうに、十メートル四方に区切られた土地と、その横に建てられた小屋が目に入った。
 四角く耕されている土地は、一部にだけ青やら紫やら緑やらの花や草が生えている。
「おや……これはこれは、Cクラスの生徒さんじゃないのね?」
 畑と呼んでいいのかどうかという土地の、その周囲を囲うブロックのひとつを修理しているひとりの男が、アイリーンたちの姿を認めるや、すぐに声をかけてきた。
「こんにちは。ピーオイソン先生は何をしているんですか?」
「こんにちはなのね、イセリアさん。見てわかるかと思うけんど、我輩はこの壊れたブロックを入れ替えているのね」
「それで、これは何を作っているんでしょう? 妙に毒々しい色ですけど」
 フィレックは、紫色の花を見ながらピーオイソン先生に尋ねてみた。
 紫色なだけならまだよかったのだが、そこに黒の斑点があるのがどうにも不気味に見える。
「フィレックさん、よくわかったのね? これは、我輩が心血注いで栽培している毒草なのね。その内に、君たちの授業でも使うから、成長を楽しみに待ってて欲しいのね」
 はぁ――よくわからない返事を返して、フィレックはいそいそと畑から離れた。イセリアも同じように動く。アイリーンだけは畑のはじっこにちょこんと座り、じーっと毒草を見ていた。
「おや? アイリーンさんは毒草に興味があるのね?」
「うん。ずいぶん変わったお花だなって」
「そうなのねそうなのね。みんなは気持ち悪いって言うけんども、毒草もよっく見れば、案外きれいなのね。そら、触れば確かに皮膚がただれるし、花粉を吸い込めば咳も止まらんようになるけんど……。そんなことはどうだっていいのね。毒草だって、ちゃんと使えばいい薬になるのね」
「へぇ〜、そうなんだ。でも、先生はいつもふつうの薬に使うような薬草しか使わないよね? 毒草も薬になるなら、どうしてもっと早く授業で使わなかったの?」
「それよ、それなのね。アイリーンさんはいいところを突くのね。我輩も院長や他の先生に、我輩の育てている毒草を授業で使えるようにって、たくさん言ったけんどな、みんなはだーれも賛成してくれなかったのね。それでんも、三年生の授業からは『毒魔法』があるから、もし興味があるんだったら受けてみたらいいのね」
 ピーオイソン先生は、まるで純真無垢な子供のように、キラキラと光った目をアイリーンたちに向けた。
「……あのですね、僕たちはもう取る授業を選び終えてしまったんですよ。僕は今年は『地魔法』を新しく選択したから、『毒魔法』のほうは……」
「わたしは『天候魔法』ですから……」
「あたしも」
「そ、そうなのね……」
 三人ともが『毒魔法』を選んでいないことを知ると、ピーオイソン先生は誰が見てもわかるほど、恐ろしく悲しげな表情になった。
「ご、ごめんなさい」
 謝る必要はどこにもないのだが、思わず謝ってしまうアイリーンたちだった。
「……わ、我輩はみんなに嫌われてるからしょうがないのね。でも、我輩はくじけないのね。我輩はこの毒草を立派に育てて、我輩の授業を選んでくれた生徒と楽しい授業をするのね」
「き、嫌われてはいないんじゃ……」
「慰めはいらんね。我輩だって、それくらい気づくのね。臭いとか汚いとかは、自分でもわかってるのね」
「うん、たしかにくさいけど」
「あ、アイっ!?」
「でもいいんじゃないの? くさいのだって薬品を扱うからでしょ? 汚いのだってこうやって草や花を育てているからでしょ? なら、別に悪いことじゃないんだからいいじゃない」
「そうなのね……。アイリーンさんは本当によくできた生徒さんなのね。我輩もそう思っているのね。……でも、やっぱり我輩が言われる臭いとか汚いは、あんまりいい意味じゃないみたいなのね」
 ピーオイソン先生は、壊れたブロックを引っ張り出して、代わりに新品のブロックをそこにはめて、上から体重をかけてぎゅっと押し込んだ。
 イセリアとフィレックは、気まずそうに足元を見つめていた。
 そんな中、アイリーンは今までとまるで変わらない口調で話を続けた。
「ピーオイソン先生はピーオイソン先生だよ。自分の好きなことを楽しくやれるんだから、いつも笑顔でいなくちゃ、やりたいことをやれない人に対してしつれいだよ。周りがなんて言おうと、そんなことをいちいち気にして、自分を隠してたんじゃダメ。自分の持って生まれた才能は、誇るものであってもはじるものじゃないのよ」
「あ、アイリーンさん……なんだか、我輩感動してしまったのね。わかったのね! 我輩は俄然やる気が出てきたのね。よっし、今すぐ残りの畑にも毒草を植えるのね! ありがとうなのね、アイリーンさん!」
 ダダダッと畑の周りを走り、アイリーンに全力でぶんぶんと握手をすると、ピーオイソン先生はそのまま小屋の中へと消えてしまった。
 ちょっとだけ静かな時間が流れると、すぐにその静寂は打ち破られた。ドタドタと大きな足音がし、ピーオイソン先生が両手いっぱいに苗の入った箱を持って出てきた。
「我輩は忙しくなるのね。アイリーンさんたちには申しわけないけんど、別のところで遊んできて欲しいのね」
「うん。あたしたち行くところがあるからだいじょうぶ。先生、楽しかったよぉ」
「バイバイなのね。じゃあ、今度は『薬学』の授業で会うのね」
 大きく手を振ると、ピーオイソン先生の両手はすぐに苗とスコップによって塞がった。
「アイ、あなた随分難しいこと言っていたわよね。今」
「あ〜、あれねぇ。あれはね、お母さんの受け売り。昔よくあたしが言われてたんだ」
「そう……。アイのお母さんか。一度会ってみたいわね」
「うん、それいいね! 今度のおっきな休みの時に、家に遊びに来るといいよ。お母さん喜ぶよ、きっと」
「そうね、行けたらきっと楽しいでしょうね」
「そうだ! フィルもおいでよ! まだだいぶ先だけど、休みでも三人でいれたら楽しいよね?」
「なんだかついでっぽい言い方だけど、僕も……じゃなかった。オレも楽しみだよ!」
 ピーオイソン先生の小屋がだいぶ遠くなってきて、やがて視界からは見えなくなった。周囲は草原だけが広がり、油断すれば方位を見失ってしまう可能性もある。それほど、どこもが同じ景色に見える。
 アイリーンたち一行は、依然変わらないペースで歩き続けていた。
「もうそろそろ半分くらいかな? この辺はどこもかしこも似通ってるから、迷いやすいんだよな」
「フィレック、あんたでも迷うことあるの?」
「いや、オレはないけどさ。学院探検をしてると、意外と迷ってる生徒が見つかるんだよ。特に一年生はひどいもんだ。あれなら校舎から出なきゃいいのにって思うんだけどな」
「でも、出てみたいのよねっ!」
「そうなんだよ! オレだって一年の頃は最初はおとなしくしてたけど、慣れたかなって思った頃からは、どんどんと探検に出ていたから!」
「そう……それでフィレックは時々どこかに行方不明になっていたのね」
「行方不明って……オレ別に迷惑かけたつもりはないけど」
「違うのよ。よくアイと話しているとフィレックの話が出てきてたのよ。そういう時はどこを捜してもあんたの姿は見つからなかったの。だから、わたしたちの間では行方不明ってことになっていた――そういうこと」
「なるほど。オレの話題か……なにを話していたわけ?」
「ふふっ、それは秘密よ! 女の子にはいろいろ秘密があるのよね。ねぇ、アイス」
 女の子ふたりに怪しい笑いをされて、フィレックは困り顔で頭を掻いた。知りたいような、知りたくないような、複雑な思いにかられている。そんな雰囲気をしている。
 雲の流れが少しだけ速くなってきた頃、遥か遠くにほんの少しだけ色の違う草原が見えてきた。変化はわずかで、注意して見ていないと見逃すには充分なほどだ。
「あっ! あれ、もしかしてそうっ!? キラキラして見えるよ!」
「えっ? どこよ……なんにも見えないわ」
 アイリーンはキョロキョロと視線を巡らすイセリアの腕を引っ張って、今まで歩いてきた方角より、やや南に向かって走り出した。
「ちょっ! 待ってくれよ!」
 フィレックは慌ててそのあとを追いかけていく。
 イセリアとフィレックのふたりには、まだアイリーンの見えた景色は見えていない。フィレックは一度来たことがあるので、アイリーンの見たものが、自分の見つけた虹色の花であると思えた。だが、イセリアはなんとなくしか状況が掴めず、アイリーンのされるがままになってしまっている。
「早く早く! ドラゴンがいなくなっちゃうよ!」
「アイ! まだいると決まったわけじゃないでしょう。それに今急いでもしょうがないわよ」
「でもでも、もしかしたらってこともあるでしょ? ね、早く!」
「まったく……しょうがないわね」
 イセリアが自分の目で確認できるまでの距離を走り、三人はようやく様々な色の花が咲いている場所に行き着いた。
 かなりの範囲で赤やら青やら黄色やらの、色とりどりの花が咲いている。
 だが、その中に七色の花を見つけることはできない。
「あれ、おかしいな? オレが前に見た時は確かに虹色の花が咲いていたんだけどな」
 フィレックは周囲を見渡すが、そこには彼の記憶の中に映る花はない。
 どれもが確かにきれいだが、それはどこにでもある普通の花だった。
「う〜、フィルのウソつきぃ〜。七色の花なんかないじゃない!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 確かにオレはここで見たんだよ! それに、もしかしたら今は咲いていないかもしれないって来る前に言っただろ?」
「ウソつきぃ〜」
 アイリーンはイセリアのうしろに隠れるようにして、顔だけを半分覗かせてフィレックを睨んでいた。
 睨まれたほうのフィレックは、なんとも情けない顔をして下唇を噛んでいる。
「アイ、それじゃフィレックがかわいそうでしょ? わたしだって何度も注意したじゃない。それをちゃんと聞かないアイも悪いのよ」
「だってぇ〜、せっかくドラゴンに会えるかもしれないって楽しみだったのにぃ」
「また、次を探せばいいでしょう? 大体、もしこの学校にドラゴンがいたら大騒ぎになるでしょう? それに、もしいるとするのならば、先輩方が知っているはずでしょう?フィレックだけがこうやって探検しているわけじゃないだろうし、アイだけがドラゴンを夢見てるわけでもないでしょう」
「それはそうだけど……」
「だけどじゃなくて、そうなのよ。わかったのなら諦めなさい」
「……う、うん」
 渋々といった様子でアイリーンはうなずいた。
 未練がましく花畑を見つめ、その中に七色の花がないかを真剣に探している。
「それから、フィレックにあやまること。いくらなんでも『嘘つき』はないでしょう? 彼だって必死なんだから」
「うぅ……わかったよぉ。フィル、ウソつきだなんて言っちゃってゴメンなさい」
「いや……いいよ。虹色の花がなかったのは本当だし。今度また見つけたら、アイリーンに教えてあげるよ。お互いそれでナシってことで、な」
「うん!」
 フィレックの思いつきが口を出て、アイリーンの表情はパッと華やいだ。
「それじゃ、帰りますか? ちょうどいい散歩にはなったから、わたしとしては問題なしよ」
 イセリアが提案すると、フィレックが帰りの一歩を踏み出そうとした。
「あれ? これって……」
 その一歩は、アイリーンの呑気な声で戻ることになってしまった。
「どうしたの?」
「ねぇ、これ見てよ」
「なに? なにがあったんだよ?」
「こんなの見つけちゃった」
「ん? これって、テュンデルの物みたいだな?」
「やっぱりそう思った? あたしテュンデルがこれ使ってるの見たことあるもん」
 アイリーンが手に持っていたのは、真っ黒なハンカチだった。金色の刺繍が四隅に施されていて、地味だけど上品に見える不思議な物だった。
「落し物……かしら?」
「どうだろう。こんなところに用があるのか、普通は?」
「そうよねぇ。これはあたしが返しておくよ。その時にでも聞いてみることにする」
「それじゃあ、今度こそ帰りましょうか」
 ドラゴンに出会うことはできなかったが、アイリーンの心にはどこか不思議な気持ちが広がっていた。
 唯一の収穫である、テュンデルの物らしいハンカチを手に、三人はまたたっぷりと長い時間をかけて学院に戻ることになった。



   第四章 ボーストの暴走


 アイリーンは学院に戻ったあと、結局テュンデルに会うことはなかった。
 夕食の時にでも渡そうと思い、しばらく食堂にいたが、アイリーンたちがいた間には現れることはなかった。
 休憩室でも見かけることはなく、その日はハンカチを返すことなく終わってしまった。
「おはよー。テュンデル見かけた?」
「おはよう。わたしは今のところは……」
「そっか……テュンデルはフィルよりも行方不明になるからね。授業の時にでも渡すよ」
「でも、今日はテュンデルと同じ授業ってあったかしら? 今日の授業は『風魔法』と『炎魔法』、それから『有用な魔法の組み合わせ学』に『雷魔法』だったわよね?」
「うん。テュンデルはたしか『雷魔法』と『地魔法』だったから、今年新しくあたしたちと同じ授業を取っていない限りは会わなさそう」
「そうよね。だったら、やっぱり一緒の授業の時が一番よね。あさっての『魔法使い心得学』なら確実だわ」
 『魔法使い心得学』は一年生から三年生までは全員受けることが決まりなので、病気で休む以外は全員揃うことになる。
「会いたくない奴にも会っちゃうけどね。あたしはなんでか、いっぱい会うんだけど……」
「吠えたい人には勝手に吠えさせておけばいいのよ」
「あたしも構いたくはないんだけど、あいつ相手にしてると……ついね」
「それなら楽しくやりなさい。アイが楽しんでいれば、あの男もいいかげん嫌気がさしてくるんじゃないかしら? ああいうタイプは相手が悔しがる姿を見て喜ぶものだから」
「そうは言っても、あたしも自分をそんなにうまくコントロールできないから」
「確かにね」
「わ〜ん、ちょっとは否定してよぉ!」
「否定できるのならしてあげたんだけど……材料がなかったから」
 微笑んで、イセリアはアイリーンの前髪をそっと撫で下ろした。
「それがアイの悪いところでもあり、同時にいいところでもあるのよ。噛みつきたいなら噛みついちゃうのも、ひとつの方法なんだから」
「それって『りんきおーへん』って奴ね!」
「ねぇ……意味わかって使っている?」
「うん。いちおーね」
「……ならいいわ。ところで、今日は三時間目まで違う授業だから、お昼の場所を決めておこうか?」
「さんせー」
 朝から休憩室に居座り、アイリーンとイセリアは昼食の場所と席を決めていた。
 五分ほどの協議の末に、屋上でお弁当――食堂で用意してくれる――ということになった。

 二階の西の窓際に位置する大きな部屋が『風魔法』の教室だった。
 教室が大きいだけあって、ひとクラスだけで授業をおこなわずに、他クラスとの合同で使われている。
 その組み合わせは毎年変わり、今年はアイリーンの嫌がるAクラスとの合同授業だった。
 当然のように、アイリーンが教室へ入るや否や、噂のボーストが声をかけてきた。
「やぁやぁ、これは掲示板真っ二つの怪力女さんじゃないか。なんだ、今度は教室でも真っ二つにしに来たのか?」
 ボーストは細い目をさらに細めてアイリーンを見やり、哄笑をした。同時にでっぷりとした腹が揺れている。
 いつもボーストにつき従う、上にひょろりと長いエテンドと、Aクラスの男子からは絶大な人気を誇るフォロワのふたりが笑いに加わり、そこにだけ爆笑の渦が巻いていた。
「おはよ〜、ボースト〜。相変わらずにぎやかねぇ〜」
「おやおや、お褒めの言葉をありがとう。そうなんだ、いつもいつも誰かさんたちが面白いことをしてくれるから、俺様の周りには笑いが絶えないんだよ! なぁ?」
「ほんっとそうですわね。エテンド、あなたもそうお思いますわよね?」
「あ……お、思う、かな?」
「……だそうですわ。ボーストさん、駄目クラスというものは私たちを飽きさせませんわね」
「そうだろう? あの燃え損ないも、本当に燃え損なったからな! はっはっはっ!」
 燃え損ない――そう言われているのはフィレックだ。彼の髪の毛が炎のように赤いために、Cクラス落ちを馬鹿にして比喩しているのだ。
「フィルもなにか言ってやったら? 七光り君がちょーしづいちゃうわよ」
「言ったって聞かないし、放っときゃいいよ、そんな奴」
「駄目クラスに落ちた間抜けが、万年優秀クラスの俺様にでかい口を叩くなよ! なんだったら退学してくれたっていいんだぞ?」
「ふん……そんなことできないくせに。口だけは一人前だよな」
 フィレックはつまらなさそうに教科書をめくっていた。
 授業開始まではまだ時間があり、その間中ボーストが黙ることはないのだ。
「そう言えば、おまえの父親や兄たちは、『炎の伝道師』とかいう、それは大層な名前で呼ばれているよな? 偉いんだろうなぁ……。ふたつ名なんて、偉業をこなさなきゃもらえないんだぜ? おまえ知ってたか? それなのに、末っ子のフィレックは『炎の伝道師』じゃなくて『煙の伝道師』なんだよな! かわいそうに、親と名前が泣くぞ!」
 ボーストが笑うと、フォロワとエテンドも続けて笑った。エテンドだけがワンテンポ遅いのだが。
「あんたたち、いいかげんにしてよっ! 人の欠点突いて楽しいわけ?」
「楽しいよ〜っと。駄目な奴らは駄目な奴らで楽しくやっていろよ。俺様たち優秀クラスは、全員が優秀な魔法使いになるんだ。邪魔はするなよ」
「じゃまなんかしないわよ! 逆にこっちがこれ以上じゃまして欲しくないくらいよ」
「はっはっはっ、それはまるで俺様が邪魔してるような言い方だな。どうやったらそんな被害妄想が生まれるんだか、その頭の中を覗いてみたいよ!」
 また大笑いして、ボーストはエテンドのお腹をバシバシと叩いた。
 アイリーンが反論しようとしたその時、不意にボーストの顔がキリリと引き締まった。
 同時に、教室のドアが開き、澄んだ空のように明るい青髪をした小さな女性が入ってきた。
「なんだか騒々しいな。またボーストとアイリーンか? まったくよく飽きないな。……さぁ、出席を取るよ」
 少女のような外見にも関わらず、まるで男のようなしゃべり方をしているのは、『風魔法』の教師であるウィルウィンド先生だ。
 ウィルウィンド先生は、出席を取ると一同を見回した。もっとも、教壇から頭がギリギリ出ているだけなので、見回すというよりは盗み見ているように見えてしまう。
「今年で三年目になるけど、去年までのことはきちんと覚えているか? もし忘れていたら遠慮なく聞いてくれよ。説明したあとに『わかりません』じゃ、一生懸命やった意味がないから」
 ウィルウィンド先生がもう一度全員を見回すと、ただひとりだけ手を挙げている者がいた。
「どうしたボースト、どこかわからないところでもあるのか?」
「いえ、僕じゃありません。ながーい休みの内に、Cクラスの面々は、記憶がきれいさ〜っぱり抜けちゃっているんじゃないかと思いまして」
「……と、彼は言っているみたいだけど、本当にわからない者がいたら、ただちに手を挙げてくれ。授業が始まってからは、そんなに教えてあげることはできないからな」
 ウィルウィンド先生が見ていても、ボーストを睨んでいる者はいても、挙手をしている者は見当たらなかった。
 教壇で隠れて見えないが、彼女は肩を竦めていた。
「今日はみんなに教室に集まってもらったわけだけど、ご存知の通り、ボクは外での実習のほうが好きだ。学院の方針で、毎期の最初の授業だけは中でやらないといけないので、嫌々ながらここでやっているんだけどな。次の授業の時はもちろん外でやる」
 ウィルウィンド先生は、教壇の端に置いておいた教科書を手に取った。
「ということで、今日だけは仕方がないから今年の授業の説明をしておく」
 教科書を広げ、パラパラとページをめくり、すぐにそれを閉じる。また教壇の端に戻して、両手を教壇のへりで組み合わせた。
「始めの長休みまでは、『温度操作』と『風操作』の実習をして、終わりの長休みまではその復習と、新しく『空気弾』の勉強をしていこうと思っている」
「先生、そんなに高度なことを教えてもいいんですか? 僕たちAクラスならまだしも、Cクラスにはまだ早いのでは?」
「ボースト、おまえはいちいち話の腰を折るな。安心しろ、ボクは授業についてこられないようだったら、そのまま置いていくタイプだ。今まで全員がちゃんとついてきているから、わからないだろうが」
 手でボーストにちゃんと座るように指示し、ウィルウィンド先生は教科書を手に取った。
「教科書の三十五ページを開いてくれ。ちゃんと『温度操作』のページになっているか? 間違って二年の教科書を持ってきていたりしないだろうな?」
「ははっ、さすがにそれはないよぉ」
「ボクはおまえが一番心配だったんだけどな、アイリーン」
 ウィルウィンド先生が意地悪く笑うと、生徒たちの間からは笑いが起きた。特に大爆笑しているのはボースト一味だが。
 ここぞのタイミングを逃すような彼ではない。
「はい、笑うのヤメ。説明するからよく聞いていろよ。『温度操作』とは、空気をいじることによって、ちょっとした温度の変化をもたらすことのできる技術だ。空気を速く細かく動かせば、そこの温度は高くなる。逆に、その周りの空気は冷たくなっていくんだ。この空気を動かす力を、半年かけて身につけてもらう」
 次に教科書の六十ページが開かれた。
「その次の『風操作』。これも『温度操作』と同じく、空気を動かす技術だが、これは自然の風を操る技術になる。動いていない空気と違い、生きた風を操作することは意外と難しい。中途半端に操ろうとすると、ただの風がかまいたちになったり、悪くすれば竜巻になってしまうこともある。だから、『風操作』は『温度操作』ができる見込みのない者にはやらせることはできない。そこは注意してくれ」
「むずかしそ〜……」
 ウィルウィンド先生の熱演に感心しながら、アイリーンは隣のフィレックに話しかけた。
「大丈夫だとは思うけど……アイリーンはできるのか?」
「バカにしてるの? できるかどうかはわからないけど、全力でやるに決まってるじゃない」
「そう言うと思ったよ。でも努力に結果がついてきていないからな……」
「悪かったわね、結果がついてこなくて! いいのよ、あたしはあたしにできることを全力でやるだけなんだから!」
「ほら、そこうるさいぞ!」
 シュッと風を切る音とともに、白のチョークがふたりの間を突き抜けていき、そのままうしろの壁に突き刺さった。
「今のが後期にやる『空気弾』の応用だ。普通は空気を弾にして飛ばすのだけど、その空気弾の反動で物を飛ばすこともできるんだ。こっちのほうは高等技術になるけどな」
「さ、参考になりました……」
 フィレックのこめかみを冷たい汗が滑り落ちていく。アイリーンも愛想笑いを浮かべる以外には、咄嗟に反応することはできなかった。
「いい実演ができたところで、今日の説明はこれで終わり。今から自習の時間にするから、授業終わりまでは懸命に教科書を読んで予習しててくれ。次からはガンガン進んでいくからな」
 ウィルウィンド先生が教科書を閉じると、途端に教室中が騒がしくなった。
 自習にしてくれ――そう言った時は自由にしてくれと言っているのと同じことなのだ。これはウィルウィンド先生の時だけなのだが、毎回そうだから、今年も同じなのは誰が言わなくてもわかりきっていることだった。
「フィル、あたしちょっと予習してるよ」
「そ、そうか。じゃあ、オレもそうしておくか」
「ア〜イ〜、なに話してるんだ?」
「あ、ウィリちゃん。おしゃべりじゃなくて、自習なんだけど」
「自習? それはまた珍しいことを……。雪でも降るのか?」
「降らないわよ! なんであたしが自習をやっちゃいけないのよ?」
「誰もやっちゃいけないとは言ってないぞ。ただ、珍しいことだけは確かだけどな」
 もう少しで引きずるくらいの丈のズボンをはいて、大股でアイリーンの元にやってきたのはウィルウィンド先生である。
 授業時とは別人のように、顔にはニコニコとした笑みが浮かんでいる。
 アイリーンの机の前にしゃがみ、上目づかいにその顔を見上げている。
 こうしてふたり並んでいると同級生に見えてしまうほど、ウィルウィンド先生の容姿は幼い。
「フィレック、Cクラスの生活はどうだ? 何か違うか?」
「いえ、別に今のところは……まだ二日目ですし」
「そうか。ボクもクラス落ちを経験した人間だから、君の気持ちもわからないでもないな」
「え! 初耳ぃ!」
「言ってなかったか? ボクも四年の時にAクラスからB二クラスに落ちたんだよ。ちょっと授業をサボりすぎていたからだとは思うんだけど。一応抗議してみたけど、決定が覆らないのは今も昔も同じだ」
「それで、その時はどんな気持ちだったの? やっぱり悲しくてくやしかった?」
 アイリーンの自習を妨害していることには何の抵抗も見せずに、ウィルウィンド先生は昔を懐かしむように遠い目をしたあとに、自嘲気味につぶやいた。
「いや、なんて言うか……情けなかった。Aクラスのおごりみたいなのがあったんだろうな。授業なんか受けなくても、才能があれば平気だなんて考えを、ずっと持っていたから」
「でも、才能はあるじゃない! ウィリちゃんほど風をうまく操る魔法使いを、あたしは見たことないよ!」
「ありがとう。確かにボクは『風魔法』では『凄腕』のランクになっているみたいだけど、世の中にはまだまだ多くの魔法使いがいる。そんな人たちと比べたら、ボクだって一般魔法使いのひとりだよ」
 ランクとは世に出ている魔法使いが受けている評価のことである。魔法学院の卒業成績と、その後の仕事や依頼の働きなどによって上下する。これは魔法学院の先生となれば、自動的に一ランク上がる仕組みになっている。
「まぁ、クラス落ちはしたけど、その時にCクラスにならなかったのが不思議だったよ。ボクみたいな行動をしていればCクラスに落とされるのは、教師となった今となってみればよくわかるからな」
「そうよ! その辺の基準ってどうなってるの? フィルが落ちたのはしょうがないとして、アイスやテュンデルが上がらないのはおかしいよぉ」
「うーん……これはあんまりここでは言いたくないんだけど、簡単に言っちゃうと、イセリアは院長との不仲。テュンデルはお金の関係」
「え〜っ! アイス、そんな理由でCクラスのままなのぉ! テュンデルはなんとなくそんな気はしてたけど……」
「結局、学院のことは全部院長次第ってことだ。ボクたちは院長の指示に従うしかない。ここで雇ってもらっている以上はな」
 アイリーンは不満げに眉をへの字にしている。文句を言いたそうに口をとがらせているが、言ってもしょうがないとわかっているので何も出てこない。
「彼らも別にCクラスをなんとも思っていないから大丈夫だろうな。結局重要なのは卒業成績であって、在籍クラスじゃないんだ」
「そうなの……? じゃあ、あたしもムリにクラス上げなくてもいいんだ」
「いや、上げることは自体は無駄ではないぞ」
「なんでよぉ? 言ってることがちが〜う」
「卒業成績が重要なんだよ。Aクラスでは、Cクラスに比べれば教えてもらえる技術が多い。ボクなんかは差別しないけど、他の先生は結構差をつけてるんだ。フィレックはすぐにわかると思うけど」
「確かに、難しくなっていったたような気はしていましたけど」
「まさに難しくなっていたんだ。クラスが上がっていく人はだんだん難しく、下がっていく人は一気に簡単になるんだ。ボクは院長の授業を受けていたから、その落差はひどかったよ」
 苦笑してウィルウィンド先生は、チラとボーストの横顔を見た。
 彼は今は自慢話に夢中で、Aクラスの生徒たちを周りに集めている。
「ボクは一旦クラス落ちしてからは、毎回授業を欠かさず出るようにして、結局Aクラスで卒業したんだ。だから、あまり悪く考えずに、いい勉強のチャンスができたと思うといい。問題がなければ、必ずクラスは上がっていくから」
「はい。大変参考になりました。一生懸命勉強して、僕もAクラスで卒業します」
「いい心意気だ。アイ、おまえもそれなりに頑張れよ」
「なによ『それなりに』ってぇ! あたしだってAクラスで出てやんだからっ!」
「よしっ、わかった。アイのことも応援してやる。ふたりとも頑張れよ!」
「な〜んか、ついでっぽいなぁ〜」
「そんなことはないぞ。……さて、そろそろ邪魔はやめるかな。アイ、せっかく自習する気になったんだ。最後までしっかりやるんだぞ。じゃ、ボクはちょっと席を外すよ。そのための自習だから」
 ウィルウィンド先生は立ち上がり、おしゃべり中の一同を見回した。
「じゃあ先生は席を外すから、終了までここで自習をしているんだ。いいな?」
 はーい、と大勢の元気な返事が返ってきた。
 ウィルウィンド先生は教壇に寄って教科書を脇に抱えると、そのまま教室から出ていった。
 その途端、ただでさえやかましかった教室内がますます騒がしくなった。
「……なんか、自習する気がなくなっちゃったなぁ〜」
「確かに、この中で自習はきついな」
「まぁ、気がそがれちゃったってのもあるんだけど」
 見ればボーストが身振り手振りを混ぜて話し始めていた。声もひと際大きく、どこがうるさいのかと聞かれれば、間違いなく『ボーストがうるさい』と答えることができる。
 話がクライマックスに迫ってきたのか、溜めを作ったりして皆を焦らしていたりもする。
「しかし、よくあれだけデタラメな話が続くわよねぇ。ちょっと感心しちゃうわ」
「趣味なんだからしょうがないよ。あの力を勉強に注いでくれたら、こっちも文句は出ないんだけどな」
「性格なんだからしょうがないよ」
 アイリーンはフィレックの口真似をして言った。それで、ふたりとも小さく噴き出した。
 それからは静かに時間が流れていた。
 相変わらずボーストの話は止まらず、今度は教科書をパラパラとめくりながら何かを得意げに説明している。
 しばらくその説明が続くと、ざわめきが起き始めた。
「なんだか騒がしいわねぇ、あっち」
「気にするなよ。どうせ嘘がバレでもしたんじゃないのか」
「そうかなぁ……? ほら、フォロワなんか立ち上がっちゃってるよ?」
「どれどれ……。おい、あいつ何やってんだ!」
「あっ、危ないっ!!」
 フィレックがちょうどボーストのほうを向いた時、ボーストのほうもアイリーンたちのほうを見ていた。ボーストの手は正面に構えられ、そこに紫色の光が集まっていたのが見えた。
 その瞬間、彼の手からは何かが飛び出し、それがフィレックの真正面で破裂した。
 アイリーンとフィレックは突然の強風にあおられて、激しく横に吹き飛ばされた。机の間を転がり、体をあちこちにぶつけてからようやく止まることができた。
 不意のことに思考が止まっていたアイリーンだったが、ようやく頭がハッキリしてくると、眉毛を飛び出しそうなほどに吊り上げ、目を見開いて立ち上がった。
「あんたいったいなに考えてんのよっ! 習ってない魔法なんか使ったら危険だってことは魔法使いの常識でしょっ!!」
 アイリーンはボーストの元に走り寄り、その胸倉に掴みかかった。
「いや、俺様ほどの才能があれば、これくらい朝飯前だから」
「朝飯前って……失敗してるじゃないのよ! 吹っ飛んだだけですんだけど、ケガしたらどうしてくれたのよ! ねぇ、フィルもなんか言ってやんなよ!」
「ちょっと……だからわたくしはやめようって言いましたのよ」
「うるさいな、フォロワは。ちょっと手元が狂っただけだろ? 燃え損ないもいつまでも寝たふりしてないで起き上がれよ」
 ボーストはアイリーン越しに倒れたままのフィレックに声をかけた。
「おい、起きろって言ってんだろ!」
「待ってよ……フィル?」
 アイリーンはボーストを解放して、フィレックの元に駆け寄った。うしろにはボースト以外のAクラスの生徒が続いてくる。
「フィル……ちょ、ちょっと血が出てるじゃない! 誰か、ヒアルセ先生呼んできてっ!」
 アイリーンは入学時から習っている『治癒学』の知識から、下手に動かさないほうがいいと理解しているので、何もできずに待っているしかなかった。
「どうしたのじゃ!? なにやら凄い音が聞こえてきたぞ?」
「お、お祖父ちゃん!」
「どうしたんじゃ、ボースト? まだ授業中じゃろ?」
「そ、それが……」
 ボーストがフィレックを指差す。
 孫の指先を追ったアロガンス院長の目が大きく開かれた。
「これは、どうしたのじゃ? 何が起こった。話してみろ」
「ぼ、僕が『空気弾』を使ったら、その……爆発しちゃって……」
「『空気弾』じゃと! ボースト、おまえはここでおとなしくしているのじゃ。わかったな?」
「お、お祖父ちゃん……僕どうしたら……」
「おとなしくしておれ。あとはワシがどうにかする」
 アロガンス院長はフィレックの横にしゃがみ込み、傷口の具合を確かめた。
 頭から出血をしているが、アイリーンの呼ぶ声に弱々しく反応しているから意識はあるようだ。顔色もよく、それほど悪い状態ではなさそうだ。ただ、安静のために動かすことはできそうもない。
「誰か、ヒアルセを呼んでくるんじゃ」
「もう、呼びにいってるわよ!」
「そうか。じゃったら解散じゃ。見ていてもしょうがあるまい」
「イヤよ! 先生が来るまでは、あたしここにいるわよ」
「生徒がどうこうできるものでもない。おとなしく言うことを聞いてくれんか?」
「イヤったらイヤ! 院長こそボーストのほうをどうにかしてよ! 習っていない魔法を使ったのよ? 事故が起きるに決まってるじゃないっ!」
 アイリーンはボーストをキッと睨みつけた。
 ボーストは気まずそうに目を逸らし、助けを求めるようにアロガンス院長の背後に隠れた。
「アイリーン君、君の気持ちはわかった。ここにいて構わんから、ワシの孫を悪く言わんでくれ。あいつも悪気があってやったわけじゃあるまい」
「悪気がなくてどうして『空気弾』を人に向けて撃てるわけ? わざとやったに決まってるじゃない!」
「たまたま調子に乗ってしまっただけじゃ。そうじゃろう、ボースト?」
「……う、うん」
「ウソつかないでよっ!」
 アイリーンが叫んだ時に、教室のドアからヒアルセ先生が入ってきた。
 走ってきたのだろう、うしろに縛った髪はあちこちにはね、普段は分けている前髪が額に張りついている。
「みんなどいて。まぁ……随分ね」
 ヒアルセ先生はアロガンス院長を手で追い払い、フィレックの額に手を当てた。
「今治してあげますからね。ちょっと我慢していなさい」
 ヒアルセ先生の手に白っぽい光が集まっていく。そして、その手をフィレックの頭にかざすと、見る見る内に傷口が塞がっていく。
 前髪を上げて傷口を確認すると、そこには乾いた血が残っているだけだった。
「まだ痛むかしら?」
「……ん、大丈夫、みたいです」
「そう。それはよかったわ。応急処置をしたにすぎないですから、今から保健室に連れていきますよ。自分で歩ける? 無理だったら誰かに運ばせるから」
 ヒアルセ先生はフィレックの手を取り、立ち上がらせた。
 頭がフラフラするのか、立ち上がったフィレックは額を手で押さえている。
「アイリーン、あなたはフィレックを運ぶ手伝いをしてください。これでは不安で仕方がありません」
「うん……フィル、だいじょうぶ?」
「あぁ……ヒアルセ先生の魔法は効くから」
「ほら、強がるんじゃありません。先生の魔法はそんなに強力ではないですから、激しく動くと傷口が開いてしまいますよ」
 アイリーンとフィレックは、そのまま保健室に向かっていった。途中で授業終了のチャイムが鳴った。
 一時間目が終わればお昼休みになる。このままだと、アイリーンはイセリアとの待ち合わせには遅れることになるだろう。だが、イセリアのことだから、きっと保健室に現れるだろうことは、アイリーンにはなんとなくわかっていた。



