スレッド No.593


[593] 意味論の前に形式論を
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年1月28日 23時16分
「別冊歴史読本 危険な歴史書、古史古伝」という雑誌が、人物往来社からでている(2000.
10刊行)。
それを読んでみて、実に多種多様な「古史古伝」があることを知りました。この解説を読んで、「文系」はすぐに「意味論」に入ってしまうのだな、と思いました。旧石器の捏造事件と同じです。石器の意味論をやるから落とし穴にはまる。どだい20年の歳月を費やして発見された40箇所近くの捏造遺跡を意味論的に検証することなど、100年経ってもできはしない。
どうして意味論に入る前に、形式のチェックを行わないのでしょうか。自然科学の場合は、それが基本になります。
以下代表的な「古史古伝」を形式チェックすれば、全部「偽物」とすぐに判定されます。
石器だと竹岡ム角張がやっているような方法ですね。あれが科学というものです。
これからは考古学も古文書学も、殺人事件とおなじで「まず発見者を疑え」という原理の導入が必要になりますね。そうならないように、「意味論」に行く前に完全な「形式チェック」の科学的方法論を確立して欲しいですね。これはもちろん土器の「型式」などとは、違う話です。
 それと「古文書偽造」は、新興宗教がらみ、宗教的人物がらみが多いですね。
以下は私の考察で、雑誌の内容とは関係ありません。

「上記(うえつふみ)」:明治10((1877)年11月、吉良義風が東京甘泉堂より出版して以来世に知られるようになった「古書」。吉良は本書を宗教書として信仰。
天保9(1837)年豊後(大分市)の国学者幸松葉枝尺(さちまつはえさか)が発見したとされる。
内容:天地の始まりから神武天皇までの歴史。
形式:神代文字(豊国文字)を使用。これはカタカナと名詞部分が暗号化された文字からなる。文法は日本語の文語体。
その他:記述に当たっては太陽暦が使用されている。
結論:吉良義風による捏造文書。カタカナの発明は12世紀以後。日本語文語体の確立は江戸期。太陽暦が日本に導入されたのは明治5年12月3日。
従ってこの本は、明治6年以後の人物にしか書けない。

「竹内文書」:昭和の初め茨城県にあった新興宗教「天津教」の教祖竹内巨麿(たけうちきよまろ)が竹内家伝来の書として主張。天津教は昭和12年、教祖が不敬罪で逮捕、裁判で有罪となり消滅。戦後巨麿の子義宮が出版して以来、世に広まる。
内容:天地開闢から、人類の誕生、人種の分かれ、ユダヤ人の歴史、皇室の歴史を物語る。
形式:一種の象形文字。
その他:昭和11年、日本医事新報社から「竹内文書」の鑑定を依頼された狩野亨吉(元京大学長)が、3ヶ月かけて解読。44文字のイロハと濁音記号からなり、「現代茨城弁」で書かれていることを証明し、雑誌「思想」(1935年6月号)に発表。
結論:教祖竹内巨麿が作成したもの。

「宮下文書」:大正10(1921)年、三輪義ひろが宮下家に伝わる古文書を研究・解読したとして出版したもの。
内容:秦の始皇帝の命を受けて出帆した除福は富士山麓に永住し、富士の神官の話を聞いて、日本民族の成り立ちを執筆した。
形式:漢文。但し現代漢字を使用。
結論:三輪義ひろが書いたもの。

「九鬼文書」:昭和16(1941)年、三浦一郎「九鬼文書の研究」の出帆により世に知られるようになった文書。熊野神社宮司九鬼家に代々伝わる古文書と言われているが、証拠はない。
内容:神代史と九鬼神道の教義。
形式:九鬼神道部分は変体仮名(九鬼文字)。神代史は竹内文書と一部重複。
その他:昭和10(1935)年12月に弾圧された新興宗教大本教と関連あり。
結論:三浦一郎の執筆したもの

