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あくまでも「簡単な人名事典」です。
保元物語』『平治物語』に登場する人物が、いったいどういう人物なのか、
そしてまたいつごろの人のか、そういったことをごく簡略にのみ紹介してあります。
また、すべての事項やすべての人物について網羅してあるわけではございません、
ご了承くださいませ。

前半はア行からナ行、後半はハ行からワ行を収めています。

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足利俊綱 足利義康 熱田大宮司季範 阿野全成
池禅尼 一条能保 宇野親治 大庭景親
大庭景義 New ! 小笠原長清 長田忠致 覚憲
覚性入道親王 花山院忠雅 New ! 梶原景時 上総介広常
New ! 金売吉次 鎌田正清 寛遍 義円
九条院 熊谷直実 後白河院 後藤実基
近衛天皇 近衛基実 西行 斎藤実盛
佐々木秀義 New ! 佐藤忠信 New ! 佐藤継信 重仁親王
勝賢 上西門院 崇徳院 待賢門院
平家貞 平清盛 New ! 平維盛 平貞能
平重盛 平忠正 平教盛 平宗盛
平基盛 平盛国 平頼盛 New ! 武田信義
湛増 千葉常胤 澄憲 常盤御前
徳大寺実能 鳥羽院 New ! 土肥実平 二条天皇
畠山重能 葉室光頼 美福門院 平賀義信
平山季重 藤原公教 藤原惟方 藤原伊通
藤原資長 藤原忠実 藤原忠通 藤原経宗
藤原成親 藤原教長 藤原信頼 New ! 藤原秀衡
藤原通憲(信西) 藤原宗能 藤原師長 藤原師光
New ! 藤原泰衡 藤原頼長 三浦義明 三浦義澄
源為朝 源為義 New ! 源範頼 源雅定
源雅頼 源師仲 源行家 源義朝
源義平 源義経 源頼賢 源頼朝
源頼政 New ! 文覚 山内首藤俊通 New ! 山木兼隆
湯浅宗重

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後半へ

足利俊綱(あしかがとしつな)]???‐1183

藤原北家秀郷流足利氏で足利家綱の子。足利太郎と称する。
下野国足利荘を本拠に、小山氏と同国を二分して争い、上野国にも勢力を広げた。
源頼朝の挙兵に際しては、平氏方として敵対。1183年子の忠綱が志田義広と組んで頼朝と戦ったことから追討をうけ、郎等の桐生六郎に殺害された。これにより秀郷流足利氏の正統は滅亡。

足利義康(あしかがよしやす)]???-1157

源義家の孫で、義国の次子。母は源有房女。足利氏の祖。足利蔵人判官・足利陸奥判官と称する。
父から下野国足利荘などを譲与され本拠とする。鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進したのをきっかけに、上皇に仕えて北面の武士となった。1152年検非違使。
1156年の保元の乱で後白河天皇方として活躍。その功により従五位下、蔵人となり昇殿を許された。
母の姉の子は藤原通憲

熱田大宮司季範(あつただいぐうじすえのり)]1090-1155

藤原南家貞嗣流で、藤原氏系熱田大宮司家の祖。その娘は源義朝との間に源頼朝を生む。父は尾張国目代藤原季兼、母は熱田大宮司の尾張員職女。父季兼とともに三河国額田郡に住んでいたらしく額田冠者とも称した。
のちに外祖父の員職から熱田大宮司職を譲り受け、熱田大宮司は旧国造である尾張氏から藤原氏の手に移った。

阿野全成(あのぜんじょう)]1153-1203

源義朝の子で、母は常盤御前。幼名は今若。悪禅師と称する。
義朝の死後、京都醍醐寺に入り僧となる。1180年兄源頼朝の挙兵を知り合流。のち駿河国阿野に住む。
1203年謀叛の疑いで、将軍源頼家により殺された。

池禅尼]???-???

尼上・池殿」。藤原宗兼の長女宗子。平忠盛の後妻となり、平家盛・平頼盛を生む。平清盛の継母。
1156年の保元の乱に際して、頼盛に後白河天皇側につくことを勧めるなど、政治的判断に優れていたという。平治の乱に敗れた源頼朝の助命を清盛に嘆願し、流罪とした。名の由来は、忠盛の死後、出家して京都六波羅の池殿に住んだことによる。

伊勢義盛(いせよしもり)]???-???