   第五章 不思議なメッセージ


 フィレックは保健室のベッドに、頭に包帯を巻かれて寝かされていた。
 『癒し魔法』の効果で傷口は塞がれているように見えるが、怪我が治る前にふとしたはずみで魔法が解けてしまうと、傷口は元通り開いてしまう。
 そのため、開きづらいようにと包帯を巻いているのだ。
「フィレック、二時間目はどうしますか? 出たいのなら別に出ても構いませんが、もしちょっとでも体調が悪いようならすぐに戻ってきなさい」
「はい。お昼休みに様子を見てみて、平気なようだったら出ます。『炎魔法』の授業は外したくありませんから」
「そう、わかりました。もう何度も言うようですけど、先生の魔法はあくまでも気休めですからね。傷を治すのは人の体にある自然の力なのですよ」
「大丈夫です。魔法使いが魔法の力を過信したらおしまいですから」
「そうです。大切なのは本人の知識と判断ですからね」
「それじゃ、僕は昼休みに入ります。先生、ありがとうございました」
 そう言ってフィレックは頭を下げた。
「こらこら。あんまり頭を動かすんじゃありません」
「あ、うっかり……」
「気をつけて行くのですよ」
 フィレックはお辞儀をしようとして思い留まり、ぎこちなく手を振ってから保健室から出ていった。
「フィル! もう平気なの?」
「あ、ああ。激しく動かなきゃ大丈夫みたい」
「そう。それを聞いて安心したわ。もうアイったらひとりで落ち着きをなくしちゃっていたから大変だったのよ」
「心配、してくれてたのか?」
「あ……あたりまえでしょ! 頭ケガしたんだから心配するなっていうほうがムリよ」
 アイリーンはプイッとそっぽを向いて、ボソボソと歯切れ悪く答えた。
 フィレックはそんなアイリーンのことを目を細めて見つめた。
「ねぇ、フィレック。アイが治療中に中に入れてってわめいていたって本当?」
「はは、ほんとほんと! もう頭にガンガン響いていたよ」
「だって、ここまで来て『外で待ってなさい』はないでしょうよぉ。フィルは平気そうだったけど、つきそってあげようかなって思ってたのに」
「それは残念だったな。きっと、いろいろと事情っていうのがあるんだよ」
「別にいいじゃない。こうしてフィレックが無事に出てきたんだから」
 イセリアはクスクスと笑いながら、アイリーンの両肩に体重を預けた。
「さ、お昼ご飯食べましょう」
 そのままアイリーンの体を前へ前へと送り出していった。

 ボーストの話などで盛り上がったお昼休みが終わり、イセリアとフィレックのふたりは『炎魔法』の授業を受けるために教室に向かった。
 この時間が空き時間のアイリーンは、ひとりフラフラと公舎内を歩いていた。
 途中で、今の時間は使われていない『風魔法』の教室を覗くと、ごちゃごちゃになっていたはずの机や椅子がきちんと並べ直されていた。
「へぇ……ボーストが直すわけないしなぁ。誰がやったんだろう?」
「うちのクラスの面々が直していた」
「やっぱりねぇ。まったくもともとAクラスのせいでこうなったんだから、あいつらが直せばいいのに――って、えぇっ!?」
 ひとりごとに答えが返ってきている不自然さにようやく気づき、アイリーンは背筋がピンと伸びるほど起立して硬直した。
 ギチギチと首をぎこちなく動かし、声のした背後を振り返ってみる。
「何をそんなに驚いている。俺が何かしたか?」
「テュ、テュンデル! どうしたの、こんなとこにいて?」
「図書室にでも行こうかと思ってここを通りかかったら、おまえがひとりでブツクサ言っているから気になって来てみただけだ」
「あの……あたし、そんなに聞こえるようにひとりでしゃべってた?」
「ああ」
「ヤダ……聞こえてたんなら教えてよぉ。はずかしいじゃない……」
「だから今言った。次からは気をつけるろ。誰が聞いているかわからないぞ」
 これで興味を失ったのか、テュンデルは金髪をサラリと流しながらアイリーンの横を通り過ぎていこうとした。
「……あっ! ちょ、ちょっと待って! 渡したい物があるのよ!」
 ほっぺたから耳まで真っ赤に染めていたアイリーンは、何か重要なことを忘れている気がして必死に頭を回転させていた。そして、ひとつの事柄に思い至るとテュンデルを呼び止めて、そのうしろ姿に駆け寄った。
「これ、テュンデルのでしょ? あたし使ってるところ見たことあるから」
「……確かに俺の物のようだ。これをどこで拾った?」
「え? 西の草原の奥にある花畑だけど」
「そうか……」
 テュンデルはアイリーンから黒いハンカチを受け取ると、それをズボンのポケットの中にしまい込んだ。
 そのままくるりとアイリーンに背を向けて、また歩き出してしまった。
「ま、待ってよ!」
「今度はどうした。なるほど……お礼を言うのを忘れていたか。ありがとう」
「ちがう! あたしテュンデルに聞きたいことがあるのよ!」
「聞きたいこと……? 答えられるかどうかは保障しないが、言ってみろ」
「あのね、どうしてあんな場所にテュンデルのハンカチが落ちていたの? テュンデルはあそこにいたの? もしそうだったらなにをしてたの? 教えて」
 アイリーンはテュンデルのすぐ近くまで歩み寄り、長身の彼を下から見上げて問いかけた。
「……質問が多い。だが、答えはひとつ。このハンカチが俺の知らない間にカラスにでも盗まれたのだろう。それが、たまたまその花畑に落ちただけだ」
「ウソよ!」
「どうして嘘だと言い切れる? 俺はその時間は図書室で調べ物をしていた。もっともそれを証明することはできないがな」
「テュンデルもさ、もしかして、その……ドラゴンを信じてるの?」
 テュンデルの説明をまったく聞き入れないのか、アイリーンが不意に話題を変えた。これには沈黙で答え、テュンデルは探るようにアイリーンの瞳をじっと見据えた。
「ドラゴンに会えるから、七色の花を探しにいったんでしょう?」
「ドラゴン? 七色の花? いったいなんの話をしているのだ?」
「だから、ドラゴンは七色の花の咲くところに現れるから、それで――」
「馬鹿馬鹿しい。俺はその花畑がどこにあるのか知らない。そこに七色の花があったかどうかなんてわかるはずもない。ドラゴンなんて所詮は話の中だけの生き物にすぎない。そんなものに会えるなんてことがあるわけがない」
「ちがうわっ! ドラゴンはいるのよ、ぜったい! だって、あたしドラゴンの背中に乗って空を飛ぶのが夢なんだから! そうじゃないと、困るのよ……」
 話は終わったとばかりにこの場を離れようとしていたテュンデルは、アイリーンの叫びに足を止めた。
「ぜったいにいる……。ドラゴンに乗って、みんなを驚かせてあげるんだから」
 アイリーンは拳を握り締めてうつむいた。その肩が小さく震えている。
 テュンデルはアイリーンの左横に歩み寄り、わずかにかがんでその耳に小さく声を当てた。
「――もっと力をつけろ。まずはそれからだ」
「えっ!?」
 アイリーンが顔を上げた時には、テュンデルは随分先まで歩いてしまっていた。
「ねぇ、今のどういう意味!」
 慌てて追いかけるが、角を曲がったところで見失ってしまった。テュンデルが図書館に向かったのならば見失うはずがないのにも関わらずにだ。
「力をつけろ、まずはそれからだ――か」
 テュンデルの言葉を口の中で繰り返して、アイリーンはその言葉の意味について考えた。

 三時間目の『有用な魔法の組み合わせ学』は、初回にも関わらず外でおこなうことになっていた。
 アイリーンとイセリアは木陰に座って授業開始を待っていた。
「それはテュンデルはなにか知っているわね。情報を小出しにするつもりなのかしらね?」
「そんなことしてどんな意味があるのよ? 教えないか教えるかのどっちかでしょ、ふつう」
「甘いわ。テュンデルみたいに自分を隠す人は、自分の気持ちや考えも隠しちゃうのよ。だから言うこともいまいち理解に苦しむようなものだったりするわけよ」
「……アイスってさ、テュンデルの話になると生き生きしてない?」
「な、なに言ってるのよ! 別に生き生きなんかしていないわ」
「そう? だったらあたしのかんちがいかなぁ?」
「そ、そんなことはどうでもいいわよ。問題はその『もっと力をつけろ。まずはそれからだ』のことよ」
 表情こそ平静を保っているが、イセリアの口調からは動揺が見え隠れていた。
 さすがにアイリーンも親友の変化に気づいていたが、これ以上言及することはなかった。
「力って、この力かなぁ?」
「違うと思うわ。やっぱり魔法の力じゃないかしら?」
 アイリーンが腕を曲げて小さな力こぶを見せると、イセリアが即座に否定した。この時のアイリーンの表情はかなり寂しげに見えた。
「もし魔法の力だとしたら、どれくらい力をつければいいんだろう……」
「さぁね。わたしが思うに、急ぐなってことじゃないかしら? 普通に学校で魔法を学んでいけば、いずれドラゴンに会うこともできるっていう解釈もできるんじゃないかしら」
「え〜! あと四年もあるじゃない! もっと早く会いたいのになぁ」
「あくまでひとつの例よ。そもそもアイは今までずっと会いたいって思っていて、まだ会えていないんでしょう? そこに四年増えたってあんまり変わらないわよ」
「それはそうだけどさぁ……。会いたいって気持ちは日に日に強くなっているのよ。だから、会えるんだったら早いほうがいいっ!」
「まったく……わがままも子供の内だけよ。大人になってもそんなんじゃ、みんな愛想尽かしちゃうわよ」
「いいわよ別に。あたしはドラゴンに会うことがなによりも優先なのっ!」
「はいはい。わかったからおとなしくしてね。もう先生来ちゃったわよ」
 イセリアが、プンと頬を膨らますアイリーンのその頬をつついていると、校舎の角から両手で大きな箱を抱えているスミレ先生がやってきた。
 その箱は大きさの割には軽いのか、スミレ先生には苦にした様子はない。
「はーい、集合。みんなおしゃべりはやめて集まってください」
 スミレ先生は箱を地面に降ろすと、手をパンパンと打ち合わせて集合をかけた。
 そこら中に散っていた生徒たちが、スミレ先生を中心として扇状に並んで座った。
「この授業は三年生になってようやく取れる授業なのですが、その理由は授業の難度にあります。実はこの授業は六年生でも完全にこなすことは難しいのです。だから、みんなは『魔法の組み合わせにはこんなものがあるんだ!』とか、『こんな魔法の使い方があったんだ!』ということを理解してくれれば充分です。もちろん実際に試してみるのも構いませんが、簡単なもの以外はほとんど失敗してしまうでしょう。それほどこの授業の内容は難しいのです」
 スミレ先生が笑顔で説明している間中、生徒たちの間から話し声はあがらなかった。全員が真剣に話を聞いている。
「この『有用な魔法の組み合わせ学』は、実習形式で授業をおこないますが、目指しているのは知識の充実です。ですから、いくら失敗しても構いませんので、どんどんと練習をしてください。危険な組み合わせかどうかはこちらが判断しますので、わからないことがあったら遠慮せずに聞いてください」
 生徒たちの間から安堵の溜め息が漏れると、スミレ先生はニッコリと微笑んだまま箱の中に手を入れた。そして、中からいくつかのボールを取り出した。
 手の平にちょうど乗る大きさの、色とりどりのゴムでできたボールだ。
「今日は最初ということで、このボールを使って簡単な魔法の組み合わせをおこなってもらいます。これならばそんなに失敗はないと思いますのでちょうどいいでしょう」
 ボールはふたりにひとつ配られたので、イセリアが赤いボールを受け取り、それをアイリーンに手渡した。
「みなさんが一、二年生の時に習ったそれぞれの系統の魔法と、これから習う魔法を対象としてこの授業は進んでいきます。組み合わせの種類はたくさんあるので、こちらの紙に書いてある組み合わせの中から、自分の取っている授業に合わせて選んで練習してください」
 今度もふたりに一枚用紙が配られ、同じようにイセリアが受け取り、アイリーンに渡した。
「アイはどれにする? わたしたち取っている授業違うから、やっぱり違う組み合わせになるわよね」
「あたしはこの『風魔法』の『巻き上げ』と『氷魔法』の『薄氷』を組み合わせた、『自動氷割り』っていうのをやってみる」
「なんか楽しそうな組み合わせね。わたしは『炎魔法』の『煙』と『氷魔法』の『寒さ』でやる『球滑り』っていうのをやってみるわ。これも楽しそうだわ」
 ふたりは紙に書いてある魔法の組み合わせ表の中から、自分ができて、かつ面白そうなものを選んだ。
 アイリーンはボールを地面に置き、右手をその上にかざした。じんわりと紫色の光が手から地面近くにまで下がっていくと、ボールの下に小さな風が起こり、ふわりとボールが浮かび上がった。標準よりも風が大きかったが。
 続けて右手をフワフワと浮き沈みするボールの上に向けた。今度はアイリーンの手が青色に光り、地面と平行に薄い氷の膜ができあがった。これも標準よりは薄かったのだが。
 パッと姿を見せた氷の膜は、しかしすぐにボールによって割られてしまった。
「これだけ? ……なんか役に立たない気がするんだけどぉ」
「そこに『継続』の効果が加わると、多分永久に氷を割り続けるのよ。ま、アイの制御力じゃこれ以上は無理よね」
「う〜、言い返せない」
 割る物がなくなったボールはしばらくフワフワと浮き沈みしていたが、やがて『巻き上げ』の効果が切れると同時に静かに地面に転がり落ちた。
「今度はわたしがやるわ」
 イセリアはしゃがんでボールを拾い上げると、それを一旦閉じた太ももの上に乗せた。そして、左手を地面に向け、右手をその少し上に向けた。
 左手に赤い光が集まり、すぐに地面の少し上から煙が立ち昇り始めた。右手には青い光が集まり、その光は煙に吸収されていく。
 少しして煙が上昇をやめて、一定の高さに漂うようになった。
「なんか、これ雲みたいね」
 イセリアはボールを手に取って立ち上がり、その雲のような煙の上にポンと乗せてみた。すると、ボールは煙の動きに合わせてフラフラと移動を始めた。
「あはは! なにこれ?」
「あたしのより意味ないように思うんだけどぉ……気のせい?」
「面白いからいいんじゃないの? わたし『継続』の効果をつけちゃったから、もしかしてずっとこのままなのかしら?」
「そうなんじゃないのぉ? なんだか魔法のムダづかいのような気もするけど……」
 ふたりの目の前でボールはあちこちに移動しては、落ちそうになると別のところに転がっていく。
「あら、上手にできましたね。『継続』は無駄ですから消しておいてくださいね」
「はい。でも、なんだか消すのがもったいない気がしますね」
「これくらいならいつでもできますよ。……あら? アイリーンどうしたのですか?」
 イセリアがためらうように魔法を解いているのを見ていると、スミレ先生はアイリーンが自分を見上げていることに気がついた。
「スミレちゃん、あたしのは?」
「先生です。ちゃんとアイリーンのも見ていましたよ。安心しなさい、上手にできていましたから。できていない人もいる中で、頑張りましたね」
「ホントっ!? よかったぁ……」
「でも、別にできてもできなくても関係ないのですよ? 楽しんで学ぶ、そういう授業も必要ですからね」
 満面の笑顔で喜ぶアイリーンを見て、スミレ先生も笑顔を見せた。
「ねぇ先生、今のってホントに有用な組み合わせなの? ボールで氷を割ったり、煙の上を滑らせたりって、意味がないような気がするんだけど」
「この作業に意味を求めてはいけません。この組み合わせは初歩的なものですから、単純なものになっているのです。実際、組み合わせを見つける魔法使いも、ようやくできたものが無意味なものであった――ということは多々ありますから」
「そうなんだぁ。あたしもその内大発見とかしちゃうのかなぁ?」
「それはアイリーン次第ですよ。魔法の効果を考えれば自ずと最適な組み合わせも見えてきます。ただ、初心者の内はその配分がわからないから失敗が多いのですけど。今のアイリーンの例ならば、『薄氷』が強すぎればただの壁打ちですからね」
「ホント? ねぇ、ちょっと試してみていい?」
 スミレ先生がうなずくと、アイリーンは『薄氷』の力を多めにして、さっきと同じことをしてみた。すると、『巻き上げ』で浮かんでいたボールは『薄氷』を割ることができずに、コツンコツンと氷に弾き返されていた。
「本当に壁打ちになっているわね。なるほど、組み合わせも重要だけど、その配分にも気をつけろということなのね」
「それがわかってもらえれば、この授業は楽しいものになりますよ。一年間の内にどれだけ学べるかはあなた方次第ですから」
 その後も、組み合わせ表にある別の組み合わせを試していたふたりだったが、楽しい授業だったためか、あっという間に授業は終わりを迎えていた。
 ふたりとも四時間目には授業がないので、『有用な魔法の組み合わせ学』が終わると休憩室に向かった。
「おーい、こっちこっち!」
 休憩室に入った途端に、四人がけの丸テーブルに座っていたフィレックが立ち上がって手を振ってきた。
「もしかして待ってたの?」
「待っていたわけじゃないけど、そろそろ三時間目が終わる頃だなって思って、部屋からここに来たんだ」
「そっか、フィルは二時間目で終わりだもんね」
「うん。まぁ、おかげで安静にはできたよ。さっきヒアルセ先生に見せにいったら、もう少しだって言ってた。やっぱり怪我には魔法が効くよなぁ」
「『癒し魔法』を使えるのって、ヒアルセ先生の家族くらいなんでしょ? あのカルマー先生も使えないんだから、すごいよねぇ〜」
「人には向き不向きがあるから、カルマー先生ができなくても別におかしくないわよ。ただ、『癒し魔法』だけは向き不向き以前の問題みたいなのよね。生まれつきの素質がないと使えないって話しか聞かないから」
 魔法には大きく分けて十二種類の系統があり、『癒し魔法』もそのひとつである。魔法学院では基本的にその中から八種類の魔法しか教えることはない。
 しかし、特別な課程を修めると、追加で三種類の魔法の基礎だけだが、それを六年生で学ぶことができるようになる。
 つまり魔法学院にいる間で学べる魔法の種類は、最大で十一種類にしかならない。残りのひとつである『癒し魔法』は教える人絶が対的に少なく、たとえ教えたとしても身につけることはできない魔法なのだ。
「もしかしてオレたちの誰かに才能があったりしてな?」
「ないでしょうね。人の命は奪うのは簡単だけど、守ることはむずかしいのよ。だから、『癒し魔法』が必要ないように、わたしたち自身がきちんと強い意志で魔法を制御する必要があるのよ。ボーストみたいにいたずらで使うなんてもってのほかね」
「そうよ! あいつがフィルにこんなことしたって、結局院長がかばっちゃうんでしょ! なんか納得できないわ!」
 アイリーンの激憤に、フィレックは額の包帯を撫でながら情けなく眉を下げた。
「こうしてオレが無事だからなぁ。もしこれでオレが死んでいたりすれば、さすがの院長でもかばえないんじゃないのかな?」
「死ぬなんて縁起でもないこと言わないで。さっきも言ったけど、人の命を奪うことは簡単だけど、守ることは難しいのよ。だから自分の命だからって、冗談でも軽く扱わないで」
「ご、ごめんイセリア……」
「わかってくれればいいのよ。……さ、もうこの話はこれで終わりにしましょう。場が暗くなってしまうわ」
 務めて明るい調子で言うと、イセリアは急に話題を切り替えた。
「ねぇ、アイ。わたしさ、これから図書室でドラゴンが出てくる本を調べてみようと思っているのよね。この学校に七色の花があるということは、必ず誰かはドラゴンに関して調べた人がいると思うの。ここの図書室なら先輩たちの残した資料がたくさんあるから、その中に一冊くらいは関係ありそうなものがあると思うのよね」
「あ、それならあたしも行こっかなぁ」
「アイは来なくてもいいわよ。図書室にいると眠くなっちゃうんでしょう?」
「自分のことだもん。それくらいがまんするよ!」
「……わかったわ。でも、眠くなったら帰りなさいね。図書室で寝られても困るから」
「寝ないよ! こうなったらアイスが驚くほどいっぱい調べちゃうんだから!」
 イセリアは、ムキになるアイリーンの頬の膨らみを何度も潰しながら、ずっと小さく笑っていた。

