==> 国立大学独立行政法人化の諸問題

田中耕太郎「司法権と教育権の独立」

(「ジュリスト」1957年1月1日号)
(文献選集 日本国憲法「教育権」永井憲一編 三省堂1977年p263−281)
(2000.9.23 一部電子化)
目次
1 司法と教育
2 司法の非官僚制
3 民主国家における教育
4 裁判官の独立の基礎
5 教育と司法との類似
6 教育権の独立
7 一般公務員と裁判官およぴ教育者との差異
8 「不当な支配」からの自由
9 「事項的特権」と政治的中立牲
10  プロフェッシオンの概念
教育基本法は憲法に将来組み込むべきである 日本の教育の重大な欠陥戦後の教育改革の経緯自治社会としての教育社会第4権としての教育権教育予算のあるべき姿

抜粋

5 教育と司法との類似

.... ところでかような条件の一つとして、国家は一般的な自由権および前に述べた特殊的な自由権(憲19条、23条等)を保障するを以て足らないで、特殊の活動の自由の保障を制度化する場合がある。宗教に関する規定(憲20条、89条)はその一つである。裁判所や裁判官の独立もまたその一つである。

元来宗教は日本のような政教分離の国家においては純然たる私的性質のものと認められ、憲法は国教を否定し、その特定の宗教に他と区別して特権を与えることを禁止し、各宗教間の平等取扱の原則を定めている(憲20条)。このことは、憲法第19条の思想および良心の自由の保障を以て個々の信者の信仰の自由の保障には不十分だとし、信仰の自由を制度化したものと認め得られるのである。また裁判官の職権を行うにあたっての自由の保障も、身分の保障(憲78柔)、任期、定年、報酬に関する規定(憲80条)等によって制度化されている。かような制度化がなければ、裁判官の独立は完全とはいえないのである。

しからば教育についてはどうであるか。新憲法はとくに教育に関する規定を一条設けたが(憲26条)、しかしこれは教育や教育者の独立に関するものではない。元来教育に関する規定は19世紀の憲法には存在せず、ワイマール憲法以来漸く諸国の憲法の中に散見するにいたった。規定の内容は、主として教育の自由を保障することと、日本国憲法もそうであるごとく、国家が教育を重要視し、国民に教育を受ける権利を認め、また就学義務を負わしめ、よりよい教有を国民に保障するという、福祉国家の思想の表明である。また一部の国々(主としてカトリック教国)は家庭教育およぴ科学による教育の肯定に言及するものがある。なお教育と宗教の関係については大別すれば、分離主義をとるものと(民主主義国としてはわが国もこれに属する)、両親や教会による宗教教育を尊重する主義をとるものとがある(憲法中における教育条項については相良惟一教授「各国憲法の規定中に見られる教育条項に関する比較研究」京都大学教育学部紀要二号参照)。しかし教育の独立に関しては諸国の憲法中教育に関係がないとはいえない学問の自由に関する規定以外には規定を見受けないのである。

要するに現代国家において教育はまだ新しい分野であり、これを司法に比較すると憲法上の地位はまだ十分確立していない。それは今日なお生成発達の過程にある。しかしすでに述べたところからして明らかなように国家が教育に対して如何なる態度をとるかは、ファヅシスト的、共産主義等の全体主義的の国家と民主主義の国家との間に大なる隔りがある。教育に間して国家がとるところの原則は、家族、婚姻、離婚等に関する事項と同じく道徳、宗教、世界観に関係してくるのである。従って、家族に関する事項について憲法が規定を設けている以上は(憲24条)、教育に聞しても単に教育を受ける権利や義務教育に関する規定以外に根本的原則が示されてしかるべきである。 日本国憲法中における教育間係の規定は貧弱ではあるが、それを補充するものとして我々は教育基本法(昭和22年法25号)をもっている。この法律は異例として前文をもっており、この前文においてこの法律が憲法の精神に則ったものであることを明らかにしている。教育基本法中の規定であって、教育における平等の原則即ち機会均等(3条)、男女共学(5条)、義務教育(4条)、国立、公立学校の特定宗教教育等の禁止(9条2項)等に関するものは、憲法の中に対応する規定または原則的の規定をもっているが、しかし学校教育(6条)、社会教育(7条)、政治教育(八条)、宗教教育一般(9条)、教育行政(10条)等は、いずれも教育憲法といってもよい根本原則について規定を設けている。もし将来国民が教育を重要視し、司法と同様に憲法中に特別の一章としてこれに関する規定をおくようなことにでもなれば、教育基本法中のこれらの原則はおおむね憲法の中に移されることが適当なものである。その中本稿の目的からして特別に重要な意義を有するのは第10条の教育行政に関する規定である。


