大韓民国探訪記

(未完)

<もくじ>
韓国に行ってきました
2002年12月29日 キムチくさくない空港明洞で夕食
2002年12月30日 景福宮板門店ツアーへ臨津閣・分断の河キャンプ・ボニファス 国連軍最前線基地板門店・凍てつく大地

2002年12月31日 ソウル市内観光(明洞→富谷→恵化→独立門→延世大学→弘益大学→ホテル)
2003年1月1日 ソウル→慶州→仏国寺→浦項(浦項工科大学)→慶州→清涼里(ソウル)
2003年1月2日 清涼里→議政府→新炭里→議政府→高麗大学→ソウル駅→仁川空港→成田空港

韓国に行って来ました

 韓国には一度は行きたいと思っていた。
 私たちは日本にいて、隣国である韓国、そして北朝鮮は本来は身近な存在である。だが、はっきりいって、報道される情報から得る印象は、必ずしも良くはない。日韓関係、日朝関係には、日本海(東海?)よりも深い溝があるようだ。
だが、私は考えていた。「自分の目で見なければわからない」と。現に中国がそうだった。私は中国、台湾に行ったことがあるが、どちらも魅力的だった。中国は政治面で多くの課題を抱えていることは事実ではあるが、中国に対して批判的な政治家や言論人の多くは、実際に中国に行ったり、中国人と話したことがないのではないだろうか。逆に、彼らの一部が望む思考に取り込まれているような人もいるが、どちらも健全とはいえない。いずれにせよ、現地に足を運び、人と話をすると、かなり印象は違ってくる。だから、韓国に行けば、間違いなく、私の中での韓国の印象は良くなるだろうと思った。

キムチくさくない空港 2002.12.29

 はっきりいって私は飛行機が大嫌いである。テロで物騒な世の中だから尚更だ。だが、海外旅行をしたい衝動には勝てない。日本エアシステムの中型機は、さわやかに仁川(インチョン)空港に着陸した。
 できたばかりの真新しい空港である。香港もそうだったが、成田や関空のようなガラス張りのハイテクなつくりで、あまり外国に来た気がしない。空港の設備はどこも似たようなものだ。中国やベトナムの古い空港では、なんともいえない暗い雰囲気があったが、英文、日本語、中国語、ハングルで表記された案内板を見ても、もはや日本にもそうしたものがあるため、あまり珍しさを感じない。ハングルの広告を見ても、そんなに感動しない。わずかとはいえ、海外旅行経験があると、いちいちそんなことで感動はしないものだ。ただ、今回の旅には海外旅行初体験の同行者がいるため、彼は物珍しそうにいろいろ眺めている。
 手続きを終えて空港を出てみる。かつて金浦(キムポ)空港に降り立った友人が「空港に着いたとたんキムチくさくて、韓国に来たなあ〜って思ったよ」といっていたので、かなり期待していたのだが、まったくそんなことはなくて、本当に関空に降り立ったみたいだった。ただ、日本と決定的に違うのは、突き刺すような寒さである。これが大陸の大気だろうか。

 その代わりに「外国に来たなあ」と実感したのは、税関で喧嘩が起きていたからである。ものすごい音量で中年女性の罵声が響き渡っているので、なんだろうと思い、行ってみると、税関の職員4・5人と、中年夫婦が対峙していて、その女性が大変な剣幕で怒りをぶつけていた。何か手続きで気に入らないことがあったらしいが、全部ハングルなので理解不能である。隣にいるヒョロリとしたなんとも弱そうな夫は、オバタリアン(死語)のような恰幅のいい妻を必死になだめているのだが、彼女は夫の静止など聞きもしない。どうも問題はすでに解決しているようで、あとは彼女の腹の虫だけなのだろう。面白いのは、日本だったら職員は本当に腹が立つほどお役所的に無味乾燥に応対するのだろうが、こちらの税関職員氏は大変にヒートアップしていて、オバハン相手に口論で一歩も引かない。国民性の違いだろうか。以前台湾に行ったときも、駅員と客の壮絶なバトルを見たが、日本人はテンションが低いね。
 結局、「双方が」捨て台詞を吐いて去っていった。税関職員も他の職員になだめられ、妻は夫になだめられて外に出て行った。いやはや、コントのような場面であった。
 バスでソウル市内に移動する。空港は郊外なので、冬枯れの田園風景が続く。韓国風の瓦屋根の古い家屋はなかなか趣があったが、30階建てぐらいの細長いマンションが、日本の比ではないほど高密度に立ち並んでくると、もうソウル市街地である。バスしか交通手段が無いとはいえ(将来鉄道ができる)。成田空港よりも交通の便ははるかにいい。
 予約したホテルに荷物を置き、夕食を兼ねて散策に出かける。ソウル一の繁華街といわれる明洞(ミョンドン)に宿をとった。ここは日本でいうと新宿のような感じの繁華街らしい。