 フィレックと別れたアイリーンとイセリアは、夕食までの間ずっと図書室にいた。
 アイリーンは宣言を破り、三十分もしない内に机に突っ伏して寝てしまい。イセリアは上着をかけてあげて、ずっと資料を調べていた。
 数多くの書物がある図書室ではあったが、ドラゴンや七色の花となると、めっきり姿を見せなくなってしまう。一般書物の中には童話や小説以外にドラゴンを扱っている物がなく、イセリアは魔法学院の卒業生が残した資料を調べることにした。
 関係のありそうな動物と植物の資料を調べるために、その名前と概要が書かれているリストを受け取った。
 何十年分にもおよぶ膨大な資料の中で、わずかに二件だけがそのタイトルに『竜』、『ドラゴン』と入っていた。ひとつは『現代のドラゴンの存在』というタイトルで、もうひとつが『花と竜の因果』というタイトルだった。
「すいません、このふたつの資料を貸してください」
 イセリアが図書委員に頼むと、『花と竜の因果』のほうだけが借りられていると言われた。借り主を聞くと、それがテュンデルであることがわかった。仕方なく『現代のドラゴンの存在』の資料だけ借りると、イセリアはアイリーンを叩き起こして夕食に向かった。



   第六章 きれいな花には裏がある


 始めの一週間の授業が終わり、今年初めての休日がやってきた。
 イセリアがテュンデルに資料のことを聞くと、なぜか毎回はぐらかされてしまっていた。仕方なく諦めて、授業の合い間に借りた資料を調べていると、ドラゴンを見たという人が意外に多いことに気づいた。
 目撃例は多く、この資料の筆者も目撃したそうだ。ただ、人によってはその詳細が違っていて、事実か作り話かは定かではなかった。
「やっぱりドラゴンはいるんだよっ!」
 資料を見てのアイリーンの第一声だった。
「でも、どれもこれも空に飛んでいる影を見ただけみたいよ? もしかしたら巨大な鳥だったのかもしれないし、ドラゴンのように見える雲だったのかもしれないわ」
「ううん、ぜったいドラゴンよっ! やっぱりこの学校にいるんだわ……。どこにいるんだろ〜。ワクワクしてきちゃった!」
 こんなやりとりがあり、休日が来たということで、もう一度フィレックが七色の花を見たという花畑に向かっていた。
 今回はアイリーンが急ぎ足だったので、かなりの時間が短縮された。
 ただ、辿り着いた頃には全員息があがってしまっていたのだが。
「まったく……せっかくの休みなんだから、もっとゆっくりでもいいでしょうが」
「だってぇ、いるとわかったらよけい会いたくなってきちゃったんだもん」
「『だもん』ってかわいく言ってごまかさないの!」
 イセリアの言ったことは右の耳から左の耳に突き抜け、アイリーンの意識は花畑にしかなかった。
 しかし、どうやら今回も無駄足に終わってしまったようだった。
「なんでぇ〜? フィル、ホントにここで見つけたんだよね? どこかとかんちがいしてるってことはない?」
「ないない。オレは迷わない体質なんだから、場所を間違えることもないよ」
「だったらなんでないのかなぁ? もしかして枯れちゃったのぉ」
 アイリーンは花畑の中に入り、赤や青の花を動かして、その下に七色の花が隠れていないか探し始めていた。
 ちょっとの時間では終わりそうもなかったので、イセリアとフィレックは手伝わずに休憩していた。特にフィレックは、さすがに強行軍はこたえたようだ。治ったとはいえ、まだ全快ではないのだ。
「……フィレックが前にここに来たのは、確か終わりの長休みが始まってからだったわよね?」
「あぁ……再試験がボロボロだったから、うさ晴らしに学院探検をしていたら、たまたま見つけたんだ」
「ということは、その時は雪の季節よね?」
「当たり前だろ。それ以外にいつだって言うんだよ?」
「確認しただけよ。雪の季節ってことは、当然この辺りも寒かったってこと。もしかしたら、七色の花は寒いところに咲くのかなって思ったのよ」
「あ、なるほど! それだったら今咲いてないのにも説明がつくな」
「ま、仮説だけどね。……アイ、見つかったー?」
 どんどんと奥のほうへ行ってしまうアイリーンを見かねて、イセリアが声をかけた。
 アイリーンは泣きそうな顔を向けると首を振った。
「一旦戻ってきて。ちょっと考えたことがあるのよ」
 名残惜しそうに花を掻き分けていたアイリーンは、やがてすごすごと引き返してきた。
「あのね、もしかしたら気の長い話になるかもしれないけど、七色の花って寒い時にしか咲かないのかもしれないわ」
「ウソ〜、それじゃまだ一年近くもドラゴンに会えないじゃない!」
「七色の花の正体がわからない以上、はっきりとしたことは言えないけど、フィレックが見たのが雪の季節だったから……もしかしたらね」
「あ〜、ショックぅ――。ようやく会えると思ってたのにぃ」
 アイリーンは明らかに気落ちして、肩をがっくりと落としてしまった。
 イセリアとフィレックも、その暗い気持ちが伝染したのか、お互い顔を見合わせて溜め息をついた。
「七色の花の正体さえわかれば、ね……。テュンデルの借りているもうひとつのほうの資料には載っているのかしら?」
「それはテュンデルが教えてくれないか、資料を返してくれないとわからないよな。いつ返ってくるかわからないからなぁ……」
 また溜め息をつくふたりだった。
 アイリーンがもう一度花畑を調べて、今度こそどこにもないことを確認すると、ようやく三人は学校に戻ることにした。行きに比べると、歩みがだいぶ遅い。倍以上はかかることは確実なほどだ。
 長い時間とぼとぼと歩いていると、やがてピーオイソン先生の小屋が見えてきた。
「……もしかしたら、ピーオイソン先生がなにか知っているかもしれないわ」
「え? どうして?」
「だって、先生は『薬学』の先生でしょう? だから花や草には詳しいはずよ。七色の花のことを知っている可能性もあるわ」
「じゃ、急ごう!」
 急に元気になったアイリーンは、ふたりを残して全力で小屋に走っていってしまった。数百メートルの距離をあっという間に駆け抜け、小屋で手を振っている。
「アイって、もしかして運動会で優勝狙って特訓でもしているのかしらね?」
 イセリアの疑問に、フィレックは苦笑しながら肯定の意思を返した。

 つい一週間前までは一画にしか生えていなかった毒草が、いつのまにか畑全体から生えていた。もっともまだまだ成長過程であり、言われなければ毒草とはわからないようなものだが。
 アイリーンたちが外にいたピーオイソン先生に話を聞こうとすると、先生は小屋の中へと三人を招いた。
「ちょっと待ってるのね。……確かに見覚えはあるのね」
 ピーオイソン先生は乱雑に並べられている本棚をガサゴソといじりまわしている。目的の物が見つからないのか、立ったり座ったりと忙しい。
「あったあった。この中にあったはずなのね。……もしかして、君たちが言っているのはこれのことなのね?」
 ピーオイソン先生は、図鑑のようなものを開いていた。手書きの文字と絵で書かれている物で、横には詳細な情報が載っている。
 見開きの左面に七色に塗られた花の絵が描いてあり、その下のほうには押し花のように花びらがついている。右側にはいくつかの欄に区切られた情報が書いてある。
「あっ、これだこれ! 色は違うみたいだけど、確かこんな感じだった!」
「見つかってよかったのね。でも、どこで見つけたのかは知らんけんど、これ花じゃなくて毒草だから気をつけるのね。花粉をうっかり吸い込んだら、記憶がなくなってしまうのね」
「毒草! ……花じゃないの?」
「花じゃないのね。我輩も実物を採る時には非常に気をつけたのね。カルマー先生に『呼吸補助』の魔法をかけてもらってやったのね」
「え! この図鑑先生が作ったの? こんなにたくさん……」
 ピーオイソン先生の作った図鑑は、ざっと数えても三百種類以上の草花が入っている。他に四冊あるのだから、全部合わせると相当な量になる。
「買った物だと、載ってない草や花も多いのね。だから、自分で作ったほうが速いのね」
「すごーい! あたしだったらこんなに集めらんないよぉ」
「好きなことならいくらでもできるのね。きっといつかアイリーンさんにもそういうものができるのね」
「あ、だったらあたしはドラゴンがそれかな? ドラゴンのためだったらなんでもできちゃうわよ」
「……寝ていたくせに」
「あ〜! アイスまであたしのこといじめる気ぃ? フィルだけでじゅーぶんよ!」
「オレは別にいじめていないよ」
 アイリーンの抗議に、さすがにフィレックは否定をした。いじめている気はないし、仮にいじめているのだとして、それはやりたくてやっているわけではないからだ。
 楽しそうな三人とは対照的に、ピーオイソン先生の顔つきはひどく真剣になっていた。
「アイリーンさん、今ドラゴンって言わなかったのね?」
「あ、え? い、言ったけど……」
「もしかして、七色の花が咲く頃にドラゴンが飛び回るって話なのね?」
「先生も知ってるの! あたしその話がすごく好きで、ドラゴンに会うために七色の花のことを調べてるの!」
「そうなのね……もしかしたら我輩の情報が役に立つかもしれないのね」
 ピーオイソン先生は、今度は机に向かい一番大きな引き出しを開けた。そして、そこから一枚の古ぼけた紙を取り出した。
「これは、この学院で七竜草の咲いている場所を示す地図なのね。我輩が生徒だった頃に、図書室で見つけたのをもらっちゃったのね」
 その地図には、学院の敷地の全体図が書かれており、いくつかの部分に丸で印が書かれている。その内のひとつは西の草原の奥を指している。
「誰かドラゴンに興味のあった先輩が書いたのね。もしかしたら七竜草に興味があったのかもしれないけんどね」
「ねぇ先生、『しちりゅうそう』ってなに? 七色の花のこと?」
「そうなのね。『七色の花に見えるドラゴンの大好きな毒草』の省略なのね」
「すごいところを略しているな……」
「これ写してもいい? 今度違う丸のところに行ってみようよ!」
 アイリーンはピーオイソン先生から紙とペンを受け取って、詳細な地図をかなり簡単にして書き写した。
「『複製』の魔法が使えればもっと楽なんだけんど、我輩はあんな高度な組み合わせ魔法は使えないのね。こっちをあげたいところだけんど、我輩にも大切な物なのね」
「いいよ先生。あたしたちはこっちの地図でなんとかするから」
 そう言ってアイリーンは自作の地図をヒラヒラとさせてみせた。
「じゃあ、暗くなってしまうからそろそろ帰るといいのね」
「まだ平気だよ。でも、今日はいい物もらったから帰ろっかな」
 アイリーンたちは小屋を離れると、学院に向かって帰っていった。道中アイリーンは嬉しそうにずっとスキップをしていた。

 二週目の『魔法使い心得学』の授業で、アイリーンはひさしぶりにテュンデルと会った。取っている授業がほとんど違うせいで、偶然会う以外では数少ない確実に会える時だ。
「あのさ、テュンデル。今度の休みにあたしたちと一緒に来ない?」
「一緒に……どこにだ?」
「テュンデルもドラゴンを探してるんでしょ? だったら――」
「俺は別にドラゴンを探してなどいないと言っている。勝手に決めつけるな」
「でも、『花と竜の因果』っていう資料借りてるでしょ? ドラゴンに興味がなきゃ、ふつう借りないよ」
「たまたまだ。用がないのなら席についてくれ」
「だから、あたしたちと一緒に――」
「断る。俺は団体行動は得意ではない。行くところがあるのなら三人で行ってくれ」
 無下に断られて、さすがのアイリーンでさえ言葉を失った。断られるだろうことは予想できていたが、ドラゴンの話題を出すと急に不機嫌になってしまうのだけには、いつも驚かされてしまう。しかも、だんだんとひどくなってきている。
「あはは、また断られちゃったぁ」
「どうしてあんなに怒るのかしら……?」
「まったく……ここまで愛想が悪いと大変だよな……。オレたちじゃなかったらとっくに参っているよ」
「う〜ん、早くもっとなかよくなりたいなぁ」
「今のままじゃ無理よね。なにかのきっかけが必要なのよ、人が変わるには」
 テュンデルはひとり離れた席についている。
 『魔法使い心得学』は全クラス合同でおこなうために、学院の中でもっとも大きな食堂が授業に当てられる。ほとんどはクラス別にだが、皆思い思いの場所に座っている。その中でテュンデルの周りには誰ひとりとしていないのだ。
 時間が来ると、アロガンス院長、フラメール先生、そしてスミレ先生が食堂に姿を見せた。
 先生の登場と同時に、いつもよりは静かに自慢話を繰り広げていたボーストが急におとなしくなった。
「さぁ……みなさん、静粛に……」
 今の時期に合わない分厚い手袋に厚手の服装のフラメール先生が、静かだがよく通る声で言った。
「今から院長がお話を始めます……。大事なことですので、聞き逃すことのないように……」
 どこを見ているかよくわからないフラメール先生は、壇上をアロガンス院長に譲った。
「皆も既に知っておると思うが、残念ながら先週ある教室で大変な事故が起こった。幸い事故に巻き込まれた者はたいした怪我もなく済んだのじゃが、皆には二度とこのようなことが起こらぬように気をつけて欲しいと思っとる。この事故を起こした本人も大変反省しておる。反省文を書かせることで処分をし、二度とせぬことを条件にそれ以上は見送ることにした」
 おそらく演技なのだろう、ボーストの肩が大げさなくらい落ち込んでいる。
 アロガンス院長は全員を見回して、ゆっくりと溜めを作ってから話を続けた。
「魔法使いというものは、普通の人たちと比べたら強い力を持っておる。じゃから、魔法を学ぶ身として、魔法の便利さとともに、その危険性についても同時に知っておかねばならぬのじゃ。許可がない限りは無闇に魔法を使ってはならぬことも、認定魔法使いになる者の心構えとしては必ず身につけておかねばならぬことなのじゃ。これをあまりにも破った者は、資格を剥奪され、無法魔法使いに身を落とすことになってしまうのは知っておろう」
 魔法学院を無事に卒業した者は、魔法使いとして一人前である証をもらう。その証を持っている者を認定魔法使いと言い、証を持っていない魔法使いは無法魔法使いと呼ばれている。
「今年で最後となるこの授業、皆もまた初心に返り、立派な魔法使いとなってくれ」
 アロガンス院長はひと際大きな声で言うと、今度はスミレ先生に壇上を譲った。
「魔法使いたるもの、知識を深めるためなら労力を惜しんではいけません。しかし、あらゆる知識を得んとして、禁術や秘術に手を出すことはなりません。そういった行為は無条件に無法となります。一度無法の烙印を押されてしまえば、それが二度とはがれることはありません。ですから皆さんも、まずは学院でできることを学んでいきましょう」
 『魔法使い心得学』の授業では、毎年毎週同じことが繰り返される。心得の復唱も必ずおこなわれている。
 生徒にとっては退屈な授業だが、魔法使いになる以上は必ず出席しなければならない。もし休んだ場合は違う学年の授業に出されることになる。
 耳にたこができている授業がようやく終わると、昼休みとなる。『魔法使い心得学』の授業のあとは、ほとんどの生徒がそのまま食堂に残る。昼食のために移動する必要がないからだ。
 アイリーンたちもその例に漏れずに、そのまま食堂で食事をとった。
 午後一番の授業は『風魔法』だったので、昼食後は授業を取っていないイセリアだけが、アイリーンとフィレックと別れて図書室に行ってしまった。
 『風魔法』の授業のために外に出たアイリーンとフィレックは、校舎西側の草原で大きく伸びをしていた。
 随分と天気がいいので、食後と相まって眠たくなってきてしまう。
 皆思い思いの場所で、先生が来るまでの間寝てしまわないようにおしゃべりをしている。
「ふわ……。ねぇ、フィル、今度行く場所ってどこにあるかわかる? この地図じゃいまいちなのよねぇ」
「それ描いたのアイリーンだろ……。わからないように描くなよ」
 あくびを噛み殺しているアイリーンは、地図上のひとつの丸印を指で差している。
「なぁ、この丸ってさ、今考えると森に入っていると思わないか?」
 フィレックは丸印をなぞるように指を動かした。
「あ〜――ちょっと待ってて」
 アイリーンは眉をへの字にしながら、首を傾げて上を見ている。しばらくそうしていると、ようやく視線がフィレックに帰ってきた。
「たしかにフィルの言う通り、本物だと森の中だわ。どうして気がつかなかったんだろうね」
「この地図のせいだろう」
「困ったわねぇ……まだ森に入っちゃダメなんだよね?」
「再来年まで駄目。四年生までは危険なんだってさ」
「やっぱりおばけとか出るのかなぁ?」
「まさか? この学院の創立者が学院を作った時に、『結界』の魔法を草原の辺りまでしかかけていないからだって言う話だよ。『古代魔法』の基礎を習得してからじゃないと、森の誘惑に負けちゃうんだって」
「ほら、おばけじゃない……。『こっちにおいで……さぁ、こっちだよ……』とか言って半透明の女の人が手招きして……いやぁ!」
 アイリーンは耳を塞いでしゃがみ込んでしまった。
 フィレックは溜め息をついて、アイリーンの頭を軽くはたいた。
「自分で言って自分で怖がるなよ。実際の体験者がそう言ったのかは知らないけど、どうも頭がボーっとして、フラフラと森の奥に入っていっちゃうんだって。何人か行方不明者も出てるらしいし」
「あ〜怖かった……。怖い話をするのはまだ早いよぉ」
「だからオレが言ったんじゃないって!」
 フィレックが激しく抗議しても、アイリーンは聞いていない。また寒気でも来たのか、ブルっと身震いしている。
「あとでアイスと合流して、行く場所を確認しよう? 森の中はまだちょっと怖いな……」
「大丈夫だよ。オレたち入れないから」
 ふたりの話が落ち着いた頃にウィルウィンド先生がやってきた。
 四回目の授業となる今回は、『温度操作』の魔法を実際に使うところから始まった。
「じゃあ、みんな温度計は受け取ったか? 『温度操作』は何も難しいことはない。ただその温度計に魔法をぶつけてやればいい。一度下がれば問題ない。五度も下がれば最高だ」
 ウィルウィンド先生は小さな体なのに、目一杯大きな声でしゃべっている。
 離れた場所にいたアイリーンたちにも充分に届くほどだ。
「フィル、ちょっと持ってて」
「自分で持ってやれよ。オレができないじゃないか」
「いいから持っててよぉ。あたし、どうも両手じゃないと力が入んないのよ」
「……まったく、仕方ないなぁ」
 まんざらでもない様子でフィレックは文句をつけていた。
 アイリーンはフィレックのぶら下げている温度計を目標にして両手を構えた。
「いっけぇ!」
 アイリーンが叫ぶと、両手に紫色の光が集まり、一旦は収束した光が今度は拡散した。
 手を離れた光はすぐに色を失い、冷たい空気となって温度計周辺に向かった。
 パリーン――軽い割れる音がして温度計は粉々になってしまった。
「あはは……やっちゃった」
「あ、あのさ……今恐ろしい勢いで、温度計の目盛りが下がったように見えたんだけど……それに、とっても寒いし」
 見ればフィレックは温度計についていた紐を掴んだまま、ガタガタと震えている。
 温度計の割れた音を聞きつけたウィルウィンド先生は、フィレックの様子に眉をしかめた。
「アイリーン、何をどうやったらこうなるんだ?」
「え……? ふつうに魔法を使っただけなんだけど……」
「この辺、一瞬二十度くらい温度が下がっていたぞ。今も十度は低い」
「でも、ホントにふつうにやっただけだよ? あたし、また失敗しちゃったんだ……」
「失敗どころかちょっと危険だったな。まさか『温度操作』でここまで温度を下げられるとは思ってもいなかった。普通なら『氷魔法』の『冷気』の領域だぞ」
「ゴメンなさい……あたしがヘタだから……」
 アイリーンはシュンとなって頭を下げた。ハラハラとこぼれ落ちる髪の毛が切なさを強調している。
「頭を上げな。別に生徒が未熟でもそれはしょうがない。誰にだってミスはある。わざとやったのでなければ謝る必要はない。むしろ、強力な魔法が出た理由を追求するほうがいい」
 ウィルウィンド先生に優しく言われて、アイリーンはハッと顔を上げた。
「……わかった。あたしもう一度やってみる!」
「よし。それなら次はボクが手伝ってやろう。フィレック、おまえはひとりで続けていろ」
「はい……。でもちょっと、体をあっためてからにします」
 フィレックは地面に寝転がり、両腕をさすっていた。一見するとサボっているようにしか見えないが、日差しが暖かい中ではこうするのが体をあたためるには一番手っ取り早い。
「ボクは『抵抗』で構えているから、遠慮なく全力の魔法を使ってみるんだ」
「うん。じゃあ、いっくよぉ!」
 アイリーンが両手を構え、同じく両手を前に構えているウィルウィンド先生に向けた。すぐに手には紫色の光が集まったが、ボスンと間の抜けた音だけを残し、そのまま飛び散ってしまった。
 ヒヤリともしない空気を前に、アイリーンのこめかみに冷や汗が浮かび始めた。
「やれやれ、今度は本当の失敗のようだな。魔法のコントロールが悪いことをすっかり忘れていた。さっきのもたまたまなんだったな。ちょっと期待していた自分が悲しくなってきたよ」
「あぅ……どうしてこうなるかなぁ〜?」
「やっぱりアイリーンはまずはコントロールからだな。三年目でもたいして変わっていないのは問題だぞ? こっちも成績をつけるのにいつも悩まされているんだからな」
 アイリーンの試験は決して悪い成績ではない。だが、結果がきまぐれなので、どれを評価していいのかの判断に迷ってしまうのだ。最大の時だけがやけに突出していて、すべてを平均すると評価がかなり下がる。
 ほとんどの教科で同じような記録を出しているが、とりわけ『風魔法』の時は出来不出来の差が激しいのだ。
「何にしろ練習あるのみだな。今年も厳しくいくから、そのつもりでな」
「ひぇ〜、一生懸命やってるんだけどなぁ……」
「努力と結果は別物だ。ただ、努力することに意義があるから無駄ではないな」
「は〜い……結果がついてくるようにしますよ〜だ」
「じゃあ、あとはフィレックとでもやっていてくれ。ボクはボーストの様子でも見てくる。どうせできていないだろうけど」
 ウィルウィンド先生は、ニヤッと口元を歪めて、そのまま練習中というよりお遊び中といった様子のボーストたちのところに行ってしまった。
「フィル……もしかして寝てない?」
 フィレックからの返事はない。いや、ないわけではない。ただ、それを返事と呼んでもいいものかどうか……。
「ぐぅ〜」
「コラッ! 起きろっ!」
 アイリーンはフィレックの脇腹に容赦のない蹴りを入れた。フィレックは顔をしかめて呻いた。目を開けて、そこに抗議の意思を宿らす。
「なにも蹴ることないだろ……」
「なにも寝ることないでしょ? それに、授業中によく寝れるわねぇ」
「あぁ、この陽気だからな。体をあっためるつもりが、つい寝てしまったよ」
「目を覚ましたんなら起き上がってよ。あたしまだまだ練習するんだから」
「やる気まんまんだな……。そう言えばオレはまだ練習していなかったっけな」
「そうよ。寝てる場合じゃないでしょ? 起こしてあげたこと、感謝してよね」
「お、押しつけがましい……」
 こめかみをこすりながらフィレックはようやく起き上がった。
 ちょうどその瞬間、どこからか不思議な香りが漂ってきた。
 立ち上がったばかりのフィレックはフラフラとしながら座り込んでしまった。なんだか頭がボーっとし始めたアイリーンが首を大きく振ると、不意に空が大きくかげった。
 周りでは眠っているのか気を失っているのか、何人もの生徒が倒れている。
 ウィルウィンド先生とボーストだけが辛うじて膝立ちでいるが、アイリーン以外に立っている人はいない。
「フィル……だいじょうぶ……?」
「ね、眠い……」
 それだけ答えると、フィレックは座った姿勢から背中に倒れ込んだ。
「ウィ、ウィリちゃんに聞かないと……」
 アイリーンは重たい足を引きずって、ウィルウィンド先生の元に向かおうとした。近づく内に、耐えられなくなったのか、ボーストが顔から地面に突っ伏した。
 一歩一歩が非常に重い。わずかの距離でさえ辿り着くことが不可能だと思えてくる。もう、あと数メートルまで近づいたところで、とうとうウィルウィンド先生が横向きに倒れ込んだ。
 アイリーンも足が前に動かなくなり、その場で棒立ちになってしまった。
 どこか遠くのほうから聞き慣れない音が聞こえるような気がする。だが、それが何の音なのかを考えることは、今のアイリーンにはできなかった。
 立っている力が失われ、アイリーンはとうとう背中から仰向けに倒れ込んでしまった。
 背中を打った衝撃で息が詰まり、一瞬だけ意識がはっきりとした。
 その時、アイリーンは自分の目に映ったものが信じられず、驚くこともできずに、ただ呆然としていた。
 空を覆う厚い雲のその上に、鳥ではない翼を持つ生き物のシルエットが浮かんでいた。羽ばたいている影は、その場から動かない。
 もっとよく見てみたいと思ったアイリーンだったが、再び匂い始めた不思議な香りに、まぶたがどんどんと重くなってきた。
 懸命に目を開こうとするが、ついにそれは閉じられ、アイリーンの目には黒しか映らなくなってしまった……。