「東日流(つがる)外三郡誌」:昭和50(1975)年青森県市浦村の「村史資料編」として出版され、世に広まる。
内容:超古代の青森にはすぐれた文明があったが、邪馬台国により征服され、落ちぶれたという歴史書。
形式:漢字交じり平かな(現代日本語)
結論:「発見者」和田喜八郎の執筆。(本人は昭和22年自宅屋根裏で発見したと主張)
この事件は、公的機関が信用保証した点で、「旧石器遺跡捏造事件」と類似性がある。

[595] 補足
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年1月28日 23時52分
私の言う「形式論」とは、「それを論じることに意味があるかどうかを、対象のもつ意味とは無関係に決定する手続き」のことです。
裁判では双方から「提出された証拠」を、「証拠として採用するかどうか」審査することがこれにあたります。
自然科学ではいろいろありますが、「完全論文」が「レフェリーの審査を経て」、一流の英語雑誌に掲載されることがこれに相当します。
考古学が自然科学と同じ規準ではいやだというのなら、第三者をなっとくさせる「形式論」を自分で完成させることでしょう。

[620] 竹岡俊樹論
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年1月29日 21時09分
竹岡俊樹:考古学は文化を語れるか:近世宝きょう印塔の形式学的分析をとおして.古代文化, 53(1):13-25, 2000
を送ってくれる人があって、読んでみました。
私のいう「形式論」と「意味論」の区別をこの人はちゃんと区別している。
「現在、何より必要とされるのは研究者自身が、ものの形とは何か、ものは文化システムの中でどのような役割をはたしているのか、形はどのような要因でどのように変化するのかといった、遺物を解釈するための根拠となる事例を知識としてできうる限り蓄積することである。
 今日、遺物の解釈がしばしば平板で思いつきの域を出ないのは、考古学におけるこうした知識基盤の欠落によるものである。研究者個人の想像力によって解釈することでよしとするなら、彼の論の是非を問うための検証の手だても議論の余地もなく、考古学の学問的な発展はありえないだろう」(p23)
この指摘は大変重要だと思います。
 実はこの問題が、「ねつ造事件」の背景に存在しているのです。
 たぶん「聖岳人」問題も、同じことになるのでは。(もう忙しいから関与しません)

 「ではどのようにしてモデルを作るのか。残念ながら他の学問領域には私たちが具体的な資料に対して適用することができる科学的な理論もモデルもない。現状では研究者自身が資料を分析してモデルを作り上げてゆくしかないのである」(p23)
 私はそうは思いません。「病理画像伝送」が岡安さんにモデルを与えたように、「病理形態学」の論理と膨大なデータは、参考として役に立つだろうと思います。
実際病理形態学者は、ウィルヒョウにせよ、清野謙次にしろ、考古学にすすみ、すぐに一流になりましたよ。
もっとも「病理学の権威を盾に、押し出しただけだ」という批判も成り立ちますが。

 しかし考古学の世界でこれだけ理論的見通しをもち、ひるまず堂々と学問批判をする人はきっと少ないのでしょうね。
 これは「嚢中のキリ」だな。

[624] 聖岳人問題のポイント
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年1月29日 21時53分
ひとことだけ。
「聖岳人」を「旧石器時代人」と鑑定したのは新潟大学解剖学の小片保。
ところが彼には「人間の骨と鹿の角を鑑別する」能力もなかった。
1961年に広島大学が帝釈峡観音堂洞窟で発掘した「長さ150ミリ、重さ113グラム」の細長い化石骨を、小片は「人骨」と鑑定した。
喜んだ広島大学は当時の飯島学長(私の恩師です)が「帝釈人」と命名した。
ところが1980年に別の人物が再鑑定した結果、「ニホンジカの角」と確定。
考古学教室は恥ずかしくて、教授が停年退官して、代が変わり、死ぬ頃になってやっと「訂正発表」を新聞などにおこなった。
だから「聖岳人」の再鑑定はするまでもない。
あれは江戸期の人骨です。あの頃九州南部や沖縄には、洞窟で風葬をおこなう習慣があった。
それが紛れ込んだものです。考古学者も民俗学はきちんと勉強しておかなくちゃ。