6 教育権の独立

教育基本法第10条は教育行政という表題を付せられており、教育が不当な支配に服してならないことを宣明している。これは上述したところの、教育が国家機能の分類上は行政の範囲に属しているにかかわらず、そのもっている特別の性格即ち司法に類似する性格に起因するものである。

私は今、大学区制を定めた明示5年の学制、自由主義的な明治12年の教育令、それを改めて官僚的統制を厳重にした明治13年の改正教育令、明示23年の諸学校令から昭和16年の国民学校令、昭和20年の戦時教育令等にいたるまでの、わが教育に加えられた官僚的統制の消長に立ち入る余裕をもたない。ただこれだけのことは指摘しておかなけれぱならない。日本の教育の重大な欠陥の一つは教育行政の面において認められること、とくにわが初等および中等教育は中央と地方の官僚によって支配され、戦時非常状態の下では軍人が中央官庁である文部省を動かして教育を左右し、軍国主義、極端な国家主義を鼓吹したことに存在していた。地方においては年齢30にも達しない教育には全く素人の1〜2年で転勤する内務官僚が地方庁で教育行政の実権を握り、20年30年勤続の老教育者がその鼻息をうかがい、卑屈に流れるような事例は決して稀れではなかった。官立大学は慣習法的に人事郎ち総長、学部長、教授助教授等の推薦に関して慣習法として漸次認められた内規によって自治を享有し、また学科課程教育内容に関しても同様であったが、しかし戦時非常時局中においては、文部省を通して軍部の圧追が及んで来、大学との間に紛糾が生じたことが再三でなかった。かような事情から教育権の独立が終戦後直ちに問題となったのは当然である。

(教育権の独立は総司令部側の意向をまつまでもなく、日本側として考慮していたところである。終戦直後筆者が学校教育局長として文部省に入る動機の一つとして懐抱していたのは、教育とくに初等、中等教育の地方官僚からの解放、即ち教育権の独立ということであった。この趣旨を私は昭和20年10月、就任直後専門学校長会議における講演および翌21年3月アメリカ教育使節団と文部当局との会合における演説において述べたことがある。これは地方における教育を知事の権限から引きはなし、教育行政を独立せしめ、教育者の自治にまかせる構想であった。それは大学自治の思想を地方教育行政に推及しようとするものであり、また司法権の独立の原理とも相通ずるものであった。しかし省の内外における内務系統の役人は、知事の権限から教育のような重要な事項を奪うことになるようなかような構想に賛成する筈がなかつた。)

連合国総司令部とアメリカ教育使節団は日本の教育の重大な欠陥がここに存していることを見過らなかった。教育使節固の報告はこの問題に触れ、「日本の学校制度は従来しぱしぱ批判の的となった。全制度を通じていろいろな点で重要な地位は、教育者として職業的訓練を受けたことのない人々が占めていたからである。多くの教育関係職員が、内務大臣またはその代表者によって任命され、またそれに対して責任を負うことになったのである。」といっている。なお総司令部の教育政策中には憲法第8章の「地方自治」にあらわれている思想が教育面にも反映し、教育の地方分権化の思想となってあらわれていた。しかし地方分権化と教育権の独立の二つの要請はある点において重なり合っているが、原理的には必ずしも一致するものではないのである。