   第七章 七竜草と眠れるドラゴン


 アイリーンは夢を見ていた。
 その夢はとても気分のいいものだった。
 フワリとした浮遊感がアイリーンの体を包む。
 アイリーンはドラゴンの背中に乗っていた。大きな、とても大きなドラゴン。
 その上で踊ることのできそうな広い背中。
 登ったら大変そうな長い首。
 もし掴まっていたら大変だな――そう思うほど左右によく振られているしっぽ。
 全部が信じられないくらいに大きい。
 そしてアイリーンは、今その大きな大きなドラゴンの背中に乗って空を飛んでいるのだ。地面は遥か下のほうにあり、雲のすぐ下を飛んでいる。
 景色はすごい速さで流れ、海に出た時はその広さと美しさに息を飲んだ。
 再び地上に戻ってきて、今度は町の上空を飛び始めた。
 普段はにぎやかな町が、今日に限ってやけに静かだった。人の姿は見えず、動物の姿も見えない。
 アイリーンは、どうしたんだろうと思ったが、ドラゴンはそんなことはお構いなしに空を飛び続ける。
 風を浴びていると、アイリーンはすぐに何も考えられなくなり、ただ空を一緒に飛ぶことに夢中になっていた。
 不思議な香りが頭をボーっとさせて、アイリーンはドラゴンの背中に体を預けて眠ってしまった。
 深い深い眠りの中へ……。

「……起きろ。アイ、起きるんだ」
 アイリーンは目をこすりながら、ゆっくりと上体を起こした。ぼんやりとした視界の中で、ウィルウィンド先生の心配そうな顔が見えた。
「あ……ウィリちゃん。あたし、なんで寝てたんだろう……?」
「わからない。ただ、寝る前に変な匂いがしていた。おそらく睡眠草か何かの花粉が大量発生したんじゃないか?」
「匂い……? そう言われるとそんな気がするけど、よく思い出せない」
「話はあとだ。アイもみんなを起こしてくれ」
「うん。わかった」
 アイリーンは立ち上がると周りを見回してみた。
 ウィルウィンド先生が始めに起きたのか、アイリーン以外に起きている生徒はいない。
 とりあえず足元に倒れているフィレックを起こしてみることにした。
 声をかけても起きないので、アイリーンはフィレックの脇腹に蹴りを入れた。なんだか同じようなことをした記憶があるが、いつやったかはわからない。
「……アイリーン、今蹴ったか?」
「蹴ったよ。だって起きないんだもん」
「だからって蹴ることないだろう……。なんかとっても脇腹が痛い気がする。相当思いっきり蹴っただろう?」
「そんなに強く蹴ってないよ! どうして起こすだけなのに、そんなに全力で蹴らなきゃいけないのよぉ」
「確かにそうだよなぁ……。でも、痛いのも確かなんだけど。それに、なんかアイリーンに前にも蹴られたような気がする」
「だから蹴ってないって! どうしてフィルは、そうやって人聞きの悪いことばっかり言うかなぁ」
「ごめんごめん。そんな気がしただけだよ」
 ぷぅと頬を膨らませるアイリーンの顔がかわいくて、フィレックはちょっと見とれていた。だが、機嫌を損ねているんだと思い直し、慌ててあやまった。
 フィレックが起き上がると、ふたりはそれぞれ他の生徒を起こしにいくために離れた。
「ちょっと授業は中断してしまったが、今はその原因がわからない。だから、みんなはこのまま練習を続けているように。ボクはピーオイソン先生に心当たりがないか聞いてくる」
 全員が起きたあと、ウィルウィンド先生はそう言うと右手をヒラリと回し、そのまま草原を走っていってしまった。
 『風魔法』の『追い風』と『地魔法』の『跳地』を組み合わせた高速移動魔法だ。一歩の移動幅が広がり、スピードが飛躍的に上昇するのだ。
 あっという間に先生の姿は草原の奥へと消えてしまった。
「おい、いったい何が起こった? どうにも記憶が怪しくてたまらない」
「なんであたしがボーストのためにわざわざ説明しなきゃなんないのよ!」
「俺様だって知りたいことがあるんだ。わからなきゃわかる奴に聞けばいい。常識だろ?」
「そこでどうしてあたしが出てくるのよ?」
「おまえと先生だけが最後まで起きていたからだろうが。俺様は見たぞ、おまえがフラフラ歩いているのを」
「知らないわよ! あたしだって気づいたら寝てたんだから! なにが起こったのか知りたいのはこっちのほうよ」
 アイリーンはそっぽを向き、ボーストの追求をかわした。
 知らないものは知らない。どんなに聞かれたところで答えようがないのだ。
「役に立たねぇ奴だな! おまえに聞いた俺様が馬鹿だったよ!」
 強烈な捨て台詞を残してボーストは、フンと鼻を鳴らしてフォロワとエテンドを従えて離れていった。
 その時、フォロワだけがもう一度アイリーンの元に小走りで戻ってきた。
「アイリーンさん、本当に知らなくて?」
「うん。どうしてか、寝てた前のことはあんまり覚えてないのよ。なんか、こう、モヤがかかってるみたいで」
「あなたもなの? 実は私もなんにも覚えていませんのよ……。少し怖いですわ……」
 フォロワは自分の体を抱き締めて、心細そうに言った。
 遠くのほうでボーストに呼ばれていたために、フォロワは目線だけをしばらくアイリーンに残し、それからゆっくりとボーストの元に行ってしまった。
「……なんか、フォロワらしくないわねぇ。高飛車だって思ってたけど、今のじゃただの女の子みたいだった気がするわ」
「なんだかんだ言ったって、フォロワもオレたちと同い年の女の子だからね。理解できないことに出会えば、誰だって怖いさ」
「別に、あたしは怖くないけど……」
「アイリーンは特別。たぶん、イセリアもそうなんだろうけど」
 ウィルウィンド先生がいなくなったあとは、誰も練習などしていられなかった。今何が起こったのかを話していたり、最後に何を見たかの話をしたりしていた。
「あとでアイスに聞いてみよう。あたしたちが寝てた間に、なにかを見てたかもしれないし」
「そうだよな。まさか学校中の全員が寝ていたわけじゃないだろうし」
 フィレックはそう言って笑った。
 ウィルウィンド先生が帰ってきて、ピーオイソン先生から聞いた話を説明してくれた。ピーオイソン先生自身も、ウィルウィンド先生が駆けつけた時には眠っていたそうだ。起こしてみるが、原因はわからず、ピーオイソン先生は資料を漁ってあとで報告すると言っていたとのことだ。
 授業はそのまま終わりとなり、アイリーンとフィレックはイセリアに会うために図書室に向かった。
 普段は静かな図書室が、今日だけは少しざわめいていた。
 いくつかある机では、本を広げたまま眠っている者が何人かいた。普段は絶対に見かけない、床に座って話す者さえいた。
 アイリーンたちはイセリアがいつもいる場所に向かってみた。イセリアは図書室に来ると、同じ場所に席を取る。そのため、捜すのは非常に簡単なのだ。
 普段の例に漏れずに、イセリアはいつもの場所、いつもの席に座っていた。
 ふたりは小走りにイセリアのそばにまで近づき、正面側に回り込んだ。
 イセリアはボーっとした様子で、どこを見ているのかよくわからないといった様子でいる。
「ア〜イ〜ス〜、寝てんの?」
 返事がない上に、アイリーンの姿も目に入っていないようだ。
「どうしよう……? アイスが変になっちゃったよぉ」
「放心状態なのかな……。大きい音を出せば、目を覚ますんじゃないのか?」
「おっきな音? よしっ! ……起きろー、アイスっ!!」
「バカ! でかすぎだよ!」
 アイリーンの大声に、フィレックはもちろん、周り中にいた生徒たち全員が、例外なくビクッとなってアイリーンを見た。
 目の前のイセリアも同様に、目を見開いてアイリーンを凝視している。
「起きたぁ?」
「……『起きたぁ?』じゃないわよ。ビックリしたじゃない」
「だってぇ、アイスがあたしのこと無視するんだもん」
「本当? わたし、アイたちがいることにも気づかなかったわ」
 イセリアは考え込むように、髪の毛を頭頂から毛先にかけて撫でつけていた。
「ところでアイとフィレックはなんの用なのかしら? ふたりはまだ三時間目の授業があるでしょう? 約束は放課後のはずよ」
「それなんだけど、二時間目になにか起こんなかった? あたしたち全員が外で寝ちゃってたみたいなのよ」
「寝てたの? 確かに陽気だったけど、全員がだなんて本当なの?」
「それがホントなのよ! ビックリでしょ? だから、その時間になにがあったかアイスに聞きたいってわけなのよ」
「なにがって言われても……なにも起こらなかったわ」
「ホントに? ホントになにも起こってない? よく思い出してみて。なにか普段とちがうこと……起こらなかった?」
 アイリーンがあまりにも真剣な様子なので、イセリアも本腰を入れて記憶を探り始めた。
 図書室に来て、『現代のドラゴンの存在』をじっくりと読んでいたのだ。含まれた意味がないか、重要なヒントがないか、それを調べながら読んでいた。
 あまりにもいい天気だったから、窓から外の景色を眺めていた。
「そう言えば……。なんだか漠然としているけど、空が急に暗くなったように見えたわ。わたし、吸い込まれるように見ていた気がする……」
「暗く? 雲でも覆ってたの?」
「わからない。ただ、わたしがその空だけを見ていたら、なにかが倒れるような音が聞こえていたわ。でも、わたしはその音の方向を見ようともしていなかった。思い出してみたらわかってきたけど、不思議な香りもしていたわ」
「ウィリちゃんも言ってた! あたしもなんとなくそんな気はしてたけど」
「オレもだよ。眠くなる前に、変な匂いがしていたから」
「……なんなんだろうね、あの匂いって?」
 アイリーンははっきりとしない記憶を探ってみた。時間がたつにつれて、匂いが確かにあったことを思い出してきている。
 それ以外は相変わらずモヤがかかっているようで、何も見えない。
「ねぇ、もしかしてわたしも眠っていたのかしら? そんな気は全然しなかったんだけど」
「たぶんな。ここじゃ起こしてくれる人もいなかったみたいだから、まどろみ状態でずっといたんじゃないのかな?」
「やっぱりそうなのかしら……。どうもアイたちが来るのが早いとは思っていたのよね」
「どれくらい寝てたんだろう? 十分くらいかなぁ?」
「二十分は寝ていたんじゃないかな? 十分だと、ちょっと時間の計算が合わないような気がするから」
 自分が寝ていたという自覚がないアイリーンは、時間の経過がいまいちわからなかった。感覚的には、突然ウィルウィンド先生に起こされたのだ。
「でも、あの不思議な匂いはどこから入ったのかしらね? 外にいたふたりはわかるけど、図書室にも入ってきたのなら、いったいどうやってなのかしら?」
 イセリアが不思議に思ったのは、図書室の構造が理由だった。
 図書室には当然のように本がたくさんある。そのために湿気には気を使う。
 換気は決まった時にしかやらないから、普段は窓が閉まっている。
 卒業生の残した貴重な資料が保管してあるから、盗難防止のために、図書室の窓には『地魔法』の『堅牢』と『割れず』のふたつの魔法がかけられている。出入り口には非常に丈夫な素材でできているドアがあり、図書室が使われていない時間には鍵がかけられている。図書室が使われている時でも、ドアは鍵がかかっていない状態で閉まっているので、やはり外気は入りづらくなっている。
 そんなほぼ密閉された状態の中に匂いが入ってきた理由が見えてこない。
「もし学校全体でこんなことが起きたのなら、当然問題になるわよね。全員が揃う明日の『薬学』の授業で、なにかしらの報告があるかもしれないわね」
「ウィリちゃんとピーオイソン先生が調べてくれてるから、意外と早く原因はわかるかもしれないわ。きっとスミレちゃんやカルマー先生も一緒に調べてくれると思うしね」
「意外にフラメール先生の占いが役に立ったりしてな」
「わたしたちはなにも占ってもらっていないわよ。でも、なにか知っていることは充分考えられそうだわ」
 フラメール先生は、学院で一番当たる占いをしてくれることがある。生徒を選ぶために、全員が占ってもらえるわけではない。先生のほうが占いをする相手に声をかけるのだ。
 ただ、相談に来た生徒には占いはしてあげないが、親身になって応じてくれるので頼りにされている。
 アイリーンたちは、まだ誰もフラメール先生の占いを目にしたことはない。
 放課後に話題に出たフラメール先生のところに行くことに決め、アイリーンとフィレックのふたりは三時間目の授業である『防衛術』の教室に向かった。

 放課後になり、アイリーンたち三人はフラメール先生のいる部屋に向かった。なぜだかフラメール先生は、いつも職員室には戻らずに『占い学』の教室の裏にある小さな部屋にいる。
 会議や担当授業などがない限りは、まずその部屋にいることは間違いない。
 部屋の入り口であるドアの上部には、『相談室』と書いてあるプレートが、あまり目立たないように貼りつけられている。
 これはフラメール先生が貼ったわけではなく、生徒がよく相談に来るからいっそ相談室にしてしまおう、というアロガンス院長の独断によるものだった。
「フラメール先生、いますかぁ?」
 ドアをノックしながらアイリーンはもう中に入っていた。
 ノックの意味がまるでないわよ――イセリアがこぼしたが、入ってしまったものはしょうがないから、あとに続いて中に入る。
「おや……これはアイリーンさんにイセリアさんにフィレックさん……。何か相談事でもあるのですか……」
「あのね、二時間目の途中で空が真っ暗になって、不思議な匂いがして、みんな眠っちゃったの。だから、フラメール先生はその原因が何か知ってるかなって」
「そのことですか……。それならば、先生方に任せておけばよろしいですよ……。私なんかよりもずっと頼りになります……」
 フラメール先生は、常に視線をさまよわせながら穏便に答えた。
 この部屋の中は、先生の目の前に置かれている燭台の炎のせいで、全体的にぼんやりと歪んで見える。
「でも、あたしたちはなにが起こったのか知りたいの。なにがあったのか知らないままっていうの、気持ちが悪いから」
「そうですか……。私の言葉で不確定な要素を与えるべきではないのかもしれませんが……真実を知りたいというのは魔法使いとして大切なことです……。今回はその心意気に免じて、私がひとつ占って差し上げましょう……」
「ありがとう! やった、あたしたち占ってもらえるわよ」
「アイリーンさん、あなたひとりです……。おふた方にはまだ占うべきものは見当たりません……。時期が来れば私のほうから向かいますから、今はどうかアイリーンさんをうらやましがらないでくださいな……」
「わたしは大丈夫です。今日は占いをしてもらいに来たわけではないですから」
「『わたしは』ってのはなんだよ? オレも別にうらやましがらないよ。……残念だとは思うけど」
 フィレックの言葉に、イセリアは勝ち誇ったような微笑を浮かべた。よかったのか悪かったのか、フィレックにはその顔は見えていない。
「それではアイリーンさん……この紙をくしゃくしゃに丸めてください……」
 フラメール先生は、机の中から一枚のなんでもない紙を取り出すと、それをアイリーンに手渡した。
 アイリーンは言われた通り、紙をくしゃくしゃに丸めると、それを先生の手に返した。
 紙を受け取ったフラメール先生は、その紙を燭台の炎の上に持っていくと、空いているほうの手で炎の中に何かの液体を一滴たらした。
 その瞬間、燭台の炎は大きく広がり、フラメール先生が掴んでいた紙に燃え移った。
 炎に包まれた紙は、一瞬にして燃え切ってしまい、ボロボロと灰だけが机の上にある大きな布の上にこぼれ落ちた。
「ほう……これは面白い結果になりました……」
「どんな結果になったの!?」
「慌てない……。願いが叶うという結果がいくつも強く出ています……。それから、一本の細い道で歩いているアイリーンさんひとりの姿が見えますね……」
「やった、願いが叶うんだ! ……でも、ひとりで歩いてるっていうのはなんだろう?」
「占いはあくまで占いです……。過信もよくないですし、見えているものがすべてではありません……。このような可能性が『力』として見えているだけにすぎないのです……」
「他にはなにか見えていないんですか?」
 まだアイリーンの未来の話しか聞かされていないので、イセリアは結果がこれだけではないと思っていた。
「見えていませんよ……」
 しかし、フラメール先生の答えは明らかに予想外のものだった。
「だって、それじゃなにもわからないじゃないですか! アイリーンの占いだけですよ?」
「わかっているではありませんか、イセリアさん……。私はアイリーンさんを占っただけです……。だから、アイリーンさんの未来の話しか出なくて当然です……」
「だって、先生教えてくれるって言っていましたよ?」
「言葉はひとつひとつしっかりと、正確に受け取らなくてはいけませんよ……。話をすることと占うことはまるで別の話です……。私はアイリーンさんの心意気に惚れて、占いをしてみただけにすぎません……。物事にはすべて順序があります……話はちゃんと今からして差し上げますよ……」
 イセリアは自分が早とちりしていたことに気づき、真っ赤になってうつむいた。
 確かにフラメール先生はアイリーンのことを占うとしか言っていないのだ。
「それではイセリアさんも楽しみにしているようなので、私が知っていることをお話しましょう……。実は、私は占いによって今日起こることを知っていたのです……。先に原因を言ってしまえば、アイリーンさんの魔法によって、今回のことは引き起こされたのです……」
「えっ! あ、あたしのせい……」
「気に病むことはありませんよ……偶然が重なっただけですから……」
 アイリーンは目をいっぱいに見開いて、身を乗り出した。
 フラメール先生は、目線を一瞬だけアイリーンに合わせると、安心させるように軽く微笑んだ。それから、すぐに視線を外した。
「覚えはないですか……。あなたは眠っていた七竜草を起こしてしまったのですよ……。そして七竜草が眠れる竜を呼び覚ましてしまった……」
「竜っ! 竜ってドラゴンのことだよね!?」
「そうです……。古の竜は眠りへ誘う……七竜草は過去を飲み込む……。こんな唄があることはほとんど知られていないことですが……」
「先生は、どうして知ってるの? 先生はドラゴンに会ったことがあるの? ドラゴンはどこに行っちゃったの?」
「落ち着きなさい……。私はこれでも『魔導師』の称号を得ている魔法使いですから、ドラゴンのことはある程度は知っているのです……。ですが、会ったことはありません……。ドラゴンは今も空を飛んでいます……。これで質問には答えましたね……」
 アイリーンはフラメール先生の話を聞いている内に、どんどんと興奮状態になってきた。落ち着きなく体が揺れている。
「ちょっと、アイ、少しは落ち着きなさいよ」
「だってぇ、ドラゴンがいるのよ? 今も空を飛んでいるのよ? 早く会いたいよぉ」
「アイリーンさん、よく聞いてください……。今、ドラゴンが空を飛んでいるのは確かです……。しかし、どこを飛ぶかはドラゴン以外に知らず、雲を遥かに超えた高みを飛ぶために、目にすることもできません……。それに、風の季節に呼び出されたドラゴンは、混乱していることでしょう……。本来、彼らは雪の季節に空を飛ぶものなのですから……」
「そんな……あたしがムリに起こしちゃったから? だから、ドラゴンは来てくれないの?」
「何にせよ、ドラゴンは普通は人の目につくところに現れないものなのですよ……。雪の季節を選ぶのも、人や動物があまり外に出てこないからなのです……。彼らは見られるのを嫌いますから……」
 フラメール先生は諭すように話しているが、聞いていたイセリアは、話に含まれている情報量に驚いていた。
 イセリアがどんなに図書室で調べていても、ドラゴンに関することはほとんどわからなかった。だが、フラメール先生は、どの本にも載っていないことをたくさん知っているのだ。
「アイリーンさん、あなたの想いはきちんと叶います……。結果を焦る必要はありません……。今はドラゴンをおとなしくしておいてください……」
「でも、今もいるんでしょ? あたし、ドラゴンに乗るの楽しみにしてるのに……!」
「我慢してください……。雪の季節ならばドラゴンに会える可能性もありますが、風の季節である今では、ドラゴンの機嫌は決していい状態ではありませんから……」
 フラメール先生は、緑色の液体が入っている小さなビンを取り出し、燭台の炎の中に液体を一滴たらした。
 赤かった炎が一瞬緑色に大きく膨らむと、次の瞬間には部屋中に柔らかな香りが充満していた。
「気分が休まる効果のある薬草を煎じたものです……。アイリーンさんは少し落ち着きに欠けていますね……。今回は薬に頼ってしまいましたが、できればご自分で治されるとよろしいですよ……」
「すごく気分がいいです。この薬はフラメール先生が作ったものですか?」
「そうですよイセリアさん……。ピーオイソン先生は専属だから腕がよろしいのですが、彼はどうやら毒のほうに興味を持ってしまったようで……以前薬を作って欲しいと頼みましたら、見事な毒薬ができあがって驚きましたわ……」
 フラメール先生は微苦笑を浮かべて、青黒い液体が入った小ビンを手に持って、それを小さく揺らせて見せた。
 それにはイセリアとフィレックも、わずかに身を引いて苦笑いを浮かべていることしかできなかった。
「落ち着きましたか、アイリーンさん……。落ち着いたものと仮定して話を続けますが……ドラゴンは今おそらく眠りを必要としています……。なにしろ、普段なら彼らはまだ眠りの世界にいるはずなのですから……」
「眠りの世界……?」
「そうです……。眠っていた七竜草は、アイリーンさんの魔法で目を覚ましました……。草たちはドラゴンが好む匂いを放ちます……。その匂いを嗅いだドラゴンは、眠りの世界を飛び出し、七竜草を求めて空を飛び始めるのです……」
「あたしの魔法って……どの魔法なんだろう……?」
「あっ! あれじゃないか、ほら、オレが凍死しかけた奴!」
「そっかぁ! ……凍死は大げさだけど、『温度操作』を使った時くらいから記憶があやふやなんだ、あたし」
 フィレックはやっぱりそうだと繰り返し、疑問顔のイセリアにその時の状況を覚えている範囲で話した。
「おそらく『温度操作』による極度の温度変化によって、この季節にはあるはずのない七竜草が出てきてしまったのでしょう……。ドラゴンも今は異常に気づいているはずです……。誰かが眠りの世界に帰してあげないと、その内に気が触れてしまうでしょう……」
「どうすれば、その眠りの世界に帰れるのですか?」
「そこに大きな問題があります……。ドラゴンという生き物は、雪の季節に七竜草を求めて巡り飛び続けるのです……。ですが、今の状態ではこの学院のわずか一部にしか七竜草がありません……。七竜草を求めて飛び続ける内に疲れ果てたドラゴンは、やがて眠りの世界に帰っていくのですが……七竜草の足りない今、ドラゴンは疲れることがないのです……」
 フラメール先生は目と口を閉じ、眉を悩ましげに歪めた。
「以前にもほとんど同じようなことが起こったことがあるのです……。その時にはドラゴンは結局帰ることができずに、町を襲いました……。その結果、魔法使いたちがドラゴンを滅ぼすことによって、それ以上の被害をなくしたのです……」
「こ、殺しちゃったの……」
「そうです……。その時はそれ以外の方法が見つからなかったのです……。それに、現実に被害が出てしまいましたから……」
 フラメール先生は、ふぅ、と小さく溜め息をついた。
 アイリーンはショックを受けた様子だったが、薬の効果が出ているためなのだろうか、すぐに頭を切り替えることができた。
「以前にもって……ドラゴンって大昔に絶滅しちゃったんじゃないの? あたしは、いるって信じてるけど」
「いるのですよ……いつの日も、いつまでも……。ただ、魔法使いがドラゴンの存在を隠しているだけなのです……。町を破壊できるほどの力を持つドラゴンがいるなんて知ったら、普通の人たちは皆驚き恐怖して、生活ができなくなってしまいますから……」
「……まさか、本当にドラゴンがいたなんてな……。オレはあんまり実感できないよ」
「ドラゴンは人目につかないように空を飛ぶために、絶滅したと言われても誰も不思議がらなかったのです……。次第に魔法使いたちもその事実を忘れてきました……。その存在は忘れないようにと、誰かが書いた童話だけが、実は真実を記した物なのです……」
「あたしが持ってる童話だ……」
「ドラゴンは本来は何の罪もない生き物です……。気ままに空を飛ぶ大空の住人なのです……。それで、今から話すことがもっとも重要なのですが……」
 少し間を置いて、フラメール先生は椅子に座り直した。ゆっくりと腰を落ち着けると、まったく合っていなかった目線がピタリとアイリーンに止まった。
 フラメール先生は特異体質をしており、手で触れた物を燃やしてしまったり、目で見つめた物を燃やしてしまうことができる。
 そのために、どの季節でも『耐火』の魔法が込められている糸で編まれた分厚い手袋をしており、誰と話す時でも目線を合わせたりしないのだ。
 だが、今はしっかりとアイリーンの目を見つめている。
「アイリーンさん、ドラゴンを眠りの世界に帰せるのはあなただけなのです……」
 はっきりとした口調で言うと、フラメール先生は視線をまた逸らした。
 急に太陽に近づいたかのような暑さを感じていたアイリーンは、大粒の汗をかきながらフラメール先生の言葉の意味を考えていた。
「私が視た未来では、どういう方法を使ったのかまではわかりませんが、アイリーンさんがドラゴンを眠りの世界に帰してあげているのです……。もし、これが私の誤視だった場合は、私の手でドラゴンを滅ぼすつもりです……。アイリーンさん、ドラゴンを帰す方法をご存知ですか……」
「う、ううん……。あたし、そんなことできない……」
「そうですよね……。仕方ありません……ドラゴンが被害を及ぼす前に、私が責任を持って滅ぼします……。カルマー先生にも協力を頼みましょう……」
 フラメール先生は立ち上がり、燭台の炎をそっと吹き消した。
「あ、あの! せっかくドラゴンに会えたのに……殺しちゃうなんて……!」
「ごめんなさい……。私ではドラゴンを送り帰す力はないのです……。私もこの方法を取りたくはないのですが……手遅れになってからでは遅いのです……」
「で、でも……なにか別の方法があるかもしれないじゃない!」
 アイリーンはフラメール先生の腕を掴んだ。アイリーンの手に焼けるような痛みが走っていたが、汗を浮かべてじっと耐えている。
「――わかりました……。どんな方法があるのかはわかりませんが……。七竜草がある間は、ドラゴンは正常を保っています……。未来の画では期限は一週間ほどです……。その間に何か他の方法が見つからない限りは、やはり滅ぼすしかありません……」
「……うん。あたし、ぜったい見つける。ドラゴンがちゃんと眠りの世界に帰れる方法を!」
 アイリーンは決意を秘めた目でフラメール先生を見つめていた。
 チラとだけ視線を送り、フラメール先生はニコリと笑顔を浮かべた。
「私も、自分の視た未来が真実になることを祈っています……。アイリーンさん、あなたは自分が思っている以上に、素晴らしい力をたくさん持っています……。自分ができることをしっかりと見つめてください……」
「うん! フラメール先生、あたし後悔しないようにがんばってみるっ!」
「そうと決まったら、情報集めね。ウィルウィンド先生やピーオイソン先生なら、きっとなにか調べていてくれるわ。それを聞きにいきましょう」
「カルマー先生も頼りになりそうだな。よし、オレはカルマー先生に聞いてくる」
 フィレックはギリギリの緊張感にワクワクしてきたのか、ぐーっと体に力を込めると、飛び跳ねるように部屋から出ていった。
「おそらく、ドラゴンに関しての知識を持っているのはカルマー先生とスミレ先生くらいでしょう……。それから、現場を見にいけば何かのヒントがあるかもしれませんよ……」
「現場かぁ……。じゃあ、そこにはあたしが行くわ。アイスはウィリちゃんたちに話を聞いてきて。特にピーオイソン先生なら七竜草について詳しく調べられるかもしれないから」
「わかったわ。アイ、ひとりで大丈夫?」
「平気よ! あたしだってやる時はやるのよ。それに、ドラゴンが関わってたんじゃ全力でやるしかないもん」
 グッと拳を握り、アイリーンは力強くうなずいた。



