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■江戸の宇和島藩上屋敷絵図について


 江戸時代、諸藩は江戸に大名屋敷(江戸藩邸)を持ち、参勤交代による在府の居住の場所としていた。伊予の各藩においても、小松・松山・大洲・新谷・宇和島の5藩には、各3ヶ所(上屋敷・中屋敷・下屋敷)の大名屋敷があり、西条・今治・吉田の3藩には、各2ヶ所(上屋敷・下屋敷)の大名屋敷が存したことが知られている。(註1)

 筆者は最近、幕末期江戸の宇和島藩上屋敷の絵図を閲覧する機会を得た。所蔵者の御好意により本誌に絵図の概要を紹介し、江戸大名屋敷の研究の一助としたいと思う。

 前述した通り、江戸の宇和島藩屋敷は3ヶ所あり、藩主やその家族が住む上屋敷は麻布龍土に、隠居した前藩主や嗣子などの住居兼上屋敷焼失の場合の予備の邸宅である中屋敷は木挽町に、郊外の休息用別邸である下屋敷は目黒にあった。(註2)

 大名屋敷はもともとは将軍からの拝領屋敷であり、私的な所有地ではなかったから、大名は幕命があれば直ちに移転しなければならなかった。時代が下るにつれて、大名屋敷の配置は、江戸城を中心に、親藩・譜代・外様の親疎による再配置が徐々に進められた。宇和島藩伊達家第一代当主秀宗の頃、上屋敷は日比谷にあったが、二代宗利の天和元(1681)年10月25日、日比谷の上屋敷を松平豊前守(信庸、丹波篠山五万石)に引き渡し、かわって木挽町の屋敷を拝領した。これ以来麻布の屋敷が上屋敷と呼ばれるようになる。

 宇和島藩の麻布屋敷は、秀宗晩年の明暦元(1655)年、沖津内記より26,404坪を地代1,200両で購入、同時に1,265坪を原宿村名主より地代60両で買い添えたことに始まる。明暦3(1657)年にも480坪を原宿村百姓より地代47両で入手、「西之御門」外道とした。三代宗贇の寛文10(1670)年正月から屋敷普請を行い、8月に完成、作事一切の費用は678貫余であったという。さらに延宝3(1675)年「西之御門」外の原宿村百姓地3,916坪を代1,700両で買い求め、これによって麻布屋敷は総坪数36,051坪(6尺竿で計算)、周囲728間(12町)4尺2寸の広大な敷地を有するに至っている。(註3)

 図1の幕末江戸図(註4)によって、麻布屋敷の西に青山大膳亮下屋敷が、南に阿部播磨守下屋敷が、東に鍋島甲斐守上屋敷が、北に鍋島熊次郎上屋敷があったことが知られる。青山大膳亮下屋敷は、現在の青山霊園一帯であり、宇和島藩麻布屋敷(伊達遠江守上屋敷)の跡地は現在港区六本木七丁目に所在する東大生産技術研究所・東大物性研究所になっている。

 絵図の正式名称は『江戸麻布龍土御屋敷絵図』で、「嘉永五壬子三月吉日 伊達宗城公以命 三浦義質 以測量術撰之」「惣廻十二町八反(ママ)四間 壱間壱分縮図」と書き込まれている。すなわち、絵図の作者は宇和島藩士三浦義質(よしかた)で、藩主伊達宗城の命により、嘉永5(1952)年3月に作成された。図の縮尺は約600分の1である。