明洞で夕食

 明洞は歩行者天国になった通りが縦横に走っており、その通りには屋台や露店が建ち並んで、お祭のようになっていた。家族連れを中心に老若男女が行き交っている。韓国では旧正月を祝うのが主流だが、普通に年末の活気があった。ほとんど日本語の会話の無い中を歩くのは、異国情緒があって楽しいものだ。しかし、ある店からは浜崎あゆみが聞こえてくる。アレ? 日本文化はOKになったのでしょうか。
 そぞろ歩くには寒いので、さっさと食事をすることにした。明洞は有名観光地でもあるので、日本語表記の店も多い。だが、我々はひねくれているので、わざと日本人のこないような大衆食堂に入った。メニューは全部ハングルだが、ガイドブックで解読する。
 ここで、信じられないことが起きた。同行者が「漬物嫌い」だというのだ。すなわちキムチ関係は全滅、ビビンパすら食べられないという。私は本場のビビンパに意欲を燃やしてきたというのに。そこで彼はプルコギ(韓国のすき焼き)を頼んだ。私は石焼ビビンパ、そしてトッポッキ(辛い味噌に餅や野菜を煮込んだもの)、キムパプ(韓国の巻き寿司)を注文する。
 韓国の食堂では、単品メニューを頼んでも、無条件にキムチやスープ、ナムルなどが出てくる、しかも、これらは食べ終わると店員が勝手に追加してくる強制バイキング方式。こちらが降参するまで終わらない。ビビンパは日本円で500円ほどだったが、キムチとナムルが無限に出てくるので、張り切って食べ過ぎてしまった。やはり本場はうまい。
 コンビニでデザートを購入してホテルに戻る。海外名物の「変なジュース」を買うのも私の旅の楽しみである。今までの我が最高傑作は台湾の「アスパラガスジュース(加糖)」だったが、ここでは「松やにジュース」という狂ったものを発見。当然買う。缶には松の葉のイラスト。飲んでみると(以下略)。
 テレビでは歌謡祭のような番組をやっており、BoAがハングルで歌っていた。当然といえば当然なのだが、なんだか新鮮である。

景福宮(キョンボックン) 2002.12.30

 目がさめて、ここが自宅でないことを思い出す。自分は韓国にいたのだ。今日はいよいよ今回の旅の主目的である板門店に行くのだが、このツアーはお昼に集合なので、午前中は市内観光をすることにした。
 やはりソウルといえば景福宮であろうと思い、ホテルから歩いていく。片側8車線の広大な世宗路にそびえ立つ李舜臣像を眺めつつ北上。ダンキンドーナツで朝食をとり、朝の寒い寒い中、景福宮に到着した。道路には横断歩道がほとんどなく、遠くの地下道まであるいていかなくてはいけないのが面倒だが、防空壕として地下移動が推奨されているので仕方がない。
景福宮は李氏朝鮮の代表的な宮殿である。が、どの建物も新しく再建中で、なんだかテーマパークを見ているような印象だった。中央の勤政殿は工事で全体を囲われているし、閔妃暗殺現場も工事中で入れない。なぜ再建中の新しい建物ばかりかというと、秀吉や日帝が破壊した以外に、この宮殿が廃されて荒廃していた時代もあったからである。かつて朝鮮総督府が立っていた広大な空き地にたたずみ、過ぎ去ったこの地のいにしえを偲んだ。