   第八章 テュンデルの秘密


 フラメール先生の教室をあとにしたアイリーンとイセリアは、校舎を出たところで別れた。
 イセリアは西の草原に向かい、ピーオイソン先生に話を聞くために。そしてアイリーンは北西の草原の途中にある花畑に向かうために。
 アイリーンが魔法を吹っ飛ばした方向がちょうどその方向だったらしく、七竜草が現れたとしたらそこしかないと考えてのことだ。
 道中アイリーンは何度か道を間違えた。まっすぐ歩いているつもりなのだが、いつの間にか回っていて戻ってきてしまう。途中にある起伏を避けて歩いている内に、方向が曲がってきてしまうためだろう。
 こういう時にフィレックが一緒にいれば、まず迷うことはなかったのだが。
 アイリーンは目印と目標をいくつか据えることで、ようやく目的の花畑に辿り着くことができた。
「うわぁ――」
 アイリーンはその景色を見て、言葉を失った。
 辺り一面に、鮮やかに色づく花が生えているのだ。七色を持つ花たちが。
 この七色の花に見える、本当は毒草である七竜草は、どこか不安定に色を変えながら風に揺られている。
 風にあおられた七竜草からは、まるで花の色素が飛び出てきたように、色とりどりの粉が立ち昇っていた。
 思わぬきれいな光景に、アイリーンは口を間抜けに開けたまま、目を奪われていた。
 色鮮やかな粉は、風に乗って大きく広がりだした。アイリーンの元にもその粉は近づき、体の周りを覆い包もうとしている。
 その時、不意にアイリーンの立っていた地面が大きく揺れ、バランスを崩したアイリーンはそのまま倒れて、ゴロゴロと転がってしまった。
「早く風で払え! 吸い込んだら記憶を失うぞ!」
 遠くから叫ぶ誰かの声で、アイリーンはようやくハッとなった。
 慌てて右手に紫色の光を集めて、その手で粉を大きく振り払った。
 アイリーンの手の動きをなぞるようにして、激しい突風が粉を吹き飛ばしながらどこかへと流れていった。
 アイリーンは粉を吸わないように気をつけて、その場から大きく離れるように走った。
「気をつけろ。七竜草の花粉の作用は知っているだろう」
「テュンデル! どうしてここに……?」
「フラメール先生に聞いた。俺もここに用があったから来てみれば、危うくおまえが花粉を吸い込むところだった。『小さな揺れ』が間に合ってよかった」
 テュンデルは金髪を額に張りつけ、小さく肩で息をしている。
 アイリーンを自分の背後に押しやり、花粉が落ち着くのをじっと見ていた。
 一度花粉を吐き出した七竜草は、溜めていた花粉がなくなったのか、やがて元の通りきれいな花畑に戻った。
「そろそろいいだろう。アイリーン、おまえも来るのか?」
「あたりまえでしょ。そうじゃなきゃ、なんのために来たっていうわけ?」
 テュンデルはそれきりアイリーンを無視して、自分の作業を開始した。
 七竜草のそばにしゃがみ込み、花に見える部分や葉っぱや茎を詳細に調べているようだ。
「ねぇ、テュンデルはどうして七竜草を調べているの?」
「答える必要はない……と言いたいところだが、そうもいかないようだ」
「どういうことよ?」
「結論から言えば、俺は七竜草の仕組みを調べていた。七竜草がわかれば、ドラゴンが現れる理由もわかる――そのためだ」
「なんだ。やっぱりテュンデルもドラゴンに会いたかったんじゃない! 最初っからそう言ってくれれば一緒に探せたのに」
 アイリーンはピョコピョコとテュンデルのそばに走り寄り、顔を覗き込むようにして笑顔を見せた。
「言ったはずだ、団体行動は苦手だと。それにドラゴンは人目を気にする。不必要に大人数でいることはない」
「だって、みんなでドラゴンの背中に乗って空を飛びたいじゃない。ひとりよりも大勢のほうがやっぱり楽しいもんね!」
「おまえがどういう考えを持っていようと俺には関係はない。おまえはおまえ、俺は俺だ」
「ひどーい。あたしテュンデルともっとなかよくしたいのにぃ」
「俺には必要ない。仲良しごっこは勝手にやってくれ」
 テュンデルは無表情にアイリーンを見返し、邪魔だと言わんばかりに手で追い払った。
 思いっきりほっぺたを不満で膨らませたアイリーンは、わざわざテュンデルの向かい側に行ってしゃがんだ。
 ジッと睨んだまま、テュンデルの目の前の七竜草を調べ始める。
「……うっとうしい。暇ならばおまえには考えることを与えてやる」
「なによぉ。今のあたしは優秀モードよ。なんたってドラゴンのためだもん」
「なら期待している。……ドラゴンが七竜草を好むことは知っているな?」
 アイリーンはうんと大きくうなずいた。
「季節外れに起こされたドラゴンはどうなる?」
「気が狂って暴れる」
「どうして気が狂う?」
「七竜草がないから。飛び続けていられなくて眠りの世界に帰れないから」
「少し違う。七竜草から出る花粉をドラゴンが吸うことで、ドラゴンは満足していく。そしてその満足が一定になると、ドラゴンは眠りの世界へと帰っていくのだ」
「じゃあ、七竜草が足りないから、花粉も足りなくて、ドラゴンは満足できないんだ」
 アイリーンがそう言うと、テュンデルは小さくうなずいた。
「それなら、眠れぬドラゴンを眠らせてやるにはどうしてやればいい?」
「七竜草を増やして、花粉を増やしてあげる……?」
「そうだ。そして、七竜草を増やすにはどうすればいい? 雪の季節まで待つか?」
 アイリーンは頭に両手を乗せて、小首を傾げて考えた。
 すると、今回の事件がなぜ起きたのかの原因に行き当たり、それが答えであると思った。
「ムリヤリ低温にして、七竜草を起こす……」
「正解だ。雪の季節に咲く七竜草のこと、風の季節に咲かせるのならば、条件を雪の季節と同じにしてしまえばいい」
「だったら、あたしがまた『温度操作』で七竜草を咲かせれば……」
「いや、それは無駄だろう」
「どうしてっ!? 今テュンデルが低温にすればいいって言ったのに……!」
 自分の意思をあっさりと否定されて、アイリーンはテュンデルに詰め寄った。
 服を掴まれていても、テュンデルは顔色ひとつ変えることなくアイリーンの目を見据えた。
「おまえの魔法は不安定すぎる。もう一度『温度操作』を使ったところで、なにも起きはしないだろう。下手をすれば、温度が高くなって七竜草が消えてしまうかもしれない」
「やってみなきゃわかんないじゃない! それに、あたしがダメでもスミレちゃんやカルマー先生ならできるかもしれないでしょ?」
「確かに先生たちなら可能かもしれない……。だが、アイリーン、これを見てみろ」
 テュンデルはひとつの七竜草を指差した。
 元から色の悪かったその七竜草は、だんだんとその色を減らしていき、最後にはただの黄色い花になってしまった。
「なによこれ……? どうして一色になっちゃったの?」
「温度が高くなったからだ。どんなに強力な魔法がかかったとはいえ、そこに『継続』が使われていないのなら、やがて消えてしまうのは当然のことだ。しかも今の季節は日の光がある。自然に魔法が解けてもしょうがないことだ」
「じゃあどうすればいいのよ! このままじゃここの七竜草もなくなっちゃうじゃない……」
「そうだな。ドラゴンの正気を少しでも保つのならば、『継続』つきの『雪降り』を使わなければならない。だが、それでも万全ではない。おそらく魔法を使い続けなければならないだろう。それを同時に多数でこなすのは難しい」
「そんな、どうにかなんないの……」
 テュンデルが淡々と語る事実に、アイリーンの気持ちも落ち込んできてしまった。
 普段は元気にはねている髪の毛も、どことなく下向きになっている。
「このままだと、ドラゴンはいずれ魔法使いたちによって処分されるだろう」
「ねぇ、テュンデルはどうにかできないの! ドラゴンはなにも悪いことしていないのよ? 殺される必要なんてないじゃない!」
「……方法がないわけではない」
 アイリーンの必死の剣幕に、テュンデルはしばらく考え込んでから、やがて口を開いた。
「ただし、それができるかどうかはすべておまえ次第だ」
「やっぱりあたしなんだ……。フラメール先生も言ってたけど、あたしに何ができるのか、自分じゃ全然わかんない……」
「おまえはおまえであればいい。想いがすべてを超える力を出すことは、誰でも知っている真実だ。人一倍ドラゴンを想う気持ちを持つおまえのことだ。ドラゴンを救うためなら必要以上の力が出ても、どこにも不思議なことはない」
 ドラゴンを想う力――アイリーンはつぶやいて、自分の心の奥底に秘めている、ドラゴンへの想いを思い出していた。

 小さな頃に童話で見たドラゴン。
 人を傷つけてしまったからと、村を追い出されてしまったドラゴン。
 だけど、ドラゴンはただ空を飛びたかった。
 ただドラゴンは、七色の花が好きだった。
 七色の花が咲き乱れる地面を遥か下に眺め、ドラゴンは体全体を使って空を飛び続ける。
 花の香りを全身に浴びて、大きな空を飛び続ける。

 アイリーンはこの話が好きだった。どんなことがあってもめげないドラゴンが好きだった。大空を飛ぶドラゴンが好きだった。
 いつの日からか、ドラゴンの背に乗って空を飛ぶことが夢になっていた。
 ドラゴンと会って、背中に乗せて欲しいとお願いする自分がいつもいた。
「あたし……ぜったいにドラゴンを助けたい!」
 アイリーンは自らの想いを再認識して、強い意志のこもった瞳をテュンデルに向けた。
 テュンデルはうなずき、アイリーンの肩に手を置いた。
「先生たちと協力して、学院内の七竜草を起こしていけば、ドラゴンが狂うまでには時間が持つ。その間に、おまえは魔法を安定して使えるようにしなければならない」
「安定って言われても、あたしはいつもちゃんとやっているんだよ?」
「魔法が不安定という原因にはいくつかあるが、アイリーンの場合にはただひとつ。おまえの中にはどうやら風の精霊が宿っているようだ」
「風の精霊……? そんなのがあたしの中にいるの……。でも、なんでそんなことがわかるの?」
「……俺は特異体質なんだ。見ているだけで、そのものの持つ力がわかる。この七竜草が持つ力もわかったし、おまえの持つ力はわかっていた」
 テュンデルは自分の右手の平を見つめ、それからぎゅっと手を握った。
「おまえは風の精霊の存在を理解していないから、魔法のコントロールもうまくいかないのだろう。一度精霊との接触を果たせば、おそらくそこまで不安定になることもあるまい」
「……でも、風の精霊がいるって言われても、あたしには全然わからないわ。どこにいるのかも、どんな姿をしているのかも」
「それはわからなくて当然だ。精霊などもともと見えぬ存在、見えるほうがおかしい」
 テュンデルは自嘲ぎみにつぶやき、寂しげな表情を浮かべた。
「ねぇ、その精霊に会うことはできないの?」
 テュンデルの表情には気づいていたが、あえて何も見なかったことにしてアイリーンは問いかけた。
 一瞬で表情を無に戻したテュンデルは、アイリーンの疑問に対する答えを言うことをためらっていた。
「……できることはできる」
「どうすれば会えるの! あたし、自分の中にいるのなら、一度会ってみたい!」
「できるというだけだ。今のままのおまえでは呼び出すことは不可能だ」
「どうして……」
「魔法が不安定だからだ。風の精霊のために魔法の制御がうまくいっていない状態が長く続いたために、風の精霊を自覚した途端に、力が暴走してしまうかもしれないのだ」
「結局、魔法を安定させないと、ドラゴンも助けられないし、精霊にも会えないって言うのね……。だったら、どうやれば魔法を安定できるのか教えて! テュンデルはあたしたちの学年で一番魔法が上手じゃない!」
 結局はアイリーンが魔法の制御をできないために、今回の事件が起こり、そしてその事件が終わらないのだ。
 アイリーンは、いつかは必ずやらないといけないから、やろうと思っていた魔法の制御をテュンデルに教わろうと決心した。
「おまえの気持ちはわかった。だが、こればかりはすぐにどうにかなるものではない」
「それじゃ意味ないじゃない! 魔法を制御できるようになっても、ドラゴンが殺されちゃってたら、なんのために制御するんだかわからないでしょ!」
「そう急くな。先生たちに七竜草を咲かせてもらっている内に、俺がおまえを特訓してやる。ただし、手を抜くことは一切許さない。俺にはおまえが全力でやっているかどうかが、ひと目でわかるということを忘れるな」
「うん……」
「おまえさえいいのなら、今すぐ特訓を開始する。フラメール先生がおそらく他の先生に伝えてくれるだろうから、七竜草の心配も、授業の心配もする必要はない。ただし、イセリアとフィレックにはしばらく会えなくなる。それで構わないのなら俺が特訓を手伝う」
 急な話に、アイリーンは少し考え込んだ。
「……アイスたちに会えなくなるのは辛いけど、ドラゴンがいなくなるほうがもっと辛いに決まってる……。テュンデル、特訓おねがい!」
 答えはすぐに出た。自分がよく言うように、ドラゴンがすべて。それがアイリーンの答えだった。
「わかった。ひとまずこの場には俺が魔法をかけておく。拠りどころをなくしたドラゴンが狂うのに多くの時間は必要ない。最悪でもこの場の七竜草はなくしてはならない」
 テュンデルは右手を七竜草の生える花畑に向けた。
 じんわりと右手に金色の光が集まり、それがテュンデルの手を離れると、花畑全体を覆うように広がった。
 金色の光はすぐに雲のようになり、その中に白い物を作り出していた。
 金色の雲からは、ゆっくりと雪が降り注ぎ始めた。
「すごい……。まだ習ってない魔法なのに、どうしてこんな完璧にできるの」
「魔法の制御さえ完全にできていれば、別に習う必要などはないのだ。未修得の魔法を使わせないのは、暴発を恐れるためなのだからな」
「ボーストなんかのためなのかな、やっぱり。……そう言えば、テュンデルってもしかして全部の魔法を使えるの?」
 一時的に訪れた雪の季節を前にして、アイリーンはその光景に見とれていた。
 それから、この魔法を使ったテュンデルの顔を見上げた。
「全部の魔法を使うには俺は未熟すぎる。自分の学ぼうとしている系統を予習するのがせいぜいだ」
「そうよ……『小さな揺れ』だってまだ習ってないんじゃないの? フィルに『地魔法』の教科書を見せてもらった時に、うしろのほうに載ってたもん」
「いずれ誰だってできるようになるのだ。今俺が使えたところで驚くことでもないだろう」
 テュンデルはさも当たり前であるように答えて、雪を浴びて色を取り戻していく七竜草を眺めていた。
 テュンデルの使った『継続』つきの『雪降り』の効果は、およそ五日もてばいいほうだと言う。
 彼の魔法の力だと、それで限界なのだ。
「よし。アイリーン、一旦学校に戻るぞ。その時にイセリアやフィレックに話をしてこい。特訓の邪魔になるから、くれぐれも連れてくるな」
「うん……。ホントは一緒に特訓できればいいんだけど。しょうがないよね」
 アイリーンは、ほんの少しの悲しさを口元に残して笑みを浮かべた。

 アイリーンとテュンデルは一緒に学校まで戻ってきた。だが、学校の近くに来た頃から、テュンデルはアイリーンと別れてどこかへと行ってしまった。
 イセリアたちがどこにいるかわからないアイリーンは、休憩室に向かった。おそらくここにいるだろうと思ったからだ。
 休憩室に着くと、予想通りと言うか、都合がいいと言うか、そこにはイセリアとフィレックのふたりがいた。
 ふたりはアイリーンのことを待っていたのか、その姿を見つけると体全部を使って招き始めた。
「アイ、どうだった?」
「うん。テュンデルのおかげで解決策はわかったよ」
 アイリーンはイセリアとフィレックに、自分がテュンデルから聞いた話を教えた。
「……わたしたちが調べていた意味ってほとんどないわね」
「実際、オレたちじゃなんの力にもならなかったみたいだしな。オレがカルマー先生に話を聞きに行った時には、もう先生は出かける準備をしていたんだ。どこに行くのかって聞いたら、『七竜草を起こしにいく』だもんな。結局、生徒よりは先生ってことだよ」
 フィレックは、少しだけ自信を失ってしまったような顔をしていた。
「ドラゴンのことはドラゴンに詳しい人が一番よくわかっているのよ。つい最近信じたようなわたしたちじゃ、役に立たないわよ」
「ううん……。あたしはアイスやフィルが一緒でよかったよ。たしかにテュンデルが話してくれればこんなに遠回りをしなくてもよかったけど、あたしはふたりとドラゴン探しができて楽しかったもん」
「アイ……。もういらない情報かもしれないけど、わたしがピーオイソン先生から聞いた話をするわ」
 イセリアがピーオイソン先生に話を聞きにいった時に、先生は図書室に向かっているところだったので一緒についていった。。
 図書室に辿り着くと、ピーオイソン先生は教師しか利用できない本棚に向かい、そこからドラゴンと七竜草に関係のある本を何冊も取り出した。
 そして、学院で起こった集団眠り事件の原因が、ドラゴンが飛ぶ時に出る魔法の力によるものだとわかった。
 ドラゴンがいるのに、誰もドラゴンを見たことがないのは、人目の少ない雪の季節であることと、このドラゴンの魔法のためだったのだ。
 原因を調べ終えたピーオイソン先生は、次に七竜草について調べ始めた。
 七竜草について詳しく載っていたその本には、世界中にある七竜草畑の場所が載っていた。
 広くいくつも存在する七竜草の花畑は、数え切れないくらいある。
 学院の範囲内でも五つあり、学院周囲を見るとさらに三つ増える。
 ピーオイソン先生によると、どうも魔法学院の建てられている地域に多く存在しているように見えたと言う。
「そんなにたくさんあるんだ……」
「多いわね。ドラゴンがいったいいくつの七竜草畑を巡ればいいのかわからないけど、全世界を巡るとなると、全部の七竜草を同時に咲かせるのは無理よ」
「学院内にある花畑だけでどうにかならないのかな……? 五ヶ所だったら、先生たちにドラゴンが眠りの世界に帰るまで頑張ってもらえば、なんとかなるかもしれないし」
 フィレックはわざとおどけて言ってみせたが、そううまくいかないだろうと思っていた。
 もしそれで解決するのなら、フラメール先生が見た未来の意味がわからない。
 アイリーンが解決するのならば、アイリーンに任せるのが一番なのだ。
「どうすれば、世界全部の七竜草を咲かせることができるのかしら……」
 イセリアは顎に手を当てて、眉間にしわを寄せた。
 それを聞いていたアイリーンは、少しだけ話しづらそうに切り出した。
「あのね……あたしこれからテュンデルと特訓しなくちゃいけないんだ」
「特訓? なんの特訓だい?」
「魔法のコントロール。あたしがこれをできるようになると、全部うまくいくみたいなんだ」
「アイの魔法……? 確かに不安定だけど、それが安定したからって、いったいどうなるのかしら……」
「どうなるかはわからないの。ただ、あたしの中に、どうやら風の精霊ってのがいるんだって。その精霊がいることをあたしが気づいていないから、魔法がうまくコントロールできないんだって。テュンデルがそう言ってた」
 アイリーンの言ったことに、イセリアもフィレックも驚きを隠せなかった。
 ドラゴンの出現でさえ、ようやく認めてきた段階なのに、新たに精霊が出てくれば驚いても無理はない。
 それでもイセリアの立ち直りは早かった。
「わたし聞いたことある。精霊の力を持ってしまったことで、狂い死んでしまった人の話……」
 イセリアが言うには、本来持つべきでない力を持つことは、その身を滅ぼすことにしかならないのだ。
 だが、アイリーンは今まで何ごともなく生きている。精霊の保持者は例外なく、保持したことが原因で命を失っているのだ。
「アイのその精霊の力が答えなのかもしれないわね」
「そうだな。よし、オレたちもアイリーンの特訓を手伝おう!」
 イセリアの推測に同意したフィレックが意気込んだが、それはすぐにアイリーンの言葉によって無駄になってしまった。
「ゴメン……。テュンデルがあたしひとりでやるようにって言うの。だから、アイスとフィルには悪いけど……あたしが魔法をコントロールできるようになるのを応援してくれない?」
「……どうしてアイリーンだけなんだよ? オレたちだってドラゴンを助けたいんだよ」
 悲しそうな目をして見てくるアイリーンの視線に耐えられず、目を逸らしながらフィレックはつぶやいた。
「邪魔、なのよ……わたしたちは。魔法の制御をできるようにするなんて、そんなに生易しいものじゃないわ」
「でも、オレだって協力したいんだよ。ただ応援していろだなんて言われてもさ……」
「テュンデルには彼なりの考えがあるのよ。わたしたちじゃわからないことをたくさん知っているんだから……」
「ゴメンね、フィル……。特訓終わってドラゴン助けられたら、みんなで一緒に乗ろうよ!」
 うなだれるフィレックに向かって、アイリーンは精一杯の元気を見せた。
 フィレックは、顔を上げると、泣き出しそうな顔のアイリーンに複雑な笑顔を向けた。
「……わかったよ。別に永遠の別れでもなんでもないんだ。さっさと魔法をコントロールできるようになって帰ってこいよ! 待ってるからな!」
「うん! あたしにぜんぶまかせて!」
 アイリーンは元気に手を振って休憩室を出ていった。
 残されたイセリアとフィレックは、互いに顔を見合わせ、不意に笑い出した。
「『あたしにまかせて』だってさ」
「本当よ。アイに任せていたら不安だらけよ。任せているこっちの身になって発言して欲しいわよね」
「イセリアの言う通りだ。……あいつも変わろうとしてるのかな」
「変わらなくていいのよ。アイは自分ができることをするだけ。それ以上でも、それ以下でもないのよ」
 イセリアはアイリーンの出ていった入り口を見つめ、優しい笑みを浮かべた。
 フィレックはそんなイセリアの大人びた横顔を眺めて、やはり同じような笑顔を浮かべていた。



