見城悌治

  書評:「桂島宣弘『思想史の十九世紀−「他者」としての徳川日本』(ぺりかん社、一九九九年)」

(第93回例会 1999.8.28,29)

個人で閲覧される場合は問題ありませんが、引用・参照の際には『日本思想史学』第31号と明示してください。

なお、著作権はぺりかん社に属しています。


 戦後歴史学の研究史を繙いてみると、方法論をめぐる侃々諤々の議論が、学問自

体の「活性」に大いなる意味を持ってきたことは、今さら言うまでもないが、とり

わけ、戦後思想史研究の分野においては、より自覚的な形での展開を見てきたこと

は、大方の同意を得ることができるであろう。それは、日本近代社会の「病理」と

見なされた「皇国史観」的封建的思惟構造をいかに批判、克服していくかという課

題意識がその出発点となるのだが、その先導者となった丸山真男氏が戦中の論考を

含んだ思想史論集『日本政治思想史研究』を単著として世に問うたのは、一九五三

年のことであった。以降、「近代主義」的手法と呼ばれたその手法の発展継承を目

指す諸論、またそれを正面から批判し、新境地を開拓していく諸論が陸続として誕

生してきたものの、今日に至ってさえも、その影響力が残滓することは否定できな

い。

 戦後の思想史研究において、丸山史学批判の一つの中心になっていったのが、安

丸良夫氏らを代表的論者とした「民衆思想史」という領域である。桂島宣弘氏の初

めての論文集『幕末民衆思想の研究』(文理閣、一九九二年)は、こうした戦後思

想史の流れに確かな位置を与えられるベき著作であった。ここで桂島氏は、思想史

分野での先行研究が、いわゆる頂点思想家を分析対象にしたものが一般的であり、

「民衆史研究」を標榜する研究者においてさえも、豪農の「思想」分析によって事

足れり、とする状況を批判する。そのため、氏は「主として幕末国学と民衆宗教の

二つの分野(略)の絡みの中に民衆思想と当該期の宗教意識や民俗的意識の動態と

の関連・構造を捉え、その問題性を浮かび上がら(同書「はじめに」、一頁)」せ

るため、具体的には「アマテラスと太陽信仰を、幕末国学と民衆宗教を比較しなが

ら検討し(略)社会的意識の中で、一体国学と民衆宗教の両者が、どのような神秩

序に帰結するのか(六頁)」を展開していった。幕末という同じ時空間に存在しな

がら、これまで対比的に扱われることの少なかった両者に二つながらの検討を加え

るという氏の方法論的妙は、「近代天皇制の成立前夜の現場において、儀礼や祭祀

の問題の前提となる神観念が支配との関係において如何に捉えられ、実際には民衆

の中でどのような波紋を提起したのか(三頁)」を明らかにし、民衆思想史研究の

領域に新しい地平をもたらしたのである。

 さて、この旧著から七年を経て、桂島氏が再び世に問うた第二論文集が、『思想

史の十九世紀−「他者」としての徳川日本』である。主題のみから受け取れる印象

は、やや茫漠の感をもたらすが、「まえがき−「他者」としての徳川日本」を一読

すれば、その焦点の当て所が那辺にあるかが、明確になる。「『思想史の十九世紀』

とは(略)十九世紀の画期性に視点を据えた題名であり、『十九世紀の思想史』が

〈連続する一国思想史〉の一こまとして十九世紀にスポットをあてる立場とは、明

確に対立する立場を表明したものである。結論を先取りするならば、本書は『十九

世紀の思想史』が記述する〈連続する一国思想史〉という眼差しが成立したことに

こそ、この十九世紀という時代の画期的意義があることを明らかにしようとしたも

のである」。また「『他者』としての徳川日本」という意味は、「徳川日本の思想

が、決して十九世紀以降の〈連続する一国思想史〉に回収されるような、十九世紀

以降の〈われわれ国民〉(=「自己」)の思想として存在しているものではなく、

〈われわれ国民〉ならざるという意味での『他者』として存在するものであること

が、この副題の意味である(二頁)」。この近代の〈われわれ国民〉の側に徳川思

想を回収していく〈一国思想史〉の構造を「隠蔽」性を気付かせてくれたのが、他

ならぬ徳川時代の人々、たとえば民衆宗教の教祖の言説であったと氏は表白するの

である。

 つまり、本書は、旧著とその分析対象を一部同じくしながらも、氏自身の自己批

判をも含み込みながら、まったく新たな主題展開を見せてくるのである。以下、各

章を極力その問題構制に即する形での略記紹介をしていくこととする。

   ******************

第一章 民衆宗教への眼差し−金光教を中心に