[599] Re: ゾンビ退治の形式論
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年1月29日 00時47分
難波先生をはじめ、この『危険な歴史書「古史古伝」』をお読みになった方はわかったと思いますが、こうした荒唐無稽な「偽史」にもシンパがいて反論を繰り返しています。曰く「現代語が混じっているのは近代になって書き直したからだ。」「その部分はたしかに偽書だが、ほかの部分は本当だ。」その時代にはあり得ないような用語があってもそのころそういう用語が“絶対”ないとは言えない」という話です。しまいには、確かに「偽史」かもしれないが、「正史」にはない幾らかの真実が含まれているかもしれないと、言い出します。

個々の批判に「そうとも言いきれない」「絶対可能性が無いとは言えない」「一般論としては無いとは言えない」「全てが偽造とは言えない」というのは、「ゾンビ」の主張そっくりですね。「偽史ゾンビ」を個別の批判で根絶することは、出来ないのです。
このままでは「神の手」関連資料についても、同じことの繰り返しになるでしょう。実際にこの掲示板でもそうしたやり取りに近いものが、フレームを伴うもっとも避けるべき形で起こっています。しかも一方は「悪意」でなくある意味で誠実に答えようとし、もう一方がその「答え」にいらだつというような、すれ違いの不毛な議論です。

「偽史ゾンビ」のことを考えると「ゾンビ」を根絶することは難しいと思われますので、今後は個別に問題点を挙げるとともに、こうした点がそろったらダメだと言えるような捏造を判定する「形式論」を整理しなければならないのではないでしょうか。

[601] Re: 短気な人は考古学に向かない
投稿者名: ソフィー
投稿日時: 2001年1月29日 02時08分
> 個々の批判に「そうとも言いきれない」「絶対可能性が無いとは言えない」「一般論としては無いとは言えない」「全てが偽造とは言えない」というのは、「ゾンビ」の主張そっくりですね

例の捏造問題は、まだ総括できるような段階ではありません。新たな発掘調査もまだなされていない段階での発言を「偽史」問題と同じに扱わないでください。

[615] Re: 「ゾンビ的議論」と「建設的議論」
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年1月29日 12時03分
ソフィーさん。ネット上でほとんど唯一の「専門家」として批判を一手に引きうけているご苦労お察しいたします。ソフィーさんの書き込みはいつも興味深く読ませていただいています。

「偽史」研究との比較は、議論の展開がよく似ており、比較する意味はあると思っています。また、週刊誌などでも偽史と今回の事件を関連付けて報道しており、同じレベルで見ている一般の方も少なからずいるのではないでしょうか。そうであれば、偽史を巡る議論と「捏造事件」とは、ここがちがうという点を明らかにすべきだと思っています。実際のところ、偽史擁護の論を読むと一種のいらだちを感じます。それは個別の問題については、こうも言える、そこまで断定はできないと、反論するが「じゃあ、全体として信じ得るのか」といういらだちです。なにか本質的な部分をはぐらかされているようないらだちです。この掲示板でも同様のいらだちがみられ、それがフレーム闘争にまで発展しています。その部分は「偽史論争」そっくりですね。こうしたレベルでやりとりをしても不毛なんじゃないでしょうか。こうした「いらだち」を解消する方向はないのでしょうか。

わたしが、言いたかったのはいくら個別の問題に答えても、「捏造擁護」ととられてしまう、だから議論の方向を変えてはどうですか、「捏造慎重派」と「批判派」が協同して両者が納得しうる「捏造判定のための形式論」づくりをやってはどうですか、ということです。現在の議論は完全にすれ違いになってます。
これを書いている時点で、大学生氏による一連の書き込みがあり、「遺物の水平出土」については、可能性が十分検討されておらず、現状としては、すぐに結論を出すことは難しいということを述べられています。批判派のまたか、という声が聞こえてきそうですが、 検証は入り口にようやく手がかかったところですので、「遺物の水平出土」問題のように現時点で結論を出すことの難しい点も多いと思います。分からぬことは分からぬとしたうえで、この点がクリアされなければ「捏造」はなかったと言えないというポイントを整理したほうが良いのではないでしょうか。

