主君・家康の“負け戦”にですら彼の逸話は数多く残されている。
もちろん、これらは、忠勝がただの猪武者でないことを物語る
ほんの数例でしかないが…。


猫と組むか、虎と組むか/1561年 春
 西三河平定の途上、早々と織田の属城を落とし、
 残るは今川の属城となった頃、
 まだ小国の大名でしかない家康が、
 駿府に正室と一子・竹千代(=信康)を人質として残してあった事も併せて
 その進退に窮していた時の忠勝の諫言。

 義元亡き今川を選ぶのか、義元を打ち破った信長を選ぶのか…。


※これは酒井忠次の諫言だとする説がある。
 年齢的にも、地位的にも忠次は既に三河軍団の中で重きをなしていた事から考えると、おそらく忠勝が
 このような大事に口を出せる立場ではなく、忠次説の方が信憑性は高い。



城所助之允[きどころ すけのじょう]/1563年5月 三河・牛窪の合戦
牧 総次郎[まき そうじろう]/1564年6月 三河・吉田城攻め
 「牛窪の合戦」で桔梗笠をかぶった今川方の勇士・城所助之允と
 1対1で合いまみえたが取り逃がした上に嘲笑される。

 翌年の「吉田城攻め」の際、
 この桔梗笠を見つけ打ちのめし首を取ろうとした時、
 笠の下には城所とは似ても似つかぬ少年・総次郎の顔があった。
 彼は既に討ち死にした城所の武名にあやかり、
 その桔梗笠を所望して譲り受けてのの出陣だったという。
 その心情に打たれ、忠勝は彼を逃がした。

 これに恩を感じ、後年総次郎は忠勝の忠臣となった。



姉川の単騎駆け/姉川の合戦
 家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。
 「鍋が、鍋が死んでしまうッ」と、
 この時必死に忠勝を救おうとする家康の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩し、
 その勢いで織田軍に襲いかかっていた浅井軍を横撃、
 織田軍の勝利へとつながった。

 この時、木下藤吉郎が噂に上った忠勝を見聞しに来たという。



1600年9月 関ケ原の戦い
 東西それぞれ布陣の終わった関ケ原に於いて、
 東軍の気掛かりとなっていた西軍・毛利軍が南宮山に布陣したのを見て、
 「戦う気がるのなら平地に布陣するはずであり、
 毛利軍には東軍と戦う意志は無い」と味方を 鼓舞し、
 戦闘に於いては井伊軍と共に宇喜多・島津軍相手に奮闘した。


ならば殿と一戦つかまつる/1600年 関ケ原の戦後処理
 戦後処理の際、
 西軍・石田三成らと共に死罪となるべき真田昌幸幸村父子の助命を、
 娘婿の真田信之と共に家康に願い出る。

 2度までも真田に苦渋を舐めさせられた家康は
 頑としてこれを受け付けないため、
 「ならば殿と一戦つかまつる」と啖呵を切り、
 家康ばかりか、信之をも唖然とさせたという。

 真田父子は死罪を免れ、高野山へ蟄居という異例の処置となった。


あの肖像画
 家康の対豊臣・大阪城大包囲網の一つとして、
 心血を注いだ大多喜から桑名へと長男・忠政と共に移封。
 “慶長の町割り”と言われた、
 城・港町・宿場町と3つの顔を持つ桑名の民政に努めることとなる。

 この頃、往年の戦装束をまとったあの肖像画を描かせる。
 8回も描き直させ、9回目に得心し、
 それを大多喜の了学上人の元へ贈った。 

 また、ある日忠政と小舟で巡視に出ている時、
 「櫂で葦を薙いでみろ」と言い、
 忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、
 忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまったという逸話もこの頃といわれている。


生涯一度の刀傷/1609年
 身体の衰えと眼病を理由に隠居。
 隠居後、好きな彫刻に興じていた時小指を切ってしまった。

 生まれて初めての“刀傷”を見て自分の死期を予言し、
 「事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、
 忠節を守るを指して侍と曰ふ」との遺書を残し、
 1610年10月18日、静かにその生涯の幕を閉じた。

 享年63歳。
 法名・西岸寺殿前中書長誉良信大居士。

[1999.01.28 初版] [1999.06.27 改訂]

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