禅と絶対自由意志―慧能について

 禅は絶対自由を体得する行為です。大乗仏教では仏陀は解脱によってダルマ(法)と一体になります。そしてコスモスは法の顕現ですから、コスモス全体が法である仏陀の現れとして法身仏として捉えられます。例えば「一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」などの四法印はそのまま世界の姿です。そうしますと塵さえも仏の身体として光り輝くことになります。そこから生きとし生けるものは皆、仏であるという仏性を宿しているとされるわけです。もちろん我々一人一人も本来仏であるというわけです。そのことを覚れば、この世界こそが浄土であり、何物にも束縛されることのない絶対自由の境地に到達できるということなのです。
 では梅原猛の名著『仏教の思想上』(角川文庫)の「第三章 絶対自由の哲学」を素材にして、禅における絶対自由の立場を考察することにしましょう。
 まず禅の六祖慧能(638〜713)の『六祖壇経』からです。五祖弘忍に入門した時の話です。弘忍は慧能に「この山に来て私を礼拝しているが、お前は、今私の所に来て、何を求めているんだ」と聞きました。慧能の答えはこうです。「私は嶺南の出身で、新州の百姓です。今わざわざ遠くから来て和尚を礼拝しています。余計な物は要りません。ただ仏になる方法を求めています。」と慧能は応答しました。でも大師はとうとう慧能を責めてこう言いました。「お前は嶺南の出身だろう。それなら野蛮人だ、どうして仏になることができようか。」そこで慧能はこう言い返しました。「人には出身地に南北はありますが、仏性には南北なんてありません。どうせ野蛮人ということでは和尚とは違うでしょうが、仏性には何の差別がありましょうか。」
 これは仏教の絶対平等思想の一つ例ですが、何ものにもとらわれない絶対自由論との関連で捉えてください。仏性にとって家柄や身分は全く関係ないんです。ましてや出身地だとか、体格だとか、風貌だとか、そんなことはどうでもいいわけです。素のままの人間が仏性をもっているわけですから。人間を評価する外的なあるいは外見的なものに捕らわれて、仏になろうとする自由を否定してはならないのです。そういう外面的なものに捕らわれているから、仏に成れないのです。だって仏は法身仏としてはコスモス全体であり、素のままの人間がそのまま仏であるという本性を持っているのですから。
 仏教の根本にある「無我の真理」とは、諸々の事象には不変の本性は存在しないということだから、「一切衆生悉有仏性」という発想自体が、仏教に反しているのではないかという疑問を抱かれる方はいませんか。最近そういう仏教の原点に帰って、大乗仏教を根底的に批判する「批判仏教」の立場を打ち出して活躍しているのが、袴谷憲昭や松本史朗です。でも「仏性」というのは「諸法無我(諸々の法の現れとしての事物には恒常不変な本性は存在しない)」という真理を宿しているということなのです。ですから「一切衆生悉有仏性」とは諸物には恒常不変の実体は存在しないということに他ならないわけです。ですから仏性を恒常不変の実体である我(アートマン)と同一視する「批判仏教」派の本覚思想批判は、初歩的な的外れなのです。
 弘忍が禅の法を慧能に伝授する話があります。神秀という高弟が次のような偈を作りましたが、しかし弘忍はこれには免許皆伝は出しません。

 「身は菩提樹で、心は明鏡の台(うてな)ようだ。ときどき拭き払って、塵やゴミがつかないように勤めなさい。」

 五祖弘忍の批評はこうです。

「門の前まで来ているが、まだ入れてもらえないな。凡夫がこの偈によって修行すれば、堕落することはない。けれどこの考えでもし無上の菩提(悟りの境地)を求めるのなら、まだ得ることはできない。」

 慧能はこの話を聞いて作ったのが次の偈です。次の偈を五祖は門人の前では「まださとりを開いていない」と言いながら、夜中に慧能を呼んで、法を授け、袈裟を与えて、ひそかに逃がしたのです。とても他の門人たちには納得されないと思ったのでしょう。

 「菩提本と樹無し、明鏡また台無し。仏性常に清浄、何処にか塵埃有らん」(敦煌本)
 「菩提本と樹無し、明鏡また台に非ず。本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」(興福寺本)