 これまでの民衆宗教研究が、教祖たちの信仰・思想を主たる分析対象としてきた

と批判的に総括する氏は、その視点を信者あるいはその周辺の人々へと転じ、彼ら

が民衆宗教や教祖をどう捉えていたのか、を課題に据える。さらにこの視角は「徳

川時代における民衆宗教への眼差しと近代におけるそれとの差異を摘出し、眼差し

から当該期の思想・信仰空間の変容にアプローチする試み」であるとされ、ここに

本書全体を貫くテーマがはっきり明示された。本章の結論は、「文明−淫祀(迷信)」

という言説が、社会的に威力を保持し続けた結果、現代の研究者サイドでさえ、そ

の眼差しの対自化を為し得なかった点を、おそらく自己批判とともに忸怩たる思い

で語り、「徳川時代の民衆の思想・宗教空間は、こうした近代の眼差し、絶対的に

映じた「文明」の眼差しを払拭して、初めてその姿をわれわれの前に現すものなの

である(三六頁)」と断ずる。

第二章 金光教の神観念とその変容

 氏は、旧著『幕末民衆思想の研究』の中で、幕末民衆宗教をめぐる先行研究が、

「一神教」的な神観念を持つその「近代性」を高く評価してきたことへの批判を展

開してきた。本章はその問題意識を持続しつつも、「神のありようというものは、

西洋的それと異なっていることはむろんであるとして、今日のわれわれ、近代のこ

ちら側にいるわれわれとも、随分異なっているのではないかと思われる(四五頁)」

という疑問を呈し、「近代化」が民衆宗教にもたらしたものを考察しようとする。

そして、「近代化」=「国民国家」確立過程 が、金光教においては、「主神」であ

る「天地金乃神」の確立過程・整序過程と重なり、それ自体が赤沢文治の「働きと

しての神」の「風化」過程であったように思える、とまとめる。

第三章 「病気」と「直し」の言説−赤沢文治・近代への路程

 第二章での先行研究批判にみるように、民衆宗教の評価軸をその「近代性」に置

く論者にとって、最も扱いにくい事象はその「病気直し」の言説であるという。そ

れは、われわれ自身が近代主義的な「病気」観、「医療」観に囚われていることを

逆に証明する事とされ、本章はこの「変容」過程からそれが秩序化されていくこと

を跡付けていく。つまり、近世においては、「病気」=「難儀」は、何よりも神々

との「関係的」問題として現出し、赤沢文治の「病気直し」とは、人々の「関係」

を再構築するものであった。それが、近代的「医療」の登場によって、文治らのそ

れは「迷信」として払拭され、「関係的直し」が近代的「病気」治癒の言説へ「知

覚」変換をさせられていくことが明らかにされる。

第四章 平田派国学者の「読書」とその言説

 本章では、「『読書』行為を中心とした知識人社会の外側に位置せざるを得なか

った(九三頁)」平田篤胤および彼の門人の「知」のありようを探る。それは、外

部の既成知識人社会からは「考証」とは程遠いものと認知された平田派の「文献学

的『考証』」が「実事」または「奇談」と融合して生成されてくるものであったが

、そこに平田派国学が保有した特異な言説空間を看取できるとする。そして、それ

らは近代の「学知」からは、非文献的・非学問的なものとしてその存在自体が隠蔽

されていってしまう結末を迎えるとされる。

第五章 幕末国学の転回と佐藤信淵の思想−『天柱記』と『鎔造化育論』を中心に

 「剽窃家」佐藤信淵が寄せ集めた知識・情報の傾向性が、幕末国学の思想的趨勢

といかなる関係にあったのか、その宇宙創造論と「幽冥」論を中心に検討する。そ

の結論として、信淵の言説が「天学」に似せた宇宙論を強く有したものであり、神

学的色彩は平田篤胤のそれより希薄になっていることを明らかにする。しかも、そ

れは近代の「学知」をもって、われわれが彼を「剽窃家」と断ずる以前の、国学的

宇宙論に共有された思考様式の中に信淵が「公認されて存在した」点を読み取るの

である。

第六章 明治初年の国学者の神秩序構想

 氏は、明治初年の国学者の神秩序の言説を、(1)アマテラス・天皇に一元的に整序

された「顕教」的色彩の強い大国派的言説、(2)アマテラス一元的でありながらも、

「顕幽」二元のバランスの上に立ち、その分天皇論に一元的に収斂し得ない言説、

(3)造化三神・「顕幽」二元論的構造の上に立つ「幽教」的色彩の強い平田派直系的

言説の大略三つの枠に整理する。しかし、次第にそれらが(1)へと収斂していくこと

を、「平田派国学の思想史的意義を「幽冥」思想の展開・独自の神秩序構想の展開