   第九章 ふたりの特訓


 校舎の出入り口にアイリーンが行くと、そこにはテュンデルの姿があった。
「話はしておいたか? これからしばらくは会えないぞ」
「だいじょうぶ。アイスたちもちゃんとわかってくれたから」
「そうか……それならいい。特訓には少し広い場所を使いたいから、これから『水浮く岩場』に行こうと思っている。少し遠いが、遅れずについてこい」
 テュンデルはアイリーンの返事を待つことなく、もう歩き始めていた。
「待ってよ! 一緒に行ったっていいじゃないのよぉ!」
「移動に大きな時間をかけたくない。俺ひとりなら組み合わせ魔法でなんとかできるが、おまえがいるからそれもままならない」
「えっ、テュンデルはどんなの使えるの?」
「『地魔法』の『金属抽出』と『雷魔法』の『反発』を組み合わせた魔法だ。不便だからあまり使わない」
「あははっ! テュンデルでもおもしろいことするのね?」
「別に面白くしているわけではない。この二系統では、この組み合わせ以外に思いつかなかっただけだ」
 テュンデルがほんの少しだけ照れたように話したのを見て、アイリーンは満面の笑みを浮かべた。
 それから、テュンデルが金属板に弾き飛ばされている様子を想像して、笑いが込み上げてきた。
「何を笑っている? 真面目にやる気がないなら帰っていいぞ」
「ゴメンゴメン! テュンデルのおもしろい姿を想像してたら、つい」
「勝手に人の面白い姿を想像するな。おまえも自分が誰かに想像されていると思ってみろ。気持ちのいいものではないだろう?」
「う〜ん……ちょっとイヤかも」
 アイリーンには想像されている姿を想像するという行為そのものが難しかったが、それでも気持ちのいいものではないだろうということはわかった。
「とにかく、着くまでは何を考えていてもいい。特訓が始まってからは、そんな余裕などなくなるだろうからな」
「あんまりきびしいのもイヤな気はするけど、『せにはらはかえられない』わ」
 アイリーンはどこか誇らしげに言って、テュンデルの横に並び歩いた。
 しばらく無言の状態が続くと、アイリーンはチラチラとテュンデルの顔を盗み見て、何かを言いたそうにしている。
「……無駄口も今だけだ。暇なのならば俺が話し相手になってやる」
「ホントっ! よかったぁ……女の子にとってしゃべれないのはとぉ〜っても苦しいのよ」
「おまえはしゃべりすぎのようだが」
「テュンデルだって実は結構しゃべるじゃない? あたしビックリしてんだから」
「……文句が言いたいのなら俺はつき合わない」
「ちがうちがう! 文句じゃないよぉー! あたしはずっとテュンデルと話したかったんだから」
「俺と、か……?」
「うん。だって、ずっと気になってたんだもん。今まで話す機会が全然なかったから、今は大チャンスよ!」
 アイリーンは笑顔にさらに笑顔を乗せて笑った。
 テュンデルはアイリーンの笑顔を眩しそうに見つめ、それからほんの少し口元を緩めた。
「あのさ、聞きたかったんだけど、テュンデルってどうしてドラゴンのことに詳しいの? ほとんどフラメール先生と変わらないくらい……ううん、フラメール先生よりも知ってるじゃない?」
「……そのことか。それは俺の親父が、ドラゴンを専属で調べる……無法魔法使いだったからだ」
「えっ……? テュンデルのお父さん、無法魔法使いだったの?」
「ああ。無法魔法使いであったがために、多くの知識を持っていた。ドラゴンのことならなんでも知っていたと言ってもいいほどだ。小さかった俺は親父のする話が好きだった。ドラゴンは凄いぞとか、今度ドラゴンを捕まえにいくんだ……とかな」
 テュンデルは過去に思いを巡らせて、わずかに苦しげに言葉を紡いでいる。
「親父はドラゴンについての知識を貪欲に求め、ついには禁術にまで手を出した。もともと無法魔法使いとはいえ、親父は魔法学院を卒業できなかっただけだった。だが、それでついに正真正銘の無法魔法使いになってしまった」
「そう、なんだ……」
「お袋は悲しんでいた。魔法使いの資格を持たないだけで、誇りは失っていなかったはずの親父が、ドラゴンに魅せられたために無法魔法使いになったことを。親父のほうも、ドラゴンのほうが大切になってきたんだろうな。ほとんど家にも帰ってこなくなり、いつしかお袋も親父の話はしなくなった」
 テュンデルは苦しさがほんのひと握りだけ混じった口調ながら、淡々と話し続ける。
 横に並ぶアイリーンも、テュンデルの心中を思ってか、悲しげな表情を浮かべている。
「それからどうなったの……?」
「あまり思い出したくはないが……事実から逃げていてもしょうがない。俺の親父はとうとうドラゴンを捕まえようとした。その意思を記した手紙が家に届いたから。だが、季節は陽の季節。そんな時にドラゴンが現れることはない。親父だって当然そのことは知っていたはずだ。だが、あえて逆の季節を選んだようだった」
「もしかして……」
「親父は魔法を使って無理矢理ドラゴンを起こした。本来の季節でない時に起こされたドラゴンは混乱していた。だが、親父はそんなドラゴンを捕まえようとした。気が立っているドラゴンほど凶悪なものはいないことを熟知していたはずなのに……」
 テュンデルが言葉を詰まらせると、アイリーンがその顔を心配そうに覗き込んだ。
 しばらく目を閉じていたテュンデルは、覚悟を決めたのか目を開いた。
「親父は殺された。そして、七竜草がなくなったあとのドラゴンは荒れ狂い、ひとつの町がなくなってしまった」
「それ、フラメール先生の言ってた……」
「親父だ、その原因を作ったのは……。その事件自体は魔法使いが揉み消してくれたが、代わりに家にはいられなくなった。お袋は魔法使いではなかったから、一生懸命働いて俺を育ててくれた。そして、俺に魔法学院に行って立派な魔法使いになるようにと、色々な本を買ってくれた。だが、その時の無理がたたって、お袋も……死んだ」
「……」
「お袋が必死に働いて稼いでくれた金は、すでに魔法学院に渡されている。卒業までに足りる、最低限の額だがな」
 魔法学院はクラスによって授業料が違う。そしてCクラスならほとんどお金がかからないのだ。ただし、学費が払えない限り、どんなに成績がよくてもクラスが上がることはない。
「……ゴメン、辛いこと思い出させちゃって」
「謝らなくていい。さっきも言ったが事実から逃げていてもしょうがない。……これで俺がドラゴンに詳しいわけはわかったな? 少し、よけいなことを話してしまったようだが」
 テュンデルがアイリーンに視線を向けると、そこにアイリーンはいなかった。数歩うしろに立ち止まっている。
「どうした? 移動時間がもったいないと言っただろう」
「あのね……あたし特訓がんばるから! テュンデルにガッカリされないようにがんばるから!」
「……当たり前だ」
 アイリーンが全身を使って決意を現したのを見て、テュンデルの顔には初めて笑顔が浮かんだ。少しぎこちないが、正真正銘の笑顔が。

 合計一時間ほど歩くと、『水浮く岩場』に到着した。
 『水浮く岩場』という名の通り、岩場のあちこちから水が噴き出していて、大きく花を広げる先端が浮いているように見える。
「そっか……フィルの待ち合わせの場所はここだったのか……」
 アイリーンは『水浮く岩場』の名前と、実際の場所を見てフィレックの待ち合わせ場所のことを思い出していた。
 結局行けなかったのだが、ここでフィレックは自分に何かを見せたかったのだろうか? アイリーンはふとそんなことを思った。
「感慨に浸るのもほどほどにしておけ。俺がこの場所を選んだのにはきちんと理由がある。魔法学院の中では、この場所が一番自然の中にある魔法の力の濃度が高い。この場所にいることで、魔法の力を自覚しやすくなるはずだ」
「うーん、そう言われると、なんだか今だと魔法が成功しそうな気がする」
「それなら試してみろ。おまえの習得は『風魔法』と『氷魔法』だったな。どちらの魔法でもいい、岩場の水を凍らせてみろ」
「いきなりそんなこと言われても、できるかわかんないわよ。でもまぁ、あたしの実力のほどをその目に焼きつけてちょうだい!」
 アイリーンはテュンデルの見守る中、両手を前に構えて意識を集中させ始めた。
 目標は、岩場の水を凍らせること。
 アイリーンは、自分の習得している魔法の中で、一番その目的に合っている魔法を選んだ。
「凍っちゃいなさいっ!」
 青色の光がアイリーンの両手に集まり、その手からは、きらめく氷の粒がいくつも飛び出した。氷の粒は一直線に岩場の水に向かい、その表面を凍りつかせた。
「やった!」
「……安心するのは早計すぎたな」
 テュンデルが言うのとほぼ同時に、凍っていたと思っていた岩場の水は、氷を粉砕しながら元通り流れ始めてしまった。
「成功したと思ったのにぃ……」
「命中はよかったが、威力が弱すぎる。あれでは池の水を凍らせることもできないぞ」
「ねぇ、テュンデルのお手本見せてよぉ。成功したらどんな風になるの?」
「いちいち成功例を見せる必要はないが、精度を上げる訓練だ。見ていて損はないな」
 アイリーンにせがまれたテュンデルは、仕方なくといった様子で、岩場の水に向かって右手を構えた。
 テュンデルの右手に集まった金色の光は、すぐに雲の形を取り、水の花の上に落ち着いた。
 金色の雲からは、激しい雪が降り始め、瞬く間に見事な氷の花のオブジェができあがった。
「すごいけど、ずるーい! テュンデルだけ『天候魔法』じゃ、お手本にならないじゃない」
「仕方がないだろう。俺は『氷魔法』は習得していない。それに、おまえも『天候魔法』を習っているのだ。使えないこともあるまい」
「使えないよぉ! あたしは、習ってない魔法はできないのよ!」
「……規律に従う上ではそれもしょうがないな。ただ、やれないのとできないのとでは明らかに違う。おまえはできないのか? それともやれないのか?」
「……できないの」
「そうか……。だが、俺もおまえがそこまでできるとは、はなから期待していない。だから二年習った『氷魔法』で凍らせてみろ」
 テュンデルに思いっきり馬鹿にされたアイリーンは、破裂しそうなくらい大きくほっぺたを膨らませた。
 その表情を見ても、テュンデルの顔色はひとつも変わらないのだが。
「もー、コントロールの特訓なのに、どうしてこんなに制御がむずかしいことをさせんのよぉ!」
「特訓だからだ。簡単にできることをしてどうする。そもそも今おまえがやっていることは、イセリアクラスの実力がないと無理だ。ただの三年生には少し荷が重いかもしれない」
「『かもしれない』じゃないわよ! アイス並みの魔法をあたしが使えるとでも思ってんの? 使えてたら今ごろAクラスよ!」
「何をそんなに誇っている。できないことを威張るな。できないことをできるようにする特訓だ。疲れたなどという戯れ言を言わす気はないからな」
「う〜……オニ!」
「鬼で結構。さぁ、もう一度やれ」
 アイリーンはその後も、何度も何度も『凍氷のつぶて』の魔法を使い続けた。
 ほとんどは威力不足で凍らせることができず、たまにそれなりの威力の魔法が飛び出ると、今度は命中が悪く、草原が凍りついてしまっていたりした。
「……うまくいかないよぉ」
「泣き言を言うな。まだ始まったばかりだ。いきなり上達するはずがない。回数をこなすことが一番の近道だ。弱音を吐かずにしっかりとやれ。おまえの大事なドラゴンがどうなっても構わないのなら別だがな」
「やるよ! あたしがやらなきゃ、誰がドラゴンを助けるのよ!」
「その意気だ。できないことでいちいち落ち込むな。次からの特訓は、こんなものじゃ済まないぞ」
「……はーい。がんばりま〜す」
 アイリーンは泣きそうな笑顔を浮かべて、元気に笑っていた。
 だいぶ疲れてきてはいたが、つき合っているテュンデルのほうも疲れているはずなのに何も言わないので、アイリーンも決して口には出さなかった。
 そもそも疲れたと言うなと釘を刺されている状態なのだ。
 魔法学院に入って以来最長の練習時間に、アイリーンの体からは信じられないくらいの汗が流れたが、そのすべてが魔法による冷気で凍りついていた。

 アイリーンが特訓を始めてから三日目。
 予想以上に魔法のコントロールがよくなっていくことが、アイリーンには面白くもあり、これからの特訓が楽しみにもなっていた。
 一方のテュンデルのほうは厳しさは変わらず、むしろより厳しくなっていると言ってもいいくらいだった。
 二日目の夜にはアイリーンは岩場の水を凍らせることに成功していた。
 『風魔法』の『温度操作』を組み合わせることで、水を初めから低温にしておき、効果的に凍らせることに成功したのだ。
 テュンデルが言うには、凍らせたことよりも、組み合わせ魔法で成功させたことに驚かされたようだ。
 その言葉に、アイリーンは全身で喜びを表現したが、テュンデルはすぐに次の特訓に入ると言い、アイリーンの気分を急落させた。
 ただ、特訓のひとつだとは言え、それを成功させたことがアイリーンの中ではものすごい自信となり、ふたつ目の特訓に対する姿勢も自然と前向きなものとなった。
 ふたつ目の特訓は、いきなりレベルアップして、テュンデルとの魔法の威力比べとなった。
 二日目の夕方から始まったこの特訓は、そのまま夜まで続き、アイリーンが倒れたところで一旦休憩となった。
 そのまま三日目になり、ほとんど寝ていない状況なだけに、アイリーンの全身には疲労がある。
「もう一度行くぞ。頭で実行をしようとせずに、体に叩き込め。もう一度言うぞ、『隆起』が足元に来たら、真下に『吹きつけ』だ」
「わかってるわよ! ずっとそうやってんだからっ!」
 アイリーンはテュンデルに叫び返した。
 ふたりの距離が離れているために、自然と話す声も大声となってしまうのだ。
 テュンデルのほうは、それほど大声で話していないのだが、ちゃんとアイリーンのところまで声が届いている。
「ちゃんと構えていろよ……行くぞ!」
 テュンデルの右手が緑色に光り、その光が地面に吸い込まれた。光が地面を走っていくと、その移動に合わせて地面が少し盛り上がっていく。
 アイリーンは両手を真下に構えたまま、地面の盛り上がりの移動をじっと見ていた。
 人が走るのよりも速いスピードで、盛り上がりは近づいてくる。
 あっという間にアイリーンの前方、直前に盛り上がりが来た。
「行っけぇー!」
 アイリーンが魔法を発動すると、その体がフワリと持ち上がった。
 だが、同時に地面が激しく突き出てきて、アイリーンの体は大きく後方に吹っ飛ばされてしまった。
「また失敗か。アイリーン、魔法の発動が遅い。そんなにじっくり見ていなくても、軌道がわかっているのだから、早めに魔法を使え」
「いったぁ〜! だって早すぎても、落ちてきた時に『ズドーン!』だから意味ないじゃないのよ!」
「あれはしっかりと見ていないからそうなる。この特訓は、魔法の発動の正確さを鍛えるためのものなのだから、きちんとしたタイミングで使えばいいだけだ。だからわざわざ直線的に進む『隆起』を選んでやったのに、どうして合わせられないのだ?」
「そんなこと言っても、テュンデルの魔法は速いのよ!」
「速いか? ……それなら少し遅くしてやる。今度こそ成功させろ」
「言われないでもやるわよ! あまりにできないんで、ちょっと腹が立ってきてんだから!」
 アイリーンは不機嫌そのものの顔をして、少し位置を移動した。
 テュンデルもアイリーンの移動に合わせて向きを変え、しばらく自分の手を見ていた。
「よし。今回は遅くなるように使ってみる。失敗したら、さっきより速くなるが、その時はそれを受け止めてくれ」
「……イヤよ! 遅くしてくれるように言ったのに、速くしたら怒るからね!」
「その場合は、成功したら特訓は終わりだ。どっちが得かは自分で考えろ」
「む……むずかしい〜!」
 アイリーンが魔法を構えずに頭を抱えているのにも関わらずに、テュンデルは魔法を発動した。
「ちょ……! いきなりはないでしょ! それに……速いわよ、バカッ!!」
 ついさっきの『隆起』の三倍以上の速度で、今回の『隆起』が迫ってきた。
 魔法を発動し終えたテュンデルの顔が、どこか楽しげだったということまでしか、アイリーンには確認できなかった。
 一瞬で足元にやってきた『隆起』に向かい、アイリーンは即座に『吹きつけ』を放った。
 アイリーンの手ではなく全身が光り、『隆起』に向かって放たれた『吹きつけ』の反動で、アイリーンの体は宙高くに舞い上がった。
「で、できた! できたけど……このあとどうすんのよぉ――」
 アイリーンの体は、空中にきれいな放物線を描きながら、上昇から転落へと軌道を変えた。
 ゆっくりとした落下感をじっくりと味わいながら、アイリーンはさてどうしたものかと冷静に考えていた。
 いざピンチになってみると、意外と冷静に物事を考えられる自分に驚いていた。
 体の向きが変わり、地面が近づいてくるのが見えるようになると、少し焦りが生じてきた。
「こうなったら、もう一回『吹きつけ』よ!」
 成功を疑いもせずに、アイリーンは両手を地面に向けた。
 だが、魔法を使おうとするのよりも早く、地面にものすごい勢いで黒い影が現れた。
 落下するアイリーンの体を、がっしりと受け止めたのは、その影の正体であるテュンデルだった。
 一瞬、アイリーンの体にピリッとした感覚が走った。
「……ありがとう。でも、体中がビリビリするんだけど」
「うるさい。俺も痛いのだ」
 テュンデルはアイリーンを地面にしっかりと立たせると、膝に両手をついて肩で息をしていた。
「もしかして、今のが例の……」
「そうだ。痛いのは嫌だったが、そんなことを言っている場合でもなかったからな……」
 テュンデルは薄い苦笑いを浮かべて、屈伸を始めた。
 『地魔法』の『金属抽出』と『雷魔法』の『反発』を組み合わせた、高速移動ができるテュンデルの組み合わせ魔法だった。
 土などの中から金属を作り出して板状にし、そこに電気の力を与えることによって、金属板に触れた物を弾き飛ばすという効果のある魔法だ。
 使っている最中はかっこ悪い上に、体中に電気が走って痛いという、とんでもない欠陥を持ち合わせている。
 電気の力が強力であればあるほど、より遠くへと弾き飛ばされるのだが、限度を超えると感電死してしまいそうなだけに、移動用の魔法としては向いていない。
「ねぇ、テュンデル。さっきのあれって成功でいいの? 一応『隆起』からは逃げれたけど」
「ああ、合格で構わない……少し逃げすぎだが。それと、どうやらおまえは危険な時のほうが力が出るようだな。発動と命中、威力がうまくいったから魔法の制御はできたも同然だ」
「ホントっ! 思ったよりもずっと早かったなぁ」
「確かに、予想よりも成長は早い。だが、まだ完全ではない。今からは、魔法を安定して使うことの他に、精霊を制御するために、魔法の力の最大値を上げていくことにする。それで、精霊の力も使えるようにしておこう」
「そんなことできるのかなぁ……? それに、あたしは精霊には会えるだけでいいんだけど」
「やはり自覚をしなくてはならない。自分の体のこと、精霊の力も使いこなせるようになっておかなければならないはずだ」
 テュンデルの説明を聞いていたアイリーンは、うーんと首を傾げていた。
 確かに精霊というよくわからない存在が自分の中にいるのに、その存在と触れ合えないのは気持ちが悪い。
「あのさ、精霊って結局なんなの?」
 アイリーンは思ったことをそのまま口にしてみた。
「精霊か? 精霊とは自然界に存在する魔法の源のことだ。俺たちが魔法を使う時に光が集まってくるだろう? あれが精霊だ」
「えっ! そうだったんだ……。あたし全然知らなかったなぁ」
「特に知る必要のない知識だからな。魔法使いだろうと、あの光が魔法の源であることは知っていても、それが精霊であることを知らない人も多い。『精霊学』という授業があれば、全員が魔法の仕組みについてもっとよくわかるようになるのだろうが、学院側は特に作ろうとはしていないようだな」
「そうよねぇ……。もしそんな授業があったら、あたしも自分の中の精霊に気づけたかもしれないのに」
 アイリーンは自分のお腹辺りを撫でるような仕草をした。
 そこに精霊がいるわけではないが、自分の中にいると聞いた時に、お腹の中が連想されたからだった。
「あっ! でもそれじゃあ、あたしの中に精霊がいるってどういう意味なの? 精霊って自然の中にある魔法の源なんでしょ? それがあたしの中にあるなんて変じゃない?」
「おまえも特異体質か何かなのだろう。魔法の源が体の中にあるという状況は、魔法を使う上ではいいことではない。制御が不安定なのもそこが関係しているのだろう。あまりにも近くに力の源があるために、よけいに魔法が強力になってしまったり、逆に『風魔法』以外の魔法を使う上での障害になってしまったりしているはずだ」
「なるほどねぇ〜。あたしは精霊っていうのは、生き物かなにかかと思ってたけど、どうやらそうじゃないみたいね。……だとすると、精霊と接触するっていうのはどうすればいいのかな?」
 アイリーンは姿の見えない精霊との接触法が見えてこなかった。
「おまえの中にいる風の精霊は、生き物ではないが形は持っている。魔法を使う要領で精霊を解き放ち、物理的に接触すればいい。今は精神的に寄生しているような状態だ。その状態のままでは永久に接触もできない上に、魔法に安定を求めることも無理だ」
「この特訓で、精霊をうまく呼び出せるようにして、それから精霊に会って魔法のコントロールを完璧にするのね?」
「ようやく理解したか? 今やっている特訓は、精霊に接触するために必要な、最低限の魔法のコントロールを身につけているだけだ。今のままではまだ安定にはほど遠い。俺との魔法の撃ち合いはまだまだ続けていくぞ」
「う〜……ちょっと休憩してからにしない? テュンデルも、だいぶ汗かいちゃったみたいだし、ね?」
「……俺が休みたいように言うな」
 テュンデルに怒られて、アイリーンはシュンとなってしまった。
 だが、次に出たテュンデルの言葉で、アイリーンの動きが明らかに変わった。
「だが、休みにしてもいいだろう。もう何時間も続けているからな。集中力が低下している時に続けても効果のないこともある」
「わーい! 実はヘロヘロなのよぉ〜。テュンデルきびしいんだもん」
 まるで疲れなどない様子で、アイリーンはテュンデルの横に座った。
 テュンデルはすでに岩場の岩のひとつに座っていたのだ。
「……なぁ、アイリーン」
「ん……なーに? テュンデルから話しかけてくるなんて珍しいねぇ」
「……やっぱりいい」
「なによぉ! 気になるじゃないの」
「気にしないでくれ……」
 それっきりテュンデルは口をつぐんでしまった。
 ややうつむいて座っているテュンデルの顔には金髪がかかっていて、その表情をうかがうことはできない。
 指先だけ組み合わせた両手では、いくつかの指が小さくだが常に動いている。
「ねぇ、テュンデル、どうしちゃったの? 話したいことがあるんなら話してよ? ナイショの話なら、あたし誰にも言ったりしないよ?」
「……」
「言いたくないなら別に言わなくてもいいけど……。あたしだって、話したくないこと聞かれたらイヤだもん」
 テュンデルがあまりにも動かないので、アイリーンは少し心配になっていた。
 しばらく見続けていたが、やがてアイリーンはテュンデルから視線を外すと空を見上げた。
 薄く雲がかかっているが、その上にドラゴンがいる気配はない。
「……なぁ、アイリーン」
 半ばボーっとしていたアイリーンの耳に、テュンデルの声が聞こえてきた。
 切り出し方は変わっていないが、口調からは迷いが消えているようだ。
「なに?」
 アイリーンはなるべくそっけなく答えて、テュンデルが話しやすいようにしてみた。
 そのおかげか、テュンデルは顔を上げてアイリーンの目を見つめている。
「おまえはイセリアやフィレックといて、楽しいか?」
「うん、楽しいよ」
「そうか……。やっぱり友達だからか?」
「うーん……どうなんだろう? 友達だから楽しいのかなぁ。ずっと楽しくすごしていたから友達になったのかもしれないし。その質問はむずかしいよ」
「そうなのか。……じゃあ、おまえは俺といて楽しいか?」
「えっ? そうだねぇ、楽しいかな。テュンデルって無口ってイメージだったけど、なんかちがうみたいだし」
「俺といて楽しいのか……」
「テュンデルはあたしといて楽しくないの? 特訓につき合わされちゃってるんだから、楽しくはないかぁ」
 アイリーンはワクワクした様子で、小首を傾げてテュンデルの顔を見上げていた。
 テュンデルはアイリーンの目を見たまま、なにやら考え込んでいた。
「どちらかと言うのなら……悪くはない」
「ちゅ、ちゅーとはんぱねぇ。でも、そのほうがテュンデルらしいわ」
「俺らしい、か……。いいな、おまえはいつも明るくて。それがおまえらしいという奴か」
「そうね。あたしらしいのは、やっぱり楽しく過ごすことかな? みんなが笑顔でずっといるの。みんなでドラゴンに乗って空を飛んだら、きっと楽しいよ! そうだ、テュンデルも一緒に乗ろうよ? 三人よりも四人のほうが楽しさも四倍よ!」
 アイリーンは満面の笑顔で、テュンデルの服の袖を引っ張った。
 テュンデルはアイリーンのされるがままになり、思案顔でつぶやいた。
「……どうして四倍なのだ?」
「だって、テュンデルも一緒だったら、あたしはもっと楽しいし、きっとアイスやフィルも楽しいよ! それに、テュンデルだって楽しいと思うわ。だから楽しさが四倍!」
「それは四倍とは言わない……。だが、そういう考えも面白いな」
「そうでしょ!? テュンデルもあたしたちと一緒にいようよ? ね?」
 いよいよテュンデルの首を締めそうな勢いで袖を引っ張り、アイリーンは『ね? ね?』と繰り返した。
 しかし、テュンデルはまたうつむいてしまった。
「……やっぱり俺はひとりのほうがいい。わざわざ誘ってくれたのに悪いな」
「なんでよぉ! なにもわざわざひとりでいなくてもいいじゃない! ぜったいみんなでいるほうが楽しいって!」
「悪い……。今はまだ団体行動ができるとは思えない。その内、俺の気が変わって、それでもおまえが一緒がいいと言うのなら、その時はよろしく頼む。……それでは駄目か?」
「ダメ――って言いたけど、いきなりはムリよね。いいよ、テュンデルが話したい時に話してくれれば。あたしたちはいつでも話し相手になってあげるよ」
「そうか。アイリーン……ありがとう」
「どういたしまして」
 アイリーンが笑顔を向けると、テュンデルはしばらく難しい顔をしたあと、ゆっくりと柔らかに笑みを浮かべた。
 それほど長くない休憩が終わり、より激しくなった特訓が再開された。



