張飛  字 益徳(演義では翼徳)   出身地 : 幽州[シ豕]郡


『蜀志 張飛伝』を読む。


張飛を知るエピソード

 其の一、桃園の誓い

「三国志演義 第1回」に描かれる、劉備・関羽と三人で結んだ義兄弟の誓い。張飛の屋敷の裏庭にある桃林(横山光輝「三国志」では劉備の村の桃林)で行われた、と言われる。「同年同月同日に生まれるを求めず。ただ同年同月同日に死なん」というセリフで有名。この誓いにより、劉備が長兄、関羽が次兄、張飛が末弟となった。

[→目次]


 其の二、張飛の呼び方

張飛の呼び方には以下のようなものがある。[ ]内は現代中国語の読み。

      張飛[zhang(1) fei(1) チャンフェイ] ・・・主に敵方の武将が張飛を呼ぶときの表現。

        例) (劉備の配下になる前の)馬超→張飛

      翼徳[yi(4) de(2) イードー] ・・・主に親しい人物が張飛を呼ぶときの表現。

        例) 孫乾→張飛

      張翼徳[zhang(1) yi(4) de(2) チャンイードー] ・・・一般的な呼び方。また張飛が名乗りをあげるときによく使う。

        例) 曹操→張飛

      張将軍[zhang(1) jiang(1) jun(1) チャンチアンチュン] ・・・一般的な呼び方。庶民や兵卒、味方の武将から敵の武将まで                                             幅広く使われる。

        例) 農民→張飛     諸葛亮→張飛

      三弟[san(1) di(4) サンティ] ・・・劉備や関羽が張飛を呼ぶときに使う。兄弟それぞれの呼び方は以下の通り。

        劉備→関羽=二弟[er(4) di(4) アルティ]    劉備→張飛=三弟[略]

        関羽→劉備=大哥[da(4) ke(1) ダークー]   関羽→張飛=三弟[略]

        張飛→劉備=大哥[略]                張飛→関羽=二哥[er(4) ke(1) アルクー]

      三将軍[san(1) jiang(1) jun(1) サンチアンチュン] ・・・味方の人物が主君(劉備)の弟である張飛を尊敬して言う表現。

        例) 諸葛亮→張飛 

これ以外にもその時の肩書きなどで呼び方が変わる。(参照 張飛の肩書き)                    

 [→目次]


 其の三、張飛の風貌

「三国志演義」によると、「身の丈八尺、豹頭環眼、燕顔虎鬚、声雷の如く、勢い奔馬に似たり」だという。大体の作品で描かれる張飛は虎ヒゲの大男であるが、横山光輝「三国志」のようにそうでない作品もある。しかしKohjinは上記のような張飛の風貌に疑問を抱き、「張飛が色男か?」という論を提示した(詳しくはKohjinの論文「誰が主役か教えてやろう」の第三章を参照のこと)。                                     

[→目次]


 其の四、張飛の武器

張飛の武器は言わずと知れた「一丈八尺の蛇矛」である。

蛇矛は《桃園結義》の後で劉備の「雌雄一対の剣」と、関羽の「八十二斤の青龍偃月刀」と一緒に鍛えたものだという。実は三国時代にはまだ蛇矛は発明されていなかったと言うが、張飛の武器が蛇矛でないなんて今更考えられないだろう。(蛇矛についての面白い伝説についてはここでどうぞ)

[→目次]


 其の五、張飛の家族

張飛の両親は明らかではない。実の兄弟は分からないが、義兄弟は言わずと知れた劉備・関羽である。妻は魏の夏侯淵の姪にあたる女性で、あるとき薪をとりに出て張飛に捕まり、張飛は彼女が良家の娘であると知って、彼女を妻とした。男子は二人あり、長男は張苞だが夭折し、次男は張紹である(二人の母が夏侯氏かどうかは不明)。また女児も二人で姉は劉禅の皇后となった哀敬皇后で、妹もまた姉の死後後宮に入り皇后となった。張紹は蜀が滅びると劉禅とともに洛陽に移り、その子孫は現在まで系譜をつないでいると言う。

