3歳頃(ヒ−ロ−はウルトラマンだった) と 20歳前(ヒ−ロ−はレノンとハミルだった)


Cirkus-Crimsオヤジ(?)の追憶
完全版(?!)

顰蹙を顧みずここに告白するならば

“私にとってプログレとはクリムゾンであり
 クリムゾンこそがプログレなのである。”


 プログレすなわちクリムゾンとの邂逅からお話しよう。
                   
時は70年代末、
邦楽はニューミュージック全盛期。
(恥ずかしながら中学2年で始めたバンドは(アリス+オフコース)÷甲斐バンドだった)
で、当時のミュージシャンの多くがフェイバリットとして挙げていたのが
Beatles(チューリップなんてモロそうでしょ)やS&Gだった。
そこを入り口に洋楽を聴きまくる。


『邂逅』

ある日、Beatlesをチャートから引きずり落としたバンドの存在を知る。
その名はキング・クリムゾン。
『宮殿』という名のアルバム。
が、その時はその名前は
意識下に刻み込まれただけだった。
数週間後
レコード屋に出かけた私は
ある衝撃的なジャケット画を目にする。
『キング・クリムゾン/クリムゾン・キングの宮殿』

「おまえはこれを買う運命だ!」
意識下に棲みついたモノが囁く。

針を落とす。
恐る恐る音量を上げる。
『何だ?ん!』
(感嘆符が死ぬほど付くことは言うまでもないが誌面の都合でここは割愛)
衝撃などという単純な言葉では表現できない。
私は『21世紀の精神異常者』によって洗礼を授けられた。
(でも、
正直に告白すると
当時
"I TALK TO THE WIND"は"FOOL ON THE HILL"の延長の様に感じられたし、
"MOONCHILD"の間奏部分(笑)は退屈に思えた
のだが...)


『邂逅のあとの蜜月』

 高校進学とともに資金力が豊富となりクリムゾンとその周辺の音源を買いまくる。
ここで70年代クリムゾン追体験を無事修了。
そこに飛び込んできた大ニュース。
クリムゾンの再結成と来日。
大学見学というもっともな理由をつけて東京公演へ。
この80年代クリムゾンは評判が悪かったが、
ジョンの死を克服したい当時の私には、
叙情性を中途半端に携えて復活されるよりも、
こっちの方が全然良かった。
2本のギター(というより3本の弦楽器)が紡ぎ出す音宇宙は素晴しかった。
クリムゾン周辺の音源収集の日々は続く...。
高2で始めたバンドは
もしもミューアとティペットが共演していたらこんなクリムゾンかな?
というギター+ベース+ピアノ+パーカッションという4人編成
(すぐにベースが抜けて3人になった。...3人になるのはプログレのお約束だ...笑)
で、実際にはかなりジャズぽかったけど...。
無事、大学に現役で合格。
東京に出てきてまず驚いたのは朝が早いこと。
そして地震が多いこと。
嬉しかったのはプログレを扱っているレコード屋がたくさんあったこと。
私のアトリエ(兼アパート)は瞬く間に画材と画集と音盤に埋め尽くされる。
世間的にはプログレは白い目で見られていた(?)かもしれないが、
うちの大学では結構人気があったことを是非書き留めておこう。
パンクやニューウェ−ヴと人気を分け合っていた。


