==> 国立大学独立行政法人化の諸問題

「学ばず教えずの大学はもういらない」

大宮知信

草思社2000年3月ISBN 4-7942-0956-8
序文(p3)「大学は高等教育機関である。学の蘊奥を究め、深い教養のある社会人、研究者を育てるところである。なにをいまさらそんなことと思われるかもしれないが、その主人公である学生は学問に関心がなく、教育されることを嫌がっている。一方の当事者である大学教員も教育にそれほど関心を示さない。学生を雇用する企業の経営者も学費を負担する親も、大学の教育に期待していない。おかしなことに、目本の大学は、だれも教育を真剣に考えていないのだ。それでも高等教育機関として成立しているのだから、じつに不思議である。  

 この摩訶不思議な教育機関がなぜ存在するのか、現状はどうなっているのか、という素朴な疑問が取材の動機である。いくつかの月刊誌に書いた原稿をベースに、新たに取材したものを加えて再構成した。ブランド大学といわれる束京大学、早稲田大学、慶応義塾大学を中心に取材を進めた。よくもわるくも、これらの大学がモデルだからであり、大学全体の牽引車的役割を果たしているからだ。結果はごらんの通り、惨憺たる状況である。  

 高校はほとんど義務教育と化したが、大学も同様に義務教育化しつつある。若者の二人に一人は天下の学士様である。さぞかし頭のいい若者が増えているのだろうと思ったらさにあらず、最近の学生は学力が低下していて小学校の算数もできないという。若者だけではない。大学出の政治家、官僚、企業経営者といったえらい人たちは、日本をどん底の状態に陥れて平然としている。これだけ最高学府で学んだインテリが溢れているのに、日本はなぜこんなひどい国になってしまったのか。この国の指導者を見ると高等教育とは何か、大学の役割とは何かということをつくづく思う。  

 これまではどんな時代になっても大学がつぶれることはなかった。十八歳人日が減少する少子化時代を迎え、大学は冬の時代を通り越して「氷河期の時代」を迎えるといわれる。このままでは大学は破綻するというのだが、大学はとっくの昔に崩壊している。立派なのは見かけだけで、中身はからっぽの象牙の塔が存続しているにすぎない。  

 関係者は手をこまねいているわけではなくさまざまな改革を試みているが、さっぱり実効があがらない。大学改革はつねに政界、経済界、文部省などの外圧を受けて行われてきた。内部から行われたことはない。学生が「大学解体」を叫んでキャンパスをバリケード封鎖した、あの大学紛争のときも何も変わらなかった。その後も改革のチャンスは何度もあったが、本質的な部分では何も変わらず、今日に至っている。いま行われようとしているさまざまな改革もそうした外圧によって行われようとしている。だが、外圧の改革でよくなったためしはない。教育制度はいじればいじるほど悪くなる。国全体のビジョンも不透明ななかで、現場の教育者が明快な青写真を描けないのは致し方ないという意見があるが、それならそれで杜会システムの変化も含めた大学のあり方を考えるのが教育者、研究者の役割ではないか。  

 本文でも述べたが、大学の教員は改革を望んでいない。労働強化につながるような改革はできることなら御免被りたいというのが本音だ。大学の教員に自己改革を期待するのは、座ったまま自分の椅子を動かすようなもの、もしくは座ったまま座布団を持ち上げるようなものだといわれる。嫌がる人間に無理やり改革ダンスを踊るよう仕向けても、いい結果にはならない。  

 どうすればいいのか。入学はさせても卒業の保証はしない、大学は個別に卒業証書を発行しない、就職の世話をしない、完全に民営化して自由に競争させる、その結果、授業料が高くなったら、教育ローンを充実させて勉強したいという学生に就学の機会を保証する、などの思いきった改革案を提案する人はたくさんいる。だが、実行は困難なものばかりだ。このまま放っておくのがいちばんいいのではないか。太古の昔、巨大隕石の衝突による気候の変化で恐竜が死に絶えたように、大学は、十八歳人口の増加、進学率の上昇という大学バブルで膨れあがった巨体を支えきれず、自滅するのみである。  

