
政策科学 空説にすぎぬ町村氏の構想宮崎 哲弥要するに、政策の客観的な合理性を考究する学知といってよいだろう。 欧米では経済学、政治学、法学のみならず、社会学や心理学も政策科学の一環ととらえられている。 これに比べて日本では政治家や官僚においてすら政策科学的なアプローチが貧弱で、国民に対する提案が「雑感」か「思い付き」以上のものでないことがしばしばある。 さしずめ文部科学大臣の町村信孝氏が「文芸春秋」に発表した教育改革構想は、まさに「雑感」「思い付き」の典型といえるのではないか。(「文部科学大臣は考える」=「文芸春秋」) 町村氏の提言の最も基本的な資料となっているのは、客観的なリサーチの結果でもなければ、各種の統計的事実でもない。何と小説、村上龍氏の「希望の国のエクソダス」なのである。 もちろん傍証としてならば、人心や時代の機微を見逃さぬ作家の鋭敏な感受性を頼みとすることに何の問題もない。 問題なのは、幾つかの論拠が直接フィクションから導出され、その隙間(すきま)が町村氏の主観や予断や不確かな知識によって埋められているという点である。 町村氏は少年による殺人やバスジャックなどの犯罪の遠因が、日本から「希望」が失われたためではないかと推定している。そして若い世代から「希望」を奪っているのは、厖大(ぼうだい)に膨れ上がった財政上の累積債務残高であり、少子高齢化の急進であると述べている。 そもそも少年による極端な凶悪犯罪、例えば衝動殺人や強盗殺人などの発生率が近年顕著な伸びを示しているわけではない。 また「希望」喪失の直接的原因として、財政赤字や少子化を想定することは、根拠の乏しい妄断である。 町村氏の行論はこの調子で終始しており、データを開示し理を尽くして国民の合意を得ようとする政策科学的なアプローチをまったく欠いている。 こんな空説に基づいて、高校卒業相当の年齢(十八歳)に達した若者全員に半年間にわたる「奉仕活動」の義務を課し、それを経なければ「成人」とは見なさないという、国民の行動の自由を人幅に制限する重大な政策を提唱しているのだから驚きあきれる他はない。 さらに提言では「ゆとり教育」や「学年進行の自由化」(いわゆる「飛び級」や留年の容認)が「生きる力」の涵養や個性の尊重、悪平等是正の美名の下で正当化されている。 しかし、教育社会学者の大内裕和氏はこうした一連の「教育の個性化」は急速な階層分化を招来する危険性が極めて高いことを緻密に論証している。(「象徴資本としての『個性』」=「現代思想」2月号) 労働市場の分極化の兆候があらわとなり、低賃金や劣悪な労働条件に甘んじなければならない若者が急増しているなか、「ゆとり教育」や「飛び級」によって少数のエリートを選び出し、他は「奉仕活動」によって過酷な労働環境に馴化させようという目算であろうか。 大内氏は「教育の個性化」は個別化、私事化の傾向に拍車を掛け、取り組まな ければならない公共的な問題を特定し解決す能力を生徒、学生から奪う施策だ と強く批判している。 ...以下略 (みやざき・てつや=評論家) |