「前期旧石器」に関係して「捏造」があったからと言って、前期旧石器の存在自体が否定されたわけではありません。だから日本における前期旧石器の存在自体を否定する論に対しては慎重になるべきでしょう。また、考古学界が批判をしにくい体質かどうかについても、もうすこし議論を深める必要があるように思われます。

わたしは、「捏造」がいわゆる藤村関連遺跡全てで行われたかどうか、ということと、「資料としての価値」を分けて考えるべきだと思います。
検証作業によって、「捏造」が証明できない灰色の資料があるかもしれない、しかし、汚染された可能性が否定できない資料は、「資料」として扱われるべきでない、と考えます。
これは、他の方もいわれているように「捏造」があったかなかったかという「論理」ではなく「倫理」の問題です。

藤村関連遺跡の全てで「捏造」があったかどうかについては、大いに議論のあるところだと思いますので、わたしはこうした議論をする方をゾンビとは思いません。しかし、「倫理」に気付かないヒトは、「神の手」の呪縛から逃れられないゾンビではないかと思っています。

[616] 倫理と論理
投稿者名: トンビ
投稿日時: 2001年1月29日 13時18分
私は、学問の場合には、倫理と論理って、そんなに簡単に切り離せないと思います。

自分にとって、都合の良い結論を恣意的に選択した議論を行う(倫理的破綻)
                  ↓
あちらで言ったことと、こちらで言ったことの辻褄が合わなくなる(論理的破綻)

という展開に、なりがちだからです。

私が取り上げているのも、そういう問題で、一方で、アーシュリアンの石器を作れた原人に、藤村石器が作れなかったとは思えないというような、大胆な仮説を提示しておきながら、検証がまだなので、水平出土については何も言えないといった、論理的破綻についての指摘を行っているわけ。

あるいは、検証がまだなのだから、何も言えないはず、とか言いながら、地層の圧力によって、水平に出土するんじゃないか、としゃーしゃーと書く矛盾とかね。

こういう論理矛盾には、背景に倫理的破綻があると、私は言いたいわけです。

科学的方法が、万能ではないながら、あらゆる学問において、最大限取り入れられるべきなのは、科学的方法は、少なくとも、分析の一貫性を保つためには、間違いなく有効だからでしょう。悪用しようと思えば、不可能ではないにせよ。

[623] Re: 他人の投稿を正確に読み取りましょう
投稿者名: ソフィー (ホームページ)
投稿日時: 2001年1月29日 21時29分
> 私が取り上げているのも、そういう問題で、一方で、アーシュリアンの石器を作れた原人に、藤村石器が作れなかったとは思えないというような、大胆な仮説を提示しておきながら、検証がまだなので、水平出土については何も言えないといった、論理的破綻についての指摘を行っているわけ。

トンビさんにぜひともお願いしたいのは、他人の投稿を正確に読み取ってから意見を言ってほしいということです。「アーシュリアンの石器を作れた原人に、藤村石器が作れなかったとは思えない」というようなことは、私は言っておりません。

アシューリアン(アシュール文化)というのは、ヨーロッパからアフリカ、インドにかけて分布している前期(または下部)旧石器文化の代表的なものです。その文化の担い手である原人の能力について私は述べたのです。なぜこのようなことを取り上げることになったかというと、“日本のいわゆる「前期旧石器」資料に押圧剥離が認められるものがあるが、ヨーロッパなどの前期旧石器には押圧剥離は認められないし、その文化の担い手である原人は親指とひとさし指で物をつかむことができないから押圧剥離などできるはずがない”という主張があるようなので、ほんとうに原人には親指とひとさし指との対向性がなかったのかが問題になったからです。そこで私は、アシューリアンのような見事な石器を作った原人に親指とひとさし指との対向性がなかったとは思えない、と答えたのです。この場合の原人は、直接的にはアシューリアンの担い手を意味します。

「ヨーロッパの原人(前期旧石器)が○○だから、日本の原人(前期旧石器)は××であるはずがない」という論法で日本の「前期旧石器」批判がなされていますが、その論法を認めるならば、逆に「ヨーロッパの原人(前期旧石器)は☆☆だから、日本の原人(前期旧石器)も△△かもしれない」という推論(仮説)にも合理性があると認めなければ不公平でしょう。今後、確実に前期旧石器であることが確認された資料によって、その推論を検証すればよいわけです。