 図2は麻布屋敷の全体図(原図を縮小したもの)である。原図は赤・黄・青・緑の原色が施されて美しい絵図である。中央に藩主の居住する御殿があり、その南側に「想海楼御庭」などの広大な庭園が配置されている。周囲に家臣の住む長屋があり、家の前後に庭や畑が付属しているものが多い。西側には細長く「御藪」が設けられ、防火帯の役割を果たしているようである。北側にはまとまった緑があり、その中に製薬場・目当場がある。神社は御殿をはさんで西北に和霊社、東南に稲荷社が建立されている。「表御門」は東側、すなわち江戸城を正面に見る側にあり、隣接して、「上之御門」「下之御門」などがある。参勤交代時に使われたとみられる「西之御門(竹門ともいう)」は南西側にあって、門の外に長さ約90間、幅約3間の道路が真直ぐ延びている。土蔵はあちこちに分散しており、「御土蔵」とされた建物は13ヶ所に及んでいる。

 吉田伸之氏は、加賀前田藩江戸上屋敷(現在の東京大学一帯)の絵図を検討して、藩邸の空間が堀や門によって囲まれ、周囲の世界から遮断された、ひとつの閉じた空間を構成しており、しかもその内部は「御殿空間」と「詰人空間」の二元的空間構造をもち、このような大名藩邸の内部構造は、城下町の藩主御殿と家臣屋敷との二つの要素から成る武家屋敷地の構成と相似的である、と述べている。(註5)

 同様のことが宇和島藩麻布屋敷についてもいえる。「御殿空間」は、中央部の巨大な建造物=御殿を中心とする一帯で、藩の政治・事務を担当する役場が置かれ、続いて藩主とその家族・使用人らの生活空間が広がり、「想海楼御庭」を含めた領域である。絵図には御式台・御仮書院・御稽古場・御小書院・御居間書院・御廊下・中ノ口・御奥入口・御小座敷・想海楼・御茶屋などが記載されているが(図3図4図5参照)、残念ながら、御殿内の間取りは書かれていない。この空間は、堀や門、あるいは樹叢によって周囲と仕切られており、屋敷の外に対しては二重に閉じられている。

 「御殿空間」の外側、すなわち屋敷地の縁辺部分に展開するのが「詰人空間」である。ここは、藩士のほか、様々な用役を行う人々の居住の場であった。図3には御殿北側に御家老・御小姓頭・御番頭・若年寄・御目付らの役宅(長屋)が隣接しており、さらに北辺には「交代医師」「交代儒者」の住まいもある。図4には、御搗屋・御駕籠部屋・御畳小屋・大工小屋・御絵図小屋・御厩・馬場(全長約100間)などがある。図5には、駕籠かきや賄方・掃除などの雑役に従事する6尺の長屋がある。これらは、屋敷内に住む藩主をはじめとする藩の人々の日常生活を維持していくのに必要なものであった。図6をみてみると「元〆支配」「小頭」など役名を記したもののほか、姓を記載しているものが多く、全部で70ヶ所余りになる。これらは江戸在留の藩士の私宅である。

 このように、大名屋敷は、藩主の生活の場であり政庁でもある「御殿空間」の周辺に、藩士役宅や職人長屋などの「詰人空間」が広がり、一個の城下町的な世界をその内部で完結しているのである。

 この絵図が作成された頃より後、伊達宗城は、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らと共に将軍家定の継嗣問題で活躍するとともに、維新政府でも外国掛をつとめるなど、大きな役割を果たした。その根拠地であった麻布屋敷の絵図は、大変貴重な歴史資料といわなければならない。

(Toshio Yuyama)



(註)
(註1)木村礎・藤野保・村上直編『藩史大事典』中国・四国編、雄山閣出版、1990年。
(註2)前掲(註1)書。なお、宇和島藩については、蔦優、三好昌文両氏が執筆している。
(註3)以上、吉田繁『増補御年譜微考』(宇和島市立図書館蔵、謄写版)および三好昌文編『宇和島藩庁伊達家史料七 記録書抜伊達家御歴代事記一』(1981年刊)による。
(註4)中央公論美術出版『古版江戸図集成』巻8(1960年刊)。
(註5)吉田伸之「近世城下町・江戸から金沢へ」、週間朝日百科日本の歴史別冊『都市と景観の読み方』(1988刊)所収。

(『伊豫史談』279・280合併号、1990年10月所収)


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