三郎と称する。1185年源義経に従って屋島の戦いに参加して、平宗盛・平清宗を生け捕りにする。同年源義経と源頼朝が対立してからも義経に属して行動したが、摂津国大物浦から船出して難破したのちの消息は不明。俗に義経四天王の一人といわれる。

一条能保(いちじょうよしやす)]1147-1197

藤原北家頼宗流一条家で、五摂家の一条とは別流。藤原通重の子。母は藤原公能女。妻が源頼朝の同母妹の坊門姫であった関係から、頼朝とは親密であった。
1186年京都守護に任じられ、洛中警護、後白河院との交渉にあたる。その頃から頼朝の推挙で後鳥羽天皇の乳父(めのと)として天皇に近侍し、未婚の娘も天皇の乳母となった。頼朝の後ろ楯によって従二位・権中納言に昇る。1194年病により出家。法名は保蓮。

宇野親治(うのちかはる)]???-???

清和源氏宇野流(大和源氏)の出身で、源親弘の長子。母は高倉院女房の伊予内侍、大和国宇野を本拠とし、宇野七郎と称する。
1156年保元の乱で藤原頼長方につき、京潜伏中に捕われた。
その後、大和に戻り勢力保持。
本貫の地宇野荘は父親弘との不和により弟妹に譲渡されていたが、相論の末1155年宣旨により親治の知行が認められた。親治は同荘を醍醐寺三宝院の勝尊に寄進し、自ら知行安泰を図った。(朝)

大庭景親(おおばかげちか)]???-1180

桓武平氏。大庭景忠の子。通称大庭三郎
相模国大庭御厨の下司職を相伝。源義朝に従い保元・平治の乱に加わった。
平治の乱に敗れた後、許されて平氏の家人となる。
1180年の以仁王挙兵に平家方として参加。源頼朝が挙兵すると追討軍の大将となり、石橋山に頼朝を破ったが、富士川の戦いで頼朝に降伏。上総介広常に預けられたあと処刑された。

大庭景義(おおばかげよし)]???-1210

桓武平氏。大庭景能・懐島景義とも。父は大庭景忠、大庭景親の兄。大庭平太と称する。
1156年の保元の乱で源義朝の軍に属して戦い、源為朝の矢により負傷。
1180年の源頼朝挙兵以来つき従う。1189年頼朝の大倉御所の造営奉行を勤める。1193年出家。

小笠原長清(おがさわらながきよ)]1162-1242

加賀美長清とも。甲斐源氏加賀美遠光の子。母は和田義盛女。小笠原氏の祖。
はじめへ池に属して在京するが、1180年東国に下って源頼朝に従う。以後、源平合戦や奥州合戦に従軍し戦功を重ねた。
1221年の承久の乱では、東山道の大将軍の一人として幕府軍勝利に貢献し、その功により阿波国守護に任じられた。
流鏑馬や笠懸など弓馬の道に秀でていたことでも有名。

長田忠致(おさだただむね)]???-???

平高望八代の後胤と称し、平姓を名乗る。通称は長田庄司
安寿楽院領の尾張国野間内海荘の在地領主。源義朝の家人鎌田正清の舅で、源家代々の家人という。1159年平治の乱に敗れて東国へ下る途中、正清の縁を頼って忠致宅に寄宿していた義朝主従を、子の景致とともに謀殺。
『平治物語』には、源頼朝挙兵後、服従を申し出たが、義朝の墓前で処刑されたとある。

覚憲(かくけん)]1131-1212

宝積院僧正・壺坂僧正とも。興福寺法相宗僧。藤原通憲の子。
興福寺に入り蔵俊のもとで法相唯識を学び、藤原頼長から将来を嘱望された。平治の乱後、父に連坐し伊豆(伊予とも)に配流されたが、1175年大安寺別当となる。1180年興福寺権別当、1189年正別当となり、同寺復興に努めた。1190年権僧正となり、1195年壺坂寺に隠棲。
唯識論の注解に多大の功績を残し、その説は『成唯識論同学鈔』に「壺坂御義」としてみえる。

