保元物語

[上巻・第十三章…主上が三条殿に御幸される事、付・官軍勢揃いの事]

内裏は高松殿であったので、中が狭くて都合が悪いといって、にわかに三条東殿へとお移りになられる。主上はおん引直衣註1で、腰輿にお乗りになられる。神璽、宝剣を取ってみ輿にお入れ申し上げる。お供の人々には、関白殿内大臣(徳大寺)実能左衛門督(近衛)基実右衛門督(徳大寺)公能頭中将(徳大寺)公親朝臣左中将光忠蔵人少将忠親蔵人右少弁(藤原)資長右少将〔左少将〕(徳大寺)実定少納言入道信西春宮学士(藤原)俊憲蔵人治部大輔(源)雅頼大外記(中原)師季〔師業〕などである註2。武士の名前は記すには及ばない。

その時(主上が)義朝を御前にお呼びになられる。赤地の錦の直垂に、折り烏帽子を引き立て、脇楯だけをつけて太刀を佩いている。少納言入道を通じて戦の次第をお聞きになられる。義朝が畏まって申し上げるには、「合戦のやり方はさまざまにごさいますが、即座に敵を砕き、たちどころに有利になるには、夜討に勝るものはございません。とりわけ南都から僧兵が大勢で、吉野、十津川の者たちを引き連れて、千騎以上で今夜宇治に着き、明朝入洛し申し上げると噂でございます。敵に軍勢がつかない前に攻め寄せましょう。内裏を清盛たちに守護させなさいませ。義朝は(白河北殿へ)向かって、たちまちに勝負を決しましょう」と進み出た。信西は御前の御簾の前にお控えしていたが、(関白)殿下のご様子をうかがって申したには、「この進言はほんとうにその通りだ。詩歌、管弦は私のようなものの玩ぶものであるが、それでもやはり知識が不十分だ。ましてや武芸の道については論外だ。もっぱらお前の計画(のまま)であるのがよいだろう。まことに先んじれば人を制する、後れるは人に制せられるというから、今夜の出発はもっともだ。それであれば清盛を留めておくのはよくない。武士たちは全員攻め向かうべきだ。朝廷の威信を軽じ申し上げる者は、どうして天命に背かないだろうか。早く兇徒を追討して、逆鱗をやすめ申し上げれば、先日申していた昇殿の件は、疑いないだろう」と申されたので、義朝は「合戦の庭に出て、どうして余命がございましょうか。ただ今昇殿し申し上げて、冥土の思い出にしたい」と言って、無理に階上に上ったので、信西は「これはどういうつもりか」と制した。主上はこれを御覧になって、たいそう面白がられたとか。

十一日の寅の刻に、官軍はもう御所へ押し寄せる。ちょうど東国から軍勢がのぼりあって、義朝に従う武士は多かった。まず鎌田次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国からは佐々木源三秀義八島冠者、美濃国には平野大夫吉野太郎、尾張国からは舅熱田大宮司季範が差し上げた家子郎等、三河国からはしだ良中条、遠江国からは横地勝俣井の八郎、駿河国からは入江右馬允高階十郎息津四郎神原五郎、伊豆からは狩野工藤四郎親光同五郎親成、相模からは大庭平太景吉景義同三郎景親山内須藤首藤刑部丞俊通、その子滝口俊綱海老名源八季定季貞〕、秦野二郎延景荻野四郎忠義、安房からは、安西金餘沼平太丸太郎、武蔵からは豊島四郎中条新五新六成田太郎箱田次郎河上三郎別府次郎奈良三郎玉井四郎長井斎藤別当実盛同三郎実員、横山(党)から悪次悪五、平山(党)から相模、児玉(党)から庄太郎同次郎、猪俣(党)から岡部六弥太忠澄忠純)、村山(党)から金子十郎家忠山口十郎仙波七郎、由緒ある武家では河越、師岡、秩父の武士たち、上総からは上総介八郎弘経広常、下総からは千葉介経胤常胤、上野からは瀬下次郎物射五郎岡本介名波太郎、下野からは八田四郎足利太郎俊綱、常陸からは中宮三郎関次郎、甲斐には塩見五郎同六郎、信濃には海野望月諏訪桑原安藤木曽中太弥中太根井大矢太根津神平静妻小次郎方切小八郎大夫熊坂四郎をはじめとして、三百騎以上と記された。

清盛に従う人々には、弟の常陸守頼盛淡路守教盛大夫経盛、嫡子中務少輔重盛、次男安芸判官基盛、郎等では筑後左衛門家貞、その子左兵衛尉貞能与三兵衛景安民部大輔為長、その子太郎為憲、河内国からは草刈部十郎太夫定直、(蓮池)滝口家綱同滝口太郎家次、伊勢国からは古市伊藤武者景綱同伊藤五郎忠清伊藤六忠直、伊賀国からは山田小三郎伊行、備前国の住人難波三郎経房、備中国の住人瀬尾太郎兼康をはじめとして六百騎以上と記された。

