ガルシン短篇集 中村 融訳 1990年 福武書房 






福武書房本を探し求めて、何の気なしに購入したガルシンだったが、何の気なしに買ってみたにも関わらず、素晴らしい。なにげにロシア文学。下記の通り「父方の祖父はたえず百姓を虐待したり、従順でない地主連の果樹に熱湯をぶっかけた(!!!)」という一説を読んだだけでもそそられる。個人的にはほぼ実体験に基づいているだろうと思われる「赤い花」における理知性と狂乱の混沌とした共在感が面白かった。作中の「自己の哲学の上に生きるものには空間や時間にとらわれない」という理論。これは一部私もそう思っている事なので、正直近付いているのかしらと不安にもなる。
文章は非常に読みやすく(翻訳者の中村融さんのおかげだと思いますが)さらさらっと読んでしまいがちだが、ガルシンの悪に対する絶対的な狂おしい程の「善」が感じとれる。
個人的に久々の当りです。
 
 

 
フセヴォロード・ミーハイロヴィチ・ガルシン (訳者あとがきより参照)

1855年2月14日南ロシアのカステリノスラフ県バフムートスキイ郡(何処だそりゃ)に生まれる。父親は騎馬将校、母親は地主の娘であったようだ。

父方の祖父は「たえず百姓を虐待したり、従順でない地主連の果樹に熱湯をぶっかけた(!!!)」と恐ろしい武勇伝を持つかなり気性の激しい人だったらしい。ガルシンの父親は非常に温厚で人情あふれた人物だったようだ。母方の祖父も穏和な人物だったようだ。

性格の遺伝という事がいいうるのならば、ガルシンはその殉教者的ヒューマニズムを父と母方の祖父から、またその狂疾と深い関係を持つ多血性を父方の祖父から伝承されたのだといえよう。
 

戦争の為、幼い頃から将校だった父親と一緒に駅馬車で各地を転々としたガルシンは、戦争・軍隊についての混沌たる思いを持つようになる。これが後年に、彼の創作の三分の一を戦争・軍隊の取材にあてていることから伺える。

5歳から8歳までを父親とだけで過ごしたガルシンは父の書架から手当たり次第に本を濫読し、もともと早熟だったガルシンをますます助長させていった。後に彼自身が「この早期の読書は確かに有害だった」と語っている。
 

1863年母親と共にペテルブルグに上京し、同地の7年制中学に入学する。ガルシンはロシア語の作文では常に優秀な成績を収め、数学は趣向にあわなかったものの、博物・物理・科学などの精密科学を得意とした。中学時代よりアガスフェールという筆名で学内の文芸誌に小品を発表し好評を得ている。

またその一方で彼の血に混入する「狂疾の血」もこの頃から現れはじめる。17歳の頃第一回目の精神病生活を送る事になる。
 

中学を了えて、医科大学を希望していたが、たまたま行われた学制改革によって医科大学への道を閉ざされてしまい、やむなく鉱業専門学校へ進む。が技術方面の仕事が肌に合わず、生涯の目標として文学を選ぶことになる。

そのころ、露土戦争が勃発しガルシンは念願かなって志願兵として従軍する。ガルシンはブルガリア戦争にて前後二回、トルコ軍との先頭に参加して勇戦奮闘した。彼の隊の中の傷兵に四日間足を怪我して身動きできぬまま、水も食料もなしに、累々たる死骸の山のなかで生きていたものがいた。彼の体験談を作品にしたものがガルシンの処女作「四日間」である。処女作「四日間」は人民派の雑誌に発表されて異常な評判を博し、鬼才ガルシンの文名は広く世に知られるに至った。戦争を離れて、ここに作家として立つべき決意を固めてペテルブルグに上京し、創作に専念することになる。年齢わずか二二歳の時の事である。
 

この頃からガルシンの狂疾ぶりが目立つようになり、作家仲間達からも唖然とされながらもガルシンの興奮状態と煩悩は続き、ついに全くの発狂状態となってペテルブルグを去り、田舎をふらふらと旅したりしている。

結局家族に捜索発見されて精神病院に収容されることになる。

「赤い花」はこの精神病院に入院中の自己の体験に悪の華のテーマを織り込んだものであるが、この衝撃がいかに烈しかったかは、その後、平常に復するまで二年という歳月を要したことからもうかがえる。
 

一八八三年ガルシンは女子医学生ナジェ−ジダ・ゾロチーロワなる婦人と結婚している。彼女とは一八七八年に彼が退役願を受けに病院を訪れた際に知り合っている。結婚後ガルシンは鉄道会議秘書という収入の多い閑職を得て、従来、寡作のため絶えなかったこの方面からの心労からも逃れることができた。こうして今や人生の好伴侶と経済的な安定を同時に得たこの時期は少なくとも表面的には彼の短い人生の中でもっとも安隠な時期であったといえよう。

しかし狂疾の頻繁な発作はこの間においても決して安堵できるものではなかった。

すでに文学なしに生きることを余儀なくされていた彼は、その病み尖った神経と魂をいよいよ磨りへらしつつ、自信の言葉をかりれば「一字一字に血の一滴ずつを吸い取られながら」書き続けた。そこには既に己の余生の長くないことを直感したと思われるほどの慌ただしささえ感じられる。
 
 

発狂前の恐怖は従来にもましていよいよ耐え難く、発作も次第に頻繁の度を超えてきた。彼自身も己が心身の疲弊を悟り、回復の希望を持ってコーカサスへの転地療養を思い立ちその支度をはじめていたが、その出発当日の朝、四階の階段上り口にでた彼は、少し降りかけると、何を思ったのかとっさに身を躍らせて飛び降りてしまった。