   第十章 続・ボーストの暴走


 特訓を開始してから六日目の夜に、ついにアイリーンは精霊を呼び出すことになった。
 テュンデルとの魔法の撃ち合いで、アイリーンの魔法の威力や精度は格段に上がった。
 『風魔法』だけは、力が強すぎて制御できずに、テュンデルを吹っ飛ばすということもしばしばだった。
 だが、『氷魔法』と『天候魔法』の制御はほぼ完璧になり、狙った場所に狙った力で効果を発揮することに成功するようになった。
「今ならわかるようになったと思うが、『風魔法』を使う時に感じる力を外に出すようにしてみるのだ。魔法を使うのとほぼ同じ感覚だ」
「うん、がんばる! 魔法を使う時と同じ感覚……」
 アイリーンは、『風魔法』を使う時に感じるようになった不思議な感覚を探ってみた。
 どうやら、中から強い力が外に飛び出ようとしているように感じる。
 その力がアイリーンの手に乗っかり、使おうとしていた魔法によけいな力を加えている。
「これって、一本の道を作ればいいんじゃないかなぁ……」
「おまえが感じたようにしてみるといい。駄目ならまた次の方法を探せばいいだけだ」
「うん。でも、一回で成功しちゃう気がする……」
 アイリーンは、魔法を使おうとしている手と、魔法を押し出そうとする精霊を繋げようと試みた。精霊は、自分が外に出ようとして、魔法を押し出しているのだろう。アイリーンが魔法の出口を開き続けることで外に出られる可能性が出てくる。
 魔法の制御ができるようになった今なら、魔法の道を一本に繋げることも、魔法の出口を開き続けることもできる。
 アイリーンは確信を持って魔法を制御し始めた。
「……よし、できてきたみたい」
 アイリーンの中で、魔法がひとつの道となっていく。
 魔法の源である精霊が、魔法のひとつとなって放たれようとしていた。
「テュンデル、行くよ!」
「暴発した時は任せておけ。遠慮なく放してしまえ」
「うん……もちろんそのつもりよ!」
 テュンデルが見守っていることに力強さを感じ、アイリーンは一気に魔法を解き放った。
 アイリーンの全身に現れた紫色の光が、どんどんと両手に集まっていく。
 両手に集まった光は、次の瞬間には空中に向かって飛び出していた。
 突如として、辺り一面には信じられないような突風が巻き起こった。
 両手を突き出した格好だったアイリーンとテュンデルは、ともに吹き飛ばされて転倒した。
 ひと足先に起き上がったテュンデルは、魔法が暴走していないことを確認すると、アイリーンの元に駆け寄った。
 アイリーンの体を抱えて起こしてやると、突風の中心を見ながらその肩をポンと叩いた。
「成功したようだ……あれが風の精霊だ。会って話してこい」
「うん……」
 ふたりは一緒に立ち上がった。アイリーンはテュンデルに背中を押してもらい、そのままの勢いで突風の中心に向かった。
 一時は激しかった突風も、すぐに柔らかい風へと変化した。
 風の中心には丸っぽい何かが浮かんでいる。
 球体の中に紫色の風が吹き荒れている――そのたとえが一番近い。
 この球状の紫色の風が、風の精霊なのだろう。
「あの……あなたが風の精霊、なの?」
 アイリーンが試しに話しかけてみると、風の精霊は球体の中の風をグルグルと回し始めた。
「わかんないよぉ……。テュンデル、あの動きはどういう意味なの?」
「俺に聞いても無駄だ。おそらく肯定の意思を示しているようだが、精霊に意思があるのかどうかは疑わしいところだ。やはりコミュニケーションを取ることは無理なようだ」
「話しかけろって言ったの、テュンデルじゃない!」
「もしかしたら可能かと思ったからだ。精霊との接触後の特訓もしておきたい。さっさと触れてしまえ」
「うん……わかった」
 アイリーンは、目の前にプカプカと浮かぶ不思議な球体に触れようと手を伸ばした。
 だが、風の精霊はアイリーンの手を逃れて、すーっと離れてしまった。
「あのぉ……逃げられたんだけどぉ」
「気のせいだ。風の精霊なだけに、少しの風の動きでも大きく動いてしまうだけだろう」
「ホントかなぁ? なら、もう一度っと」
 アイリーンが触れようとすると、やはり風の精霊はヒョイヒョイとかわしてしまう。
 ムキになって捕まえようとするが、触れる直前でスルリと逃げられてしまうためにうまくいかない。
「あー、なんか腹立つわぁ! テュンデル、押さえといてよ!」
「仕方ない……」
 アイリーンがさっぱり捕まえられないのを見かねて、テュンデルとしてもちょうど手伝おうとしていたところだった。
 風の精霊を挟むようにして、アイリーンとテュンデルは向かい合った。
 テュンデルは風の精霊の背後――だと思われる方向に、じりじりと詰めていく。
 できるだけ近づいたあとに、テュンデルは右手を地面に向けた。緑色の光がテュンデルの手から地面へと向かい、光が到達すると、風の精霊の左右とうしろ――だと思われる方向を覆い囲んだ。さらに上にはふたがされた。
「それいいわ、テュンデル! 精霊さ〜ん、覚悟してねぇ〜」
 『土の壁』で囲まれた風の精霊には、もはや逃げ場がなくなっていた。
 アイリーンの手はじりじりと風の精霊へと近づき、かわそうとして壁にぶつかったところを捕まえることに成功した。
 その瞬間、風の精霊は消えるようにアイリーンの中に戻っていった。
 アイリーンの体は内側から紫色に光り、強く魔法の力が溢れ出しているように見える。
 精霊が戻ったあとは、アイリーンは自分の体の中に精霊がいることが自覚できるようになった。
 アイリーンの体の中で、魔法の力が大きく増えたような感覚さえある。
 今ならどんな魔法でも使える、そんな気さえしていた。
「テュンデル! 精霊がいるわよ!」
「どうやら自覚に成功したようだな。よし、アイリーン……これが最後の特訓だ。今すぐ最大の力で『風魔法』を使ってみろ。なんでもいい、今なら制御できるはずだ」
「うん……やってみる!」
 アイリーンは両手を草原のみが広がる正面に構えた。
 アイリーンの手がじんわりと紫色に光り出し、今までよりも遥かに強い光がそこに集まっていた。

 すべての特訓が終わった七日目の朝に、アイリーンとテュンデルのふたりはようやく学院に戻ってきた。
 特訓中の睡眠不足と栄養不足がふたりの体にはあったが、アイリーンは魔法を制御できるようになった興奮で、そしてテュンデルは慣れのために、特に大事には至っていない。
 学院が近づいてきた時に、アイリーンの目にはまずフラメール先生の姿が映った。
 校舎からかなり離れたところで立って待っている。
「フラメール先生!」
 アイリーンはテュンデルを置き去りにして駆け出し、フラメール先生の元に急いだ。
 フラメール先生は、相変わらずどこを見ているのかわからなかったが、アイリーンの姿を認めると、安心した様子を見せたように思えた。
「アイリーンさん、期日は今日です……。どうですか、何か方法が見つかりましたか……」
「うん! あたしすっごい魔法が使えるようになったのよ! ちょっとだけ新しい魔法を覚えちゃったし」
「そうですか……。今のあなたの笑顔を見ていると、私の視た未来が真実であると思えます……。何をしてくれるか楽しみに待っていましょう……」
「任せて! 先生全員が腰抜かすくらいのことはしちゃうわよ!」
 アイリーンは拳を突き上げて宣言した。
 顔には自信が溢れ、目には力を感じる。
「おい、アイリーン。あまり大きく話を広げるな。もし失敗した時には恥が何千倍にもなって帰ってくるということを忘れるな。それに……いや、そもそも失敗は許されない。過剰な自信は油断を生む。油断は魔法を不安定にするものだ」
「わかってるわよぉ〜。でも、フラメール先生には伝えておかなきゃいけないと思ったんだもん」
「別にわざわざここまで戻ってくる必要はなかったんだ。報告が終わったのなら、さっさと魔法を使え。ドラゴンの精神の安定も心配だが、一週間の間ずっと魔法を使い続けている、カルマー先生やスミレ先生の体も心配だ」
「実はスコルド先生とピーオイソン先生にも協力してもらっています……。本来は私がやるべきなのでしょうが、外出は少々体に毒なもので……」
 フラメール先生は、ここからでは見えない先生たちに向かって頭を下げた。
 今もなお、四人の先生たちは七竜草を咲かせ続けるために、それぞれの場所で魔法を使っている。『継続』つきの魔法でも、無限に効果が続くわけではないので、時々魔法をかけ直しにいかなくてはならないのだ。
 学院の教師の中では、カルマー先生が一番魔法の威力が高い。そのため、『継続』の効果を与えると、軽く一週間以上は魔法の効果が続く。だが、カルマー先生は、自分の授業がある時以外はずっと七竜草の様子をうかがいに行っていたのだ。
 逆にスコルド先生やピーオイソン先生は、『氷魔法』にも『天候魔法』にも精通していないため、効果が『継続』されないので、やはり毎日七竜草畑に通っていた。
 スミレ先生だけは、受け持つ授業が多いために、三日に一度しか七竜草に魔法をかけには行っていなかった。
「ホントはアイスたちにも会いたかったけど、時間がないのはたしかなんだよね。よし、やっちゃおっか!」
 アイリーンは、両手を腕の前で甲を表にして交差させた。
 目を閉じ、意識を集中させる。
 と、その時、アイリーンの集中を中断させるのに充分な大声が聞こえた。
「駄目女と貧乏男が帰ってきたぞ! 見ろよ、あのボロボロの格好! まったくお似合いだな! あっはっはっ!」
 声の主は、いやらしい笑みを顔面に貼りつけているボーストだった。
 アイリーンの目からは、たった一週間会わなかっただけで、彼がものすごく太ってしまったように見えた。
 それに、うしろに控えるフォロワとエテンドが、どことなくよそよそしいのが少しだけ気になった。
「うるさいわよっ、ボースト! せっかくあたしが決めるところなんだから、じゃましないでちょうだいよ!」
「はっ! 駄目女が何をしようというんだ? 実は俺様もな、この一週間魔法をまじめ〜に覚えていたんだよ! おまえじゃなくて、俺様が決めてやるぞ!」
「あんたになにができんのよ! 魔法を暴走させちゃうような奴は引っ込んでなさい!」
「そっくりそのまま返してやるよ! 見てろ、この俺様の『温度操作』の威力を!」
 ボーストはアイリーンとのやりとりで、段々と興奮していき、ついに我慢の限界が来たらしく、いきなり魔法を使い出した。
 ボーストの手に、必要以上にたくさんの魔法の力が集まっていく。
「……まずい! ボースト、今すぐ魔法を使うのをやめろ! そのままでは暴走するぞ!」
「ウソ! ちょっと、ボーストやめなさい! また事故起こすわよ!」
「知るか! 俺様の魔法の実力を過小評価するなよ!」
 テュンデルが止めるのも聞かずにボーストは魔法を発動してしまった。
 紫色の光は、ボーストの手から放出されると、ボーストの体を中心として草原の各方向に広がっていった。
 光が通り抜けるのと、風が光を追って吹くのはほぼ同時だった。
 その風は、異様に温度の高い熱波だった。
「なんてことだ……。ボースト、おまえ何をしたのかわかっているのか?」
「七竜草ってのを咲かせればいいんだろう? 先生たちがここんところ騒がしかったからな」
「間抜けが……」
「なにっ!? 貧乏人風情が俺様を間抜け呼ばわりだと!」
「間抜けに間抜けと言って何が悪い。おまえは七竜草を咲かせるどころか、枯らそうとしたのだぞ」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ? 俺様はちゃんと最大の力で『温度操作』を使ったんだぞ。どうして失敗する理由があるんだ?」
「力の込めすぎで、魔法を制御できていなかった。魔法は暴走し、まったく逆の効果を持って拡散してしまったのだ」
 テュンデルの説明を聞く内に、ボーストは段々と焦りに支配されてきていた。自分の失敗を完全に突きつけられると、大粒の汗が顔に浮かび、目が泳ぎ始めた。
「アイリーン、この馬鹿は放っておいて魔法を使え。今ので七竜草を咲かせていた先生たちの魔法が解けた可能性もある。一時的にとは言え、七竜草のない時間があるのはまずい」
「わかった! いっつもいっつもボーストは妨害しかしないんだからっ!」
 アイリーンはもう一度胸の前で腕を交差させ、静かに目を閉じて、意識を魔法に集中し始めた。
 自分の中に強力な魔法の渦が流れ始めたのを感じる。
 アイリーンは魔法の集中が充分になったと判断し、目を開いた。
 そして、目を開けたことで空に起こっていた異変に気づいた。
「まずい……」
 テュンデルも空の様子に気づき、珍しく悔しさも露わになった顔をしていた。
「もしかして……間に合わなかった……の?」
「……おそらくな。せっかくの特訓が、ボーストのおかげで無駄になったようだな」
 テュンデルは、自分の両手を見つめて呆然としているボーストを睨みつけ、すぐにその視線を空へと向けた。
 ついさっきまでは薄雲があったくらいだった空が、今はもういつ雨が降ってもおかしくないような分厚い雲に覆われていた。
 時々、雲の隙間から雷が姿を見せ、天気の急激な変化をわかりやすくしている。
「テュンデル、どうしたらいいの!? このままじゃ!」
「……俺たちの叶う相手ではない。ここは先生たちに任せて、結末を見守るしかない」
「そんなっ! まだあたし魔法使っていないよ? 成功すれば、だいじょうぶなんでしょ?」
「おそらく、駄目だろう。仮に魔法が成功したところで、狂ったドラゴンを正気に戻すことができないだろう。被害が出る前に葬るべきだ」
「イヤよ! せっかく魔法を制御できるようになったんだもん! あたしぜったいドラゴンを助けるんだからっ!」
 アイリーンはテュンデルの言うことを一切聞き入れずに、三度魔法を使う準備を始めた。
 だが、今回もアイリーンの魔法の発動は許されなかった。
 しかも、今回の妨害者は、アイリーンが一番救おうとしているドラゴンそのものだった。
 圧倒的な存在を誇る、巨大な生き物が空から現れる姿は、アイリーンの想像を遥かに超えていた。
 目と口は驚愕に見開かれ、声を出すことさえできない。
 その状態はアイリーンだけに限らず、ボーストたちはもちろん、テュンデルでさえもがそうなっていた。
 動けないアイリーンたちに代わり、フラメール先生がゆっくりと前に進み出た。
「アイリーンさん、残念ですが、このままでは学院に被害が及んでしまいます……。私が直接手をくだしますので、さがっていてください……」
 ドラゴンは、雲の下に現れただけで、、まだ地上に降りようとはしていない。
 グルグルと大きく回って、下の様子をうかがっているようにも見える。
「フラメール先生、なんなんだあれは? どうしてドラゴンがこんなところにいるんだ?」
「ウィルウィンド先生……助力お願いします……。あなたの魔法でドラゴンを引き寄せてください……」
「ちょっと、説明をしてくれないと、ボクも状況を把握できない」
「狂ったドラゴンを止める手助けをして欲しい……これでよろしいですか……」
「なんだって! ……いったいどうしたらこんな非常識な事態になるんだ」
 ウィルウィンド先生はドラゴンを見上げて、ふぅーと長い溜め息をついた。
 それからやれやれと肩を竦め、両手を複雑に組み合わせた。
「呼び寄せて、ついでに動きを止めたら完璧だよな……。ほら、こっち来い!」
 ウィルウィンド先生の両手が紫色の光に覆われた。
 渦を巻くように広がる光は、すぐに見えない風になってドラゴンに迫った。
 風の端が届いたのか、ドラゴンが身悶えしたように見えた。
 吹きつける風に逆らうように地上へと向かい出したドラゴンは、その大きさが二倍ほどに見えるまで高さに下がって、その位置で停滞した。
「ここでいいのか? これ以上は危険だと思うのだが」
「充分ですよ……。罪なきドラゴンよ、与えられた運命を呪うことのないように……」
 フラメール先生は、さまよっていた視線をただ一点、ドラゴンの体へと向けた。
 しばらくは何も起こらなかったが、やがてドラゴンが、何かを嫌がるように激しく悶え始めた。
 次第にドラゴンの体のあちこちから煙が立ち昇り始めた。
 その場から飛び去ろうとしたのだろうか、ドラゴンが大きく翼を仰ぐが、ウィルウィンド先生の魔法の効果があるために、ただ翼を振るっただけに終わった。
「フラメール先生! こんな方法、あたしイヤっ!!」
 見るに見かねたアイリーンは、叫びながらフラメール先生の服の袖を引っ張った。
 視線が動いたために、ドラゴンの体から昇り始めていた炎も勢いを失い、煙が出るだけになった。
「アイリーンさん、他には方法がないのです……。被害が出てからでは、本当に遅いのですよ……」
「でも、やっぱり見てられないよぉ! あたしが魔法を使うから、それまで待ってよぉ!」
 ほとんど泣き出しそうな顔で、アイリーンはフラメール先生の服を引っ張り続けている。
 しばらく目を閉じていたフラメール先生は、やがて目を開くとアイリーンの目に数瞬視線を合わせた。
「駄目だったら、あきらめなさい……。それでいいのでしたら、やりたいことをやってみなさい……」
「うん……ありがとう、先生」
 アイリーンは目の端に溜まっていた涙を、手の甲でぎゅっと拭い取り、しっかりと上空のドラゴンを見据えた。
「なんだ! ……制御が離れていく!」
 ドラゴンが大きく咆哮をあげるのと、ウィルウィンド先生が動揺したのはほぼ同時だった。
 ウィルウィンド先生の魔法の効果を打ち破り、ドラゴンが上昇を始めたのだ。
 怒りが溢れた咆哮をもう一度あげ、ドラゴンは上空を旋回し始めた。
「アイリーン、魔法を使う余裕はないぞ! 今すぐここを離れろ!」
 テュンデルが警告を投げつけたが、アイリーンがそれを受け取るよりも早く、ドラゴンの動きは始まっていた。
 旋回していた勢いのまま、今度は落下にすべてのスピードを乗せてきたのだ。
 信じられないくらいの速さで迫ってきたドラゴンは、アイリーンたちの目前で急上昇を始めた。
 直撃は免れたものの、ドラゴンの残した風の勢いは、そのまま全員を吹き飛ばすのに充分だった。
 それぞれがでたらめな方向に吹き飛ばされ、したたかに体を打ちつけていた。
 だが、アイリーンの体は、なにか柔らかいものに包まれていて、体に痛さは何もない。
「ア、アイス……!」
「アイ、大丈夫……? 慌てて駆けつけたらこんなことになってるんだから、わたしもさすがに驚いたわ」
「ここは危ないから、早く逃げたほうがいいよ!」
「なに言ってるのよ。あんただけ放っておいて逃げられるわけがないでしょう」
 イセリアは、アイリーンを抱き締めたまま、優しい笑みを浮かべた。
 ドラゴンが上空で再度旋回を始めたので、ふたりは急いで立ち上がった。
「フィレックも頑張ってるんだから、少しはありがたがってあげなさいよね」
「フィル! こんなとこでなにしてんのよ!」
「なにって言われてもな……。オレとしても不本意なんだけど、こいつらほっとくわけにはいかないだろ?」
 フィレックは、倒れて気絶しているボーストとフォロワを、エテンドとふたりで協力して運ぼうとしているところだった。
 重いボーストは力持ちのエテンドに任せて、フィレックはフォロワの体を、顔を赤くしながら抱き上げていた。
「おまえたち、来た早々悪いが、さっさとそいつら連れて戻っていろ。校舎の中なら被害はあまりないはず。外にいることが一番危険だ」
「だったら、テュンデルも来いよな。オレたちだけ帰らせて、おまえはなにをするんだよ?」
「俺には俺のやれることがある。何もできないおまえたちは、そこにいること自体が危険なだけだ」
 お互いまったく引く気のないテュンデルとフィレックだったが、フィレックのほうはフォロワを連れて帰るという役目を負っただけに、一度校舎内に帰るしかなかった。
 フィレックは半ば睨むようにしながら、エテンドと共に校舎内に消えていった。
「イセリア、おまえもアイリーンを連れて戻れ。時間がない」
「あたしは戻らないわよ。さっきから一度も魔法を使わせてもらってないもん。後悔なら魔法を使ったあとでもできるからね」
「この、分からず屋が」
「それはテュンデルもでしょ?」
 ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべたまま、アイリーンはテュンデルよりも前に進み出た。
 そのまま両手を胸の前で合わせ、意識を集中する。
 紫色の光が、アイリーンの手を中心に集まり出す。
 光は、アイリーンの体から、そして自然の中から集まってきていた。
 アイリーンの中にいる風の精霊が、強い魔法の力を押しつけてくる。
 その力を受け取ったアイリーンは、自分の中で魔法の通り道をひとつの線としていた。
 大きく長い魔法の力が、その道を進んでくる。
「これでダメだったら、知らないからねっ!」
 アイリーンは、魔法の出口を一斉に開放した。
 アイリーンの中でひとつの大きな力となっていた魔法が、勢いを増して飛び出した。
 紫色の光は、一瞬にして四方八方すべてに向かって広がり、視界が完全な紫に覆われた。
 そこから、アイリーンはさらに右手を円を描くように回した。
 右手に集まっていた青い光が、アイリーンに手の軌跡に合わせて大きく広がっていく。
 アイリーンの行動はまだ終わらず、今度は空に向かって腕を伸ばし、両手を大きく広げた。
 金色の光がアイリーンの両手に集まり、それがそのまま空へと伸びていく。
「すごい……アイが複合魔法を使えるなんて……」
 イセリアの言うように、今アイリーンは三つの魔法を組み合わせて使った。
 二種類の魔法の組み合わせでさえ不安定になりがちなため、それがさらに増えるとなると失敗や暴走の確率が一気に上昇する。
 だが、アイリーンの使った複合魔法には、不安定なところはない。
 『風魔法』の『温度操作』と『氷魔法』の『寒さの訪れ』、さらに『天候魔法』の『雪降り』を組み合わせたのだ。
 あっという間に、雲に覆われていた空にさらに分厚い雲が現れて、そこからは白い物がちらつき始めた。
 ゆっくりと降り始めた雪は、やはりゆっくりとした速度で大地に降り注ぎ始めた。
「これがそうでしたか……。アイリーンさん、これで七竜草の心配はなくなりました……。しかし……」
 突然降り始めた雪に一番驚いていたのは、どうやら上空にいるドラゴンのようだった。
 雲を見上げたまま空を飛び、体に浴びる雪を楽しんでいるようにも見える。
「狂える竜はこれで戻るのでしょうか……」
 ドラゴンは、未だ上空を飛び続けている。
 今のところは降りてくる気配はないが、本当に正気に戻ったのだろうか。
 フラメール先生は、じっと上空の動きをうかがっていた。
「やっと魔法が使えたわ……。最初から、あたしにまかせていれば、こんなに苦労しなかったのに……。ボーストの奴、あとでひっぱたいてやろうかなぁ」
「それがいいわ。なんならわたしも協力するわよ」
「うふふ、楽しみだね」
 女ふたり、おかしな笑いを始めていた。
 このまま、ドラゴンが眠りの世界に帰り、すべてが終わるはずだった。
 しかし、ひと度失われた安定は、そう簡単に戻るものではなかった。



