



![]()
あくまでも「簡単な人名事典」です。
『保元物語』『平治物語』に登場する人物が、いったいどういう人物なのか、
そしてまた何時ごろの人のか、そういったことをごく簡略にのみ紹介してあります。
また、すべての事項やすべての人物について網羅してあるわけではございません、
ご了承くださいませ。
前半はア行からナ行、後半はハ行からワ行を収めています。
訳文から参照された場合は、ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください。
![]()
| 足利俊綱 | 足利義康 | 熱田大宮司季範 | 阿野全成 |
| 池禅尼 | 一条能保 | 宇野親治 | 大庭景親 |
| 大庭景義 | New ! 小笠原長清 | 長田忠致 | 覚憲 |
| 覚性入道親王 | 花山院忠雅 | New ! 梶原景時 | 上総介広常 |
| New ! 金売吉次 | 鎌田正清 | 寛遍 | 義円 |
| 九条院 | 熊谷直実 | 後白河院 | 後藤実基 |
| 近衛天皇 | 近衛基実 | 西行 | 斎藤実盛 |
| 佐々木秀義 | New ! 佐藤忠信 | New ! 佐藤継信 | 重仁親王 |
| 勝賢 | 上西門院 | 崇徳院 | 待賢門院 |
| 平家貞 | 平清盛 | New ! 平維盛 | 平貞能 |
| 平重盛 | 平忠正 | 平教盛 | 平宗盛 |
| 平基盛 | 平盛国 | 平頼盛 | New ! 武田信義 |
| 湛増 | 千葉常胤 | 澄憲 | 常盤御前 |
| 徳大寺実能 | 鳥羽院 | New ! 土肥実平 | 二条天皇 |
| 畠山重能 | 葉室光頼 | 美福門院 | 平賀義信 |
| 平山季重 | 藤原公教 | 藤原惟方 | 藤原伊通 |
| 藤原資長 | 藤原忠実 | 藤原忠通 | 藤原経宗 |
| 藤原成親 | 藤原教長 | 藤原信頼 | New ! 藤原秀衡 |
| 藤原通憲(信西) | 藤原宗能 | 藤原師長 | 藤原師光 |
| New ! 藤原泰衡 | 藤原頼長 | 三浦義明 | 三浦義澄 |
| 源為朝 | 源為義 | New ! 源範頼 | 源雅定 |
| 源雅頼 | 源師仲 | 源行家 | 源義朝 |
| 源義平 | 源義経 | 源頼賢 | 源頼朝 |
| 源頼政 | New ! 文覚 | 山内首藤俊通 | New ! 山木兼隆 |
| 湯浅宗重 |
![]()
[前半へ]
[畠山重能(はたけやましげよし)]???-???
秩父重弘の子。小山田有重の兄。畠山重忠は次子。畠山庄司と称する。秩父平氏の一族。
武蔵国男衾郡畠山荘を本拠とした。1155年源義平が叔父源義賢と戦った際には、義平軍に属した。平治の乱後、平氏の家人となり、武蔵国内の有力武士に成長。
1180年の源頼朝挙兵の際には在京中で平氏軍に参加、北陸道を転戦した。
1183年平氏西走の後帰国し、頼朝に随った。
[葉室光頼(はむろみつより)]1124-1173
藤原顕隆の孫で、顕頼の次子。母は藤原俊忠の娘で二条天皇の乳母俊子。桂大納言・葉室大納言と称する。
1132年従五位下。伯耆守・右少弁・左衛門佐・右中弁・蔵人頭を経て、1156年参議(宰相)、1160年権大納言、翌年正二位。1164年出家、法名は光然。
平治の乱では内裏に幽閉された二条天皇を六波羅に移すなど平家方として行動した。
日記『光頼卿記』、私家集『桂大納言集』。
[美福門院(びふくもんいん)]1117-1160
鳥羽上皇の皇后。名は得子。父は藤原長実、母は源俊房の娘方子。
鳥羽上皇の寵を得、近衛天皇らを産んだ。
1141年、近衛天皇の即位にともなって皇后に昇り、「国母の皇后」と称された。1149年院号宣下をうけ、隠然たる政治力を保持した。
[平賀義信(ひらがよしのぶ)]???-???