板門店ツアーへ

 まあ、それほど景福宮には感慨もなく、ごちゃごちゃと商店が並ぶ裏街道を散策しながら、ロッテホテルにやってきた。ここの2階に旅行社が入居している。
 ソウル観光をする日本人はたくさんいる。だが、板門店にはなかなか行けない。パックツアーにはまず組み込まれないし、板門店ツアーを専門にやっている現地の旅行社に申し込まなければいけないなど、いろいろ面倒なのだ。だが今回我々はどうしても板門店にいきたかったので、いろいろ作戦を立て、特殊なルートで(合法です。念のため)日本国内からこの板門店ツアーに申し込むことができた。年末ということもあり、翌日からは休暇になってしまうギリギリのチャンスであった。
旅行社の事務所は航空会社のカウンターのように狭く、待合室ぐらいのイスが少しあり、数人の日本人客が座っていた。板門店にまつわるパンフや書籍が販売されており、テレビからは下手な日本語で朝鮮戦争のビデオを放映している。今回のツアーは日本語なので、大半が日本人客である。我々は早く着きすぎたようなので、しばらくビデオを見ていた。
 ビデオは当然ながら韓国の史観である。卑怯な北韓(プクハン。韓国では北朝鮮をこう呼ぶ)の共産軍が大韓民国を侵略してきた。かれらの不意打ちによって我らが軍は釜山近郊まで追い詰められたが、仁川上陸作戦で挽回、中国との国境まで共産軍を追い詰めた。ところが中共軍が参戦。膠着状態に。朝鮮戦争は1950〜53だが、派手な戦闘は最初の1年だけだったらしい。
 「卑怯な共産軍は、自分たちが負けそうになると和平を提案してきました」。本当にこう言った。まあ、全体がこんなノリのビデオである。これが20分ぐらいでエンドレスに流れていた。それを2周ほどしたころ、ようやく受付が始まったので、日本から持参したチケットを提出し、案内されたバスに乗り込んだ。



 日本とは車線が逆なので、バスも左にドアがある。なんとも不慣れで珍しい。バスは日本にもよくある客席の高いハイデッカーの観光バス。日本人が40人ほど乗り込んでほぼ満席になった。
 ガイドの中年女性が乗り込んできて、「みなさんこんにちは」と挨拶(日本語)、そして「私は鄭姫淑です(韓国読みで名乗ったのだがメモし忘れた)、運転手は朴●●です(忘れた)」と自己紹介をした。
 このツアー、板門店までいきなり行くわけではない。まずは1時間ほど走った臨津閣(イムジンガク)に行き、そこで昼食休憩をとるという。バスは市街地を抜け、高規格な高速道路を走る。地図を見た私はてっきり国道一号線「統一路」を北上するのだと思ったが、この道路は「自由路」といい、国道のバイパス的な道路で、来るべき平壌へと続く高速道路の一部なのであった。この道路は漢江(ハンガン)に沿って走る。
 車内ではガイドの鄭さんによって、板門店の説明を受ける。なぜ38度線が誕生したのか、日本軍の管轄の分界点だったらしい。終戦直前には38度線の北を関東軍、南を広島軍管区が管轄していた。別に日本は朝鮮を南北に分断する意図があったわけではない。しかし、満州に侵攻したソ連軍は、ぴったり38度線の北まで進駐し、南はアメリカになった。あとはご存知のとおりである。
 「漢江をご覧ください。スパイが入り込まないように二重の有刺鉄線で高速道路を囲んであります。この有刺鉄線にはトゲではなくてカミソリの歯が突き出ています。200メートルごとに警備員がいます」。とても物騒である。ソウル市内で地下鉄に乗っていても、「スパイを見つけたら電話はこちら」なんてポスターが貼ってあるし、恐ろしい話だ。
 「この自由路は2000年の南北会談に合わせて作られました。いずれは平壌、そして新義州(シニジュ。中国国境の町)に続くべき高速道路なのです」。このほかにもガイドさんからは、韓国の徴兵制度などの話を聞いた。26ヶ月もの兵役は心から勘弁して欲しいので、日本人に生まれたことを感謝。しかし、普通の日本人と韓国人がケンカしたら、兵役のある韓国人が100%勝つに違いない。
 やがて、バスは漢江と臨津江の合流地点にさしかかった。天気が悪くてよく見えないが、この臨津江の向こうは、もう、あの国である。

臨津閣・分断の河


臨津閣からのぞむ臨津江と「自由の橋」。中央の木橋が2000年に開放された。左の橋が京義線。中央の碑は「望拝壇」。この河を、一般人は越えることができない。

 高速道路は唐突に終わった。そこから冬枯れの田んぼの中をしばらく走ると、なにやら殺風景な遊園地をすぎ、3階建てのコンクリートの建物に到着した。「臨津閣に着きました。1時間休憩をします。お食事をご用意していますので中に入ってください」。鄭さんに促されて一同移動。
 臨津閣とは何か。ここは、一般人が来ることができる北限である。目の前には日本でも歌で有名な臨津江(イムジンガン)が流れている。この河の上流は、北朝鮮。この河を渡る橋は、板門店に続く道のみである。この建物では朝鮮戦争当時の展示品や写真が展示され(韓国では「韓国戦争」という)、お土産を売っていたり、レストランや小さな遊園地もあり、普通の観光地のようになっているが、遊び半分で来るような場所ではない。
 食堂ではプルコギ定食が用意されていた。日本の定食屋のように、靴を脱いで畳の上に上がり、木の机の上で調理して食べるので、異国に来た気がしない。プルコギはなかなかうまかったのだが、我々は焦っていた。
なぜなら、食事をする時間を含め、ここに1時間しかいないのである。ここには見るべきものが沢山あり、時間が惜しい。プルコギの生肉が煮えるのが実にゆっくりに感じられた。
 あわただしく食事を済ませ、展望台に登ってみる。目の前には「自由の橋」。これは、日本が作った鉄道「京義線」の鉄橋であり、平壌へと続いていた。複線だったのだが、片方は朝鮮戦争で破壊され、見るも無残な廃線跡になっていた。ここは、鉄道の上下線の間に挟まれた場所なのであった。朝鮮戦争後は、板門店に行く唯一の橋として、道路橋に転用されたが、2000年の南北会談後、南北鉄道連結のためにこの橋は鉄道橋として復活し、鉄道は非武装地帯(DMZ)まで延長された。といっても北朝鮮とはまだ繋がっておらず、利用する住民もいないので、1日数本観光列車が走るだけである。とはいえ、この橋から北には誰も行けなかったことを考えると、かなりの進歩といえる。はずだった……。ちなみに、この鉄橋のたもとにある韓国軍の警備室は撮影禁止だと言われたが、どうがんばっても写ってしまうのですが。

 「自由の橋」のたもとに行ってみる。「自由の橋」が鉄道橋として復活したため、従来一般人が近づくことが許されなかったこの橋へのアプローチが、ほんの数メートルだが一般開放された。北朝鮮に行く唯一の道であったこの木橋は、いまや無用の長物となったわけだが、観光スポットとして、臨津江訪問者で賑わっている。この橋と鉄道線路との境は厳重に警備され、例の「カミソリ有刺鉄線」で塞がれていた。近づいてみると、カッターナイフの歯のようなものが、鉄線からやたらと突き出ている。さすがに背筋が寒くなった。
 橋の中央には、こんな銘板が刻み込まれていた。

 「ここまで来に50年」。微妙に文法が間違っている気もするが、なぜか日本語で書かれたこの言葉は、日本人である私の胸に深く突き刺さった。50年。あまりにも長い。だが、その悲しみの歴史は、50年という節目で終わることは無く、続いているという、現実があった。この橋が一般開放された2000年、南北関係は雪解けムードがあった。鉄道も、明日にでも繋がりそうだった。それなのに……。