覚性入道親王(かくしょうにゅうどうしんのう)]1129-1160

紫金台寺御室・泉殿御室とも称する。真言宗仁和寺第五世門跡。鳥羽院の皇子。母は藤原公実の娘待賢門院璋子崇徳院後白河院の同母弟。
親王宣下後に仁和寺に入り、覚法のもとで出家し、灌頂を受けた。法名は信法、のち覚性と改める。
仁和寺・法勝寺などの検校を勤め、1153年仁和寺寺務、さらに尊勝寺・四天王寺などの検校を勤める。1167年はじめて総法務に任じられて綱所を賜った。
修法の声明高く、詔をうけて孔雀経法や尊勝法を二十四回修したという。

花山院忠雅(かざんいんただまさ)]1124-1193

藤原忠宗の次子。母は藤原家保女。花山院太政大臣・粟田口太政大臣と称する。
1129年従五位下。右少将、蔵人頭、参議、大納言・内大臣を経て、1168年従一位太政大臣。
朝政に明るく、また嫡子兼雅の妻が平清盛の娘という関係もあり、異例の昇進を遂げた。1170年には官職を辞し、1185年出家。法名は理寛。

梶原景時(かじわらかげとき)]???-1200

桓武平氏。相模国鎌倉郡梶原郷が本領。父は鎌倉景清(一説には鎌倉景長)。通称梶原平三
石橋山の合戦で源頼朝の危機を救ったことや、弁舌に巧みだったことから頼朝に重用され、侍所所司として御家人の統制にあたる。1183年源頼朝の命で上総介広常を殺害。平家追討にも従軍するが、屋島攻撃の際に源義経と作戦上の問題で対立、義経失脚の一因をつくる。
1184年には播磨・美作の総追捕使に任じられるが、頼朝の死後、結城朝光を源頼家に讒言したことから有力御家人の弾劾を受けて失脚。1200年1月、謀叛を企て上洛をはかるが、駿河国清見関付近で在地武士の攻撃をうけ敗死。

上総介広常(かずさのすけひろつね)]???‐1183

平常澄の子。介八郎と称する。
上総介を世襲し、上総国を中心とした大武士団を統率。保元・平治の乱では源義朝に従い、その後平氏に属した。
1180年の源頼朝挙兵に際してはいったんは拒否したが、二万騎の兵を率いて参陣したという。富士川の戦いの後、上洛を主張する頼朝を諌め、常陸国の佐竹氏を討つことを主張し、その中心的役割を果たした。
のち謀叛の疑いをかけられ、頼朝に殺された。

金売吉次(かねうりきちじ)]???-???

源義経を奥州平泉の藤原秀衡にひきあわせたとされる伝説的人物。
『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』などに登場する。描かれる吉次像は作品ごとに差異はあるが、金をあきなう商人であることは共通する。鞍馬山にいた義経を説得して秀衡のもとに連れ出し、多量の褒美を得たという。
伝説は金商人・鋳物師など遍歴する人々の存在や人身売買の横行の実際を反映しているとされる。

鎌田正清(かまたまさきよ)]1123‐1160

正家、政家とも。相模国の武士通清の子。母は源義朝の乳母。通称鎌田次郎左兵衛尉
義朝の家人として保元・平治の乱に従軍。平治の乱の敗北後、義朝とともに妻の父長田忠致を頼り尾張国に下ったが、忠致により義朝が謀殺され、正清も忠致の子景致に殺された。
源平争乱で活躍した鎌田盛政・光政兄弟は子。

寛遍(かんぺん)]1100-1166

尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも。真言宗僧。大納言源師忠の子。
山城国円教寺の寛蓮のもとで出家、寛助に灌頂を受けた。
のち大和国忍辱山円成寺を復興、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当、東寺長者、仁和寺別当、円教寺別当を歴任し、1161年大僧正に至る。この間、高野山大塔落慶供養の導師を勤め、尊寿院を創建し、美福門院寄進の『御手印縁起』を同山に施入。事相に優れ、のち忍辱山流の祖とされる。

義円(ぎえん)]1155-1181

源義朝の子。母は常盤御前。幼名は乙若阿野全成源義経は同母兄弟。はじめ円成、のち義円と改める。
平治の乱後、母とともに平家に捕らえられるが、処刑は免れ八条宮円恵法親王の坊官となる。
1180年兄源頼朝が挙兵すると関東に下り、翌年叔父源行家とともに尾張国墨俣川で平家軍を迎撃するが敗死。