ご自分の読解力のなさを棚に上げて、軽々しく人を批判するのはよしなさい。

[643] Re: 他人の投稿を正確に読み取りましょう
投稿者名: トンビ
投稿日時: 2001年1月30日 09時47分
もういいよ。。。

私の投稿の問題は、相手の論理的欠陥に潔癖過ぎるという点だと自覚しています。

わかる人にはわかることのようなので、もうこれ以上、指摘は繰り返しません。

[646] Re: 他人の投稿を正確に読み取りましょう
投稿者名: ソフィー (ホームページ)
投稿日時: 2001年1月30日 11時13分
トンビさんの投稿の問題は、はたして「相手の論理的欠陥に潔癖過ぎるという点」でしょうか。私にはとうていそのようには思えません。

「わかる人にはわかることのようなので、もうこれ以上、指摘は繰り返しません」という言葉をそのままお返ししておきます。

[626] Re: 建設的議論に賛成
投稿者名: ソフィー (ホームページ)
投稿日時: 2001年1月29日 23時53分
> ネット上でほとんど唯一の「専門家」として批判を一手に引きうけている

「」付きの専門家が何を意味するのか気になりますが、前期・中期旧石器の専攻者ではないという意味に解しておきます。それはともかく、批判を一手に引きうけるつもりもありませんので、あしからずお願いします。

> 「偽史」研究との比較は、議論の展開がよく似ており、比較する意味はあると思っています。

それはそれで究めていただいてよいかと存じますが、私は当分、その方面には首を突っ込まないことにしております。そんなゆとりがないのです。

>  実際のところ、偽史擁護の論を読むと一種のいらだちを感じます。それは個別の問題については、こうも言える、そこまで断定はできないと、反論するが「じゃあ、全体として信じ得るのか」といういらだちです。なにか本質的な部分をはぐらかされているようないらだちです。この掲示板でも同様のいらだちがみられ、それがフレーム闘争にまで発展しています。

そのような「いらだち」が理解できないわけではありませんが、今回の捏造問題は時間と労力をかけないと解決できない事柄を多く含んでいます。しかし、偽史問題と違う点は、今後の多面的な調査・研究によってかなり解決していける可能性があるということです。専門家は、ネット上に登場しなくても、徐々に調査・研究成果を印刷媒体で発表していくことでしょう。それをふまえて、ネットでも自由に検討していけばよいと考えます。

> いくら個別の問題に答えても、「捏造擁護」ととられてしまう、だから議論の方向を変えてはどうですか、「捏造慎重派」と「批判派」が協同して両者が納得しうる「捏造判定のための形式論」づくりをやってはどうですか、ということです。現在の議論は完全にすれ違いになってます。

どうもみなさんの中には、運動会の玉入れみたいに赤組か白組かの色分けをして、悪しきディベート競技している人がいるようです。自分が赤組の立場だとすると、白組のカゴに白玉を入れた、あるいは入れたように見えたら、しゃにむに非難、攻撃するという感じです。私はそういう競技に参加するつもりはありません。どういう立場であれ、是は是、非は非でのぞみたいものです。今後、「灰色」資料を検討していく際にも、黒説であれ白説であれ、根拠の是非を問うていくつもりです。どちらとも言いがたいなら、保留にしておけばいいわけです。「捏造慎重派」と「批判派」というのも単純すぎるし、意味もはっきりしない分け方です。「捏造判定のための形式論」はよい試みですが、やはり個別の問題を抜きにしては論じられません(トラさんの言う「個別の問題」とは意味がずれているかもしれませんが)。議論のすれ違いは、議論の仕方を心得ていない投稿者がいることも一要因となっています。

> この点がクリアされなければ「捏造」はなかったと言えないというポイントを整理したほうが良いのではないでしょうか。

「捏造」があった言えるポイントについても整理する必要がありますね。

> 「前期旧石器」に関係して「捏造」があったからと言って、前期旧石器の存在自体が否定されたわけではありません。だから日本における前期旧石器の存在自体を否定する論に対しては慎重になるべきでしょう。

その通りです。

> 考古学界が批判をしにくい体質かどうかについても、もうすこし議論を深める必要があるように思われます。

批判しにくい体質というのは、どのような世界でも程度の差はあれ存在します。私が気になるのは、捏造問題にかこつけ「考古学界が批判をしにくい体質」をもっていると不当に強調する傾向があるということです。そもそも、問題となっている発掘調査は、石器談話会や東北旧石器文化研究所といった民間団体が行ったものです。大学ならば助手や学生は教授の顔色をうかがわなければいけないということもあるでしょうが、大学の研究室ではないのですよ。また、調査に参加した人たちは、特定の学閥で構成されているわけではなく、また、就職して参加している者も多いのです。また、東北に限らず、各地、各機関で活躍している旧石器研究者が多数、発掘現場や見学会・研究会に訪れています。その研究者たちの中には、調査のリーダーたちよりも先輩格の人も少なくありません。捏造の疑いをもったら、遠慮なく発言することができる立場の人たちです。私も、新聞報道以前に、ほんとうに捏造の疑いをもっていたら遠慮なく意見を言ったことでしょう。

> 「捏造」がいわゆる藤村関連遺跡全てで行われたかどうか、ということと、「資料としての価値」を分けて考えるべきだ
> 検証作業によって、「捏造」が証明できない灰色の資料があるかもしれない、しかし、汚染された可能性が否定できない資料は、「資料」として扱われるべきでない
> 「捏造」があったかなかったかという「論理」ではなく「倫理」の問題です。

基本的に同意します。

[650] Re: 建設的議論に賛成
投稿者名: 木こり
投稿日時: 2001年1月30日 14時15分
ソフィー先生。
トラ先生とのやりとりの中で、以下の点が気になりました。

(トラ)> > この点がクリアされなければ「捏造」はなかったと言えないというポイントを整理したほうが良いのではないでしょうか。
>
(ソフィー)> 「捏造」があった言えるポイントについても整理する必要がありますね。

・・・中略・・・

(トラ)> > 「捏造」がいわゆる藤村関連遺跡全てで行われたかどうか、ということと、「資料としての価値」を分けて考えるべきだ
> > 検証作業によって、「捏造」が証明できない灰色の資料があるかもしれない、しかし、汚染された可能性が否定できない資料は、「資料」として扱われるべきでない
> > 「捏造」があったかなかったかという「論理」ではなく「倫理」の問題です。
>
(ソフィー)> 基本的に同意します。

疑わしい資料等は根拠とすべきではないという点で、ソフィー先生も同意されていますよね。そしてこれは、根拠として採用できないような資料に基づいた解釈も意味がない、ということと同義と考えてよろしいでしょうか。
だとすれば、資料等が根拠として耐えうるものか否かという点を確認するためには、トラ先生の言われるように「 捏造はなかった」ことを証明すれば良いわけです。
単に「整理が必要」という点では「ない」も「ある」も同じかもしれませんが、藤村遺跡の資料としての価値を計る上では、「捏造がなかったことの証明の整理」のほうがプライオリティが高いことは自明だと思います。こういう意味でのご発言ならほっとするのですが、プライオリティまで同じというご意見だとすれば・・・・・。
小生は、いわゆる批判派に属していると自覚しています。先生がいつも真摯に回答等をなさっていることは重々承知しているつもりですが、批判派ゆえついつい先生のご意見を懐疑的に見てしまう点については、ご容赦下さい。

[656] Re: フレーム対策
投稿者名: ソフィー (ホームページ)
投稿日時: 2001年1月30日 18時03分
管理人さんへ

できるだけ削除しないという管理人さんの方針は尊重したいと思いますが、しかしながらNo.637のようなフレームはまったく中味がなく、削除しても論争の流れに影響しませんから、すみやかに削除されるよう要望します。私なら理由を述べて、さっさと削除してしまいます。どういうフレームでも削除しないとか、掲載後にかなり時間が経過してしまうということだと、それをいいことに悪さをする人が増えるかもしれません。予防のためにも、すみやかな削除の前例を作っておくほうがよいのではないでしょうか。

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