 橋のたもとの公園のような広場には、いろいろな碑が立っている。鉄道と道路が北朝鮮の都市「開城(ケソン)」まで続いている完成予想図は一見明るいが、工事は遅々として進まない。そして、北に故郷を残してきた人びとの記念碑がいくつか建っている。
 なかでも、「望拝壇」は、辛く、悲しいモニュメントである。朝鮮戦争当時、戦火と共産主義を逃れて、多くの人々が着の身着のまま南へ移動した。まさか、二度と戻れないなんて、思わなかっただろう。彼らの知らないところで、ある日突然休戦協定が結ばれ、いきなり往来が不可になった。朝、買い物や仕事にでかけて、二度と戻れなくなった人々が、続出したのだ。そんなわけで南の人口が増え、現在は北の人口は2000万人、南は4000万人。離散家族は500万とも1000万ともいう。関係ないが朝鮮半島の国土の45%が韓国、55%が北朝鮮。数字にしてみると、分断の悲惨な現実が迫ってくる。
 南に逃れた人たちには、痛恨の極みともいえる人生の一大事が起きた。

 墓が北朝鮮にあるのだ。

 日本人や中国人以上に儒教の影響を強く受けている朝鮮民族にとって、祖先の供養ができないほどの苦しみは無い。仕方なく彼らは、韓国の北限であるこの地に年一度集まり、法事を行なう。その悲哀と苦痛、きっと私が想像したところで、計り知れない。
 臨津閣には、日本時代のSLと客車が展示してある。この鉄道がいつか再び北へと走る日が来るのだろうか。

キャンプ・ボニファス 国連軍最前線基地

 1時間はあっという間に過ぎ(30分は食事だったわけだし)、バスに乗り込む。「いよいよここから一般人立ち入り禁止区域です」。バスは再び広い道路にもどる。かつて板門店に行く唯一の道だった「自由の橋」が鉄道橋になったため、高速道路のような立派な新しい橋「統一大橋」が臨津江に懸かった。だが、この橋、ちょっと特殊である。
 まず、橋に至る道路には、コンクリートのトンネルのようなかたまりがいくつも設置してある。陸からの侵攻の際、これを破壊して道路障害とするのだ。そして、橋は巨大なコンクリートブロックがいくつも置かれ、ジグザグ走行しなければいけなくなっている。極めつけは橋のたもとの検問だ。迷彩服の韓国軍人がたくさんいる。
 ここでバスは止まり、ラフな私服の韓国軍人がパスポートチェックに車内に乗り込んできた。全員パスポートチェックを受ける。また、バスの車内や車体の下に爆弾などが隠してないか、念入りにチェックする。
 OKが出て、統一大橋を渡る。なんと今自分は臨津江の向こう岸にきてしまったのだ、まさに「彼岸」。さあ、生きて帰れるのか。

 もう誰も住んでいない土地。バスは広い道をしばらく走る。すると、雑木林が開けてきて、国連軍の基地に着いた。ここはキャンプ・ボニファス。一般道はここで終わりである。
 ボニファスとは、1976年に板門店で北の軍人に殺された米兵である。その理由は後述するが、彼の名を冠したこの基地は、国連軍基地という名の、事実上の米軍基地で、韓国軍もいる。24時間戦闘態勢を取っており、就寝中も軍服。有事には寝ていても60秒で出動できるという。ここはもう、戦場なのだ。
 ここで一旦バスを降りる。キャンプ・ボニファスでは多くの軍人が生活しているので、小さな町のようになっており、店などもある。まずは会議室に入り、韓国人客と一緒に、全部ハングルで説明を受ける。我々はイヤホンを借りて、ガイドさんの日本語を聞く。内容はロッテホテルの旅行社で見たビデオと同じような、38度線の成立過程の話であった。
 説明後、誓約書が配布される。これがあの有名な「何か起きても命の保証はない」という奴だ。「敵の攻撃によって死亡する場合がありますが、韓国政府は一切の責任を取らない」などという文章が続く。これにサインをしなければ、先には進めない。
 かなりの緊張感である。が、「しょせんは形式的なもの」と安易にサインをし、ガイドさんに渡す。まあ、これを経なければ先に勧めないし。
 しばらくキャンプ・ボニファスで待つ。板門店に行くのだから少しはもったいつけたほうがいいのだが、トイレ以外に移動は禁止だから、退屈であった。
 やがて、バスが来た。今までの観光バスの運転手はここで待機。新しいバスに乗り換える。青いバスには白くUNの文字。人生で「国連バス」なんて乗るのは何度もない機会だ。国連バスは観光バスではなく、簡素な路線バス仕様であった。

 ガイドさんはそのまま乗り込む。運転士は韓国軍人とおぼしき人。そして、新たに、迷彩服の米兵が一人乗ってきた。金髪碧眼で背が高く鼻も高い。いかにも米兵イメージそのままである。
 バスは、ついに出発した。道は、バスがやっとすれ違えるぐらいの、狭い一車線になった。まわりは雑木林。でも、ガイドさんが「右手をご覧ください。地雷原です」などという。こんな心細い道でも、平壌へ続く、唯一の「国道一号線」なのだ。ふと見ると、鷺が何羽もいる。ガイドさんからは、「非武装地帯は50年で自然の宝庫、野鳥の楽園になりました。統一後も自然保護区のように残し、38度線はグリーンベルトになるだろうと言われています」と説明を受けた。ここで、以前板門店に行った人から聞いた「あの鳥は自由に北へ飛んでいける。でも我々には」という感動のコメントを期待したのだが、出なかった。
 例の道路障害用コンクリートブロックの遮断をいくつも越える。だが、ふと見ると、こんなデンジャラスゾーンに、田んぼがある。???
 これは、韓国最北の村、「宣伝村」の田んぼであった。極限で対峙する南北は、互いの国の裕福さを競うために、相手に見える位置に村を作って宣伝をしている。ただし、現在は、北の村には軍人だけで村民がいないことがバレている。互いの村は、北が165メートル、南が130メートルの世界一高い国旗掲揚塔を建てたりなど、くだらないことで競い合っている。くだらないが、笑えない。
 南の「宣伝村」は、北とは違い、ちゃんと戦前からここに暮らしていた人の村である。こんな恐ろしいところに住むとは根性のある村民だ。彼らは24時間軍に守られて暮らし、兵役が免除されている。しかし、村を出て他の場所に引っ越すことは認められているが、他の場所からこの村に引っ越すことは認められない。ここではDMZ米という特産米がある。まったく開発の手が及ばないので、空気も水もきれいなのでおいしくて人気があるそうだ。

 高速道路の料金所みたいな検問所で、バスはしばらく足止めを食らう。もう板門店は目前なのだが、一度に90名までしか板門店には入場が許可されないため、前のツアー客が詰まっていると、待たされるのだ。ここでは、随分待たされた。さすがに板門店、簡単には到達できない。
 正直、待つのは嫌いだ。イライラしてきた。ソウルからここまで、随分時間をかけて来たのに、目前まで来て、また待たされるとは。時間をとても長く感じた。
 検問所の向こうから、国連バスが3台出てきた。前の見学者だ。ようやく我々のバスが動き出した。そして、それはいきなり現れた。

板門店・凍てつく大地

 ここに至るまで、何度も休憩や関門があったため、随分と遠い道のりのように考えていた。だが、最後の検問を抜け、ほんの10秒ほどで、私たちは「板門店」に到着した。痛恨の民族分断の地である。
 車窓に真っ先に見えたのは、コンクリート製の2階建てのビルである。これは、「板門閣」といい、北朝鮮側の施設である。


 とうとう来てしまった。正面のビルが北朝鮮の「板門閣」。正式には2階建。真ん中の灰色の小屋は北朝鮮所有、左の青い小屋は韓国所有。この小屋(軍事停戦委員会会議室)の中央を38度線が横切っている。左端の人物は国連軍兵士(韓国人)。少々天気が悪く、暗い写真になってしまったが、もはやそれどころではない。