九条院(くじょういん)]1131-1176

近衛天皇の中宮。父は九条太政大臣と通称された藤原伊通、母は藤原顕隆の娘玄子。藤原呈子。
1148年に鳥羽上皇の皇后藤原得子(美福門院)の、1150年には摂政藤原忠通の養女となって、近衛天皇の後宮に入り中宮となった。1155年に天皇が没すると落飾して清浄観と称したが、1156年皇后、1158年皇太后となり、1168年院号宣下を受けた。

熊谷直実(くまがいなおざね)]1141-1208

桓武平氏。熊谷直貞の子。
平治の乱では源義朝方に属するが、乱後、京都大番役勤務中に平知盛に仕える。
1180年石橋山の戦いで平家方の大庭景親に従うが、まもなく源頼朝に服する。佐竹氏討伐の戦功により、二年後、本領の武蔵国大里郡熊谷郷の地頭職を安堵される。
源義仲や平家との戦いでも活躍、一ノ谷の戦いでは先陣を争い、平敦盛を討ち取る。1187年流鏑馬の的立て役を忌避して所領の一部を没収される。1192年久下直光との所領争いで不利な裁決が下ると、上洛して法然の門下に入る。法名は蓮生。

後白河院(ごしらかわいん)]1127-1192 位1155-1158

主上」「上皇、法皇、院」。鳥羽天皇の第四皇子。名は雅仁(まさひと)。母は藤原公実の娘待賢門院璋子崇徳院の同母弟。
1155年近衛天皇が死去すると、鳥羽上皇は後白河天皇の長子(二条天皇)を後継者と決め、順序としてまず父の後白河天皇を即位させた。崇徳上皇はこれを不満として保元の乱が起き、後白河天皇はこれに勝利する。2年後、二条天皇に譲位し、その翌年平治の乱で御所を焼かれている。
二条天皇の死後、三男(高倉院)を後継者に決め、二条の子(六条天皇)から高倉天皇に譲位させた。この頃から院政の実が備わる。その後、平清盛と対立を深め、鹿ケ谷の謀議の結果、幽閉・隠退させられた。
しかし1181年の高倉院の死によって院政を再開し、平家都落ちの後、源義仲の襲撃を受けたものの、翌年源頼朝勢力の京都進出後は頼朝との協調を方針とし、源義経挙兵事件の一時的混乱を越えて、朝廷と幕府共存の道を開いた。
信仰に篤く、遊びごとを好み、今様を集成して『梁塵秘抄』を編纂した他、朝儀の復興にも努め、『年中行事絵巻』を作らせた。

後藤実基(ごとうさねもと)]???-???

藤原秀郷の子孫で、白河院武者所に属していた藤原実信の子。兵衛尉と称する。
平治の乱では源氏方に属して活躍。乱後源義朝の娘(のちの一条能保の妻)を京都で育てた。
1180年源頼朝の挙兵に応じ、屋島の戦いなどで戦功をあげている。(朝)

近衛天皇(このえてんのう)]1139-1155 位1141-1155

鳥羽天皇の皇子。名は体仁(なりひと)。母は藤原長実の娘美福門院得子
生後3ヶ月で立太子し、1141年に崇徳天皇の譲位をうけて践祚した。父の鳥羽上皇から嫡流となる望みを託されたが、皇子女のないままに17歳で死去した。

近衛基実(このえもとざね)]1143-1166

六条殿、梅津殿、中殿とも。近衛家の祖とされる。藤原忠通の嫡子。母は中納言源有国の娘信子。
1150年8歳で元服。その後権中納言・権大納言を経て、1157年右大臣。翌年の二条天皇の践祚の日に父に交わって関白・氏長者になる。のち左大臣。
1164年、平清盛の娘盛子と結婚。1165年に六条天皇の摂政となるが、翌年痢病により24歳で没。贈太政大臣正一位。遺領の大部分は盛子が相続した。

西行(さいぎょう)] 1118-1190

俗名は佐藤義清(のりきよ)、憲清とも。佐藤康清の子。母は源清経女。
武門の家に生まれ、鳥羽院の北面の武士として仕え、和歌・蹴鞠などに活躍した。
1140年23歳で出家。その後、仏道と和歌に励み、高野山や伊勢国に住する一方で、奥州・四国などを旅した。
『詞花和歌集』に一首、『千載和歌集』に十八首入集したが、死後成立した『新古今和歌集』には最多の九十四首選ばれ、歌人としての名声が高まった。私家集『山家集』『西行上人集』『聞書集』『残集』があり、また自選の秀歌集に『山家心中集』『御裳濯河歌合』『宮河歌合』など。旅する歌僧として伝説化され、その和歌とともに後代の文学に大きな影響を与えた。

斎藤実盛(さいとうさねもり)]???‐1183

藤原北家利仁流斎藤氏。斎藤実直の子。長井斎藤別当と称する。
代々越前国を在所としていたが、実盛のとき武蔵国長井を本拠とする。
源義朝の郎従として保元・平治の乱に参加。
その後平氏に仕え、1180年源頼朝挙兵にあたり、富士川の戦いに参加。1183年加賀国篠原で源義仲軍と戦い、このとき白髪を黒く染めて奮戦し、討死をとげたという。『源平盛衰記』は享年七十三歳とする。

佐々木秀義(ささきひでよし)]1112-1184

宇多源氏(近江源氏)佐々木氏。佐々木季定の子。妻は源為義女。源三秀義と称する。
近江国蒲生郡佐々木荘を本拠とする。
保元・平治の乱で源義朝に属し、敗走中、渋谷重国のもとに寄留。
1180年源頼朝の挙兵に参加するが、伊賀平氏追討で討死。

佐藤忠信(さとうただのぶ)]???-1186

陸奥国信夫荘荘司の佐藤元治(基治)の子。四郎兵衛尉と称する。
1180年源義経源頼朝軍に加わった際、藤原秀衡の命で兄継信とともに義経に従った。以後義経と行動をともにし、一ノ谷・屋島・壇ノ浦などの戦いに参加。頼朝に背いた義経が京都から逃亡した後も都に留まり、糟屋有季の襲撃をうけ自害。
その行動は能『忠信』や浄瑠璃『義経千本桜』に描かれる。

佐藤継信(さとうつぐのぶ)]???-1185

陸奥国信夫荘荘司の佐藤元治の三男。『平治物語』によれば、母は上野国の豪族大窪太郎の娘。三郎兵衛尉と称する。
藤原秀衡の郎従。1180年秀衡のもとに寄留していた源義経源頼朝軍に加わろうとした際、秀衡の命で弟忠信とともに義経に従った。その後、一ノ谷・屋島の戦いに参加したが、屋島で義経の身代わりとなって戦死。二十八歳という。

重仁親王(しげひとしんのう)]1140-1162

崇徳院の第一皇子。母は法印信縁の娘、兵衛佐。
1141年親王宣下を受け、1150年に元服、三品に叙せられた。当時もっとも順当な皇位継承者と目されていたが、養母美福門院をはじめとする反崇徳院派によって即位を阻まれ、近衛天皇の死後、後白河天皇が践祚するに及んで、崇徳院と天皇との対立が深刻化し、保元の乱の決定的要因となった。
乱後は仁和寺に入り、寛暁大僧正のもとで仏道に励んだが、間もなく足の病が重くなり入滅。法名は元性。(朝)

勝賢(しょうけん)]1138-1196

侍従僧正・覚洞院権僧正とも。真言宗僧。藤原通憲の子。初名は「勝憲」。
仁和寺の最源に師事、1158年権律師、翌年醍醐寺の実運に灌頂を受け、また常喜院の心覚からも受法。
1160年以降醍醐寺座主に三度任じられたが、一時同門乗海の反対により高野山に逃れた。
後白河法皇の安泰や祈雨に孔雀経法などを修し、東寺二長者・東大寺別当を歴任。1185年権僧正。
事相関係の著述を多く残した。

上西門院(じょうさいもんいん)]1126-1189

鳥羽院の第二皇女。名は恂子、のち統子。母は藤原公実の娘待賢門院璋子
1127年賀茂斎院に選定されたが、1132年病により退く。1158年後白河天皇の准母として皇后に立てられ、1159年院号宣下。

崇徳院(すとくいん)]1119-1164 位1123-1141

新院」。讃岐院とも。鳥羽天皇の第一皇子。名は顕仁(あきひと)。母は藤原公実の娘待賢門院璋子後白河院は同母弟。
1123年に5歳で立太子し、即日、父鳥羽天皇の譲位により践祚したが、これは曽祖父白河上皇の意志によるものであった。1141年に父鳥羽上皇により異母弟近衛天皇に譲位させられ、さらに近衛天皇の死後も後白河・二条天皇父子が擁立されたため、みずからの皇子への皇位継承の望みを断たれる。
1156年父の死の直後に後白河天皇との合戦に及ぶが敗れ、讃岐国に配流された。配所で死去したため怨霊として恐れられた。
実の父を白河天皇とする説が『古事談』にみえるが真偽は不明。和歌に秀でる。