 多くの学生もいまのままでいいと思っている。教育サービスの供給側と受益者側のどちらも現状維持を望んでいる。だったら何もしなければいい。外野は余計なことをいわず、当事者の自主性に任せておくべきだろう。その結果、学生がこなくなりつぶれることになっても自業自得である。改革のためのエネルギーを浪費するのはもうやめたほうがいい。  

 大学がこんなおかしなことになったのは、大学の教員や学生だけの責任ではない。肝心の教育の中身は問わず、たんなる労働者の選別機関としてしか大学を見てこなかった企業の側にも責任がある。ここまで放置した政治家や官僚にも、あるいは「愚者の楽園」であることを容認してきたマスコミ、親の側にも責任がある。日本国民全員がよってたかって大学を駄目にしてきたのだ。大学に何を期待するのか、自分たちの息子娘たちがどんな教育を受けてほしいと思っているのか、また当の学生たちは大学で何を学びどう生きようとしているのか。大学を取り巻く環境、社会システム、国民の意識が変わらないかぎり、大学にだけ自己改革を迫ってもよくなりっこない。  

 金融ビッグバンの次は「大学ビッグバン」の時代になるといわれている。高等教育機関としての役割を果たしえない大学は倒産する運命にある。願わくば、破綻する大学に巨額の公的資金を投入するという愚かなことだけはやらないでほしい。学生を遊ばせる施設に巨額の税金を注ぎ込む必要はまったくない。大学はこれからだれでも入れる「全入時代」を迎えるが、老人の施設は極めて不足していて、例えば都内の特別養護老人ホームは入りたくてもなかなか入れないのが現状だ。立派なのは建物だけで中身は空っぽの大学に金を使うぐらいなら、日本の発展のために尽くしてきた高齢者のための施設をつくるべきであろう。  

 大学問題は、大学関係者だけの問題ではない。日本国民一人一人の問題である。どうすれぱいいのか、またどうすべきなのか、よく考えていただきたい。この本は、そのための材料として読んでいただければ幸いである。」

p209

「独立行政法人化の不毛な議論

九九年七月の国会で「独立行政法人通則法」が成立し、国立大学の独立行政法人化が現実味を帯びてきた。独立行政法人は、公益性の高い特定の任務をもった行政機関を独立させる方式。すでに国立病院・療養所や国立美術館・博物館などの独行化が決まっている。予算は引き続き国費でまかない、職員の身分も国家公務員のままとされる。外側から見る実態は何も変わらないが、独立機関になることで、効率的な運営ができるのではないかといわれている。通則法によれば、主務大臣が中期目標を立て、法人はそれを実現するための中期計画をつくって大臣から認可を受ける。法人の長も主務大臣が任命する。  

 文部省や国立大学協会は当初、国立大学を国の直轄運営から切り離して独立行政法人とすることに「研究や教育は効率性の観点になじまない」と反対していたが、文部省は法人化を容認する方向で設置形態の見直しを進めている。国大協も委員会が九九年九月に報告書をまとめ、もし法人化する場合には「大学独立行政法人特例法」かあるいは「国立大学法」(いずれも仮称)を制定し、大学の自主性を維持できるようなものにすることを求めている。文部省も国大協も絶対反対から条件闘争に切り換えた。  

 東大の蓮實重彦学長がこの問題に関する記者会見で政府の動きを批判し「この十年来、日本の大学は改革を重ねてきた。勝っているチームになぜ手をつけなければならないのか」と語っている。国立大学を独立行政法人化すれば「教職員のモラールは必ず低下するだろう」ともいった。教育はスポーツの試合ではないのだから、勝つとか負けるという言い方は大学の学長の発言として品位に欠けるのではないか。ただ「主務官庁の文部省が大きな力を持つ。今よりはるかに不自由になる」という蓮實氏の不安は当たるかもしれない。  

