天寿国繍帳も後世の偽作

 『天寿国繍帳』は、推古天皇の孫で廐戸皇子の正妻であったといわれる橘大郎女が作らせた刺繍である。彼女は家柄がいいので、第一夫人の筈だったが、廐戸皇子は膳部妃と一緒にくらし、彼女の死の翌日に後を追うように亡くなったのである。そこで生前一緒に暮らすこともできず、愛情も膳部妃に比べるとほんの少ししか受けなかった橘大郎女の哀しみと妬みは、どんなにか激しいものであったかが偲ばれる。そこで作らせたのがこの刺繍なのである。

 橘大郎女にすれば、厩戸皇子は今ごろは天寿国に生まれている筈である。この世はまことにはかなく束の間の仮の宿にすぎない、そして天寿国での生活こそまことの生活なのである。彼女はたしかにこの世界では廐戸皇子と一緒にくらせなかったが、皇子に「世間虚仮、唯仏是真(世の中は仮の宿であり、ただ仏だけがこれ真である。)」と聞かされていたので、あの世ではきっと永遠に廐戸皇子と一緒に暮らせるだろうと思い、今天寿国にいる皇子の姿を見たいと、推古天皇に訴えたので、推古がその様子を刺繍させたのである。

 梅原の解釈では、天寿国というのは相当高貴でないと入れてもらえないらしい。つまり膳部妃は入れないが、天皇の孫である橘大郎女なら入れるから、あの世では皇子を独り占めにできることになるのだ。こういう女性の哀しくまた切ない思い、狂おしい嫉妬心などがにじみ出ている文章を、聖徳太子の実在を証拠付けるために造作できるだろうか、それは疑問だというのが梅原の読みである。ただし最近の研究では、高句麗では「天寿国」は阿弥陀浄土の意味で使われていたらしい。とすれば七世紀初頭の倭国では別の意味であったという論証は難しいと思われる。

 大山はこの刺繍にも疑問を呈している。先ず「天皇」号の使用があることである。この問題は後回しにしておこう。次に天皇に対する和風諡号があることである。欽明は「アメクニオシハルキヒロニハ」、敏達は「ヌナクラノフトタマシキ」、用明は「タチバナトヨヒ」、推古は「トヨミケカシキヤヒメ」と書かれているのだ。大山によれば和風諡号はこの刺繍以外には、現存するのでは『古事記』『日本書紀』しかないのである。

 しかし『隋書』には倭王は姓は「阿毎」、字は「多利思比孤」と名乗った。これは諡ではないが、「アメタリシヒコ」と同様の要領で諡を作ったと思われるから、推古朝に和風諡号があったとしても不自然ではない。それに字と諡号の区別は明確なのか疑問である。例えば、推古天皇は皇女の時は額田部皇女と呼ばれ、皇后としては豊御食炊屋姫と呼ばれたのではなかろうか。それとも在世時にはだれだれの娘としか呼ばれなかったのか。また用明天皇は大兄皇子としか呼ばれなかったのか、つまり「あんちゃん」としか呼ばれなかったのか、「橘豊日尊」と呼ばれていたのではないか。また雄略天皇は「大泊P幼武」が和風諡号だが、在世時に「ワカタケル大王」と呼ばれていたことは否定できない。

 さらに大山は、聖徳太子の母を「孔部間人公主」としたのを疑問だという。「公主」は皇帝の娘を意味するが、隋との交流が始まったばかりの推古朝にこのような呼称が使用されるとは考えられないとしている。しかし慧慈・慧聡や多くの渡来人の中には中国の王朝の制度に詳しい人もいて、その教養で朝廷に仕えていた人も少なからずいたと考えられる。

 大山は繍帳銘にある「世間虚仮、唯仏是真」という言葉について、次のようにコメントしている。「無常観を『世間虚仮』と称し、それを踏まえて釈迦の教えの正しさを『唯仏是真』と言っただけで、仏教の立場からは、あまりにも基礎的な言葉と言わざるを得ないものである。」確かに基礎的なこととはいえ、「諸行無常」を「世間虚仮」と表現し、涅槃や浄土の境地を「唯仏是真」と捉えたのは実に深いものがある。この表現がどこから採られたか、太子のオリジナリティな表現かはさておき、私はこの言葉を太子の人生観を示す言葉として高く評価する。そこに太子の理想への情熱と、深い挫折と、変わらざる思いが感じられて、胸に熱いものが伝わるからである。

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