と見るならば、幕末から明治初年の平田派の思想過程は、その政治的活動の華々し

さとは別に、実はその思想が急速に枯渇していく過程であったことは否定すべきも

ない(一三七頁)」と、まとめる。

第七章 「華夷」思想の解体と国学的「自己」像の生成

 徳川日本における「自−他」認識の転回過程を捉えるため、ここでは「華夷」思

想を三つの範疇に整理する。まず第一は、「礼・文中華主義」に基づく「自己」像

とされ、〈外部性の精神〉を保持した十七世紀の儒者の思想がそれとして措定され

る。第二は明清交代=「華夷変態」を背景にした「日本的内部」を自覚してきた「

日本型華夷思想」(十七世紀後半から十八世紀前半の儒者の思想)。第三は、十八

世紀半ば以降に垂加神道思想に顕著になる「日本中華主義」であるとされる。これ

らの言説は儒教的「華夷」思想を前提とした同じ範疇の言説であり、いかに極端な

日本賛美をしていようと〈日本−中国〉という比較の観点は保たれていたが、それ

らを解体せしめ、国学的「自己」像を誕生させていったのは、賀茂真淵『国意考』

であった、とする。

第八章 アジア主義の生成と転回−徳川思想史からの照射の試み

 前章で扱った問題を再度検討し、幕末期の思想が、「基準」を失った「他者喪失」

の言説へ転じていく点に、たとえば「普遍」を装う「自己言及」として、「外国説」

の「比考」による「皇国」の語りだしをしていくさまに、十九世紀前半の問題性を

見た上、近代日本の「自ー他」認識へ大胆な切り込みを見せるのが本章である。氏

は近代日本におけるこの分析の前提として、「アジア主義者」(ここでは、樽井藤

吉、岡倉天心らがその対象)の「東洋−西洋」認識、および福沢諭吉の「文明−非

文明」認識に注目する。そして、「アジア『連帯的』に映じてきたアジア主義者の

言説が、徳川時代後期に端を発した『閉塞的自己言及』を『東洋ー西洋』論の認識

枠の中で行なうものにすぎなかったことや、『文明−非文明』という新たな言説も、

おそらくこれに強く掣肘を受けたもの(二二五頁)」として存在したことを、まさ

しく「思想史の十九世紀」として解いていく。

第九章 教派神道の成立−「宗教」という眼差しの成立と金光教

 近代日本における「宗教」概念の検討および「祭神」論争を経た教派神道の成立

過程を考察した上、「民衆宗教に対しては、それがいかに『文明』の『宗教』たる

ことを主張しようとも、『淫祀邪教』視する眼差しが絶えず注がれ、幕末国学に対

しては、『宗教』ならざる尊皇論の一源流としての位置づけが絶えず行われたから

である。だが、こうした眼差し自体が、十九世紀一杯を通じて何が隠蔽されようと

してきたのかを克明に物語っている。そしてその隠蔽の産物としての、『宗教』と

しての神道、あるいは『宗教』ならざる神道という言説が、近代に構成されていっ

たのである(二五八頁)」という結語を導く。

第十章 近代国史学の成立−「考証史学」を中心に

 〈歴史学の歴史性〉を「近代史学のもつ理論それ自体の検討」によって示してい

くため、「考証史学(アカデミズム史学)」の〈無思想性の思想性〉と言われるこ

とを検討していくのが、本章である。そして重野安繹を中心にした分析の結論とし

て、「「考証史学」とは、「無思想」「没論理的」なものでは済まされない、すぐ

れて明治二十年代以降の「西洋学」受容の動向、ことに〈自然科学主義〉的な学問

と連動し、かつそれは儒教観自体の変容と密接に関わるものであった(二八五頁)」

とされる。そして内田銀蔵なども実は「科学的「考証史学」の忠実な継承者」と捉

え直す必要を訴え、「考証史学」が後に「無思想」性と語られる因は、重野らが構

築した学知体系内にある後学者による語りの再生産にあったと見る。

   ******************

 「〈歴史理論の歴史性〉に対する問題意識は急速に枯渇し、制度化された歴史学

的言説のみがますます細分化された実証主義的研究として、機械的再生産されてい

る状況さえ招来しているかのようだ」という桂島氏の怒りが、第十章に見える(二

六七頁)が、氏は自らの「歴史学」また「思想史学」を現代社会の政治・思想状況

に厳しく対峙させる中で、その方法論を先鋭化させてきた。前著『幕末民衆思想の

研究』においては、近代天皇制成立前夜における「神観念」を民衆宗教、幕末国学、

そして近代天皇制との交錯、齟齬の中に描きだすことに、〈実証的〉な意味におい

ても、成功してきた。

 この視座のさらなる深化を目論み、格闘した所産が、旧著の自己批判をも盛り込

んだ本書に他ならない。「まえがき」の項で紹介したその謂いの一部を再説すれば、

〈われわれ国民〉ならざる「他者」徳川日本の存在から、〈連続する一国思想史学〉

という眼差しの成立を批判することにある。この課題は、旧著で扱った対象のうち、

とりわけ民衆宗教論において顕著な展開を見る。そしてそれは流行神「金神」への

眼差しを、「文明」−「淫祀邪教」視する眼差しとして摘出した第一章と教祖の「

病気直し」を扱った第三章などにおいて、現在の「新(々)宗教」に対する眼差し

を後景に置きつつ、「他者」としての思考を失っていったこの「十九世紀」の問題

性を焙りだすことに成功している。

 つまり、本書で明確に打ち出されている新たな論点の一つは、「自−他」関係論

であろうが、その論点が集約的に展開されてくるのが、第七・八章である。ここで

は、徳川時代の「自−他」認識の中心にあった「華夷思想」が十九世紀に解体を遂

げ、国学的な「自己言及」へと収斂していくこと、さらには近代の対外思想として

対比的に示される「脱亜」「興亜」論が、ともに徳川時代末期に誕生した「閉塞的

自己言及」の枠内で行なわれるものに過ぎないとの内容が展開された。特に後者の

指摘は、「近世思想史」「近代思想史」の〈棲み分け〉により分断されていた対外

思想史研究、とりわけ既成の「アジア主義」研究に大きく石を投げ入れるものであ

る。物理的にも百年のスパンが取られており、「思想史の十九世紀」という主題が

最も適合する本書白眉の論文であろう。

 また本書がこうした「他者」性の問題を近代的「学知」と重ね合わせて展開され

る点も、われわれに多くの課題を突き付ける。「宗教」「医療」などをめぐる議論

の過程でその「学知」との関係性が検討されてきたことは繰り返すまでもない。と

りわけ、この問題への関心は、必然的に氏が自らの「刀」とする「歴史学」をめぐ

る自己検証へ至るのであり、その一試論が「考証史学」をめぐる第十章であったわ

けである。しかし、実は「まえがき」で明記されているように、本書の隠された真

の主題は、〈一国思想史学〉という学知の成立とそれへの批判にあるように思える

(本来ならば、本書に収めるべき桂島氏著「一国思想史学の成立−帝国日本の形成

と日本思想史の『発見』」は、西川長夫他編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の

形成』柏書房、一九九九年に含まれている。合わせて参考にされたい)。これまで

ほとんど自明視され、不問に付されてきた〈われわれ〉の〈思想史学〉が何処に立

っているのかを絶えず検証しつつ、「「他者」としての徳川日本」を語ろうとした

点に、私は本書の最大の問題性を看取したいと思う。

 ここで私が「問題性」という語を用いたのは、二つの意味がある。一つは、本書

がきわめて刺激的論争的な方法の書である、という評価の文脈においてである。論

点の置き所は変容しているが、氏は第一論文集と同様に、思想史研究上に大きな石

を投げ入れたことになる。もう一つはこの評価と表裏の関係でもあるのだが、方法

論的枠組みが極めて明確かつ大なるため、そこに配置された対象の意味合いが相対

的に矮化されているかの観を持つ場面もある、という批判的文脈においてである。

たとえば、国学者の宇宙論、神秩序論を扱った五・六章は、近代化過程を通じた「

知」の変容という意味では、本書のテーマに収まる所以が理解できるが、正直な感

想を述べれば、これらは旧著的問題構制の方に配置した方が良く、本書では居ごこ

ち悪そうなのが気にかかる。つまり、本書の視座は各章において、基本的に貫徹さ

れているのだが、その練り上げ方にやや精疎が見られるということである。一つ極

論を言えば、七・八章的な主題展開の比重を高める形での問題構制がなされれば、

より本書の意図が明確になったのでは、とも思う。

 この妄言は措くとして、本書は歴史学、また近代の「学知」に関心を持つすべて

の人々に読まれるべき著作であることは間違いない。提起された問題の解決には、

遙遠な作業が必要かもしれない。しかし、絶えざる方法論的検討を自己に課しつつ、

共有できる場を少しづつ拡大していくことが、今求められているように思う。「十

九世紀」という括りからこそ逸脱するものの、本書で展開された方法論は、昨今の

「戦争美化」論などのキナ臭い政治状況に対抗し、その根源をきれいに抉るべきヒ

ントも示唆されている。本書は、このような広がりを持つ思想書であることも付言

しておきたい。