待賢門院(たいけんもんいん)]1101-1145

鳥羽天皇の中宮。名は璋子。父は藤原公実、母は藤原隆方の娘光子。
幼時から白河院の後見をうけ、1117年鳥羽天皇の女御となり、1118年に中宮となる。崇徳後白河両天皇などを産み、1124年院号宣下をうける。
仏教に帰依し、御願寺として円勝寺や仁和寺法金剛院を建てた。1142年法金剛院にて落飾。

平家貞(たいらのいえさだ)]???‐???

平季房(家房)あるいは範季の子。平貞能は子。
季房が平忠盛に仕えて以来の平氏の家人で、家貞も正盛・忠盛・清盛に仕えた。
1134年海賊追捕の功で左衛門尉、その後鎮西に派遣された。保元・平治の乱で活躍し、のち筑後(筑前とも)となった。
『平家物語』には、内昇殿を許された忠盛を闇討ちから救った話がみえる。

平清盛(たいらきよもり)]1118-1181

平忠盛の嫡子。実父を白河上皇とする説もある。母は祇園女御といわれる。六波羅殿・六波羅入道・平相国・平禅門とも称する。
1129年左兵衛佐・従五位下、1146年に安芸守、1156年の保元の乱では後白河天皇方として一族を率いて活躍し、その功により播磨守となる。
1159年の平治の乱では源義朝を破り、確固とした地位を獲得。乱後、平氏一門の官位は急速に上昇した。1160年武士として初めて参議となり、1167年には従一位太政大臣。翌年出家し、摂津国福原に引退したが、平氏政権の中枢として権力を掌握しつづけた。
1172年には娘徳子を高倉天皇の中宮とするなど、摂関家をはじめ朝廷内の有力貴族との婚姻政策を進めた。
1177年反平氏勢力による鹿ケ谷の陰謀が発覚、1179年に後白河上皇を幽閉し院政を停止した。翌年、外孫の安徳天皇を即位させて独裁政権を樹立したが、同年以仁王が挙兵したことに衝撃をうけ、福原遷都を強行。以仁王の令旨をえた源頼朝ら反平氏勢力が挙兵するなか病死。
日宋貿易に着目し、摂津国大和田泊を修築した。

平維盛(たいらのこれもり)]1158?-1184

平重盛の長子。通称は桜梅少将・小松少将
平氏の嫡流として若年より重要な役割をはたす。1167年従五位上。
1180年富士川の戦いで総大将となったが、戦わずに敗走、清盛の怒りを買った。翌年、尾張国墨俣川の戦いで源行家軍を破り、その功により従三位。1183年越中国礪波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)で源義仲軍に惨敗、都落ちに従ったが、翌年一門から離れた。
『平家物語』には出家したあと、那智で入水したとする。

平貞能(たいらのさだよし)]???‐???

平家貞の子。
保元・平治の乱に参加。平清盛の腹心として鎮西の国司を歴任。
1181年尾張国墨俣川で源行家軍を破った。同年8月、鎮西に派遣され、源氏に呼応した肥後の菊池氏などを鎮圧して帰洛。のち平氏西走に従い、鎮西に下ったが、やがて一門を離脱して出家。鎌倉御家人宇都宮朝綱のもとで余生を送ったという。

平重盛(たいらのしげもり)]1138‐1179

平清盛の嫡子。母は高階基章女。宗盛・知盛は異母弟。小松内府・燈籠大臣と称する。
1151年従五位下。保元・平治の乱に活躍して伊予守に任じられた。以後順調に昇進し、1167年権大納言。同年、賊徒追討の宣旨を受けて以来、平氏軍政の中心的役割を果たした。1177年内大臣。
『平家物語』には、仏教に深く帰依し、文武に優れた温和な人物として描かれる。

平忠正(たいらのただまさ)]???-1156

平正盛の子、平忠盛の弟。通称平右馬助。伊勢国鈴鹿・河曲両郡に所領をもった。
顕仁親王(のちの崇徳院)に仕えて左馬助・従五位下になったが、1133年鳥羽上皇のとがめをうけた。その後、藤原頼長に従い、1156年の保元の乱には崇徳院・藤原頼長方の中心人物となるが敗北。伊勢に逃れたが、甥の平清盛に捕らえられ、子とともに処刑された。

平教盛(たいらののりもり)]1128‐1185

平忠盛の三子。母は待賢門院女房で藤原家隆女。平清盛の異母弟。門脇中納言と称する。
1148年蔵人、従五位下。国司などを歴任し、後白河天皇の院司となる。
1161年憲仁親王擁立の陰謀に加担した罪で解任、翌年許された。1168年高倉天皇(憲仁親王)即位とともに蔵人頭・参議、のち従二位中納言。平氏一族では文官的役割を果たした。
1183年平氏都落ちに従い、1185年壇ノ浦で入水。

平宗盛(たいらのむねもり)]1147-1185

平清盛の三子。母は平時子。屋島内府と称する。
1157年従五位下。1159年平治の乱の功により遠江守。その後も順調に昇進し、従一位内大臣。異母兄平重盛の養子となり、清盛の死の後一門を統率した。
1183年西走して屋島まで勢力を回復したが、一ノ谷・八島の戦いで敗北。1185年壇ノ浦で捕らえられ、鎌倉に護送されて源頼朝と対面した。京都に送られる途中、近江国篠原で斬殺された。

平基盛(たいらのもともり)]1139-1162

平清盛の次子。母は高階基章女で、同母兄に重盛がいる。一説には養子。
1155年、検非違使左衛門少尉。1156年7月6日東山法住寺の辺りで大和国の有力者で京に潜伏していた宇野親治を捕らえた。同年9月従五位下に叙され、その後蔵人を補任され、さらに大和守、遠江守、越前守を歴任したが、1162年24歳で早世した。(朝)

平盛国(たいらのもりくに)]1113?-1186

平季衡あるいは平盛遠の子。主馬判官と称した。
平家の家人として保元・平治の乱に参加、1171年検非違使・左衛門尉に任じられる。平清盛の側近として活躍、平家納経にもかかわった。
平家の都落ちに従い、壇ノ浦で捕らえられて鎌倉に送られ、岡崎義実に預けられたが、飲食を断ち死亡。

平頼盛(たいらのよりもり)]1132‐1186

平忠盛の五子。母は藤原宗兼の娘で池禅尼宗子。池大納言・池殿と称する。
1147年従五位下。1156年昇殿を許され、正二位権大納言に昇進。平清盛の異母弟だが後白河院・八条院との関係が深かったため、平氏内部で微妙な立場にあった。
1183年平氏都落ちに従わず京にとどまった。同年鎌倉を訪れ源頼朝と対面。頼朝は池禅尼の嘆願で助命された恩に報いるため旧領を安堵。翌年、本官本位に復した。

武田信義(たけだのぶよし)]1128-1186

甲斐源氏源清光の子。甲斐国巨摩郡武田に住む。
1180年以仁王の令旨に応じて挙兵。富士川の合戦では夜襲をしかけ平家軍を敗走させた。
合戦後、源頼朝から駿河国守護に任じられる。しかし甲斐源氏勢力の抑圧をはかる頼朝に、1184年嫡子一条忠頼を殺され、自らも頼朝の勘気をこうむり、失意のうちに死んだ。

湛増(たんぞう)]1130-1198

熊野新宮別当湛快の子。
平氏全盛期には同氏と結んで勢力を拡大。1180年の以仁王挙兵に際しても、平氏側に立って、源氏についた新宮勢力を攻撃している。
しかし1184年、新宮別当に就任した後に源氏側につき、熊野水軍を率いて平氏と戦い、壇ノ浦の戦いなどで大きな役割を果たした。1195年の源頼朝上洛の際に、対面を遂げた。

千葉常胤(ちばつねたね)]1118‐1201

桓武平氏良文流の千葉常重の子。下総国千葉荘に住み、千葉介・下総権介と称する。
1135年同国相馬御厨を相続、その支配をめぐり国守藤原親通や源義朝・平常澄と対立。その後、義朝に従い保元の乱にも参加するが、義朝死後、佐竹氏に相馬御厨を奪われる。
1180年石橋山の敗戦後、房総に逃れた源頼朝を迎え、国内の敵対勢力を制圧し、鎌倉入府を進言した。同年頼朝の佐竹氏討伐により相馬御厨の支配を回復。
1184年源範頼に従って平氏追討のため西海に下り、1189年東海道大将軍として奥州合戦に出陣。のち下総国守護。
頼朝に厚く信頼された幕府創業以来の功臣。