信濃源氏平賀盛義の子。本名は義遠。
平治の乱で源義朝方に従軍。のち源頼朝の挙兵に応じ、1184年にその推挙を得て武蔵守に任じられた。頼朝は義信の国務善政をたたえ、以後国司の例とするよう国庁に壁書させたという。
将軍頼家の乳母の夫で、将軍実朝の元服時の加冠役となるなど、幕政を支えた。
[平山季重(ひらやますえしげ)]???-???
武蔵国平山郷を名字の地とする在郷領主。武蔵七党の一つ西党に属する。平山武者所と称した。父は平山直季。
源氏の家人として保元・平治の乱で活躍し、平氏追討では源義経に従って宇治川・一ノ谷の戦いなどで軍功をあげた。
1185年源頼朝の許可なく右衛門尉に任官したため、一時勘気をこうむった。
[藤原公教(ふじわらのきみのり)]1103-1160
藤原実行の子、母は藤原顕季女。三条内府と称する。
蔵人頭から1133年に公卿となり、典型的な出世コースを歩むとともに、母方の祖父が近臣だった関係から鳥羽院の後見となる。他の近臣と違い、勤勉さと清貧さが買われ、院庁執事別当として院中を取り仕切り、その裁判制度を整備した。
鳥羽院死後には保元の記録所を整備して藤原通憲の政策を後援し、1157年には内大臣にまで昇進したが、父に先立って死去。 (朝)
[藤原惟方(ふじわらのこれかた)]1125-???
藤原顕頼の子、母は藤原俊忠の娘で二条天皇の乳母俊子。葉室光頼の同母弟。粟田口別当と称する。
美福門院に仕え、1136年従五位下。国司などを歴任。
保元の乱後昇進を重ね、1158年蔵人頭・参議。翌年、検非違使別当。同年の平治の乱でははじめ源義朝に同調したが離反。
二条天皇の側近となり専横をふるったが後白河上皇の反感を買い、1160年長門国へ配流。1166年召還。
私家集『粟田口別当入道集』。
[藤原伊通(ふじわらのこれみち)]1093-1165
大宮大相国・九条大相国とも。藤原宗通の子。
1100年従五位下。1122年参議。1130年の人事で権中納言に昇進されないことに抗議して出仕せず、解職された。
1133年権中納言となり、大納言・内大臣・左大臣をへて、1160年太政大臣・正二位に至った。
帝王学の書『大槐秘抄』を著し、二条天皇に献じた。
[藤原資長(ふじわらのすけなが)]1119-1195
藤原実光の子。母は高階重仲女。日野民部卿、日野入道と称する。
三事兼帯、蔵人頭、参議、左大弁を経て、1165年権中納言、1175年民部卿正二位に至る。
文章博士を務めた日野流儒家で、保元から治承に至る内乱期に政務に励むが、1181年本懐である出家を遂げ、九条兼実から「末代の幸人」と評される。菩提寺日野法界寺に隠居、法名は如寂。1184年高野山に参籠し、その後『高野山往生記』を著す。
1187年の意見封事には九条兼実と後白河院の人選により意見を求められる。
日記に『資長卿記』がある。和歌は『続古今和歌集』に1首、漢詩は『拾玉集』に1首載る。(朝)
[藤原隆季(ふじわらのたかすえ)]1127-1185
藤原家成の子。母は高階宗章女。四条・大宮と称する。善勝寺流藤原氏長者。
鳥羽院の有力近臣であった父家成の権勢を背景に、7歳で但馬守に任ぜられたのを皮切りに、讃岐・越後・土佐などの受領となり、その昇進ぶりは「あさましき事」との評を得るほどであった。
1158年公卿となり、1161年参議、その後権中納言、中納言を経て、1168年権大納言となる。1179年には、臣下として異例の太宰帥就任。1182年病により官を辞し、東山に出家。
歌人としても知られる。(朝)
[藤原忠実(ふじわらのただざね)]1078-1162
「知足院の禅閤・大相国・富家殿」とも。藤原師通の子。
1091年に従三位。鳥羽天皇の摂政・関白となったが、1120年に娘泰子の入内をめぐり白河上皇の怒りにふれ、翌年長子忠通に関白・氏長者職を譲り宇治に蟄居。
1129年に白河上皇が死去すると鳥羽院政下で政権に復帰したが、今度は息子忠通と対立。次子頼長を立てたが、保元の乱後に知足院に閉居となる。
日記『殿暦』や『富家語』が現存する。
[藤原忠通(ふじわらのただみち)]1097-1164
「法性寺殿・関白殿」。藤原忠実の長子。母は源顕房の娘師子。頼長は異母弟、のちに猶子。
1107年に元服、権中納言・権大納言・内大臣を経て、1121年に白河上皇の不興を買った父に代わり関白となる。翌年、左大臣従一位。のち崇徳・近衛両天皇の摂政・関白・太政大臣。
白河上皇死去の後政界に復帰した父忠実と対立を深め、1150年に義絶され、氏長者職を頼長に奪われる。これに対抗するため忠通は美福門院に接近。
後白河天皇即位にともなう忠実・頼長の失脚で再び氏長者となり、1158年関白を嫡子基実に譲る。
1162年出家、法名円観。
忠通の時代、摂関家は父弟との争いにより院権力の介入を許し、弱体化していった。書の名手で法性寺流の祖となった。
[藤原経宗(ふじわらのつねむね)]1119-1189
「中御門大臣」、阿波大臣とも。藤原経実の子。母は藤原公実の娘公子。大炊御門家。
1158年権大納言、同年甥にあたる二条天皇が即位すると、藤原惟方とともに天皇親政派の中心として藤原通憲ら院政派と対立。平治の乱後優位にたつが、後白河院により1160年解官され阿波国に配流。1162年召還。1164年右大臣、1166年左大臣となる。1189年出家、ついで没した。
[藤原成親(ふじわらのなりちか)]1138-1177
後白河院の近臣。鳥羽院の寵臣藤原家成の三男。母は藤原経忠女。「芙蓉の若殿上人」として後白河院に寵愛される。
平治の乱で藤原信頼に連坐するが、平重盛との姻戚関係から死罪を免れる。
1161年に後白河院の皇子憲仁立太子事件に参画。1166年参議正三位。のち権大納言正二位。所領をめぐる争いから延暦寺の訴えでたびたび解官・配流されるが、後白河院の保護により復任、しだいに平氏と対立。鹿ケ谷の謀議にかかわり備前国に配流され、殺害された。
[藤原教長(ふじわらののりなが)]1109-1180?
藤原忠教の子。母は源俊明女。
崇徳上皇に近侍し、保元の乱に連坐して配流、のちに高野山に入った。
崇徳院歌壇で活躍。『詞花和歌集』に対抗して『拾遺古今和歌集』(散逸)を撰集、『古今集註』や書道の伝書『才葉抄』などの著書がある。『詞花和歌集』以下の勅撰集に入集。私家集『貧道集』。
[藤原信頼(ふじわらののぶより)]1133-1159
後白河院の近臣。鳥羽院の近臣藤原忠隆の三子。母は藤原顕頼女。同母妹は近衛基実の室。
保元の乱後、後白河院の寵愛をうけ、1158年参議、ついで権中納言右衛門督を兼ねいっきょに昇進した。さらに右近衛大将を望んだが、藤原通憲(信西)に反対され、源義朝ら反信西派を糾合して平治の乱を起こした。
信西を討ち、一時政権を掌握したものの、平清盛の計略により結局敗北、京の六条河原で斬られた。
[藤原秀衡(ふじわらひでひら)]1122-1187
奥州藤原氏三代目の当主。藤原基衡の子。母は安倍宗任女。
1170年従五位下、鎮守府将軍となる。1181年従五位上・陸奥守。
平泉を拠点として陸奥・出羽両国に強力な支配を展開した。源平争乱に際しては、双方から誘いをうけたが動かなかった。源義経の保護者で、源頼朝の追討令が出た後も義経をかくまったことが、平泉攻めの口実となった。
無量光院を建立。
[藤原通憲(ふじわらのみちのり)]???-1159
「少納言入道」。後白河院の近臣。法名ははじめ円空、のち信西。父は藤原実兼。母は源有房女。高階経敏の養子となったが、のち藤原に復姓した。藤原頼長と双璧をなす学者であったが、藤原南家出身の故に不遇で、官位は少納言・正五位下にとどまった。
1144年に出家したが、政界からは引退せず、妻の紀伊二位が後白河院の乳母であったため後白河天皇即位後は重用された。
1156年に保元の乱が起きると、源義朝の意見を容れて崇徳上皇方を破った。
1158年に後白河院政が開始されると、平清盛と結んで権勢を誇った。このため同じく院近臣の藤原信頼と対立し、1159年平治の乱で源義朝と結んだ信頼に殺害された。
『本朝世紀』、『法曹類林』などを編纂。
[藤原宗能(ふじわらのむねよし)]1085-1176
本名宗隆。藤原宗忠の子。母は藤原行房女。中御門内大臣と称する。
1094年弟たちと堀河天皇に拝謁し、藤原行成の書を賜る。右中将、蔵人頭、参議などを経て1165年内大臣。1164年辞す。
父から家に伝わる儀式の作法を伝授され、当時の有識者として、中山忠親、九条兼実らが教えを受けている。また音楽にも優れていた。
日記『中右記』がある。(朝)
[藤原師長(ふじわらのもろなが)]1138-1192
妙音院太政大臣とも。藤原頼長の次子。母は源信雅女。祖父藤原忠実の養子となる。
参議を経て1154年権中納言。1156年保元の乱に連坐し土佐国へ配流された。
1164年召還され、内大臣などを経て1177年太政大臣。1179年平清盛のクーデタにより尾張国に配流され出家した。1181年帰京。
琵琶と筝を究め、琵琶の譜「三五要録」、筝の譜「仁智要録」を著した。
[藤原師光(ふじわらのもろみつ)]???-1177
鳥羽院・後白河院の近臣。藤原家成の養子、藤原通憲の乳母子といわれる。法名は西光。
1159年平治の乱で藤原通憲が殺害されたため出家するも、政界には留まり、後白河院第一の近臣と称された。子の師高が日吉社の末社と争って配流となったとき、院に奏上して天台座主明雲を伊豆国へ配流させる。
1177年鹿ケ谷で藤原成親や俊寛らとともに平氏打倒を謀議したことが発覚し、朱雀大路で斬首された。
[藤原泰衡(ふじわらのやすひら)]1155-1189
奥州藤原氏四代当主。藤原秀衡の次子。母は藤原基成女。
1187年に父の跡を継ぎ、陸奥・出羽両国の押領使となる。兄国衡・源義経とともに「三人一味」せよという父の遺言に反し、源頼朝の命に従い義経を討つ。その後、頼朝の大軍に攻められ、平泉を捨てて敗走。途中、肥内郡贄柵で家臣の河田次郎に殺された。首は源家の故実により眉間に八寸釘を打って柱にかけられ、のち中尊寺金色堂に納められた。
[藤原頼長(ふじわらのよりなが)]1120-1156
「左大臣殿」。宇治左大臣とも。藤原忠実の次子。母は藤原盛実女。
23歳年長の異母兄忠通の猶子となるが、もっぱら実父忠実の後援で昇進を重ね、忠通と対立した。
権中納言・権大納言を経て、1136年に内大臣、1149年に左大臣。1150年には忠通に代わって氏長者職を得、翌年内覧の宣旨をこうむる。
政務に厳格で周囲から恐れられて「悪左府」の異名をとり、1155年の後白河天皇即位を境に鳥羽上皇からも冷遇されて孤立。1156年の鳥羽上皇死去を機に崇徳上皇とともに挙兵したが、敗死。
経書に通じ、合理的精神の持ち主として知られる。
日記『台記』。
[三浦義明(みうらよしあき)]1092-1180
吉明とも。三浦義継(義次)の子。桓武平氏。三浦大介、三浦介と称する。
相模国三浦荘衣笠を本拠とする。相模大介を世襲し、天治年間以来有力な在庁官人となる。源義朝の家人でもあった。
1180年の源頼朝挙兵に際し、石橋山に一族を遣わしたが敗戦の報を聞いて引き返した。途中、鎌倉で畠山重忠軍と戦い破ったが、加勢を得た重忠軍に衣笠城を攻められ、一族の脱出後に討死。
[三浦義澄(みうらよしずみ)]1127-1200
桓武平氏。三浦義明の子。通称荒次郎。三浦介・相模国守護。
1180年源頼朝の挙兵に応じて父とともに衣笠城で旗揚げするが、豪雨で到着が遅れ、頼朝は石橋山で敗れた。帰路、畠山氏に襲われ父を失うが、海路安房に渡って頼朝と合流。
1184年源範頼の平氏追討軍に加わり、壇ノ浦の戦いで戦功をあげた。奥州合戦でも活躍し、頼朝の死後も宿老の一人として幕府を支えた。将軍源頼家の親裁をやめて十三人の合議制がしかれたときにもその一員となった。
[源為朝(みなもとのためとも)]1139-1170
源為義の八子。母は摂津国江口の遊女。鎮西八郎と称する。
13歳のとき父により鎮西へ追放される。武勇にすぐれ、九州各地で騒擾事件を起こし朝廷に訴えられたが、召喚命令に従わなかった。
1154年に父が解任されたことを知り上洛。保元の乱に巻き込まれ、父とともに崇徳院方で奮戦したが捕らえられた。すぐれた武芸のため死を免れ、伊豆大島に配流。配流後は大島や近隣の島々を襲撃したため、1170年工藤茂光(狩野茂光)の追討をうけ自害したという。
後世、琉球にのがれ、舜天王の父になったという伝説がうまれた。
[源為義(みなもとのためよし)]1096-1156
「六条判官」。源義親の子。
1108年に父が平正盛に追討されたため、叔父義忠ついで祖父義家の養子となり、源氏の正嫡となる。翌年、義家の弟義綱追捕の功により左衛門尉に任ぜられた。
その後、平氏とともに寺社の強訴の沈静化などに活躍。1143年には藤原頼長に従い、1146年に検非違使に任官。1154年に子の為朝の乱行の責めを受けて解任、家督を嫡子義朝に譲った。
1156年の保元の乱に際しては、子6人とともに崇徳院・藤原頼長方に加わって敗北。延暦寺で出家し、義朝のもとに投降した。義朝は助命を嘆願したが、いれられず斬首された。
[源範頼(みなもとののりより)]???-???
源義朝の六男。母は遠江国池田宿の遊女。通称蒲冠者。
平治の乱で父が敗死したのち、九条兼実の家司藤原範季の養子となり、扶持を受ける。妻は安達盛長の娘。
異母兄源頼朝の挙兵に参加し、配下の将として源義広や平氏の追討に東奔西走し、頼朝の推挙で三河守となる。武蔵国吉見・相模国当麻などを領するが、1193年曾我兄弟仇討ち事件で頼朝暗殺が誤り伝えられると、鎌倉留守居役だった範頼の不用意な発言が問題となり、8月17日に伊豆国に流され、その直後に殺されたらしい。
[源雅定(みなもとのまささだ)]1094-1162
村上源氏の太政大臣源雅実の子。母は藤原経生(または田上次郎)の娘の子。
1119年参議となり、累進して、1150年正二位右大臣となる。しかし、1154年辞官、出家。邸宅が中院と呼ばれたことから中院右大臣と称した。
有職故実に関して意見を徴せられることが多く、出家したのちもそれは続いた。
父より胡飲酒の舞を伝授され、9歳のときから賞賛された。また笙の名人としても知られた。藤原顕季の婿となったことから和歌をたしなみ、『金葉和歌集』以下の勅撰集に19首入集する。西行とも交友があった。(朝)
[源雅頼(みなもとのまさより)]1127-1190
村上源氏の源雅兼の子。母は源能俊女。
後白河天皇の蔵人、弁官、伊勢権守、遠江権守を経て1169年中納言。1179年辞するが、1183年正二位。1187年妻の病のため出家。
有職故実に通じ、文書、日記など多く所蔵する。
摂関家の藤原忠通と親交が深く、その子九条兼実とも密接なつながりがあった。また、源頼朝の近習中原親能が家人で、息子の兼忠の乳母の夫であったことから1180年の頼朝の蜂起後、頼朝の意向の伝達者として鎌倉と京のパイプ役を果たし、特に兼実と頼朝との仲介役となった。(朝)
[源師仲(みなもとのもろなか)]1116-1172
村上源氏の源師時の子。母は待賢門院女房の源師忠女。伏見源中納言と称する。
1132年叙爵。以後侍従、左少将、右中将、蔵人頭を経て、1156年参議となり、1159年権中納言となる。しかし平治の乱に際し、首謀者のひとり藤原信頼に連坐して解官処分を受け、1160年下野国に配流。1166年召還され、本位の正三位に復する。極位は従二位。
『千載和歌集』に入集する。
[源行家(みなもとゆきいえ)]???-1186
源為義の末子。本名は義盛、通称は新宮十郎。
八条院の蔵人となり、1180年源頼政の挙兵には、以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えた。源頼朝にはいれられず源義仲と結んで上洛し、備前守に任じられる。その後、義仲とも対立し和泉国に下ったが、頼朝・義経兄弟の不仲が表面化すると義経側に加担し、朝廷から四国の地頭に任じられた。
摂津の大物浦で遭難後、和泉に潜伏中に捕らえられて殺された。
[源義朝(みなもとのよしとも)]1123-1160
源為義の長子。母は藤原忠清女。左馬頭と称した。
鎌倉を本拠に勢力を拡大、所領相論をおこしながら在地武士を組織化。上洛して1153年下野守・従五位下となり、翌年家督を継ぐ。
1156年の保元の乱では、平清盛らとともに後白河天皇方の主力をなした。義朝の主張した夜襲により天皇方は勝利を収め、その功により左馬頭・従五位上に任ぜられ、昇殿を許された。崇徳院方に加わった父や兄弟の助命嘆願は許されず、斬首した。
後白河天皇の近臣藤原通憲や平清盛と対立し、1159年藤原信頼と組んで平治の乱を起こしたが失敗。尾張国知多郡野間で長田忠致に殺された。
[源義平(みなもとのよしひら)]1141-1160
源義朝の長子。鎌倉悪源太と称する。
義朝上洛後、東国経営にあたり、1155年叔父義賢を武蔵国大蔵館で殺害。
1159年平治の乱に上洛、奮戦したが敗れた。父の命で北国勢を集めるため北陸道に向かったが、越前国足羽で父の死を聞き再び上洛。平清盛暗殺の機会を狙ったが果たせず、捕らえられて斬首。
[源義経(みなもとのよしつね)]1159-1189
源義朝の子、母は常盤御前。源頼朝の異母弟。幼名は牛若。九郎御曹司と称する。のち義行・義顕と改名。妻は河越重頼女。
平治の乱後鞍馬寺に流され、のち奥州藤原秀衡の扶持を受ける。
1180年頼朝が挙兵するとその軍に加わり、代官として兄範頼とともに東国武士を率いて上洛、源義仲や平家一門を追討した。地域住民に対する徹底した軍事動員と、当時の合戦の作法を度外視した戦法によって連戦連勝した。
頼朝の許可なく任官したため頼朝と不和になり、平氏滅亡後、鎌倉に下向したが鎌倉入りを拒絶され、1185年10月、後白河上皇から頼朝追討の院宣を得た。九国地頭職として西国住人に挙兵を呼びかけたが失敗。再び奥州藤原氏を頼ったが、秀衡の子泰衡に殺害された。
[源頼賢(みなもとのよりかた)]???-1156
源為義の子。母は源基実女。義朝・義賢らの弟。
1147年に左兵衛少尉に就任、翌年衛門尉の功を募って天王寺念仏堂を造進。
僧徒の強訴防御に活躍したほか、父とともに藤原頼長一族に奉仕。義朝の東国下向、義賢の解官後、為義の後継者となったとされる。1155年に春日社の訴えで解官。同年、養父だった兄義賢が甥の義平に殺害されたため、報復に下向して信濃国で鳥羽院領を侵害したため、義朝に追討の院宣が下されたが、その後帰京し、年末に没した高陽院の葬儀で素服を賜っている。
翌年の保元の乱では父とともに崇徳院方に参戦、院の六位判官代となる。敗戦後、父とともに船岡山で義朝に斬首された。(朝)
[源頼朝(みなもとのよりとも)]1147-1199
源義朝の子。母は熱田大宮司藤原季範女。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。
1159年の平治の乱で義朝が敗れたため、翌年平氏に捕らえられ、伊豆国に配流となった。
1180年以仁王の平氏討伐の令旨に応じるかたちで、反平氏の兵を挙げる。石橋山の合戦で敗れたものの、房総へ渡って勢力を回復、富士川の戦いで勝利し、同年末までに鎌倉を本拠とする南関東軍事政権を確立した。
1183年同族の源義仲が平氏を追い落として京都に入ったが、頼朝は後白河上皇に接近し、義仲を出し抜いて東国の支配権を認めさせた。このため義仲と対立、1184年には弟の源範頼・同義経を派遣して義仲を破った。
1185年平氏を滅ぼす。その後義経と対立、上皇が一時義経に味方したため、その追捕を目的に上皇に迫って議奏公卿および守護・地頭の設置を実現させた。
1189年義経死後、奥州藤原氏を討ち、1190年上洛し、上皇に対面して和解。権大納言・右近衛大将に任命されたが、まもなく辞した。1192年上皇の死後に征夷大将軍に任命された。
[源頼政(みなもとのよりまさ)]1104-1180
源仲政の長子。母は藤原友実女。源三位頼政・源三位入道などと称する。摂津源氏の流れをくみ、摂津国渡辺を本拠とした。
白河院判官代となり、1136年従五位下、蔵人。1155年兵庫頭。保元の乱には後白河天皇方に加わる。平治の乱でははじめ源義朝にくみしたが、離反して平清盛についた。
清盛の厚い信頼もあり、1166年正五位下に叙されたあと昇進を続け、1178年従三位。
1180年には以仁王を奉じて反平氏の兵を挙げたが失敗し、宇治で敗死。
弓の名手、歌人としても有名。『新古今和歌集』に入集。私家集『源三位頼政集』。
(源頼政と摂津源氏については、暁雨堂さんの暁雨堂古代史研究室が詳しいです。)
[文覚(もんがく)]1139-1203
俗名遠藤盛遠。もとは摂津渡辺党に属する武士。
出家して神護寺再興を志し、1173年後白河院に寄付を強訴して伊豆に配流された。同地で源頼朝と親交を結び、平家追討を促したと伝える。平家滅亡前後から源頼朝・後白河院の庇護を受け、空海ゆかりの神護寺・東寺・西寺・高野大塔などを修復。頼朝没後は後鳥羽院に忌避され、佐渡ついで対馬に流罪となり、配流途上で客死。
[山内首藤俊通(やまのうちすどうとしみち)]???-1160
藤原秀郷の子孫。父祖以来の源氏の家人で、祖父資通は源義家の郎等として後三年の役に活躍、その姉は義家の妾。父は義通。妻は源頼朝の乳母摩摩局。
相模国鎌倉山内荘を本拠とした。保元の乱では子の俊綱とともに源義朝に従う。平治の乱でも源義朝・義平父子に属し、俊綱は六条河原で、俊通は四条河原で討死する。
その子孫は鎌倉御家人としてのちに備後国地毘荘に移り、戦国時代には毛利氏の国衆となり、鎌倉期以来の武家文書を伝えた。
[山木兼隆(やまきかねたか)]???-1180
桓武平氏。平信兼の子。山木判官と称する。
1179年父に勘当され伊豆国山木郷に配流。翌年の以仁王の挙兵後、平時忠が伊豆の知行国主となると、国司平時兼の目代として伊豆国衙を支配。1180年源頼朝の襲撃を受けて敗死。
[湯浅宗重(ゆあさむねしげ)]???-???
紀伊の豪族で、藤原宗良の子。紀伊権守。湯浅党の祖。
平治の乱勃発に際して、熊野詣の途上だった平清盛をたすけて上洛、以後平氏の家人統制にかかわる重要な役割を果たす。平氏の没落後は、平重盛の子の忠房を庇護したが、文覚の仲介で源頼朝に降伏。
源義経の挙兵に応じなかった賞として、1186年に湯浅荘を安堵され、以後在京奉仕した。
宗重の四女は平重盛の家人平重国に嫁して明恵を生んだ。
![]()
参考文献・『日本史人物辞典』(山川出版社・2000年)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社・1994年)→文末に(朝)
![]()
[ホームへ] [『保元物語』目次へ] [『平治物語』目次へ] [前半へ]
最終更新日: