【 三国黒 + 牛人形鞍 】

1600年(慶長5)9月15日。
戦闘開始から1時間が経過しようとしていた。

忠勝は、次男・忠朝と共に家康の本陣手前約1キロ、十九女ヶ池の自陣に於いて、
前方で西軍・宇喜多隊を相手に奮戦する東軍・福島隊の戦況に見入っていた。

2時間が経過しようとする頃、福島隊が押されはじめた。
「皆の者ッ、忠朝ッ!今こそ出陣じゃ!!」
名槍・蜻蛉切りを片手に、忠勝はヒラリと黒毛の駿馬にうち跨った。
「三国黒よ、参るぞ。」

ここ、関ケ原での忠勝の手勢は僅か500。
兵3,000人のうち、2,500人を秀忠に同行した長男・忠政に付けたためである。
しかしながら最強・三河軍団の精鋭揃いである。
中央に打って出た忠勝隊は、宇喜多隊・小西隊を押し戻していく。

随行した忠朝が惚れ惚れと見とれていたとも言われている忠勝の戦振り。
53歳を迎えたとはいえ、その手綱さばきはもちろん、
父の手から繰り出される蜻蛉切りの槍さばきに衰えは無い。
しかも、あの信長が、そして秀吉もが諸侯居並ぶ前で褒め称えた男である。
鹿の角の兜を見ただけで敵兵は逃げ惑っていた。

天満山まで攻め入り、三国黒と共に山腹を上へ下へと駆け巡り、
いよいよ島津隊が眼前に迫った時、1本の矢が忠勝めがけて打ち放たれた。
「ブスッ」という鈍い音と同時に、忠勝が愛馬・三国黒と共にもんどりうって倒れた。
敵の放った矢先は、偶然にも三国黒の急所に命中。
ほぼ即死であった。

忠勝自らの奮戦で宇喜多隊・小西隊を蹴散らし、
戦場の中央を東軍が占めた事によって形勢は一気に東軍有利となった。
それまで敢えて動かなかった島津隊の動向がそれを証明した。

島津隊大将・島津豊久の首級をを忠勝の郎党が上げたものの、
老将・島津義弘が僅か80人で伊勢方面へ消え去った午後2時過ぎ、
家康から追撃中止の命令が届いた。

忠勝隊の関ケ原における首級は90以上にも上ったと伝えられている。

そして、これが忠勝の“57回目の合戦”であった…。


三国黒
  「三国黒」または「三国黒毛」と呼ばれていた忠勝円熟期の愛馬。
  忠勝の乗馬技術もさることながら、
  それに応えたこの黒毛の駿馬は、見事な能力を持ち合わせていたのであろう。

  戦国時代の武将の愛馬としては、前田慶次郎の「松風」が有名であるが、
  忠勝の愛馬「三国黒」も、後の二代将軍・秀忠より贈られたという事で有名。
  拝領の経緯等、詳細はほとんど不明だが、
  関ケ原合戦以前の将軍継承問題で、忠勝が秀忠を推していた事、
  あるいは亡き秀忠の兄・信康の娘が忠勝の長男・忠政の正室である事も無関係ではないであろう。
  三国黒、関ヶ原の合戦にて大往生。


牛人形鞍

  三国黒と共に関ケ原合戦に乗り入れした際に使用していた鞍。
  戦場で息絶えた三国黒の忘れ形見として、家臣・原田弥之助が持ち
  帰ったと伝えられる。
  前輪と後輪の外側に起伏の無い、海無鞍と呼ばれる形式のもので、
  両輪の外側には黒漆に菊花が金で描かれ、
  中央部に牛と蓑笠をかぶった人物を彫った据金物が打たれている。

  三河武士のやかた家康館所蔵


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