澄憲(ちょうけん)]1126-1203

蓮行房・安居院法印とも。天台宗僧。藤原通憲の子。
珍兼に師事、比叡山北谷竹林院に、ついでその里房の安居院に住した。
1159年平治の乱で下野国に配流されたが、まもなく帰京。1174年最勝講で祈雨法を修し権大僧都に任じられた。
1177年明雲から一心三観の血脈を相承。多くの法会の導師を勤めて説法唱導の名手として名高く、安居院流の唱導の祖とされる。

常盤御前(ときわごぜん)]???‐???

九条院(藤原呈子)の雑仕女。源義朝の妾となり、今若(阿野全成)、乙若(義円、愛智円成)、牛若(源義経)を生む。
平治の乱で義朝が敗北したあと、母と三児の助命を請い六波羅に出頭。その後平清盛の妾となり、廊の御方(藤原兼雅の妻)を生んだ。
のち大蔵卿藤原長成の妻となり、能成を生む。
『平家物語』『義経記』に登場し、後世の幸若舞や古浄瑠璃の題材とされた。

徳大寺実能(とくだいじさねよし)]1096-1157

徳大寺家の祖。藤原公実の五子。母は藤原隆方の娘光子。徳大寺左大臣と称す。
1104年従五位下。母が堀河・鳥羽両天皇の乳母、妹の璋子(待賢門院)が鳥羽院の中宮という関係もあり順調に昇進。1122年権中納言、その後権大納言・大納言・内大臣となり、1156年左大臣。
翌年出家、法名真理。この間、1147年に徳大寺を建立。
日記『実能記』。

鳥羽院(とばいん)]1103-1156 位1107-1123

堀河天皇の第一皇子。名は宗仁(むねひと)。母は藤原実季の娘苡子。
祖父白河上皇の待望の皇嗣として誕生し、1歳で立太子。5歳で父の死去により践祚。1117年に白河上皇に養育された待賢門院が入内し、1119年に長子崇徳院の誕生を見た。この頃から白河上皇と鳥羽天皇の確執が生じたという。1120年の関白藤原忠実勅勘事件ののち、1123年に鳥羽天皇は白河上皇の意志によって崇徳天皇に譲位させられた。
しかし、白河上皇の死後、鳥羽上皇は忠実を政界に復帰させ、皇位継承についても美福門院との間に生まれた後の近衛天皇を後継者に決め、1141年崇徳天皇から近衛天皇に譲位させた。さらに1155年近衛天皇が病死すると、皇位に後白河天皇をあて、崇徳上皇を飽くまで排除した。翌年、上皇は死去し、同時に保元の乱がおきることになる。

土肥実平(どひさねひら)]???-???

桓武平氏良文流。中村荘司宗平の次子。相模国土肥郷に住み土肥次郎を称する。
1180年源頼朝に応じて挙兵に参加。石橋山の戦いでは頼朝の危機を救い、安房への脱出に成功。その後、頼朝の厚い信頼のもと、源義仲討伐や平家追討の合戦で侍大将を勤め軍功を重ねる。1184年には備前・備中・備後諸国の総追捕使に任じられ、占領地の軍政にもあたった。
質素な生活ぶりを頼朝に称賛され、東国御家人を代表する人物とされた。1189年の奥州合戦や翌年の頼朝の上洛にも従うが、1191年以降の動向は不明。

二条天皇(にじょうてんのう)]1143-1165 位 1158-1165

後白河院の第一皇子。名は守仁(もりひと)。母は藤原経実の娘懿子。
藤原得子(美福門院)に養育され、出家を予定されていたが、近衛天皇が死去したため、鳥羽院によってにわかに皇位継承者とされた。1155年後白河天皇の皇太子に立ち、1158年譲位を受けて践祚。後白河院の院政を認めず自ら政治に当たったが、23歳の若さで死去した。

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参考文献・『日本史人物辞典』(山川出版社・2000年)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社・1994年)→文末に(朝)

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