 国から切り放して法人化すれば特徴ある大学ができるかというと、それも不可能だろう。哲学者の鶴見俊輔氏が朝日新間のインタビューで「いま日本の学問はアメリカの手のひらの中にある。このままだと政治だけでなく学問もアメリカヘ大政奉還することになる。そのことがわかっていない」と大学関係者を痛烈に批判している。「東大も京大も出発点はよかった。しかし、ルネッサンスがなかった。それもなく、制度疲労したままで改革論議をするから手続き論になる。成績が臭いことと学問ができることとは違う。文部省をつぶし、小学校から変えなくては、大学は救えない」と断言している。  

 独立行政法人化に賛成の人もいる。北里大学・養老孟司教授はこういう。「要するに国から切り放しなさいということだが、僕はそうしたほうがいいと思う。そのほうがずっと気持ちがいいだろうね。ただし中にいる人が、国家公務員制度、官僚制度に慣れちゃってるから総入れ替えしないとダメだね。管理機構がないとやっていけない人がたくさんいるからね。それは東大に限らず日本の社会全体が管理機構に慣らされている。お互いに管理しあっているほうが楽なんです」  

 独立行政法人という中途半端な組織にするなら、いっそのこと民営化すべきだろう。高等教育機関として大学が国立である必要はまったくない。安い学費で教育を受けた卒業生が社会で優遇され、私学出身者より高い収入が保証されるというのはおかしな話である。研究機関としても、大学が国立でなければならないという必然性はまったくない。国立大学は重要な基礎研究を担っており、民営化されるとそれができなくなるというのが民営化反対の根拠だが、私学だって基礎研究はできる。アメリカのハーバード大、スタンフォード大、MIT(マサチューセッツ工科大)などトップクラスの大学はほとんど私立である。私立のほうが高度の研究活動を行っているのだ。しかし、民営化の案に対しても大学教員の反対が強い。民営化に反対している国立大学の教員たちは、異口同音に基礎研究は国が手厚く面倒を見るべきだという。国立でなければ基礎研究はできないとかたくなに主張している。国の制約をなくしたほうが自由な研究ができるとは考えないのだろうか。  

 「例えば勲章は元教授と名誉教授と元学部長では違う。学長の経験があるかないかで格が違う。私立と国立でも違う。国立のほうが格は上なんです」(私大教授)  

 なるほど、だから民営化に反対するのか。国立大学をすべて民営化して私立大学にしたうえで、既存の私立大学と同じ土俵で教育・研究を競わせて、国の機関でなければどうしても研究を続けるのは無理だという分野については、改めて国立の研究機関として再スタートさせればいい。優れた研究をし、優秀な人材を養成する真の意味でのエリート大学は、たとえ民営化してもつぶれることはないだろう。

大学は再生できるか

教育の悪平等はやめて資源の効率配分を考えるべきで、東大や京大などトップクラスの大学とそうでない大学とに階層を分けて予算を投じるなどの対策を講じないと、日本全体がダメになるという意見がある。こういう意見は東大をはじめとする一流大学関係者から出てくる。要するに偏差値の高い大学にもっとカネを注ぎ込めということだが、東大がそんな立派な大学でないことは見てきた通りである。...

 いま進められている大学改革は、沈み行くタイタニック号の上でデッキチェアを整理しているようなものだといわれる。細かいところばかり直して根本的な改革には手をつけようとしない大学は、いずれ沈没する運命にある。独立行政法人化もしょせんは教育理念などもちあわせない政府の姑息な延命処置にすぎない。国家公務員の削減という行政改革を進めることはできても、これで大学が再生すると思っているおめでたい大学関係者は一人もいないだろう。

 もう欧米先進国に追い付き追い越せの時代は終わった。明治から始まった欧米先進国の知識を日本に持ち込み、集中的に効率よく教えるという大学の役割はとっくに失われている。日本の大学はもはや改革不能である。改革にやる気を見せることが全国の大学に熱病のように広がっているが、下手な「改革ダンス」は踊らない方がいい。中途半端な改革がかえって事態を悪化させることは、すでに大学院重点化で実証済みだ。何もせずに放っておけば、いずれ次々に自滅するだろう。それでいいではないか。くさった大学はもういらない。」 」