エッセイ

言葉と肉体について


  11月となり、マラソン大会が各地でおこなわれる季節となった。 先週は大阪マラソンがあり、32,000人のランナーが御堂筋などの 大阪市街を走った。
 私もあまりに鈍った肉体を危惧して50歳頃からジョギングを始め た。はじめは1kmを走るのもやっとだったが、そのうちにゆっくりと ではあるのだが、フル・マラソンも走ることができるようになった。 先週は大阪マラソンを走り、来週は岡山マラソンを走る。若いころ からなんの運動もしていなかった身体には、42.195kmを走ること は、本当に辛い。それでも走る。なぜ?
 
 作家の村上春樹も、よく知られているように、走ることを趣味とし ている。それもかなり早いランナーである。40歳代には3時間半で フル・マラソンを完走していたということだから、市民ランナーとして はエリート・クラスの走力である。
 その彼のエッセイ集「走ることについて語るときに僕の語ること」 (2007年 文藝春秋社)では、240頁にわたってなぜ自分は走るの かを確認している。彼はこのエッセイ集について次のように言って いる。

 「僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世 紀ばかりを小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」とし て、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかっ た。」

 それでは走るという肉体行為をしている間、その人の存在はど のようなものなのだろうか。詩を書いたり、小説を書いたりという、 表面上は肉体行為をともなっていない時間を生きている場合と違 うものがあるのだろうか。

 「僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を 走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走って いる。」

  「僕は身体を絶え間なく物理的に動かし続けることによって、あ る場合には極限まで追いつめることによって、身のうちに抱えた 孤独感を癒やし、相対化していかなくてはならなかったのだ。意図 的というよりは、むしろ直感的に。」

 「川のことを考えようと思う。雲のことを考えようと思う。しかし本 質のところでは、何にも考えていない。僕はホームメードのこぢん まりとした空白の中を、懐かしい沈黙の中をただ走り続けている、 それはなかなか素敵なことなのだ。誰がなんと言おうと。」

  村上が、走っている自分を記述している部分を何カ所か抜き書 きしてみた。同じ肉体行為でも短距離走などの無酸素運動になる と状況はまったく異なってくるのだろうが、実際に有酸素運動であ る長距離走をしている人には、上に引いた村上の文章は感覚的 にとても判りやすいと思う。

 このエッセイ集には、彼が参加したいくつかのマラソン大会のこ とも書かれている。さらには我が国での100kmマラソンの頂点であ るサロマ湖ウルトラ・マラソンや、走るだけではなく水泳、自転車も 組み合わせたトライアスロン大会へ出場したときのことなども書か れている。
 彼がどのように自分の肉体と会話をしながら自分自身をコントロ ールしているかを読むのは、具体的、実際的なレベルの話として 面白い。

  しかし、村上春樹の場合、彼本人が言っているように「運動を続 けているのは「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上さ せる」ということが第一目的」である。彼には、小説を書くための道 具としての肉体、という捉え方があるようだ。
 ここではもう少し話を先に進めたい。

 今回私が考えたいのは、弱っている人にも届く言葉はあるか、と いうことである。弱っている人に向かって発するだけの意味のある 言葉はあるか、ということである。

 弱っているという内容は二つに分かれるだろう。
 そのひとつは心が弱っている場合である。これはここでは検討す る場合には当たらない。なぜなら、心が弱る場合は必ず言葉が介 在しているからだ。したがって心が弱っている人への言葉の役割 は非常に大きいものがあることは自明である。

 今回は、もう一つの身体が弱っている場合、これについて考えた い。身体が弱り、肉体的にぎりぎりである場合に、果たして人は言 葉を受け入れることができるのだろうか、という問題である。
 生まれながらにして、あるいは後天的な何らかの理由で、呼吸 器をつけて酸素を取りこまなくてはならない人がいる。歩行した り、手を動かすこともままならない人もいる。直す術のない痛みに とらわれている人もいる。
 人間は肉体的には常に不平等である。なかには生まれたときか ら不平等であったりもする。そんな不平等な肉体で生きていく存在 であるのが人間だ。

 言葉は、そんな肉体の辛さに拮抗する意味を持ち得るだろうか。 呼吸を助けることもなく、痛みを取ることもできない言葉は、ドーパ ミンなどの脳内アミンを活性化する力を持ちうるだろうか。いや、こ の言い方は正しくない。そのような力を持つ言葉はあるだろうか。
 肉体の辛さを受けいれた上でなお存在しつづける存在になるこ とを助けてくれる意味を持つ言葉はあるのだろうか。具体的な意 志伝達などの有用性を待たない言葉をわざわざ発語する者とし て、上述のような言葉に近づくことはできるのだろうか。

 これはどこまでも判らない問題である。
 しかし、それならばこそ、発語するものはこのような言葉にせまる 努力をいつも意識しなくてはならないだろう。

 私事になるが、私が長距離走をするのは、肉体を甘やかせた状 態で詩を書きたくない、ということが根底にあるように思える。もち ろん大した速さで走っているわけではないが、私にとっては肉体を 精一杯の状態に追い込もうとしている。
 肉体が辛くなれば、精神状態にも余裕はなくなる。辛さに耐える なかで脳内からは余分なものが削ぎ落とされていく。そして必要な ものだけが残ってくる。理念的に言えば、必要な酸素を必死に取 り込んで、乳酸の蓄積した大腿を必死に動かし続けて、そんな肉 体的な状態でもなおかつ捨てられない言葉を求めている。

 おそらく村上春樹の言う「僕は原則的には空白の中を走ってい る。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている」とい うことはまったく正しいのだと思う。その空白から生まれる言葉を 求めていることに他ならない。
 自分の言葉に誠実であろうとすれば、自分の肉体を甘やかして はいけないのだろう。甘やかされた肉体からは、甘やかされた言 葉しか出てこないのだから。
 





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