   第十一章 白の魔法


 アイリーンの使った魔法で学院が白く染め上げられ始めた頃、七竜草を咲かせ続けていた先生たちが異常に気づいて戻ってきた。
 スミレ先生とカルマー先生が始めに戻ってきて、突然降り始めた雪と、上空のドラゴンに驚きを隠せないでいた。
「いるのは知っていたが、見るのはこれが初めてだな……」
「わたくしもそうです。噂に違わぬ美しい姿ですね」
 雪を全身に浴びながら、カルマー先生は上空を見上げ続けていた。長い金髪も濡れてきていて、きれいな顔立ちと相まって妙な色気を醸し出している。
 スミレ先生も同様で、張りついた髪の毛をうっとうしそうにしている。
「しかし、このあとはどうなる? このまま眠りの世界に帰るのだろうか」
「わかりません。そうなってくれると一番よいのですが」
 ドラゴンはもう完全に宙に停止している。
 まったく動くことはなく、遠くからだと体の色が白になったように見える。
 そのまま随分と長い時間が経過したように思える。
 この場にいるほぼ全員が、ずっとドラゴンの様子を見ていた。
 校舎内にいた生徒たちも、突然の銀世界に気づいて外に出ていた。
 ドラゴンを見て、騒ぎ出す者や泣き出す者もいたが、あまりに真剣な先生たちの様子を見ている内に、その騒ぎも次第に収まってきた。
「おとなしくなったのはいいけど、このまま動かないままじゃ、疲れないから眠りの世界に帰れないんじゃないの?」
「確かに。ドラゴンの理屈はわからないけど、さすがに飛ばないっていうのは気になるわね」
「おそらく、体が雪の感触を覚えているのだろう。今は正気に戻ったわけではなく、本能で楽しんでいるのだろうな」
「それじゃ、結局ドラゴンが正気にならなきゃダメなの?」
「正気になって、空を飛ばないことにはドラゴンも眠りの世界に帰れない。狂ったままでは世界を飛び回ることもできはしないからな」
 わずかにも動かなかったドラゴンは、しかしゆっくりと動き始めた。
 まずは体が震えだし、背中に乗っていたと思われる雪が、ドサリと塊となって降ってきた。
 ゆっくりと飛び始めると、また大音量の咆哮をあげた。
「やはり駄目なようでしたね……。先生方も集結していることですし、ドラゴンを滅ぼしましょう……」
 フラメール先生が、一歩前に出る。
「待ってよ――」
「待ちなさい」
 アイリーンの声にかぶるようにして現れたのはヒアルセ先生だった。
 ヒアルセ先生は、アイリーンの両肩に手を乗せて、その背を押すようにして前に進めた。
「……ヒアルセ先生?」
「アイリーン、あなたはあのドラゴンを救いたいのですよね?」
 首を真上に向けて、ヒアルセ先生を見上げていたアイリーンは、突然の質問に驚きながらうなずいた。
「救いたい者がいて、救いたい力がある。それなのに滅ぼす必要がありますか?」
 今度の質問はフラメール先生に向けてのものだった。
「ヒアルセ先生……何をしようとしておられるのですか……」
「『何をしようとしているのか』と聞かれたのなら、『私も手助けをしたいと思っただけ』と答えます」
「そうですか……。それではここはあなたにお任せしましょう……」
「ありがとうございます。……さ、アイリーン、もっと前へ進みなさい」
 ドラゴンは宙でのたうつように飛んでいる。そのまま、どこか遠いところへ一目散に降りていくと、すぐにまた上昇してくる。そんなことを繰り返し始めた。
「本能で七竜草の花粉を浴びているのですね……。アイリーン、あなたに覚悟があるのなら、私がドラゴンを救える方法を教えてあげます。ただし、その方法を使うのにはかなりの危険が伴うことは、先に言っておきますよ」
 ヒアルセ先生はアイリーンの両肩に手を置いたまま、また降下を始めたドラゴンを見つめていた。
 離れた場所なのにも関わらず、風が動く音が大きく聞こえてくる。
 キラキラと七色に光る尾を引きながら、ドラゴンはまた空へと戻ってきた。
「あたし、ドラゴンを助けるためだったらどんなことでもするわ……。でも、その危険がどんなものなのかわからないと、簡単にはうなずけない……」
「そう言ってくれて、私もひと安心しました。もしその危険が、学院全体を危機にさらすようなものだった場合に、果たしてその方法を取ることができたかどうか? すべての方法につきまとう可能性をすべて検証することも、魔法使いには必要なことなのです」
 ヒアルセ先生は、アイリーンの柔らかい髪の毛を優しく撫でた。
 驚いてギュッと目を閉じたアイリーンだったが、すぐに片目ずつゆっくりと開いた。
「では、ドラゴンを正気に返すことのできる方法を教えてあげましょう。いいですか、これはとてもわかりやすいものです。アイリーン、あなたはドラゴンと話してくればいい、それだけです」
「話してくればいい……それだけ……?」
「そうですよ。あなたは気づいていないかもしれませんが、あなたには『癒し魔法』の才能があるのですよ」
「あたしが、『癒し魔法』を!?」
「あなたはその力をちゃんと持っています。私にはわかります。もう、生まれた時からともにある力ですからね」
 ヒアルセ先生は、アイリーンの胸の少し上辺りに手を当てた。
「想う力は何よりも勝る。あなたのドラゴンを想う気持ちを、『癒し魔法』を通じて全力でぶつけてあげればいいのですよ。絶対に想いは通じます」
「先生……あたし、やってみる。持っている力があるのに……できることをやらないなんてイヤだもん」
「決意は確認しました。ただし、アイリーン、さっきも言いましたがこの方法には危険がつきまといます。ドラゴンと接触する以上、物理的にも……そして精神的にも」
「いいよ、ヒアルセ先生。物理的なほうはどうなるかわかんないけど、精神的なほうはだいじょうぶだと思う――ううん、だいじょうぶ!」
「……ドラゴンがとても大きな存在だということを、しっかりと理解してい続けなさい。逆らわず、そして飲み込まれないように、自分の想いをしっかりとぶつけてくるのですよ」
「うん! ドラゴンはぜったいにあたしが助けるからね!」
 アイリーンはヒアルセ先生に向かって大きくうなずき、そしてまた下降していたドラゴンを力強い笑顔で見つめた。
「さて、先生方とテュンデルにイセリア……それからフィレックとエテンド」
 ヒアルセ先生に呼びかけられた全員が、次の言葉を待つように息を飲んでいた。
 ボーストとフォロワを保健室まで連れていっていたフィレックとエテンドは、外に戻ってくるなりいきなり名前を呼ばれて、硬直して立っていた。
「これからアイリーンにはドラゴンと接触してもらいます。接触と言っても精神的なもののために、不必要な物理的な接触のほうを、あなたたちの力で押さえて欲しいのですが……協力してもらえますか?」
「わたしは協力するわ。だって、アイリーンひとりに背負わせ続けているのもなんだしね」
「オレも協力するよ! 自分にできることはやらなきゃ――だろ?」
 最初に前に出てきたのはイセリアとフィレックだった。
 アイリーンの両脇に進み、三人で笑顔を交わした。
「俺も力になろう。ここまでアイリーンにつき合ってきてやったんだ。今さらひとつふたつ増えたところで苦労は変わらない」
 テュンデルも前に進み出て、アイリーンの正面に立った。
 アイリーンはテュンデルの背中に向かって、ベーッとふざけて舌を出した。
「ボクはもちろん協力するぞ。アイみたいな小さい子が頑張っているんだ。大人のボクが見ているだけなんておかしいもんな」
 アイリーンと背丈のあまり変わらないウィルウィンド先生は、大人の余裕を見せびらかすためか、アイリーンの右うしろに立って肩に片手を乗せた。
「ウィリちゃんって大人だったんだ。ずっと同級生かと思ってたわ」
「ふざけるな。ボクとアイのどこが同じだって言うんだ? まるで大人と子供のままだろう」
 置いていた手に力を込めてアイリーンの体を押して、ウィルウィンド先生はフンと顔を逸らした。
 カルマー先生とスミレ先生は、テュンデルの両脇に並び、うしろを振り返った。
「わたくしはアイリーンの副担任ですから」
「私にとっても生徒を守ることは当然のことだ。そうだろう、スコルド?」
「あ、あぁ……。まったく、駄目クラスの担任になった時から、絶対こんなことが起こるだろうなってことは覚悟してたよ!」
 七竜草畑から戻ってきたスコルド先生は、思いっきり嫌そうな顔と嫌そうな態度をしながらも、アイリーンの後方に控えた。
 同じく戻ってきていたピーオイソン先生もその隣に並んだ。
「アイリーンさん、我輩の力が役に立つといいのね。『毒魔法』以外は、全然自信がないんだけんどね……」
「頼りにしてるよ、ピーオイソン先生」
「ありがとうなのね! 我輩もできることをするだけなのね」
 ピーオイソン先生は笑顔を浮かべ、いよいよ近づいてきたドラゴンを見上げた。
 アイリーンの周りは、強力な魔法使いたちによって囲まれていた。
 ヒアルセ先生は、ただひとり入ってきづらそうにしていたエテンドに顔を向けた。
「エテンド……あなたも力になってください」
「あ……ぼ、ぼくも、中に入って、いいの……?」
「構いませんよ。あなたも魔法使いになろうとしているのですから、見ているだけなんてもったいないことはやめておきなさい」
「あ、うん……。ぼくも、みんなと一緒!」
 エテンドはアイリーンの背後に立った。満面の笑みを浮かべて、小さなアイリーンの頭を見下ろしていた。
 アイリーンはエテンドが来たことに気づき、うしろを見上げた。
「エテンド、やっぱあんたはボーストとは違うわぁ」
「そう、なの……? あのね……ぼくはドラゴンさん、好きなんだ」
「えっ! エテンドもドラゴンのこと好きだったの!」
「うん……。乗ってみたいんだ、ドラゴンさんに」
「意外だったわ……まさか、エテンドも夢見人だったとはね」
 キラキラとした視線で見つめ合っているアイリーンとエテンドを見て、イセリアは軽く頭を振った。
 ドラゴンが目の前にいる以上、ふたりはもはや夢見人などではないのだ。
 子供の心丸出しのふたりが正しかったということを改めて認識すると、イセリアが溜め息のひとつくらい漏らしてしまうのもおかしくはなかった。
「アイリーン、そろそろ来ますよ! みなさん、アイリーンを守ってください!」
 ヒアルセ先生の声に緊張が乗ったのと、ドラゴンが降下の速度を上げ始めたのは同時だった。
 前回は目前で急上昇してくれたが、今回の軌道ではそうもいかないようだ。
 ドラゴンの降下の速度は驚くほど速い。
 先生たちと生徒たちの手がそれぞれ違う色に光る。赤や青や紫、黄色に緑、それに金と黒、さらには灰色がある。それぞれの系統の魔法で、ドラゴンの突進から身を守る最良なものを選んだ結果だ。
 それらの多種の光がアイリーンの頭上に集まっていく。
 そして、多種類の壁の役目を果たす魔法が組み合わされて、より強固なひとつの壁となっていく。
 ドラゴンは降下の勢いを消さずに、そのまま壁に突っ込んできた。
 何種類もの光がその勢いで飛び散っていく。
「今、助けてあげるからね!」
 ドラゴンが壁をぐんぐんと押し下げてくる。
 突進の勢いの大部分は吸収されてなくなったが、ドラゴン自身が押す力はなくならない。
 魔法とドラゴンの力比べは、ドラゴンが優勢に進んでいる。
 ドラゴンの鼻先が大きく突き出してきて、あとひと押しもすれば全員が押し潰されてしまいそうになったが、その時にはアイリーンもドラゴンに触れることができた。
 ドラゴンを助けたいと強く想い、さらにジリジリと近づくドラゴンの鼻先を抱き止めた。
 その瞬間、アイリーンの全身からは白い光が溢れ出し、その光はドラゴンの鼻先から吸い込まれていった。
 アイリーンとドラゴンの体が、ひとつの白い光に囲まれていく。

 ふわふわとした雲の上にいるような気分だった。
 何もない場所にいるような気もしてくる。
 アイリーンは風に吹かれながら、その何もないところを歩いていた。
 ふと足元を見てみると、うっすらとかかる雲があり、そのさらに下には七色の花が咲き乱れる花畑があった。
「七竜草……?」
 アイリーンはしゃがみ込んで、遥か下にあるきれいな景色を眺めていた。
 七色の花は大地一面に咲いていて、花畑と言うよりも花の大地と言ったほうが適当だった。
 アイリーンにはわからなかったが、自分の知らないどこかには、こんな場所があるのだろうか……。
 いくら眺めていても何も起きないので、アイリーンは立ち上がると前に進み出した。
 どちらが本当の前なのかはわからないが、アイリーンは自分の思うままに前に向かって歩いていた。
「みんなどこ行っちゃったのかなぁ? この雰囲気じゃ、どっちかって言うと、あたしがどこに来ちゃったのかな――なのかな?」
 わずかに感じる不安から、アイリーンは無意識の内にひとりごとを繰り返していた。
「もしかして、これが精神的な危険って奴なのかな……? たしかに、これはさびしいかな……」
 どこまで行っても何もないような気がして、アイリーンは自然と自分の体を抱き締めながら歩いていた。ほんの少しだけ寒い気もしていたからよけいだった。
「ちょっとぉ……あたしどうすればいいのよぉ!」
 いくら不安に思っていてもしょうがないので、アイリーンは不安に思うことをやめた。
 そうしたら今度は不機嫌になってきてしまい、ほっぺたは膨らみ、唇は突き出てしまった。
 歩調も速まり、ほとんどないような足元も気にせずに、ひたすらに歩き続けた。
 考え方を変えたことがよかったのか、アイリーンの正面に小さな生き物が見えてきた。
「ドラゴン……? ずいぶんちっちゃいわね〜。あれじゃ、あたしでも乗れないわよ」
 アイリーンが近づくと、ドラゴンの体はビクッとなって震えた。
 アイリーンのことを見上げるドラゴンの真ん丸の瞳がきらめいている。
「どうしたの? どうしてこんなところにいるの?」
 アイリーンは物怖じせずに小さなドラゴンの元へと歩み寄り、そこにしゃがみ込んだ。
 ドラゴンはアイリーンを見上げて、ブルブルと震えている。しっぽが落ち着きなく動き、翼もパタパタとはためいている。
「……もしかして、怖いの?」
 ドラゴンは返事をしない。ただずっと震えながら見上げるだけだった。
「怖いんでしょ? じゃなきゃそんなに震えないもんね。でも、もしかしたら寒いって可能性もあるか……」
 アイリーンはひとりで悩み始めた。首のうしろに手を当てながら、眉間にしわを寄せる。
「寒いってことはないかぁ。だってドラゴンだもんねぇ。やっぱり怖いのかなぁ? どうしよう……」
 アイリーンは自分が怖い時にどうして欲しかったのかを思い出そうとしていた。
 幼い頃に、アイリーンの母は、アイリーンが泣き始めると、困ったような嬉しいような、そんな複雑な顔をしてあやしてくれていた。
 小さな体を抱き上げて、暖かな胸で抱いてくれた。
 優しく頭を撫でてくれて、優しく語りかけてくれていた。
 不意に思い出してしまった母の優しさに、アイリーンの頬を涙が伝う。
「……君はなにが怖いのかな? 安心するまで、あたしが抱いててあげるからね」
 アイリーンは小さなドラゴンの体を抱き上げて、母にはとても敵わない小さな胸で抱き締めてあげた。
 ドラゴンは抱き上げた時に小さく抵抗したが、一旦抱き締めてしまうとおとなしくなった。
 アイリーンの腕の中で全身から力を抜くと、じっとアイリーンの目を見つめていた。
「落ち着いてきた? あたしで安心させられたのなら、ちょっとうれしいなぁ」
 優しくドラゴンの頭を撫でてやると、ドラゴンは気持ちよさそうに目を閉じた。
 しっぽがゆらゆらと左右に揺れている。
「不安……だったのかなぁ? そうよね……いきなり起こされてしまったんだもんね」
 ドラゴンを胸に抱いて頭を撫で続けながら、アイリーンは考えていた。
 この小さなドラゴンは、学院に現れたドラゴンの心そのものなのだろう。
 アイリーンの魔法の暴発と偶然が重なって、正しくない季節に呼び出されてしまったかわいそうなドラゴン。
 どうやって元の世界に帰れるかがわからなくて、不安で泣きそうだったに違いない。
 もし自分が同じ立場だったら、まず泣いていただろうとアイリーンは思う。
 よく思い出してみると、アイリーンも幼い頃に、母と買い物に行って迷子になったことがあった。その時は、頼れる存在もなく、帰る方法もわからずに、ずっと泣き続けていた。
 あの時は結局お母さんが迎えにきてくれたからなぁ――アイリーンはその時の気持ちを思い出し、迎えのきてくれない――帰れないドラゴンの心がどれだけ不安なのかがよくわかった。
「ゴメンね。あたしの魔法が未熟だったばっかりに、こんなにつらい目にあわせちゃって」
 アイリーンは涙を浮かべながら、ドラゴンの頭に自分の頭をくっつけた。
 ドラゴンはアイリーンの頭の匂いを嗅ぐように鼻を近づけた。
「あたし、今はもう魔法をちゃんと使えるようになったのよ。だから、君をちゃんと眠りの世界に帰してあげるから。だから、もう泣かないで……不安にならないで」
 アイリーンの涙が、ドラゴンの背中にポツリとこぼれ落ちた。
「ちゃんと……帰してあげるからね……」
 ドラゴンは首を動かして、アイリーンの顔を上げさせた。
 そして、アイリーンの頬に鼻先をすり寄せ始めた。
 ザラザラとした感触のドラゴンの肌は痛かったが、アイリーンはドラゴンが自分を慰めてくれていることに気づき、涙ながらに笑顔を浮かべた。
「ありがとう。君が元気になってくれれば、あたしは平気よ」
 ドラゴンは、アイリーンの笑顔を見たからかどうかはわからないが、アイリーンの腕の中からスッと抜け出して、そのまま宙に浮かんだ。
 翼の羽ばたきはほとんどないのに、ドラゴンの体はしっかりと宙に浮いている。
 ドラゴンは翼の力や風の力以外にも、魔法の力で飛ぶのだと、アイリーンの持つ童話には書いてあった。
「どうしたの? ……もう帰っちゃうの?」
 アイリーンが尋ねても、ドラゴンは返事をしない。
 しばらく宙に浮かんでいたが、やがて翼を一度大きく羽ばたかせると、そのまま足元の雲の中へと飛んでいってしまった。
 ドラゴンがいなくなった途端、アイリーンの体からは力が抜け、頭では何も考えられなくなってしまった……。

 肌に冷たいものを感じ、アイリーンは目を覚ました。
 全身がしっとりと濡れていて、かなり寒い。
 アイリーンは両腕をさすりながら立ち上がり、今どうなっているのか確認するために周りを見回した。
 イセリアやフィレック、テュンデルやエテンド、それに先生たちが倒れている。
 全員がまるで起きる気配がないが、その体の上に雪はまったく乗っていない。
「アイス、フィル、起きて!」
 アイリーンはふたりの元に駆け寄ってその体を揺すってみたが、ふたりに起きる様子はまったくない。
「テュンデル、起きてよ!」
 同じようにテュンデルの体をがくがくと揺らすが、やはり起きようとはしない。
「ウィリちゃん! スミレちゃん!」
 ふたりの女教師も、やはり起きてはくれない。
 全員を起こしてみたが、結局誰ひとりとして起きてはくれなかった。
「どうして起きてくれないのよぉ!」
 不安よりも不満が先行し、アイリーンは沸いてきた怒りに声を荒げた。
「……あっ」
 フィレックの体を蹴り飛ばそうとしていたアイリーンがふと目を上げると、空からドラゴンが舞い降りようとしていた。
 雲を突き破って現れたドラゴンは、空よりも濃い色のウロコを陽の光で反射させ、雪で白色になっている空の中を、ただひとつ青く目立って飛んでいた。
 ドラゴンは楽しそうに空を飛んでいたが、アイリーンの姿を見つけるとゆっくりと下降を始めた。
 風を起こさないように配慮してなのか、ドラゴンはかなり離れた場所に降り立った。
「みんな……ちょっとの間待っててね」
 アイリーンは起きない友達や先生たちよりもドラゴンを優先し、その場からドラゴンのいる場所に向かって全力で走り始めた。
 かなりの距離があったはずだが、あっという間にアイリーンはドラゴンの元に辿り着いた。
「あの……背中に、乗ってもいい?」
 まったく暴れる様子のないドラゴンを見て、アイリーンはドラゴンを助けることができたと確信して、自らの願いを口に出してみた。
 ドラゴンは、大きな瞳をじっとアイリーンに向けているだけで返事はしない。
 しばらくの間見つめ合っていると、ドラゴンは顔を逸らした。
「だ、ダメなの……?」
 アイリーンが泣きそうになってうつむこうとしたら、ドラゴンの首がスッと地面に着いた。
 知性を感じさせる横目でアイリーンの様子を見ている。
「ホント……? 乗ってもいいの?」
 アイリーンが不安と期待の入り混じった複雑な顔で緊張していると、ドラゴンはチラと自分の背を見上げた。
「……ありがとう!」
 アイリーンはドラゴンの首に駆け寄ると、そのまま一気に首を駆け登った。滑りそうにも見えたが、首がウロコに覆われているおかげで、引っかかる場所には困らなかった。
 アイリーンがしっかりと背中に乗ったことを確認すると、ドラゴンは首を元に戻した。
 正面に回ってきた首にしっかりとしがみつくと、アイリーンはドラゴンの背中の意外な暖かさに驚き、興奮していた。
 ドラゴンは体を起こすと、ゆっくりと羽ばたき始めた。
 アイリーンの体にも風が感じられた。雪の季節にも匹敵するくらいの寒さだったが、アイリーンの体はその寒さを感じないほどにあたたまっていた。
 ドラゴンがフワリと宙に浮かんだ。
 羽ばたくごとに、ゆっくりと高度が上がっていく。
 どんどんと空へと浮かんでいき、地面は離れて小さくなっていく。
 アイリーンは下を見ようとしたが、今はまだ見ないでおこうと思い直し、ぎゅっと目をつむっていた。。
 もっと高く。もっともっと高く飛んでから見よう――そう決めて、今はドラゴンが浮かんでいくのに身を任せていた。
 アイリーンが空に近づくにつれ、雪はいよいよ強く降り始めてきた。



   エピローグ


「アイ、あんただけドラゴンに乗ってずるいわ」
「なによぉ〜! アイスは信じてなかったんだからいいでしょ!」
「それは昔の話。わたしは自分の目で見たものは、信じることにしているのよ」
「もう遅いわよぉ。でも、本当の雪の季節になったら、きっとドラゴンはまたここに来てくれるよ!」
「遠いわねぇ……。わたしも乗ってみたかったわ……」
 イセリアは溜め息をついて空を見上げた。
 ぽかぽかとした陽気が窓から差し込んできて暖かい。雪の季節になるのはまだまだ先の、風の強い一日だった。
「イセリア、おまえもいいかげんにしろよな。アイリーンだって、好きでひとりで乗ったわけじゃないんだし。オレたちがドラゴンの魔法で眠っちゃったのがいけないんだよ。だって、そうだろ? アイリーンは起きていたから、ドラゴンに乗ることができたんだからな」
「そうは言っても、やっぱり乗ってみたかったっていうことは確かなのよね……。乗れなかったことを知ると、なおさらよ」
「はー、しょうがない奴だなぁ……。イセリアって、そんなに子供だったっけ?」
「フィレックはうるさいわよ! わたしはあなたが陰でうらやましがっていたのを知っているんだからね」
「ばっ……な、なに言ってんだよ! オレがいつうらやましがっていたって言うんだよ!?」
「言っていいの? ほら、あの時でしょ……それからあの時も言っていたじゃない」
「……それ以上言わないでくれ」
 フィレックは恥ずかしさと悔しさが溢れ出してきて、渋面を作ってうつむいた。
「アイスもフィルも雪の季節が楽しみだねっ! あっ、もちろんあたしも楽しみだよ!」
「アイ……あんたって子は」
 無邪気に喜ぶアイリーンの姿を見て、イセリアは大きく溜め息と苦笑を漏らした。
 もう一度空を見上げてみるが、そこにはドラゴンはおろか、雲ひとつない青空が広がるだけだった。

 アイリーンたちは、フラメール先生の『相談室』に来ていた。
「フラメール先生、あたし、先生の言った通りに願いが叶ったよ!」
「そうですか……それはよかったですね……。私もドラゴンを滅ぼすことがなくて嬉しいですよ……」
「うん! いなくなっちゃったのはちょっとさびしいけど、生きていればまたきっと来てくれるよねっ!」
「そうですね……。そうそう、アイリーンさん……私たち魔法使いは、ドラゴンの存在を隠さなくてはいけないことはわかっていますよね……」
「う〜ん……隠さなくてもいいと思うんだけどぉ」
「混乱を防ぐためには仕方がないのです……。くれぐれも魔法使い以外の人には、ドラゴンのことを話したりしないようにしてください……。これは、イセリアさんやフィレックさんにも同じことです……」
 フラメール先生が真剣な口調で言うので、アイリーンたちも真剣な顔でうなずいた。

 アイリーンたちが職員室へ行くと、職員室にはスミレ先生、ウィルウィンド先生、カルマー先生、スコルド先生の四人の先生たちがいた。
「どうしたのです? アイリーンが職員室に来るとは珍しいこともあるのですね」
「本当だよな。どうした、授業を簡単にしてくれるように頼みにでも来たのか?」
「ちがうわよっ! あたしは今のままの授業じゃ、ものたりないって思ってるくらいなんだから」
「言ったな……。よし、明日からは厳しくするから覚悟していろよ!」
 ウィルウィンド先生とアイリーンはじっと睨み合っていた。しかし、口は笑っている。
「ここにわざわざ来たということはドラゴンのことだろう? アイリーンよ、私たち教師は生徒を守って当然だ。礼ならば必要ない」
「アイリーンが礼なんかのために来るわけないだろ。どうせ、暇だからなんていうくだらない理由で遊びにでも来ただけだろうな」
「スコルド先生、はずれ〜! カルマー先生が正解だけど、お礼必要なかったんだぁ」
「ああ。そんな暇があったら勉強に時間を費やしたほうがいい。今回のことで私も少し考えが変わった。やはりCクラスには楽しい生徒が多い。これからは、クラスの差をなくして授業をしてやろう」
「ホントっ! やったね、アイス! これでAクラスになる必要はなくなったよ!」
 アイリーンの喜びように、カルマー先生は少し驚いている様子だった。まさかここまで喜ぶとは考えていなかったのだろう。逆に残念がられていてもおかしくはなかったのだ。
「俺は、教えてやらんからな!」
 和気あいあいとした雰囲気に耐えかねたスコルド先生は、ふてくされてどこかへと行ってしまった。
 そのことで、職員室には困ったような楽しげな笑いが起こった。

「ピーオイソンせんせ〜! 毒草できたってホント?」
「おー、アイリーンさん! こいつを見て欲しいのね」
 ピーオイソン先生は、アイリーンの姿を見つけると、すぐに畑に手招きした。
 この前まで毒草だとは思えなかった草が、今やどう見ても毒草だという雰囲気を漂わせていた。
 ほとんどが濃紫と深緑と濃紺の混じったような色をしている。うっかりと触ってしまったら大変なことになると、ピーオイソン先生からは既に釘を刺されている。
「やっぱり、好きなことをしているのが一番楽しいのね。それもこれもアイリーンさんのおかげなのね」
「やめてよぉ! あたしはお母さんの言ったことを繰り返しただけなんだから」
「それでも構わないのね。我輩にとっては、アイリーンさんは女神様なのね」
「クスッ、女神様だって……全然似合ってない」
 ピーオイソン先生のべた褒めに、思わずイセリアが吹き出した。うしろを向いていてわかりにくいが、フィレックもしっかりと笑っている。
「なによぉ! あたしが女神様じゃいけないわけ?」
「ふふふ……駄目駄目。こんな女神様がいたら、わたし笑っちゃうもの」
「もぅ! こんな時にうらみを晴らさなくたっていいじゃない!」
 アイリーンが文句を言っても、イセリアとフィレックはなかなか笑いやまなかった。さらには、なぜだかピーオイソン先生までもが楽しく笑い続けていて、アイリーンのほっぺたは落ちそうになるほど膨らんでしまっていた。

 前方から来る三人組の姿に、アイリーンたちの体に緊張が走った。
「おやおや、これは駄目クラス三人衆じゃないか! どうした? 先生に怒られてでもいたのか? 特に俺様に用がないのなら、さっさとそこをどいてくれ」
「あんたがどきなさいよ! ここはあんただけの道じゃないんだからね!」
「はたして本当にそうかな? 俺様も将来はこの魔法学院の院長になる身だ。だから、ここは俺様のためにあると言っても過言ではない。どくのはおまえらだ!」
 ボーストが胸ではなく腹を張って威張り散らしていたが、フォロワとエテンドはボーストを置いて、さっさと道をアイリーンたちに譲っていた。
「ボーストさん、時間の無駄ですわ。さぁ、さっさと行きましょう」
「そう、なんだな……。ぼく、同じこと、思った」
「なんなんだおまえらは!? いつから駄目クラスの味方になったんだ!?」
 ボーストはあからさまにうろたえて、フォロワとエテンドを追いかけて、ふたりの腕を掴んだ。だが、その動きが皮肉にも、彼がアイリーンたちに道を開けるような格好になってしまった。
「じゃあねぇ〜。あんたには用ないから」
「そうそう。友達は大切だから、大事にしろよ」
 『くっそー!』と叫ぶボーストは無視するに限る――アイリーンたち三人は全員がそう思っていた。

「本当にいいのかね?」
「はい。俺はCクラスでやっていきます。もし、俺がAクラスに行きたくなって、まだ受け入れてくれるのならば、その時は喜んでクラス替えをします」
「そうか……。なら、しっかりと、学ぶべきものを学んでくるといい。ワシが院長の座にいる間は、いつでも相談しにきて構わん」
「ありがとうございます」
 アイリーンたちがテュンデルを捜していると、テュンデルがアロガンス院長と話している場面に出くわした。
 話は丸聞こえだったから、きっとアイリーンたちの存在もバレバレだったのだろう。
 テュンデルは院長と別れると、アイリーンたちの隠れている場所まで一直線でやってきた。
「用意はできているのか、フィレック?」
「あ、ああ……。でも、ちょっとまだ心の準備が……」
「頼ってきたのはおまえだろう? おまえがやめるのなら、俺は一向に構わん」
「なになに、なんの話?」
「アイリーンは黙ってこちらの指定する場所に来ればいい。イセリアも来ても構わない」
「わたしは元から行くつもりよ。アイだけじゃ心配だからね」
「だからぁ、なんの話なのよぉ!」
 アイリーンは自分だけが除け者にされているようで、大いに不満だった。
 その日、フィレックとテュンデルはどこかへと行ってしまい、夜になってイセリアがアイリーンを連れて外に出た。
「どこ行くの?」
 行けばわかるわよ――イセリアはアイリーンに小さく囁いた。
 いつにも増して楽しそうな顔をしていたのが印象的だった。

 『水浮く岩場』がある場所の、空の一部に一輪の花が広がった。
 炎と電気で描かれた、大きな大きな花が。
「うわぁ……きれい――」
 アイリーンは夜空のショーに目を奪われて、感動の吐息を漏らした。
 夜空には次々と花火が打ち上げられていく。不思議な色合いをした、様々な光の花が黒いキャンバスを華やかに染め上げていく。
 アイリーンが目をキラキラとさせて夜空を見上げていると、イセリアがそっと小さく耳打ちした。
「これ、フィレックがあんたに見せたかったものよ。去年の終わりの長休みが来る前にね」
「えっ? じゃあ、フィルって、ずっとここで……」
 アイリーンが驚いてイセリアの顔を見上げても、微笑むだけで何も言ってこなかった。
 ここからではまるで見えないが、アイリーンは岩場の向こうで大汗をかいているであろうフィレックの姿を想像していた。
 テュンデルの指示を受けて、怒りながら一生懸命やっていそうで、考えていて自然と笑ってしまった。
「フィル、ありがとね……」
 アイリーンはつぶやいて、まだまだ咲き乱れる夜空の花畑を、ずっと見つめていた。



(了)

 

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