兵庫頭頼政に従う武士は誰であろう。まず渡辺党の省播磨次郎授播磨兵衛連源太与右馬允競滝口丁七唱をはじめとして二百騎ほどである。

佐渡式部大輔重成百騎、陸奥新判官義康百騎、出羽判官光信百騎、周防判官(源)季実五十騎、隠岐判官(平)維繁七十騎、平判官実俊六十騎、進藤判官助経五十騎以上、和泉左衛門尉信兼八十騎以上、合計一千七百騎以上と記された註3


註1おん引直衣…天皇が平常着している直衣。後ろの裾が長く、引きずるため「引直衣(曳直衣)」と呼ぶ。
註2お供の人々には……などである…『新大系』版との異同を示す。
「関白忠通、内大臣実能公、左衛門督基実、右衛門督公能、頭中将公親、左中将実定、少納言入道信西、
春宮学士俊憲、刑部少輔貞憲中務権大輔季家大舎人頭家行上総守重家越後守信俊
越中守正俊、蔵人治部大輔雅頼、大外記師業、この人々が供奉し申した」
註3合計一千七百騎以上と記された…ここまでで『新大系』版(3巻本)での上巻は終る。

--------------------------------------------------

上巻・第十二章…白河殿に義朝が夜討する事

白河殿では、こうとはご存じなかったので、左大臣殿は、武者所近久をお呼びになって、「内裏の様子を見て参れ」とお命じになったところ、近久はすぐに馳せ帰ってきて、「官軍がすでに攻め寄せてきています」と申し上げ終わらないうちに、先陣がすでに走ってくる。その時鎮西八郎が「為朝が何度も申し上げたのはこういうことでございます」と申し上げて怒ったけれども力及ばない。為朝を勇ませるためだろうか、にわかに除目が行われて、為朝を蔵人とするべき旨ご命令があった。(鎮西八郎為朝)は「これは何ということだろうか。敵がすでに攻め寄せているのに、方々に手分けをするべきであるのに、今の除目は危険である。(他の)人々は何にでもなられるとよい。為朝は今日の蔵人と呼ばれても何になるだろうか。ただもとの(ように)鎮西八郎でございましょう」と申された。

そうしている間にも、下野守義朝は、二条(大路)を西に出発する。安芸守清盛も、同じく続けて攻め寄せるが、明けて十一日、東塞がりであるうえ、朝日に向かって弓を引くのは畏れ多いといって、三条(大路)へと下って、河原を駆け渡って東の堤を北に向かって進ませた。下野守義朝)は大炊御門河原に、前に馬の懸け場を残して、川から西へ東向きに馬の頭を向けて控えた。

新院の御所にも、敵がすでに西南の川原から鬨の声をあげて攻めて来たので、為義以下の武士たちは、おのおの固める門に駆け出した。(六条)判官(為義)のほうでは、四郎左衛門頼賢八郎為朝が先陣を争って、すでに椿事に及ぼうとしている。頼賢が思ったには、「今、(父の)子たちの中では、私が(いちばん上の)兄であるから、今日の先陣は(私をおいて)誰が駆けるだろうか」と言う。為朝はまた、「おそらくは弓矢をとっても、刀をとっても、私こそが(もっとも優れて)いるだろう。そのうえ判官為義)も軍の奉行をお任せされたうえは、私が先陣を駆けよう」と主張したが、しばらく思案して、兄たちをないがしろにするしたたかな奴として、親から勘当されたのが、たまたま勘当を解かれた身の上で、父の前で兄と先を争うという事は、悪いだろうと思ったので、「所詮誰でも(先陣に)駆けてゆかれるといい。厳しいところを、何度でも支え申し上げよう」と申した。