 神秀の偈は「一切衆生悉有仏性(一切の生きとし生けるものはことごとく仏であるという本性を持っている)」という大乗仏教の大前提に立って、身は菩提樹のように清らかで、心も明鏡の台のように清浄だから、欲望などに囚われて仏性を見失わないように、常に身も心も磨いておかなければならないという趣旨です。「明鏡の台」というのは、心が鏡を置く台のようだというのではなくて、心が澄んだよく写る鏡になっている台のようだという意味でしょう。
 これに対して慧能の偈は、どちらの版を採るべきか問題があります。梅原は敦煌本を採りますが、両者を補完的捉えて解釈しますと、西田哲学に通じるところがあります。悟りの境地にある身に樹は無いし、悟りに達した心に台など無い、仏性というのはいつも清浄であって、本来何も持っていない、だからどこにも塵埃はついていない。だってそれは樹や台のように対象的に捉えられる事物ではないのだから、塵埃はつきようがないじゃないかと批判したのです。つまり仏性をノエマ的に捉えて、菩提樹や明鏡の台としてしまうと、ノエシス的に絶対自由意志の働きとして捉えられないということなのです。たしかに働きとしての絶対自由意志は、究極的には何物にも囚われないで、行為を決定するのです。
 梅原は慧能の思想を「我が法門は、無念を立てて宗となし、無相を体となし、無住を本となす。」という言葉にまとめています。梅原の表現では無念とは、「過去の思い出、現在の知覚、未来の期待や不安をすてよ。すべての心をすてて無心になるとき、われわれは、はじめてとらわれから自由になる」ということです。また無住とは「地位や、名誉や、女の中に、一切の存在するものの中に、心よ、住むなかれ」ということです。そして無相とは「うまさや、きれいさや、醜さや、にくさにとらわれるとき、わが心は煩悩によって染められる。そのような相のとらわれから離れるとき、わが心は汚れのない清い心になる」ということなのです。
 世界が法の現れで、それが意識経験として展開するのなら、様々な思いや姿や物こそが法の現れとして仏である筈ですね。ところが慧能は無念・無住・無相こそが解脱の方法だと説いているのです。それは凡夫は、大いなる生命としての一般者の意識経験の流れを、素直に自己自身の意識として受け入れることができません。個々の思いや姿に固着し、それへの執着から離れられないで、それらの奴隷になってしまい、煩悩に苦しめられるからです。思いに囚われるなということは、決して思いを抱くなということではありません。そして物に住むなということは、決して思い入れをしてはならないということではないのです。思い入れに固着してしまってはならないということなのです。
 法身仏は自己を一般者の意識経験の総体として表現しながら、個々の意識経験を諸行無常・諸法無我(すべての事象は変化し、法の現れとしてすべての物には滅びない実体はない)という形で否定しながら展開するわけです。そしてこの否定的な自己展開こそ自己の姿なのだとして肯定的に受け止めたときに、涅槃寂静(欲望が吹き消された心静かな境地)に到達できるのです。確かに意識経験としては、念や相や物が自己の現れなんですが、同時にそれらの有の意識の底にそれらの意識を生み出しつつ、それらを自己と区別し、否定的に発展させている有の意識を映し出す容器や鏡として絶対自由意志としてあるというのが、西田の捉え方なのです。ですからこの絶対自由意志から無の場所や絶対無の論理に発展していくことになるわけです。
 慧能に言わせれば、自己の意識が一般者の意識の現れでもあるという前提があって、衆生が仏性を持つということができるわけですから、この娑婆も含めて地獄も浄土もすべて自己の意識の有り様に過ぎないことになります。『六祖壇経』三五にこうあります。

 「仏是れ自性の作なり、身外に向かって求めることなかれ、自性迷えば仏即ち衆生、自性悟れば衆生すなわち是れ仏、慈悲もすなわち是れ観音、喜捨名づけて勢至となす。能く浄なれば是釈迦、平直なれば是れ弥勒、人我是れ須弥、邪心是れ大海、煩悩是れ波浪、毒心是れ悪龍、塵労是れ魚鼈、虚妄是れ神鬼、三毒是れ地獄、愚痴是れ畜生、十善是れ天堂」

 仏が自性の作だということは、どのような心模様になり、どのような仏や菩薩あるいは鬼になろうが、地獄の境地に生きるのも浄土に安らぐのも、結局、自己の絶対自由意志に基づいていることになるのです。何か外的な強制力によって地獄の苦しみを味わっているように受け止めている人も、その外的な強制力自体が彼自身の意識に過ぎないのですから。どんなしがらみや重圧だって、主観的な思い入れを捨てればそこから解放されることができる筈なのです。家だって捨てられるし、地位や名誉や財産や恋も、どんな思いだって捨てられないものはないのですから、自分が現在生きている姿は、そのまま絶対自由意志の選択なのです。そう思えない人は、本来の自己を見失っているということです。

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