[→目次]


 其の六、張飛の肩書き

[官職]

 歩弓手(演義)→別部司馬→中郎将(198年)→宜都太守・征虜将軍(209年)→南郡太守・征虜将軍→巴西太守・征虜将軍(214年)→右将軍・仮節(219年)→車騎将軍・司隷校尉(221年)

[爵位]

 新亭侯(209年)→西郷侯(221年)

[→目次]


 其の七、張飛の出自

 「三国志演義」によると肉屋であったという。横山光輝「三国志」では豪族に仕える武将であった。[シ豕]郡のある侠客グループのリーダーであったとも考えられ、配下を率いて劉備に仕えたのかもしれない。

[→目次]


 其の八、「燕人」って何?

「燕人張飛これにあり」と長坂で一喝するのは有名な話だが、「燕人」とは何か。[燕]とは戦国時代の七雄(秦・楚・斉・韓・魏・趙・燕)の一国である。秦の統一によって燕は滅びたが、国人気質は受け継がれていたようだ(少なくとも小説が書かれた時代まで)。張飛の出身地の[シ豕]郡はかつては燕の国であったので「燕人」と名乗った。なら劉備はと思うかもしれないが、劉備にはそれ以上に祖先の名前を名乗るほうが効果的であったから「燕人」とは言わなかったのだろう。言うなれば自慢できない家柄のものは出身地を誇ったのに違いない。(例えば袁紹は四世三公を誇り、曹操は前漢の曹参の子孫を自称し、馬超なども伏波将軍馬援の後継と言われている)。ちなみに「燕人」は「えんひと/えんぴと」と読み、「えんじん」と読むのは中国文の世界では素人である、とある先生が言っていた。 

[→目次]


 

「三国志演義」第19回において、張飛が隠れていたという芒トウ山とは『水滸伝』にも登場する山賊のメッカである。また漢の高祖劉邦が秦の法を逃れて隠れ住んだ所でもある。張飛は第28回でもこの地に隠れていたと語っており、余程お気に入りだったようである。このエピソードが作られたように、張飛はやはり民衆好みの人物として認識されているようである。

[→目次]


 其の十、「小張飛」って誰?

「小張飛」とは『水滸伝』に登場する<豹子頭>林冲のことである。関羽の子孫であるらしい関勝との対比のためにそう呼ばれているらしいが、外見以外は張飛のイメージは少し薄い。どちらかと言うと<黒旋風>李逵のほうが、その暴れっぷりといい宋江への傾倒ぶりといい、張飛にそっくりような気がするのは私だけではないだろう。

[→目次]


 其の十一、張飛の首は何処へ行った?

「三国志演義」では劉備の報復を恐れた孫権が、和を請うため范彊・張達とともに劉備の元に送り返したという。しかし伝説では、范彊・張達は長江を下る途中の雲陽という所で川に投げ捨てたという。その首は後になって浮かび上がり、飛風山の山麓に祀られた。今も残る張飛廟がそれである。(張飛廟の伝説についてはここで)

[→目次]


 其の十二、張飛の亡霊が出た !?

三国志に関する話にはよく亡霊が登場する。関羽や于吉が有名だが、張飛も笑い話に使われている。「ある男が野ざらしの白骨を供養してやると、その夜楊貴妃(の霊)が訪ねてきて、弔いの礼に一晩床を共にしていった。それを聞いた隣の男が、自分も真似しようと野ざらしの白骨を探して回り、やっと見つけて葬った。うきうきして待つ男の元に訪ねてきたのは何と張飛で、お礼に尻を役立てたいと言った(意味の分からない人はそのまま純粋でいて下さい)」 この話は日本の「のざらし」の原型であると言う。しかし、隣人の真似をして失敗するという話は何処の国でも共通なのであろうか。まあ「尻を出せ」と言われなかっただけましかもねぇ・・・(←そういう問題か!)

[→目次]


続く

l 蜀家羣談に戻る l