あの人は今!

プリズム

カナダからの手紙?

これは音楽雑誌に紹介されたときの写真です

 

「あのどこ」の掲示板で「プリズム」ってバンドを知ってる人に会ったことが無い、という書き込みをしていただきました。何を隠そう私も国産バンドのプリズムしか知りませんでした。で、知らないままじゃ気持悪かろう(誰が?)、というので、突如アップ決定!

さ、プリズムを知らない皆さん、いっしょにお勉強しましょう(笑)。


プリズム起源は70年代の初めに遡る。ジム・ヴァランスとブルース・フェアベイルンは、ブリティッシュコロンビア大学での音楽の授業で出会った。彼らはいっしょに音楽活動をすることを決め、サンシャインというプロジェクトをスタートさせた。このバンドは当初、ホーン系バンドのスタンダードやハイブローなジャズやファンク、それにジャズの味付けをしたオリジナル曲などを演奏していた。サンシャインとして知られるようになる一方、フェアベイルンは、街頭コンサートを行う政府の許可を得、ストリートバンドとして公園や市の通りでも演奏を行った。ジムさん。比較的最近の顔だね

ジムおじさん。最近の写真でしょうか。


数年の後、彼らはバンクーバーではちょっとした存在になり、また多くのスタジオワークをも行うようになる。地元業界でヴァランスは、コマーシャルソングのライターとしてまたアレンジャーとしても名を知られるようになった。結局のところサンシャインは解散した。フェアベイルンとヴァランスは、ローカルバンド、シーズオブタイムのギタリスト、リンゼイ・ミッチェルにコンタクトした。彼は新しいプロジェクトでいっしょに働くことに賛同した。彼はトム・ラヴィンを連れてきて、他のローカルバンドのロン・タバクを二人に推薦した。

フェアベイルンは、メンバーをスタジオに連れて行き、ヴァランスの曲を数曲収録した。彼らは自分たちをアンダー・コンストラクションと名づけた。そして、しばらくの間、その町周辺で過ごす(そしてヴァランスは、友人や家族に彼がポップグループで演奏しているのを知られないようにするために、自分のステージネームをロドニー・ヒッグスと変えた)。その後名前をプリズムと変え、再びスタジオへと戻る。このとき彼らはヴァランスとフェアベイルンがプロデュースした7曲をレコーディング。フェアベイルンは、ブルース・アレンを得、マネージメントを行わせるようにした。二人は積極的な売り込みの結果、76年に、カナダのGRTキャピタルレコード、及びアメリカではアリオラ/キャピタルと契約を交わすことに成功した。この出来事は、その当時、それまでのカナダにおける音楽シーンでもっとも成功した事件であった。プリズムは北アメリカの西海岸でしばらく滞在してファーストアルバムを収録。このときラヴィンはバンドを脱退。ジョン・ホールとアル・ハーロゥが合流し、ライブ活動同様スタジオワークを続けた。ヴァランスは最終的にはこのときにバンド離脱を表明する。彼はツアー活動が好きではなかったのだ。そしてロケット・ノートンが参加。しかしながら、ヴァランスは、結局はドラム、ベース、キーボード、ギターをファーストアルバム用の最終セッションで演奏するハメとなる。

prismalbum-prism.gif (12977 バイト)デビューアルバム


彼らのデビューアルバムは77年にリリースされ、即座にカナダでヒット。ファーストシングル「スペースシップ・スーパースター」は、カナダではビッグヒットとなり、バンドはカナダツアーを開始、予想以上にストロングなライブを行うバンドとしての評判を得る。このときまでにアルバムはリリースされたけれども、ヴァランスはバンドを正式に脱退、理由は他のメンバーたちと創造性の違い、ビジネスに関する考え方の違いによるものだった。彼らのセカンドアルバムの中の2曲は明らかにヴァランスの手によるものだが、彼の許可を得てはいないようだ。しかし、彼はそのことを特に訴えるわけでもなかった。それどころか、彼は当時新人であったソングライティングのパートナー、ブライアンアダムズとともに、その後数年に渡ってバンドに曲を提供しつづけるのである。

言うことなす
ご存知アダムズさん。


その後の3年間に渡って、プリズムは年に一枚のペースでアルバムをリリースし続け、カナダ国内を広範囲に渡ってツアー活動を行う。彼らの祖国での人気はアルバムを出すごとに上昇していったが、コンスタントに活動し続けることによる代償もまた小さなものではなかった。今でこそストレス、精神疲労、として知られているが、まだその当時はそういった固まった名称も定義づけのようなものもなかったその病により、グループ内ではタバクとのいさかいが絶えなかった。彼は言語障害のため、性格的にシャイだった。また、彼は曲作りにも参加していなかった。彼はまた法律に関するトラブルも抱えていた。最終的には、81年、トロントでのダンフォース・ミュージックホールで行われた一連のコンサートの後、グループの残りのメンバーは彼を解雇することを決め、アレンはシンガーとして、ヘンリー・スモール(元スモールワンダー、スクラバローケイン)をシンガーとして連れてきたのだった。

タバク君、神経質そうな顔だわ

当時のメンバー。一番上が仲違いしちゃったタバク君



とほとんど同時に問題は発生した。スモールは、プリズムの向かう方向性に関して、自分のビジョンを持っていたのだ。しかしそのビジョンは他のメンバーとは噛み合わないものだった。81年のアルバム「スモール・チェンジ」の収録の最中、バンドメンバーは一斉にバンドを去ってしまった。アルバムのプロモーションツアーの最後まで残っていたメンバーはノートンだけだった。プリズムはオリジナルのものとしては83年にもう1枚レコーディングし、そして分裂してしまう。メンバーはそれぞれ自分の道を歩んでいった。ノートンは自分のバンドをバンクーバーのテレビ局、CKVU局に所属させ、番組の為に曲作りをし、スペシャル番組をプロデュースし、週末にはバンドの演奏を行った。ハーロゥはカピラノ短大で現代音楽の講師となる他、86年の万博用にR&Bのハウスバンドに参加する。ミッチェルはシンガー、ビリー・カウジルと地元のローカルバンドに参加したり、テレビ局の番組制作にも加わった。タバクとホールもまたローカルバンドを結成、しばらくの間バンクーバーで活動を続けていた、84年にプリズム再結成についての話し合いが行われるときまで。しかしながら、タバクがバイク事故を起こし、留置場で脳出血の為、息を引き取るとこの話はあっけなく幕を閉じてしまった。この時点では、プリズム再結成に執着し続けることは苦味が残るだろうと思い、他のメンバーは再結成のアイデアを棄却してしまったのである。

スモールくんがスモールにチェンジしちゃった?
問題のアルバム、「スモール・チェンジ」



そういった状態がしばらく続いたが、87年、偶然が重なり、バンドは再びいっしょになるのである。ハーロゥは相変わらず自分たちの昔の曲がラジオから流れてくるのを聴き続けており、そしてその曲をどう思うか自分たちの生徒に尋ねていた。ノートンとミッチェルは同じエリアでリトルリーグのチームのマネージメントをしていた。彼らは再び話し始め、その数週間後、3人はもう一度プリズム再結成の可能性について議論を開始する。このアイデアはガードされていたし、またリードシンガーがいないという状況ではあったが、そういった諸問題は数週間後に解決するものと思われた。というのも、ミッチェルはたまたまバンクーバーのローカルクラブでサイモンカオスというローカルバンドが自分たちの昔のヒット曲「スペースシップ・スーパースター」を演奏しているのを見つけたのだ。ミッチェルはそのバンドのリードシンガー、ダーシィ・デュエツに近づき、その晩彼にプリズムで歌わないかと持ちかけた。しかし、そのことに気づいたサイモンカオスは猛烈に抗議し、そのアイデアを退けてしまった。だが、デュエツ自身は彼らの反対行動には参加せず、ミッチェルのもとを訪ね、自分はカオスを辞めたことを説明し、キーボードプレイヤーのアンディ・ロリマーとともに、まだプリズムは自分を必要としているかどうか尋ねた。ダーシだしぃ


ダーシィくん。シンデレラボーイ、とまではいかないか


そうして彼らがプリズムに加わり、5人はスタジオ入りする。2曲をレコーディングし、キャピタルレコードよりリリースされる。一曲は「オーバー・シックスティ・ミニッツ・ウィズ」、もう一曲はヴァランス/アダムズの手による「グッド・トゥ・ビー・バック」であった。バンドは、88年から93年にかけて、主に西海岸でコンスタントにツアー活動を続けた。最終的には93年に新しいアルバム「ジェリチョ」がリリースされた。レビューは賛否両論であったが、バンドはさらに93年末から94年初めにかけてカナダ縦断ツアーを行った。「グッド・トゥ・ビー・バック」のプロモーションビデオを含め、そういった新しい材料を持ってエアープレイしたわけではなかったが、アルバムは、ヨーロッパの一部ではヒットし、グループは94年にさらにポジティブなレビューを得るべく、ヨーロッパツアーを画策したのであった。


フェアベイルンは、99年の5月17日、バンクーバーの自宅で亡くなっているのが発見された。アル・ハーロゥは、北バンクーバーのカピラノ短大で教鞭をとっている。ロケット・ノートンは、バンクーバーでコンサートプロモーターとなっている。最近ではナイロンズやナット・キング・コールをトリビュートしているデンジル・シンクレアのコンサートを手がけた。トム・ラヴィンはブルーウェーブ・レコーディングスタジオのオーナーだ。そしてジム・ヴァレンスはいまだプロデューサー・ライターとしての活動を続けており、カナダの作曲家協会による「ブルーバード・ノース」のショーケースのプレゼンテーションにおいてゲストパフォーマーを演じた。


2000年版プリズムもまた最近ヘリックスやザ・ヘッドピンらとともに西側の県でツアー活動を行った。


△〜!

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