すぐに病院に運ばれて一命はとりとめたものの脚を傷め、結局この脚部の傷が致命傷となり、五日後に三三歳の若さでその苦悩の生涯を終えることとなる。
 
 

ガルシンが亡くなるとすぐにチェーホフが「発作」という作品を執筆して寄稿した。チェーホフの作品中に納められているガルシンへの讃辞ともとれる「才能にも、作家としてのもの、舞台人としてものも、画家としてのものなどいろいろあるが、彼のは一種独特の、人間としての才能だった。彼はひろく苦痛というものに対して繊細な、素晴らしい感受性をもっているのだ」という文章を残している。
 
 
 
 
 

 
作品解説 (訳者あとがきより参照)

「四日間」ガルシンの戦争物におけるトルストイの影響については、多くの評論家の指摘するところである。事実「戦争と平和」のなかにも「四日間」と同じく、アンドレイ公爵が戦場で負傷して、碧い空を眺め、同じく物思いに耽る場面がある。

ある書評家の比較をあげてみると

「アンドレイ公爵が神秘的なはるかな紺碧の色に陶然とし、地上の一切を忘れて、この静かな永遠の神秘に呑まれ、その息のある間この永遠の問題の解決にいよいよ自分が近づいていくのを感じるのに対し、「四日間」の主人公は空は単なる自然界の一現象にすぎず、気の間にちらつく一片の青さでしかない。そして彼の思いは遙かなる天井ではなく、自分の殺した男の倒れている場所を中心とした小世界に向けられている。即ち、永遠の神秘に向けられる代わりに、何のために自分がこの男を殺したのか?という問題の究明に向けられている。」
 
 

「臆病者」

これは一八七八年から七九年の冬にかけて書かれたもので、この頃の彼は前年の冬ほどに元気がなく憂鬱症に悩まされ、多くの戦友を失った事で落ち込んでいる。この作の主人公「臆病者」は割り切れぬ矛盾を抱いたままで戦場に引っ張られついに亡びてしまうが、ガルシン自身はこの問題、即ち戦争に一つの妥協を見出している。彼にこの妥協をなさしめたものは、人民であり、本質的に無反省な行動をとる彼らの運命であった。ガルシンはこの人民の盲目的な審判の中に一つの、神秘的とも言うべき真理を見出した。と同時にこの人民の盲目的な流れの中に身を浸している間は、自身の個人的な責任感が消えてしまうことに安易さを感じている。個人的な烈しい責任感こそ、ガルシンの思想を根本となしていたからこそ軍隊にはいると彼はたちまち、平静な精神的明朗さを経験することができた。
 
 

「邂逅」

これも「臆病者」と同時期の作。退屈なまでに品行方正な中学教師と、破廉恥な、しかもあけすけな地方技師との「邂逅」に取材したこの作品はガルシン精神のある主観的な、しかし非常に遠い間接の響きを示している。

品行方正な中学教師は旧友の、新しいどん欲な世界観を頭では否定しながらも、自己と己に敵対する主義との間に一線を画し得る程の烈しい憤怒は燃え上がらない。この心理的な中立状態を客観化することによって、ガルシンは二つの対立する世界に挟まれた彼自身の位置を多少は描いたのかもしれない。
 
 

「従卒と士官」

これはガルシンには珍しくユーモアを携えている作品である。作の構成上にも、いつもの彼の痛々しく傷ついた頭脳を忘れさせるようなゆとりのある手堅さが感じられる。この頃の彼はやや誇大妄想的なところが見えていて、大長編を書くと吹聴したり、今までの自分の作品を「人生の苦悩」という表題で出版しようとしたりしている。この「従卒と士官」も戦争への抗議たるべき大作として書き出されているが狂疾のためついに果たされずにしまったものであるといわれている。
 
 

「がま蛙とばらの花」

極度の過敏症と烈しい狂疾という宿命的な苦悩の中での執筆が彼の場合、いかにも多大な精神力の緊張と消耗を結果している。そういった緊張と消耗から彼の精神は、牧歌的、抒情的なものへの憩いを求めさせ、ここに異常にとぎすまされた道徳的敏感さや良心の苦悶などを忘れ去ったかのような一連の童話形式の作品を生むに至っている。寂しい美しさとでもいうか、静かな透きとおるような象徴美が謳われている。
 
 

「赤い花」

これは伝記にも明らかなように、彼が再度の強烈な狂疾発作の後、精神病院に入院させられた時の体験に「悪」に対する反抗・呪詛・それに自己犠牲を象徴したもので、「四日間」とともに彼の短編の双璧として表されているものである。有名な精神病医もこの精神的危機の芸術的結実をもって、病気自体を正確に描写している点でまさに古典である、と言っている。作者が物悲しい微笑の裡にわれわれに語るこの悪の華との闘争は、もちろん一片のイリュージョンにしかすぎないが、この幻想の周囲に人間精神の高い美しさをはっきりと示す、犠牲とヒロイズムの精神的悲劇が色濃く展開されている点は見逃すことができない。なお作者がこの異常な世界を描くにあたって、抒情的な昂揚と病的な効果とを区切る限界を手堅く守っていることも強調されねばならない点であろう。
 
 

「信号」

この短編には八〇年代にあいついで発表されたトルストイの民話の影響が明らかに看取される。しかしガルシンの場合は簡素な表現の中に素朴な基本道徳をもろうとすることは、痼疾によってすでに創作力に著しい衰退をきたしていた作家の痛ましい自然の手段であった。この作品の中で彼が生涯抱いてきた犠牲への情熱をなお燃やし続けているのは、この信条が彼にとっていかに大きな意義をもっていたかを示すものであろう。