Cirkus-Crims 20歳の肖像


『蜜月のあとの別離』

 クリムゾンの再来日。
そして初めて実体験するクリムゾンの活動停止。
時代は84年。
ボウイは時代に追いつかれ(『時代はボウイに追いついた』が当時のコピー)、
PHは"LOVE SONGS"で過去のキャリアを振り返り、
PGは前年に"PLAYS LIVE"をリリースするも何の音沙汰もなく...。
ENOはすっかりロック・ミュージシャンではなくなり...。
私がプログレを捨てたのではなく、
プログレが時代(もちろん私も)を捨てたのだ。
この時期、カンタベリー及びジャーマン系の追体験が進行。
(よって別離ではなく付かづ離れず)
また同時代の音として、
L.アンダーソン、T.ドルビー、PIL、サイキックTV、E.ノイバウテンなどにも寄り道。
大学に入って初めて結成したバンドは
私以外、芸大音楽学部というとんでもないバンドだった
(続いていたなら
私の役所は詩を書いて演出を担当するローディーになっていたかもしれない)
が、クリムゾンの解散を追いかけるようにして解散。
その後は生ピアノ+ギターシンセ、
生ドラム+詩の絶叫、
Eベース+詩の朗読+舞踏、
生ピアノ+舞踏など、
様々なユニットでライヴを敢行。
プログレから若干遠ざかる。
しかし85年にはPHの"The Margin"(但し録音は83)が発売され
一気にプログレの本流に引き戻される。
(いつの日か必ずクリムゾンが復活すると信じて...
この年に出た"God Save The King"にはFripp自身の言葉で
"...following a three-year retreat from the music industry.
...I went into retreat, to allow the future to present itself."とあった。
私はこれを楽観的に捉えた)
この頃からカタログのCD化が進行。
86年にはKC"Compact King Crimson"
Bruford"Master Strokes"等の企画モノが登場。
Brufordカルテットの来日。
そして何といっても"So"の大ヒットを引っさげてPGが復活。
ところが別離はやはり突然やってくる。
最初の放浪。
プログレだけでなくロックを聴かない日々が続く。
(放浪のあと、就職。
時代はバブル絶頂期。ボーナス12ヶ月という高待遇。
おかげで所有LPのCD化は順調に進んだが、新しく聴きたい音に巡り合えない日々。
そしてまた異様なまでのプレッシャーに追われる日々。
結局センデロ氏同様円満退社(笑)。
再びヨーロッパへ)


ミュージック・クリップ "la vie avec Marie" より(左)
東京都美術館でのライヴ(右)


『不在の恋人たち』

 フリップの言葉を信じるなら
クリムゾンが再始動してもおかしくないはずの89年。
私はウィーンにいた。
昭和崩御(カイザー・ヒロヒトが死んだと報じられていた)。
そしてハプスブルグ最後の皇后の死。
時代が変わるってことを肌で感じていた。
天安門事件。
中国大使館まで皆で抗議に行った。
政治的東欧の消失。
東欧という語はただ単に地理的概念だけを表わす言葉へと変わった。
本業の傍ら、街角の吟遊詩人を演じる日々。
音楽からは離れなかったけど、
この時期プログレからは遠かった。
この年聴いたおそらく唯一のプログレは"A.B.W.H"だった。
(BrufordとLevinが参加していたことが購入の理由。
8人編成YESへの布石だなんて、これっぽっちも思わなかった)


『再度の邂逅』

 91年「紅伝説」の年。
8人編成のYESのニュースが伝わる。
友人と6月(だったと記憶している)のチューリッヒとブダペスト公演に行く。
92年「グレート・ディシーヴァー」の年。
一時帰国。
旧友と2月(だったと記憶している)の東京公演へ。
3月Silvian&Fripp東京公演。
夏が終わるまで日本にいた。
9月再結成ELP来日。
10月10日(これは友人の誕生日だったので覚えている)ELPウィーン公演。
確か中1日挟んでチューリッヒ公演。
徐々にプログレへと回帰。
同時に「クリムゾンはまだか?」の思いが募る。
93年、帰国。
クリムゾン再始動はまだだったが、
"The First Day"を引っさげSilvian&Fripp再来日。
アルバムのチラシにはFripp, Gunn, Marottaの3人に
(from King Crimson)という記載があったので、
期待は最高潮に。
この来日公演でドラムはMastelottoだったのだから
Wトリオの片割れを体験していた訳だ。
そして94年ついに"VROOOM"で90年代クリムゾン登場。
完全なるプログレ回帰。
以降、私はプログレとの別離を経験していない。


あーあ、こんなに太っちゃって。すっかりオヤジだぁ〜。

『追記:プログレオヤジとの邂逅』

 98年、PFが好きなパートナーと
「小さいながらも活動的で独立した」アートディレクションカンパニーを発足。
その名もPink Crimson.com(ピンク・クリムゾン・ドット・コム)。
99年そのホームページを開設。
その際、
趣味でクリムゾンを中心としたプログレリンク集をコンテンツに加えることにした。
検索をかけて情報を絞り込み
選び抜いたサイトのひとつがAbe氏のページ。
相互リンクをさせて頂く。
夏、このプログレリンク集からクリムゾンの項目が独立。
独立を機会にプログレリンク集とともにGeoCitiesへ引っ越し。
BBSを設置。
BBSの設置を機会に
Abe氏のページで名前だけは知っていた「プログレオヤジ」に接触。
皆、いい人たちで良かった。
仲間にして頂く。
今日に至る。



この『Cirkus-Crimsオヤジ(?)の追憶』は
『プログレオヤジ同盟』の『オヤジ達の追憶』に収録されている手記の
増補改訂版(笑)です。



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