 バスはゆっくりと左にカーブし、デパートのような綺麗なガラス張りのビルの前に止まった。
 ここが「JSA(Joint Security Area)」、国連軍と北朝鮮軍の共同警備区域である。南北双方とも、行政管轄権がない。
 このデパートビルは、「自由の家」といい、韓国側の建物である。カバンを車内に置き、カメラだけを持って降りる。カバンの中に何か隠していないかと「敵」が疑い、危害を加える可能性があるからだという。また、「北朝鮮兵に絶対に手を振らないように」ときつく注意された。
 バスを降りてからは、必ず2列になって行動する。2人の客に一人の韓国兵が警備に就くためだそうである。いくら日本人集団とはいえ、さすがに無駄口をたたく者はいない。が、全員が整列し終わったのに、カメラを取りにバスに戻るおばちゃんが一人いた。勘弁してくれよ。
 ガイドさんと韓国兵を先頭に、ビルに入る。ガラスを多用し、中は吹き抜けになっており、本当にデパートのようだが、この建物はまだ新しい。以前はもっと古い平屋建ての小屋だったのだが、北朝鮮のビルに対抗してか、新しいビルはかなり近代的である、はっきりと経済力で差をつけたということを、北側に誇示しているのかもしれない。
 階段で2階に上がると、そこが軍事境界線上に位置する軍事停戦委員会会議室への出口だった。「ここから会議室に移動します。絶対に列を乱さないでください」ときつく警告され、いよいよデパートビルを出る。自動扉だった。

 目の前には、青い小屋がいくつか並んでいる。これが、軍事停戦委員会会議室。何棟かあり、青い建物は韓国所有、灰色の建物は北朝鮮所有となっている。北朝鮮の板門閣までは、もう100メートルほどしかない。建物は韓国側の兵数人で警備している。建物の影に左半身を隠し、右半身だけ外に出して、サングラスの先は北朝鮮を凝視しているのだろうか。視線を読まれないために普段から韓国兵はサングラスをしている。夜間や雨天時は知らないが。なぜか北朝鮮兵の姿はまったく見えない。本来ならこの建物の反対側で韓国兵と同じように警備している筈である。
 またたくまに一同、会議室に入る。そそくさと説明を受け、10分間だけ撮影自由と言われた。各自あわてて撮影に励む。
 この部屋は、38度の軍事境界線の真上に立っている。中央に机があり、そこにいくつかマイクがおいてあるが、そのマイクとマイクの間は38度線。外を見れば、38度線のコンクリートブロック。
 そう、我々は今、北朝鮮に居るのだ。


 マイクがあるところが軍事境界線。写真の右のイスは北朝鮮、左は韓国。写真の韓国兵は、右半身が韓国、左半身が北朝鮮ということになる。

 部屋の中央には微動だにせず韓国兵が直立している。撮影可だと言うので写真を撮らせて頂く。ここを警備できるのは、ソウル大、高麗大、延世大などを卒業した超エリートのみ。英語に堪能で、鉄の忠誠心を持っていなければならない。
 北朝鮮兵も、金日成総合大学、金正日政治軍事大学を出た超エリートで、なおかつ鉄の忠誠心のある者しかここにはいない。そりゃそうだ。そうでなければ、ここから毎日北のエリート軍人が脱北してしまうだろう。なにせ壁もなにもなく、ほんの数メートル歩くだけで、相手の居る場所までいけるのだから。だが、実際にここから韓国に亡命した北朝鮮兵は、53年間で1、2人だけらしい。
 自由に南北を行き来できる時間は、あっという間に終了した。再び2列になって会議場を出、展望台へ移動する。ここでも、展望台から見える景色は撮影自由だというので、はるか遠くに霞む北朝鮮の宣伝村を眺めてみた。世界一高い160メートルの国旗掲揚等が目立つ。
 展望台から板門閣を凝視してみると、ようやく北朝鮮兵を見つけた。一人だけで、建物の入り口に直立不動でたたずんでいた。


 中央にただ一人でいた北朝鮮兵。見えるかな?

 バスに戻る。その後、バスは会議場のすぐ近くをとおり、丘の上の展望台についた。はるかに見渡す大地は、北朝鮮のそれである。人の気配はない。



つづく

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