「自覚」の立場

 意識が分裂状態から統一を回復して純粋経験を経験するには、見られる意識と見ている意識つまり対象と主観の対立を克服しなければならないのです。西田は京大に移ってからの43歳から47歳までの雑誌連載論文を『自覚に於ける直観と反省』(全集第2巻)と題して、1917年に岩波書店から出しました。
 意識は直観としては純粋経験です。つまり「主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである。現実そのままな、不断進行の意識」なのです。また反省は「この進行の外にたって、翻って之を見た意識」です。この両者が結合するのが「自覚」なんです。西田は純粋経験の立場から自覚の立場へ進んでいきます。
 純粋経験もこれを外から反省する意識も、それらを自分の意識として展開しているより根底的な実在としての「自覚」にとっては、自己の中に自己を映すこと、つまり「自己ー内ー写映」という形で受け止められます。直観も反省も自分の意識ですから、それは自己内に自己を映すことになるのです。それじゃあ、この猫や猫の蚤も自己なのかという疑問が生じますね。このリンゴやシャープペンシルも自己ということになってしまいますね。ええ、そうなんです。西田は意識を問題にしているのですから、猫も猫に関する意識でしかありません。猫についての意識が自己の意識経験に含まれているということなんです。
 自己を何か自己の身体と特別に結び付けて、自己の身体が自己の範囲だと見なし、自我や自身の身体のみを自己だとみなす身体主義的な捉え方を西田はとっていません。自己をノエマ的に事物みたいにあるとは考えないんです。自己を自己の意識経験の総体として捉えるのはパースと共通しています。ですから猫やシャープペンシルに関する意識を自己として捉えてもいいことになるでしょう。それで「自覚」とは、そういう個々の経験が反省的な思惟では、個々の猫やシャープペンシル等として認識されるけれど、それは自己が自己内に自己を写しているのだという自覚、つまり自己意識なのです。
 何か屁理屈で無理やり納得させられているような不快感を感じている人はいませんか?例えば自分の体から出てきた糞だとか、尿を、これもお前が生産したものだからお前の一部だと言われれば、いや、これは私にとっては異物だから体外に排出したんだと反論しますが、それでもどこか自分の成れの果てみたいな感慨があります。でも蚤や虱まで自分の感覚に意識されるからというだけで自己として認めさせられるのは、目茶苦茶な気もしますね。
 でもそういう反発は、意識の主体を個体としての自己にのみ置いて捉えているからなんです。たしかに意識が個の意識であるという面を持っていることは否定できません。人それぞれの意識を持っているわけですから。とはいえ意識には普遍性があります。これがリンゴだという規定ができるのは、同じ物に対して同じように意識するからです。つまり自然的に、あるいは類的に、そして社会的歴史的に、共通の意識が個体を媒介にして生産されているわけです。その場合の意識の主体は、個体であると同時に一般者でもあるわけです。個体の意識として一般者の意識が生み出されていると言った方が正確かもしれません。
 個体としての自己が自らの意志で意識統一するということは、その根底で一般者としての自己の意志が根源的な意識統一をしているということになるのです。もちろん西田によれば、一般者の意志が別にあって、それが意識しているのではありません。一般者の意志というのも意識経験の根源的な統一の働きそのものなんですから。ですから自覚とは、自己の様々な意識が自己の意志の現れとして、自己に意識として写っている意識なのです。
 ところで、すべての意識は統一的な意識であるという面を持っているので直観と言えるのでしたね。この統一する働きこそ意志であり、主観としての自己はそれをノエマ的に捉え返したものでした。ですから、すべての意識は自己ー内ー写映として自覚の働きであるということになり、自覚こそが直観と反省的な思惟の根源にある実在だということになるのです。

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