<falco> banner by (c)Melochan Ltd.

Falco painted by Melochan Ltd.

this page created on 27 April 1999
this page updated on 07 August 2000

 


What's New

2000年8月7日

ディスコグラフィーに2作追加。その他、マイナーチェンジ。

2000年5月7日

ディスコグラフィーに1999年にリリースされた作品を追加。その他、バイオグラフィー等をマイナーチェンジ。

2000年3月28日 

大幅にリニューアル。画像を追加。バイオグラフィーをはじめ、すべての項目を修正、加筆。ディスコグラフィーに作品とレビューを数点追加。


★発作的に・・・

このページを作りたくなってしまいました。普段はテクノ以外のジャーマン・ポップはあまり(というかほとんど)聴かないのですが、このファルコという人にはちょっと思い入れがあって。80年代に洋楽を聴いていた人は、きっとみなさんご存知でしょうが、1986年にアメリカでアカデミー賞を取ったミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」、天才音楽家モーツァルトの生涯を描いたものですが、ちょうど同じ時期にこのアマデウスという名前を冠した「ロック・ミー・アマデウス」で全米No.1を獲得したオーストリア人シンガーがこのファルコなんです。98年に交通事故で亡くなってしまいましたが、本国のオーストリアでは死後もアルバムがチャートインし続けるなど、彼の人気は衰えることなく、彼のことを取り扱ったサイトは今でも増えつづけていて、ファルコがいかにオーストリアの人々の心を掴んでいたかがよくわかります。

80年代の初めに「デア・コミッサー」という曲が日本でも紹介されました。私が初めて聴いたファルコの曲です。ドイツ語のラップが新鮮で強烈に耳に残っていたんですが、歌っている人のことは知りませんでした。ファルコの存在が忘れられなくなったのは、やはり「ロック・ミー・アマデウス」のヒット以来です。ドイツ語と英語の混ざり合った歌詞、オーケストラ調のサウンドとドラムビートの融合、高揚感のあるサビの部分のメロディー。時に奇声を発しながらもクールに歌うファルコの姿はセンセーショナルでした。

40年の短い生涯を終えたファルコへの追悼と感謝の意味もこめて、彼の活動の軌跡を振り返ってみることにします。

 


★オーストリアン・ポップスターの生涯

1957年2月19日、オーストリアの首都ウィーンにて誕生。本名ヨハン・ホルツェル(愛称ハンス)。幼少からピアノを習う。9歳の時に両親が離婚し、彼は母方に引き取られ、主に祖母が彼の面倒を見ていたらしい。10歳にしてすでにタバコを吸い始める。16歳で学校を卒業。その後、様々な職につく。兵役に就いていた間にベースギターを修得。除隊後、ジャズ・ミュージシャンを志し、ウィーン音楽学校で6ヶ月間のコースを受講。プロのベーシストとしての活動を開始した。しかし、ウィーンでのライブ活動に飽き足りず、西ベルリンのミュージックシーンにも加わるようになり、77年ごろからは、西ドイツのスキーヤー、ファルコ・ワイスフログから名前を借りて、<Falco>と名乗るようになった。

パンク音楽全盛だったこの頃、ファルコはニューウェーブの旗手デヴィッド・ボウイやブライアン・イーノ、<ノイエ・ドイッチェ・ウェレ>と呼ばれた西ドイツで初のラップサウンドに影響を受けた。ウィーンに戻ったファルコは<Drahdiwaberl>(The Spinning Wheel)というバンドを結成。ベーシストとしてロックシアターなどで活動を続けた。この頃、彼がソロで歌った「Ganz Wien」という歌がウィーンのニューウェーヴ・ミュージックシーンで人気を呼び、ファルコとメンバーは当時オーストリアで唯一のレコードレーベルだった<Gig>と契約を結んだ。

82年、Gigの社長マルクス・シュピーゲルが連れてきた有能なプロデューサーで作曲家のロバート・ポンジャーの援護で、ファルコはA&M Recordsよりソロデビューを果たした。そして、ポンジャーとファルコの共作であるデビューシングルの「デア・コミッサー」(Der Kommissar)がヨーロッパを始め、世界各国で700万枚のセールスを記録するヒットになった。そしてポンジャーがプロデュースしたアルバム『Einzelhaft』(邦題『デア・コミッサー』)も商業的に成功した。

84年、2作目のアルバム『Junge Roemer』("Young Romans"邦題『ユンゲ・ローマー』)は高い評価を受けたが、前作を凌ぐヒットにはならなかった。

ロバート・ポンジャーのもとを離れたファルコは、オランダ人プロデューサー、ボ―ランド兄弟と新作のレコーディングに入った。

そうして85年、『Falco 3』(邦題『ロック・ミー・アマデウス』)が誕生する。まずヒットしたのは、ファーストシングルの「Jeanny」「ジニー」)。美しいバラードのこの曲は歌詞に問題ありとヨーロッパのラジオ局で相次いで放送禁止になった歌なのだが、にもかかわらず旧西ドイツで9週間連続ナンバー・ワンとなった曲である。

