真の仏教とは何か?

 ところで「批判仏教」派のいう「仏教=批判」であるとはどういう意味でしょう。人間の生き方や世界のとらえ方について既成の間違った固定観念や常識を打破し、正しい生き方や世界観を選択するのが批判仏教のいう「批判」のようです。その場合、縁起と空の立場を重視します。つまり物事は相互依存的であり、不変不滅の実体としての「自性」は存在しないとする「無我の真理」を強調します。この縁起の思想から自他の区別を超克して生きとし生ける者への無量の慈しみの心である慈悲が生じるのです。なぜなら不変不滅の我など無いのですから、我執にとらわれなくなり、あるがままの世界がそのまま自分の命として感じられるからです。西田の『善の研究』における「純粋経験」の立場は、経験を自らの生命活動として捉えることで、ヴィヴィット(活き活き)に生きようとする立場でしたね。
 もし無我の真理に立って、我(アートマン)を否定するなら、肉体が滅んでもアートマンは断滅しないで天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄などの六道を輪廻転生(サンサーラ)するということなどあり得ません。ですからゴータマ・シッダールダ(釈迦)が自分の前世はウサギや鹿だったと話したというのは、眉唾なのです。たとえ話したとしても、寓話的に捉えるべきだということになります。でもこのような釈迦の前世譚というのは、原始仏典にもたくさんありまして、必ずしも釈迦がサンサーラを否定していたとは断定できないのです。無我の真理を説いて、バラモン教的な世界観を端的に超克したというところに釈迦の画期的意義を認めますと、サンサーラを否定した釈迦が思想史的には評価できるというだけです。
 釈迦が書いた経典はないんです。たくさんの弟子たちが釈迦の話を記録したのです。釈迦は相手によって話すことを変える対機説法を行っていましたから、弟子たちの思想や信仰の水準に合わせて、それを引き上げ、実践に役立つように話したといわれています。その為に釈迦の哲学を確定するのは困難なのです。その上、釈迦没後たくさんの仏陀(目覚めた人)が現れ、それぞれ自分の世界観に基づいて経典を著されたのです。しかし彼らは自らを釈迦と同一視して書いたものですから、仏典はたくさんありますが、同じ釈迦の考えだと誤解されたのです。それでは釈迦の思想は支離滅裂になってしまうわけです。
 そこで隋の時代の天台智 は「五時八教」という教えを説きました。華厳経⇒発句経⇒維摩経⇒般若経⇒法華経というように釈迦の生涯を五つの時期に分けて、それぞれ異なった教えを説かれたというわけです。もちろんこれは全くの見当違いでして、それぞれのお経の作者は別人だったわけです。ですから、我々は仏教という統一的な教説があるという前提は避けて、それぞれの経典の思想的連関を捉えるようにすべきなのです。
 真の釈迦、真の仏教を確定して、そこからその他は仏教にあらずと退けようとしても、それは無理なことです。中村元などがバラモン教を完全に超克した原釈迦像を作り上げましたが、それは近代的な仏教からの理念型にすぎません。ですから批判仏教が真の仏教の伝統を守ろうと、過去の仏教史から真の仏教者を発掘しようとしても、ほとんど見当たらないということになるのです。
 「批判こそが仏教だ」という袴谷の言い方ですと、それこそ仏教は「批判のための批判」をするひねくれ者になりかねません。不滅の実体など存在しないという「縁起」や「空」の立場は、それこそ批判の余地はないのでしょうか。それに批判仏教が誤りだと断定している「場所の論理」やイデア論的立場は、ただ誤りの固まりに過ぎないのでしょうか。それらからも学びとるべき真理は、検討していけば出てくるかもしれません。ただ彼等がこれが釈迦の思想だと気づいたものが真理で、それ以外は誤りであるとどうして断定できるのでしょうか。「批判」の立場を徹底するなら、「縁起」や「空」も批判すべきですし、批判仏教の過度の批判主義も批判すべきでしょう。
 その意味で参考になるのが、批判仏教に最も悪罵を投げかけられている梅原猛の『仏教の思想上』(角川文庫)でも紹介されている、天台智 の「三諦円融」の思想です。「三諦」とは「空諦」「仮諦」「中諦」の三つの諦(真理)です。「空諦」とは「一切皆空」の真理です。全ての存在は相互依存的で縁起的な存在ですから、不滅の実体はなく、滅び去ってしまいます。そのことをしっかり認識していないと、我執に囚われて、煩悩の苦しみから逃れることは出来ません。しかし「空諦」に固着しすぎるのも問題です。全てが空で虚しいものだという思いに囚われて、それぞれの物事の素晴らしさを味わい、生命の喜びを感じることができなくなってしまうからです。
 そこで智 は、「仮諦」つまり全ての物事に法の現れを見出し、その素晴らしさをこころゆくまで味わおうとすることを正しいとする立場を取り上げます。つまり塵さえも御仏の姿に光り輝いて見えるわけです。そうしてこそ、我々は生命の喜びを胸一杯に感じ取ることができるのです。とはいえ「仮諦」に固着しすぎますと、物事が全て無常だということつまり無常の真理を忘れてしまい、我執に囚われるようになってしまいます。「空諦」と「仮諦」のいずれにも固着しすぎないようにするのが正しいというのが「中諦」です。これも固着しすぎるとバランスを取ることに気が取られてしまい、「空諦」も「仮諦」も中途半端になってしまいます。そこで真理は、この三つの真理をそれぞれ限界づけ(=批判)し、調和的に融和することが大切だとする「三諦円融」の思想だと、智 はとなえたのです。
 三諦のそれぞれが真理なのですが、どれもその真理に固着しすぎれば、真理ではなくなるわけです。対立する真理を偏らずに円融するのは、大変難しいことです。それは恐らく言葉で説明することは出来ないでしょう。「批判仏教」は言葉で説明することにこだわりますが、微妙なバランスを取るには、恐らく一生かかっても到達できないような長い真剣な修行が必要なのです。真理と虚偽が固定していて、簡単に見分けられ、二者択一できると考えるのは大変甘い考えです。真理もそれが適用できる範囲が明確でないと、虚偽として機能しますし、虚偽も真理性を含んでいるから、間違って使われて虚偽となっているのです。

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