昭和21年夏諮問機関として文部省内に設置された教育刷新委員会が12月27日第17回給会において採択した要綱で、教育行政に関するものの中「教育の自主性の確保と教育行政の地方分権」という項目が存在する。これに関連して同委員会は教育一行政は、なるべく一般地方行政より独立し且つ国民の自治による組織をもって行うこととし、そのために、市町村及び府県に公民の選挙による教育委員会を設けて教育に関する議決機関となし、教育委員会が教育総長(仮称)を選任してこれを執行の責任者と(する制度を定めること。」と決議している。

かくして教育の地方分権化とともに、地方教育行政の一般行政からの独立を実現し以て教育を不当な支配から守るために、昭和23年法律170号教育委員会法が制定されたのである(教育委員会法1条参照)。(この法律は昭和31年9月30日限り廃止され、昭和31年法律162号地方教育行政の組織及ぴ運営に関する法律がこれに代った。)はじめ文部省としては全国を官立総合大学を中心とする大学区に分け、ブロック別に地方教育行政(初等およぴ中等の)を大学にまかせる構想をもっていたが、これは官学偏重として私学側の反対があり実現できなかった。ついでブロック別の教育委員会制度を考慮したが総司令部側の賛成が得られず、都道府県単位となった。その際には市町村別にこれを設置することは考えてはいなかった。なお教育委員の選挙については、教育界に教育に無理解な地方ボスが侵入することを防止する意味で候補者、選挙権者ともに教育畑に限る構想をもっていたが、これは新憲法の主義と調和しないというわけで、総司令部の同意を得られなかったので、結局資格の無制限の選挙制度に落ちついたのである。しかしながら教育委員会が設けられたからといって教育権の独立が保障せられるとは限らない。何となれぱ教育権の独立を保障する機関自体がその独立を害することがないと保障できないからである,それは一つに教育委員さらにそれを選挙する人々が教育を理解してこの制度を運用するかどうかにかかっている。そうして従来の経験に徴すれぱ、教育に対する理解は教育畑の者において優っており、その以外の者において劣っているといいきれないものがある。


7 一般公務員と裁判官およぴ教育者との差異

ここに教育権というのは、立法権、司法権というごとく教育的機能の全体をいうものである。それは両親が個人として子女に対してもっているところの親権の一種である自然的な教育権−−民法では「監護及び教育をする権利」(民820条)−一と同一ではない。それは教育を全体として観察して、教育が教育外の世界からの不当な干渉侵害から守られなければならないことを意味する。そうしてこの後の意味においての教育権の独立は本質的には両親のもっている自然法上の教育権と関連をもっている。ファシスト制や共産主義制の国家において教育の自由が否定され、国家の教育独占が行われているのは、両親の教育権の侵害にほかならない。教育全体についての教育権の独立は、両親の教育権の保障とはちがって司法権の独立の場合と同様に制度的保障である。

かような制度的保障において、司法と教育との間には著しい類似性が認められる。教育を不当な支配から守ること(教育基本法10条)は裁判官の独立に関する規定(憲73条3項)に類似している。教員の身分が尊重され、その待遇の適正が期せらるべきこと(教育基本法6条2項)は、裁判官の身分の保障および待遇に関する規定(憲78条、79条、なお裁判所法48条乃至51条)に対応している。なお公務員たる教育公務員については、それが国立のもの(国家公務員)であれ、公立のもの(地方公務員)てあれ、一般公務員に関する法律(国家公務員法および地方公務員法)と別個に、昭和24年法律1号教育公務員特例法が設けられ、公務員たる教員その他の教育職員に関し教育の特異性を考慮して一般公務員と異なる規定を設けた。それは大学に関して学問と教育の自由の保障の見地から、従来慣行されてきた大学の自治を成文化し大学の教育公務員の人事を大学の自主的運誉にまかせることにし、その身分の保障を一層強化し、また大学以外の学校の教育公務員についても一般公務員よりも利益な取扱を認めている。さらに教育公務員に関しては研修の制度が設けられている。とくに大学の自治は新憲法下における栽判所の自治と著しく類似している。また終戦前すでに久しい間一部の官立大学において内規として実施されてきた教授の定年制は法律で定められている裁判官の定年制と同様に両者の身分保障の反面である。

大学の自治は政治の観点からすれば、司法権または裁判所の独立と同一の性質のものである。学術の研究と教育の最高機関である大学によって実現されるところのものは真理価値と人格価値である。これらのものは裁判所によって実現されるところの正義価値と同じく、政治の上にまたその基礎に位するところのものである。民主政治がより完全に実現され国家が繁栄するためには一方適正な司法によって社会の秩序が保たれ、基本的人権と正義が擁護され、他方適正な教育によって国民の道徳的およぴ文化的水準が向上しなければならない。司法と教育は、政治とちがって、国民の卑近な自前の要求(例えば国防、経済、衛生)をみたすものてはなく、国家の存続発展に一層基本的な条件をつくり出す。それらのものといえども社会生活の具体的な事情によって制約され、変遷発達するが、しかし政治に対する関係においては一層基本的かつ一層永久的のものである。

この故にこれらのものは政治と次元を異にする世界に所属する。もし司法が政治と同じ次元に属し、政治的考慮によって左右されるならぱ、それらのものは政治の基礎条件たるべき自己の任務を果たすことができず、政治自体の解体の結果を招来するのである。この故に司法も教育も消極的に不当な支配に服してはならず、独立でなけれぱならないばかりでなく、一般的に振興されなければならない。そのためには人的物的の諸条件の充実例えば裁判所の庁舎、学校の施設の完備、裁判官、教職員等に適材を得るための待遇の改善が必要とされる。ところでこの両者は国家のもっている諸機能の中で経済生活と直接な関係を欠いていて、現実的なカの裏づけがないから最も弱体である。かつて文部大巨と司法大巨とが予算分配の際など無力であり、他の諸省の大臣に対して伴食大臣と呼ばれていた。しかしかような事情は必ずしも大臣個人の能力によるものではなく、教育と司法の本質に由来するのである。両者がよってもって立つ支柱は純然たる精神的道徳的のものである。かような事態は国民が教育と司法の重要性に目ざめ、それに対する有効な支持援助を与えない限り容易に改め得られないのである。従って国家予算の面において司法と教育とについて制度上の特別の考慮がなさるべきことを要望する意見が台頭するのは当然である。ところが裁判所予算、教育予算ともに今日にいたるまで特別の取扱いをされてはおらず通常の予算編成の手続によって、つまり予算案が大蔵省当局との事務的な交渉によって作られ、最後の段階では大臣相互の間の政治的折衝によってきまることになっている。ところで裁判所は新制度の下では政府から完全に独立しているから、閣議において代表者を出してはおらず、必要な予算を要求するのに甚だ都合がわるいのである。もっとも裁判所は内閣が歳出見積りを減額した場合に国会および会計検査院と同様にいわゆる二重予算を出し得ることになっているが(財政法19条参照)、しかしこの制度によって裁判所予算が裁判所の意図に反して政争の具に供されることはできるだけ避けなければならず、また二大政党の対立の現状の下では、政府は国会で多数を占めているから、裁判所が二重予算を提出してもその実効は期待てきないのが普通である。

