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■伊達村候の摩利支天像


■摩利支天の画像
摩利支天像 クリックすると大きい画像がご覧になれます

 三浦家には摩利支天の画像があります。この画像は軸装されて箱に入っています。箱の蓋の表には「村候公御画 一幅」、蓋の裏書には「摩利支天 寛政五癸丑年十二月三日」「三浦義信拝領」とあります。この摩利支天像は、寛政5(1793)年三浦家7代目の義信が、宇和島藩5代藩主伊達村候より拝領した画像なのです。

 摩利支天は大日如来の化身で、甲斐の駒ヶ岳、木曽の御岳など全国の修験道関係の霊地で祀られています。怨敵や悪魔を退ける調伏の祈願には特に強い力を発揮するので、武士の守り本尊として信仰されています。摩利支天の姿は日輪を背にしているためまぶしく、悪魔の目から逃れることができるということから、「隠形」の修法をおこすことができるといわれています。忍者が登場する映画などで、消える前に印を結ぶのは摩利支天の「隠形」の印なのです。

 摩利支天は通常、天女形と忿怒(ふんぬ、荒々しい)形の三面六臂もしくは八臂で描かれています。三浦家の摩利支天像は荒々しい忿怒形の男神、顔は一面で腕が6本の六臂の姿で描かれています。また猪に乗っているのも摩利支天画像にはよくある形です。摩利支天が6つの手に持っているのは、弓・矢・鼓・剣・槍・筆・鉄砲、武芸の象徴である弓・剣・鉄砲の武器、芸能の象徴である鼓、学問の象徴である筆です。特に戦国期から普及した新兵器である鉄砲が描かれているのは珍しいのではないでしょうか。摩利支天像の上にある梵字は不動三尊像で、真ん中はカーンマーンで不動明王、右がタラで矜羯羅(こんがら)童子、左がタで制た迦(せいたか)童子を表わしています。猪の下にあるマという梵字は摩利支天を表しています。

 画像左の文字は「左近衛権少将藤原朝臣村候七十一翁謹画立印」と書かれ、71歳の伊達村候が絵を描き、印を捺したとあります。伊達家は藤原氏、村候はこのとき左近衛権少将でした。その下に捺された印には「合天心」と篆刻されています。伊達村候の自画像にも同じ印判が捺されています。村候は丸印・方印・壺印・鼎印などたくさんの印判を持っており、現在も村候の144個の印判が(財)宇和島伊達文化保存会に残されています。その多くは書画に捺す落款など趣味の印判です。摩利支天の画像は村候が自分で描いた直筆の画像なのです。


■■伊達村候と義信

 摩利支天画像を描いた村候は4代藩主伊達村年の子であり、享保20(1735)年吉宗に拝謁し、5代藩主となっています。寛延元(1748)年には藩校内徳館を設立、寛保〜宝暦にかけて藩政改革を押し進めるなど、宇和島藩中興の英主といわれています。寛政6(1794)年9月14日に死去しています。

 義信については、これまでに何度か説明していますので、画像を拝領した寛政5年までの状況を見ていきましょう。義信は安永3(1774)年8月24日、6代為成の子として生まれ、天明元(1781)年に藩主村候に御目見し、天明3年正月22日にはわずか9歳で、父為成の願によって家督相続し、知行100石、虎之間奉公を仰せつけられています。天明8年児小姓勤、寛政3(1791)年9月26日には村候の来春御参勤御共、寛政4年4月6日、御曹司様御部屋住の宇和島への初入の御供をしています。寛政5年12月に画像を拝領していますが、翌年寛政6年9月12日、村候の病気の御看病参府の御供をしていますが、村候はその2日後に江戸でなくなっています。

 拝領した際の状況も三浦家のいくつかの史料から詳細にわかります。文政9(1826)年の三浦義信が書いた「上々様御直書并写共」には、村候の直筆である画像の包紙「自画 嘉膳・肇」の部分を切り抜いて張り付けています。その直筆の説明として、「右者大隆寺様ヨリ摩利支天ノ御画像願上候節御包紙ニ御直書嘉膳与有之は小波鶴翁之事」とあり、村候の直筆の画像は義信以外に、嘉膳こと小波鶴翁にも与えられたことがわかります。また寛政3年から寛政7年までの義信の「勤書」寛政5年12月3日の条には次のように記されています。
  一於松寿楼 村候公御自絵御手自頂戴仕候事
   梵字
  同 摩利支尊天同
   同
江戸藩邸の村候の御座所であると思われる松寿楼で摩利支天像を直接いただいたとあります。摩利支天と梵字の位置を表した画像の説明も書いています。その翌年の2月26日には次のように書いています。
  一前度拝領之御文字并御自画弐幅表具長廣安左衛門忰八十八江申付出来ニ付、不苦候  ハゝ両様共入
  御覧度旨御小姓頭衆江申達置
義信は拝領した画像を表装しており、それをよろしければ村候に見せたいと小姓頭衆へ話しています。

 この摩利支天像は、その後も三浦家にとって重要な一品となっていきます。拝領した4年後、義信が寛政9(1797)年に書いた「年中行事」2月の「初卯御具足祝」には「村候公御筆拝領の摩利支天之像床の間江掛可申事」と書かれています。武士の象徴である具足を祝う「具足祝」に際して、村候から拝領した摩利支天の画像を床の間へ飾っています。具足祝では正面に具足を置き、その前に三宝に載せた「真菜・臓煎・勝ふし」と「勝くり・真菜・のし・こんふ」を飾ります。その後、酒・雑煮を家来共々頂戴し、最後に吸い物と酒3献をいただき祝儀は終わります。武士の信仰の厚い摩利支天は、武の発展を祈る具足祝の場にふさわしい仏です。また藩主からの拝領物であった摩利支天像は一層重要な意味を持っていたと思われます。

 この摩利支天像の拝領は、村候が亡くなる前年、義信は19歳で実質の当主としとなる時期でした。若い義信は、中興の英主と呼ばれた村候から拝領した摩利支天像を家宝として大切に保管し、毎年の武の象徴である具足祝いには床の間に掛けていました。村候の摩利支天像は、三浦義信にとって自分が若き武家の当主とである自覚を持つため、また一度絶家しかかった三浦家を存続していくという家意識を形成していく過程で、大変重要な役割を持ったものといえるでしょう。

(ぽちざん)

◇参考文献
『修験道の本』(学研、1993年)


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