「Rock Me Amadeus」「ロック・ミー・アマデウス」)は発売と同時にオーストリアでNo.1になり、アルバム『Falco 3』、続くシングルの「Vienna calling」「ウィーン・コーリング」)、もオーストリアを始めヨーロッパ各地でヒットした。そして、86年の3月、アメリカでもリリースされた「アマデウス」は全米チャートで4週間連続トップを独走した。英語圏以外の出身アーティストによる外国語の歌が全米チャートで1位になったのは坂本九以来、史上2人目である。アルバム『Falco 3』も全米チャートで3位にランクされた。また、同年、WEA移籍後に発表された4作目のアルバム『Emotional』(「エモーショナル」)のリリースに伴い、ワールドツアーも行われた。86年12月にはツアーのために初来日を果たした。

87年、音楽活動に至っては、シルベスター・スタローンの元妻でスウェーデン人のモデル、ブリジット・ニールセンとデュエットでシングル「Body Next To Body」(アルバム未収録)を発表。

88年にはアルバム『Wiener Blut』(邦題『ウィーナー・ブラッド』)、90年には再びロバート・ポンジャーとのコンビによる『Data De Groove』(邦題『データ・デ・グルーヴ』)がリリースされたが、いずれもヒットにはつながらなかった。また、この頃、4歳年下の妻イザベラと離婚、2人の間に誕生した娘カタリナは妻の元に引き取られた。のちのインタビューでファルコは「自分は家庭向きではない人間だと思った」と告白している。また、離婚の原因はカタリナが自分の本当の娘ではなかったという、衝撃的な事実が引き金になったとも伝えられた。

92年、アルバム『Nachtflug』(日本未発売)リリース。オーストリアン・チャートで2週間トップにランクされ、シングル「Titanic」も18週間トップ40にランクインし続けた。93年、久々にツアーを開催。

しばらく充電期間に入ったファルコだが、彼は無類の車好きとしてすでに有名で、休みの間もラリーに出場したり、F1などのレースのパドックにしばしば出現していた。

96年、ファルコはウィーンにあった彼のペントハウスを引き払い、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴに移り住む。彼は数年来、アルコール依存症に悩まされていたらしく、その治療のために、ヨーロッパを離れて、ドミニカでの静かな生活を選んだのである。

同年、T>>MA名義でシングル「Mutter,der Mann mit dem Koks ist da」がオーストリアン・チャートでトップ3を獲得。翌年には続くシングル「Naked」も最高4位につけた。これが彼の生涯で最後のシングルヒットとなった。

97年12月18日、元F1ドライバー、ニキ・ラウダが社長を務めるラウダ航空のクリスマス・パーティーにゲストとして出演。1時間のライブを行った。これが彼の最後のライブとなった。

そして、98年2月6日。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ。プエルト・プラタのハイウェイにて、50シーターの大型バスがファルコの運転するジープ(*注)に衝突。頭部に激しい損傷を負ったファルコは、プエルト・プラタ病院に運ばれたが、意識が戻ることなく息を引き取った。享年40歳。ニューアルバムの制作を終えて、ヴァカンスを楽しんでいたところだった。(*注:新聞発表ではジープとなっているが、彼の愛車は当時、三菱パジェロだった。また、事故現場の写真を見る限り、車種はパジェロだったと推測される。)

故国オーストリアに戻った彼の遺体は、最愛の母親に見守られ、墓地に埋葬された。生前に録音された新作『Out of the dark』は2月27日に当初の予定通り発売されたが、追悼盤という形になってしまった。(詳しいディスコグラフィーを見る。)

7月、ラウダ航空のニキ・ラウダ社長は、親しかった友人の死に伴い、最新機種のB737−800に”FALCO”の名を冠することを表明。初フライトのセレモニーにはファルコの母親も出席した。

 


Live in Japan

~Falco Japan Tour 1986~

12月2日 大阪フェスティバル・ホール
12月3日 福岡サンパレス・ホール
12月5日 名古屋公会堂
12月6日 東京NHKホール
12月7日 東京NHKホール

招聘 ウドー音楽事務所
協力 ワーナー・パイオニア

Musicians :
FALCO : vocals
PETER
 VIEHWEGER : guitar
JOCELYN SMITH : vocals
ANKE WENDLAND : vocals
ROBERT PISTRACHER : bass
OTHMAR KLEIN : sax
JOHANNES RABITSCH : trumpet
THOMAS RABITSCH : keyboards
WOLFGANG BREZINER : keyboards
HELMUT BIBL : guitar
CURT CRESS : drums

演奏曲目(東京公演):
1.Kamikaze Cappa / 2.Sound of Musik / 3.The Star of Moon and Sun / 4.Junge Roemer / 5.Manner des Westens / 6.Cowboyz and Indianz / 7.Auf der Flucht / 8.The Kiss of Kathleen Turner / 9.Jeanny / 10.Crime Time / 11.Les Nouveaux Riches / 12.Hoch Wie Nie / 13.Munich Girls / 14.Emotional / 15.Coming Home / 16.Der Kommissar / 17.Vienna Calling <Encore> 18.Helden von Heute / 19.It's All Over Now,Baby Blue / 20.Rock me Amadeus

86年のファルコの来日公演、実は私は観に行っているのです(ちなみに私が観たのは福岡公演)。しかも、会場の入りがいまひとつだったので、前の方の結構いい席で観る事ができました。もう、昔の話なので、当時の覚え書きや、来日当時の資料の助けを借りながら記憶を辿ってみることにします。

ライブを通して見ての印象は、とにかくスタイリッシュでうまいなあ、ということ。「Kamikaze Cappa」でライブが始まるっていうのも、予想を裏切られた感じでした。行く前は、まあ、ファルコはダンス・ミュージック系(そう決め付けてた。)だから、適当に歌って、演奏もカラオケかもねぇ、なんて甘く見ていたのが間違いだったようです。バンドのメンバーは彼がアマチュア時代からの付き合いだそうで、確かに指揮者ファルコとそのオーケストラって感じで、しっかりまとまっていて、安心して見ていられるパフォーマンスでした。でも、ヨーロッパ、アメリカとツアーで周ってきて、ちょっとお疲れだったのでしょうか。少し遅れて開演して、アンコールも1回だけだったので、とっても残念でした。東京公演の曲目リストとくらべても、曲数をちょっぴり減らしていたようです(聞くところによると、ファルコ様は相当な気分屋さんらしいのです。だから、体調がいまいちなのに加えて、この日はきっと、空席の目立つ会場に機嫌を損ねて早めに切り上げたに違いないわ!)。アルバム『Emotional』からの選曲がメインで、新しいアルバムを聴いていなかった人は、ノリが悪かったような気がしました(ファルコもきっと困惑したに違いない)。ちゃんと予習していった私は一緒に歌っちゃいました(といっても、ドイツ語なんてわかんないから、口パクパクさせてただけだったけどね)。でも、なんとかアンコールの「ロック・ミー・アマデウス」の頃には、会場の空気も盛りあがったけど、もっとお客さんが入ってもよさそうなくらい、いいライブだっただけに、とっても残念。

私のファルコ様ですが、やはり想像していた通り、カッコイイんだけど、どことなく怪しい雰囲気の漂う人でした。本当は神経質で(たぶん)繊細な性格をエキセントリックなパフォーマンス(大人しくしていれば、たぶん普通の人に見えるはずなのだけれど、動きや歌い方、そのキザな衣装も含めて、まるで正体不明!オーストリアン・ラッパーというのが当時の音楽シーンではすでにエキセントリックな存在だったのだが。)で覆い隠していたような気もします。曲の合い間にドイツ語で何か言ってたけど、ちんぷんかんぷん。

私自身も、ちょっと青すぎたみたいだし・・・。ファルコもバンドもお洒落で雰囲気よかったのですが、パフォーマーは客を選べないのだと、しみじみ思いました。彼らだって、ドイツ語圏でのライブの方が数段ノリがよく、やりやすいに決まってるのですから。彼らにとって、この日本ツアーはひとつの冒険だったはずで、本国でも日本ツアーの様子は話題になったらしいです。例えば、フィル・コリンズみたいに、日本語のカンペ持参で極東のオーディエンスに馴染もうとする手段もあったのでしょうが、ファルコは敢えて、自分のスタイルをそのまま日本の聴衆にぶつけてきたわけです。そんな、媚びないファルコ、上っ面だけの日本びいきな奴より、私はずっと好きです。アンコールでは通訳の人も一緒に出てきて、ファルコのドイツ語を日本語に訳していました。でも、何話してたか忘れたけど。(笑)

それから、「ミュージック・ライフ」誌87年2月号掲載のライブのレビューを読んでいて思い出したのですが、ファルコは白のスーツにサングラス、赤シャツ、帽子姿で、アンコールの「ロック・ミー・アマデウス」では確か紺色の王子様風の衣装を着ていたと思います。もう、アンコールはこの曲しかないとわかっていたから、客席は総立ち、待ってました状態。

何せよ、ウィーン少年合唱団(笑)などクラシック系を除いては、私の初めての外タレ(死語!)のライブがファルコだったのですから、もう、ライブの夜は興奮状態で眠れませんでした。


Discography(ファルコの詳細なディスコグラフィーを見る!)

Coming soon!!!<<Falco Archives>>


 

このページについてのご意見・お問い合わせはmelochan@geocities.co.jpまでお願いします♪

Any suggestion? Please contact melochan@geocities.co.jp . Thanks!

 

falco banner

 

Artworks by Melochan Ltd., except CD covers' photos & designs.

MeloMeloホームへ

 

00/08/07