四郎左衛門頼賢)はこれを咎めないで、そのまま西の川原へと向かう。紺村濃の直垂に、月数という鎧で、朽葉色の唐綾で縫ったものを着て、二十四差の大中黒の矢を、(矢筈が肩越しに見えるように)頭高に背負って、重藤の弓の真ん中をとって、月毛の馬に鏡鞍をおいて乗った。大炊御門を西に向かって防いだが、「ここに攻め寄せるものは源氏か平氏か、名乗れ。こう申すのは六条判官為義の四男で、前左衛門尉頼賢だ」と名乗った。川向いに答えて言うには、「下野守義朝殿の郎等で、相模国の住人、山内の須藤刑部丞俊通の子、滝口俊綱が先陣を承ってございます」と申すので、「それならば(源氏)一門の郎等ですな。お前を射るには値しない、大将を射るぞ」といって、川越しに矢を二つ放つ。矢面に進んだ者二騎が、射落とされてしまう。四郎左衛門頼賢)も兜の内側を射られて引く。下野守義朝)は(開戦の合図の)矢合で郎等を射られて、癪にさわると思ったので、さあ駆けようとしなさると、鎌田次郎正清が轡に取り付いて、「今は大将がお駆け入りになるようなところではございません。千騎のうちの百騎、百騎のうちの十騎になってから、お駆け出しください」と申したけれども、それでもやはり駆け入ろうとなさったので、徒歩の武士たちが八十数名いたのを呼んで、このことを言い含めて、大将を守護させ、正清は馬に乗って、真っ先に進んでいった註1

安芸守清盛)は、二条川原の川より東、堤の西を、北に向かって待機した。その軍勢の中から五十騎ほどが、先陣に進んで押し寄せた。「ここを固めなさるのはどなたか、お名乗りください。このように申すのは安芸守清盛)殿の郎等で、伊勢国の住人、古市の伊藤武者景綱、同じく伊藤五忠清)、伊藤六忠直)」と名乗った。八郎為朝)はこれを聞いて「お前の主人の清盛でさえ、物足りない敵だと思うぞ。平氏は柏原の天皇註2の御末裔であるが、長い時代に成り下がってしまった。源氏は誰が知らないだろうか。清和天皇から為朝まで九代である。六孫王註3から七代、八幡殿(義家)の孫、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝であるぞ。景綱であるのならば引き退け」と仰った。景綱は、「昔から源平両氏は天下の武将として、勅命に背いた奴らを討つ際に、両氏の郎等が大将を射ることは互いにある。同じ郎等ではあるが、(私は)公家にも知られ申している身である。そのわけは、伊勢国鈴鹿山註4の強盗の張本人、小野の七郎をからめとり申し上げ、副将軍の宣旨をお受けしたのが(この)景綱であるからだ。下郎の射る矢が、(あなたのような大将に)立つか立たないかご覧になるがいい」といって、よく引いて射たけれども、為朝はこれをものともしないで、「物足りない敵だとは思うが、お前の言葉の風流さに、矢を一つ下そう、受けて見るがいい。一方では今生の面目、また一方では後生の思い出にもしろ」といって、三年竹の節が寄っているのを少し押しみがいて、山鳥の尾でもって作ったの〔弓?〕に、七寸五分の丸根の、矢柄の中ほど過ぎて鏃が差し込まれたもの〔矢〕をついで、しばらくためてからひょうと射る。真っ先に進んでいる伊藤六忠直)の胸板を射とおして、(勢い)余る矢が伊藤五忠清)の射向けの袖に、裏をかいて立った。伊藤六忠直)はやにわに落ちて死んでしまった。

伊藤五忠清)はこの矢を折りかけて、大将(である安芸守清盛)の前に参って、「八郎御曹司為朝)の矢を御覧下さいませ。凡夫のやったこととも思われません。六郎忠直)はすでに死にました」と申し上げると、安芸守清盛)をはじめとして、この矢を見る武士たちは、皆大変驚き入って恐れた。景綱が申し上げるには、「彼の先祖八幡殿は、後三年の合戦の際に、出羽国金沢の城で、(清原)武則が申したには『あなたの(射る)矢に当たる者は、鎧、兜を射通されないという事はない。あなたの弓の勢いを、確かに拝見したいものだ』と望んだところ、義家はよい革の鎧を三領重ねて、木の枝に懸けて、裏表六重に射通しなさると、鬼神の変化かと恐れられたそうです。これ以来武士たちはいよいよ帰服したとか、申し伝えて聞くほどである。眼前にこのような弓の力量がございますとは。ああ恐ろしいことだ」と怖気づく。

このように口々に言われて、大将清盛)がおっしゃるには、「必ず清盛が、この門を(攻めよとご命令を)承って向かったものでもなく、何となく押し寄せてきたものだ。どちらにでも寄せればよい。それならば東の門か」とあるので、武士たちは「そちらもこの門から近くございますので、もしかしたら同じ人〔為朝〕が固めているかもしれません。北の門にお向かい下さい」と言うので、「そのように言うか。間もなく夜も明けようとする。それなのに小勢によって大勢が追い立てられるのも、見苦しいではないか」と言って引き退くところに、嫡子中務少輔重盛、生まれて十九歳で、赤地の錦の直垂に、澤潟威しの鎧、白星の兜を着けて、二十四指の中黒の矢を背負い、二所籐の弓を持って、黄川原毛の馬に乗ったのが進み出て、「勅命をお受けして向かい申し上げる者が、敵陣が堅いといって引き返すようなことがあるでしょうか。続け若い武士たち」と言って、駆け出したのを、清盛が見て、「とんでもない、あれを制せよ者ども。為朝の弓の力量は目に見えたことだ。間違いをさせるな」と仰ったので、武士たちが前に馬を馳せふさがったので、力なく京極をのぼって、春日面の門へと攻め寄せた。