教育予算に関しては終戦後文部省、国会の文教委員会等において制度的な検討がなされないではなかった。その際注意をひいたのは、中華民国憲法(国民攻府)に、教育、科学、文化の経費が中央にあってはその予算総額の100分の15、省にあってはその予算総額の25、市県にあってはその予算総額の35を下ることを得ないという趣旨の規定が設けられていることであった。その以外にブラジル、ベルー、キューバ等のラテン・アメリカ諸国およびシリアあるいは租税収入に対する一定率を最低額として定め、あるいは他省の予算に対する教育予算の優先順位を規定している(相良教授前掲論文43・44頁参照)。これらの国々においてかような規定がどの程度に実現されているかは知り得ないが、教育に他の行政部門と異なる特別の地位が与えられていることはこれを認め得られる。

要するに司法権と教育権とはその本質において独立であるが故に、他の諸権力に対して孤立して政治的に無力となる傾向がある。同じく独立であっても、旧憲法下における統帥権のごときはそのもっている強大な実力の故に国政上大いに重きをなし、あるいはあまりに重きをなしすぎたのであった。ところが司法と教育のよってもって立つカは根本的には精神的のものにとどまる。従ってそれらは他の権力からして無視されやすいのである。

それはとにかくとして、憲法は司法権の独立を制度的に承認し、この精神を以て司法を不当な支配から守るいろいろな方策を講じている。教育権の独立は直接にはわが憲法中に制度化されてはいないが、上述のごとく憲法の学問の自由の保障や教育基本法ならびにその他の教育関係法令中の規定、とくに大学の自由の原則からして帰納できるのである。もし教育政策の重要性が今より一層痛感されるならぱ、憲法中に立法、行政、司法の三権とならんで、第四権として教育に関する一章が設けられ、教育権が一層完全に保障される日が来ないとは断言できないのである。


8 「不当な支配」からの自由

司法権と教育権の独立は、それらがひろく外部からの干渉や圧迫に対して守られなけれぱならないことを意味する。外部からの干渉や圧追として考えられるのは第一に他の国家権力からくるそれである。この点においてわが裁判所は前述のごとく児島惟謙以来の伝統を守り続け、戦時非常時中においても、その独立を害されるようなことを耳にしなかった。ところが教育に関しては、それが本来独立でなければならぬのにかかわらず、司法の場合のような制度的保障が欠けていたために、政治の方面からの干渉に対し全く無力であり軍国主義、極端な国家主義の傾向に風靡され、ただ官立諸大学が大学自治の伝統を固守して攻府や軍部の方面の干渉圧追に対し、当時の事情の許すかぎりのレジスタンスをしてきたのにとどまっていた。今後の問題としては、司法に関してはその独立の政治保障が一層完璧になったからして同じ状態をつづけることはたしかである。教育に関してはかつての超然内閣や軍部内閣でなくて、議院内閣の下では従来のような非合理的なことは行えなくなる。とくに教育に関する事項が旧憲法の下では勅令省令等で自由に規律できたのが、新憲法の下では法律で定めることになったからそうである。またかりに非合理的な立法は、言論の自由が完全に認められている今日、国民の批判を免れ得ないのである。現下の情勢において外部から加わる圧追は、社会的の勢力である。その最も頭著なものはジャーナリズムである。この勢力に対し最も感受性の強いのは政治関係者である。というのは彼らの地位は選挙における得票の多寡にかかっており、そうしてそれはジャーナリズムの報道や批判によって深刻な影響を受けるからである。裁判官や教育者はその職責の遂行上本来良心に従い独立に振舞うものであり、またその身分が保障されているからかような影響に対して強硬であるわけである。しかし彼らといえども人間である以上は不知不識の間に動かされやすいのである。もちろん裁判官や教育者といえども世間から孤立し、世間知らずになってはならず、世の中の批判に謙虚な態度で傾聴し反省しなければならない(現に係属中の事件の裁判批判に関してさらに別個の観点から考えられなければならぬことについては他の機会に述べた)。しかしジャーナリズムの傾向は動揺変遷し、常に正しく妥当であるとばかりは限らない。重要なことは司法や教育の本質使命に照して何が適正な批判であるかを判別し、不正不当な議論や主張に盲従しないことである。直接に正義価値に奉仕する裁判官や人格価値に奉仕する教育者はかような見識をもつことが要求される。もしそれをもち合わせないとするならば、いくら制度的な独立の保障があっても無駄である。

かような不羈独立の態度は、とくに教育者については、教育者がつくっている組合その他の団体に対する関係においても要求される。それらの団体はそれぞれ経済的その他の目的をもっており、団体員たる教育者はその目的の実現に協力すべきは当然であるが、しかしその協力は団体の目的や実際的活動が教育の本質と矛盾せず、また教育者の独立と良心とを害しないことを最少限度の条件とすることを忘れてはならないのである。もし教育者が幹部の統制に無批判的に盲従するならば、かつて官僚や軍部のレジメンテーシオンに盲従した司じ誤謬を繰り返すことになるであろう。


9 「事項的特権」と政治的中立牲

司法権と教育権の独立は、外部からの不当な支配に服しないという、受動的排除的な権利である。それは国家が司法のことは裁判官に、教育のことは教育者に委ねることを意味する。両者の任務とするところは前に述べたごとく、政治の上にありまたはその基礎になっているところの正義価値または人格価値の実現である。それは特殊の学識、経験をもっている者のみができることである。従って国家は裁判官や教育者について、一般公務員とはちがった資格を要求している。これ裁判官については裁判所法に、教員については教育職員免許法が存在する所以である。

裁判官や教育者の職務が独立であり、その身分が制度的に保護されているのは、一種の特権と認めらるべきである。ところであらゆる特権が廃止された新憲法の下において、何故に裁判官や教育者に特権が保留されているのであろうか。これは民主社会の多元的性質に由来する。全体主義においては個人と国家との間の中間的な社会の存在を認めず、個人が直接に国家権力の統制に服する。従って全体主義の制度においては、極端な中央集権的政治が行われるのである。しかるに民主主義の下では、個人の人権、自由が広い範囲において認められるごとく、国家内における地域的政冶団体(地方公共団体)に広い範囲の自治権が認められるのみでなく(憲法8章参照)、家族、教会、大学、労働組合等自治を享有する多数の社会が国家の胎内において共存することが認容されるのである。ただこれらの社会は、その性格によって差異があるが、国家内に存在している以上国家内における国家、あるいは治外法権的の社会として国家あるいは他の社会と無関係に並立しているのでなく、国家のゆるやかな統制に服するものであることはもちろんである。国家はこれらの社会にある程度の自治を享有せしめることが、国民の福祉と長い貝で見た国家の有形無形の発達のために必要だと認めているのである。

司法社会と教育社会も国家内における自治的な社会の一種である。司法は前に述べたように国家の独占にかかる、即ち国家に専属する機能である。教育は国家の独占事業ではないが、しかし現代福祉国家の重要な機能の一つになっている。しかるに民主国家はこの両者に広汎な範囲において自主権を認めているのである。それは正義価値と人格価値の実現が、政治や行政の通常の活動のルートによるよりも、これらの価値の実現に専心する、一定の資格をもつ者に委託されることが、事柄の性質上最も適当だからである。裁判や教育は官僚組織の圏外にある裁判官や教育者に委ね、外部からの指揮命令をなすべきでないこと、大学教授が専門の研究について学問の自由を有し、攻府や他人の干渉を受けないのと同様である。この故に司法と教育の自主性は、地方公共団体のそれのように団体の地域的性質に由来するものではなくその機能即ち裁判官や教育者の職責の内容自体に起因する。それは往昔貴族や僧侶や軍人が享有していたところの、個人的特権ではなく、事項特権である。これらの特権は国家社会が一定の目的の達成のための特殊の人々を信頼して、それに一定の範囲の事項をまかせたのである。従ってこれをまかせられた者は高度の誠実性を以てその責任を果たさなけれぱならない。他の方面からの干渉を受けない特権をもっている者は、それに比例して良心的に誠実にその任務を遂行する責任を負うているののである。....