ここに安芸守清盛)の郎等に、伊賀国の住人、山田小三郎伊行という者は、またとない剛の者で、無分別な猪武者であるが、大将清盛)が引き退きなさるのを見て、「そうだからといって矢一本を恐れて、向かっていった陣を引くようなことがあるだろうか。たとえ筑紫の八郎為朝)の矢であるといっても、伊行の鎧にはまさか通りはしまい。五代にわたって軍に参加すること十五回、私の手にとっても何度も矢を受けたが、いまだ裏まで射通した者はないのに。人々よ見るがいい。八郎殿の矢を一つ受けて、語るものとしよう」と言って駆け出すと、「有象無象の高名立てはしないにこした事はないぞ。無益なことだ」と、同僚たちは制したけれども、もともと言った言葉を翻さない男で、「夜が明けて後に友軍に、八郎の、矢傷をさあ見せてくれと言われたら、なんと答えるのだ。そうであれば、日頃の武名も、消えてしまうだろう事は無念なので、たとえ人は続かなくとも、自分が証人となるのだ」と言って、下人一人を引き連れて、黒革威しの鎧に、同じ毛の五枚兜を猪頚に着けて、十八指の染羽の矢を背負い、塗籠籐の弓を持って、鹿毛の馬に黒鞍を置いて乗った。

門前に馬で懸けて行き、「たいした者ではないが、安芸守清盛)の郎等、伊賀国の住人山田小三郎伊行、生まれて二十八歳、堀河院の御治世の、嘉承三(1108)年一月二十六日、対馬守(源)義親追討の時、故備前守(平正盛)の先陣を駆けて、公家にも知られ申す山田庄司行末の孫である。山賊、強盗をからめ取ったことは数知れず、合戦の場にもたびたび出陣し、武名をあげたものである。お聞きに及ぶ八郎御曹司為朝)を、一目見申し上げたいぞ」と申したので、為朝は「きっと奴は(弓を)引いて狙っているに違いない。一の矢を射させよう。二の矢をつごうというところを射落とそう。同じようには矢を耐えられないところを、私の弓の力量を敵に見せてやろう」と仰って、白葦毛の馬に、黄覆輪の鞍を置いて乗って、かけ出して、「鎮西八郎為朝)はここにあり」と名乗りなさるところを、もともと引き絞って狙っていた矢であるので、弦音高く切って放つ。御曹司の左の草摺を縫いざまに射きった。一の矢を射損じて、二の矢をつがえようというところを、為朝はよく引いてひょうと射る。山田小三郎伊行)の鞍の前輪から、鎧の前後の草摺を尻輪にかけて、矢先三寸ほど射通した。しばらくは矢に支えられて、耐えているように見えたが、すぐに左のほうへまっさかさまに落ちたので、鏃は鞍にとどまって、馬は川原へと走ってゆくので、(山田伊行の)下人註5がつっと走りより、主人を肩に引っ掛けて、味方の陣へと帰っていった。寄せ手の武士たちはこれを見て、ますますこの門に向かう者はなかった。


註1正清は馬に乗って、真っ先に進んで行った…この場面で『新大系』版では、
鎌田正清は『史記』項羽本紀などに記される鴻門の会の故事をひいて義朝を諌めている。
故事などが削られた例としては、珍しい(多くは、『新大系』版に欠き、本版で故事が増えている)。
註2柏原の天皇…平氏の祖とされている桓武天皇のこと。
清和天皇はその六代あとの天皇なので、確かに清和源氏のほうがより皇族に近いとはいえる。
註3六孫王…清和源氏の祖である源経基(あるいは経基王)のこと。
清和天皇の第皇子貞純親の子であるとされているためか。
註4鈴鹿山…近江、伊勢の国境にある山で、東海道交通の要衝。山賊が多く出没する場所として平安時代は有名。
註5下人…『新大系』版では山田伊行の下人(舎人男)は「どこまでも(主人の)お供をする」と言って、
伊行より先に長刀をうちふりながら八郎(為朝)の部下たちの中に切り込んでゆき、消息不明となっている。

--------------------------------------------------

ホームへ] [目次へ] [前へ] [次へ

掲載日:23/11/2000 更新日: