片桐史裕 腹立ち半分高校教師日記 2006年度

since 06/04/01

2005年度国語教師日記
腹立ち半分IT日記


 2007年2月16日(金)晴れ 移転します。

はてな」に『学び合い』グループを作成し、ブログを立ち上げました。

続きはブログにて。

ブログの方がアップデートはどこからでも簡単にできますし、
使い勝手がいいもので……。

パソコンの「あちらがわ」に移動しまーす。

 2007年2月8日(木)晴れ 「ぼやき」を読んで

西川先生の日記の「ぼやき」を読んで、以下のようなメールを西川先生に書きました。

-------------------ここから-------------------

こんにちは片桐です。

『学び合い』を広めるためには、知ってもらうしかありません。知っ
てもらうためには西川先生がメディアに頻繁に出るしかありません。
特にテレビです。そうすれば、裾野が広がり、その中から『学び合
い』が何なのかを本当に会得できる人が今以上に増えます。

でも、そのデメリットとして、朝の読書のように、形式だけしか真
似られず、逆効果になることもあります。それには目をつむるしか
ありません。『学び合い』を単なる「話し合い」として実行して、
「失敗した!」と感じる人は今までもたくさんいるからです。

メディアにたくさん出るためのコストのあまりかからない手段とし
て、ブログがあります。ブログ『学び合い』を立ち上げ、その内容
を充実させれば、Googleで上位ランクになります。

そうすれば、NHKが黙ってはいないでしょう。取材依頼が来ます。
そうしたら全国で『学び合い』を実践している同志の授業を取材し
てもらい、西川先生がコメンテーターとして出演します。

ブログを充実させるためには、西川先生のメモをブログに移行しま
す。同じブログに同志たちも書けるようにし、その記事に対して西
川先生をはじめとして、いろんな人がコメントを書けるようにしま
す。つまり、ばらばらに書いている日記やブログを1つのところに
集中します。(もちろん各人のブログを閉鎖するということではあ
りません。各人のブログはそのままで、リンクを貼ってもらいます。)

そして、Googleでさらに上位ランクを得るためには、コメントやト
ラックバックをたくさんさせます。

> !「きっと、私が悪いんだ」と自責します。私より、ずっと有能
> で、人に好かれる人に、『学び合い』を担って欲しい。

とありますが、逆です。西川先生が人から好かれるほどいい人だか
ら、『学び合い』が広まらないんです。だって、「○○式」なんて
うたって、それを広めている人って、独断的で、悪い人っぽいです
よね。でも独断的で悪い人っぽい人って、『学び合い』ができない
と思います。

ということで、『学び合い』ブログ、始めませんか?みんなでやれ
ば、批判的な悪意に満ちたコメントを西川先生だけじゃなくてみん
なで受けとめられますし、批判的なコメントをうけてこそ、広める
対策ができるというものです。

「学び合いブログ」はまだ誰も始めていないようです。

http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=.
%E5%AD%A6%E3%81%B3%E5%90%88%E3%81%84%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0&num=50


今始めれば、きっと先駆けとなるでしょう。私の「国語教育」ペー
ジも先駆けだったのでいまランク1位です。

『学び合い』ブログが注目を集めれば、教室学び合いフォーラムも
盛況になるでしょう。


ブログサーバーの選定が必要となると思いますが、プロバイダが提
供していない、広告のでない(もしくは、広告を自由に選定できる)
サイトがいいですよね。ここらあたりはきっとKさんが詳しい
と思います。

いかがでしょう?

-------------------ここまで-------------------

みなさん、どうでしょう?

 2007年2月7日(水)晴れ 生きるための力

「国語で生きるために身につける力」は、
当座の現役高校生にとっては、
「国語で学んだことが他の教科に役立った」ということではないか?
さらに、卒業していく人にとって
「国語で学んだことが、卒業後の自分の生活に役立った」
ということだろう。


来年度から時流に乗ってブログにしようかな?

 2007年2月1日(木)雪・曇り 音読という名の一斉授業

平家物語をやっている。
古典の学習が生徒にとって生涯で最後になるかもしれないということから、
今回はぜひとも日本の音韻の響きを修得してもらいたい。

いつものように連れ読み(教師が読んで、生徒が同じ読みをする)をした。
眠気を誘いそうだったので、立って読ませた。

ほぼ全員が声を出す。つまり、ほぼ全員が活動している。

しかし、よく考えてみると、これって一斉授業だよな。
生徒はあんまり楽しくなさそうだった。

考えてみれば、現代文の導入で、
グループまるよみ(「。」が来たら次の人に代わる。)をしているときは
楽しそうに読んでいた。

なんだかんだいつもえらそうなことを言いながら
実は自分が一斉授業を生徒に強いていた。
反省反省。

さて、次の時間どうしようかな?

 2007年1月29日(月)曇り あなたは○○を信じますか?

先日授業研究会があった。
教員数年目の若い方が担当だった。
自分が行った実践のうまく行かないところを問題にし、
分析するというものだった。

いろんな人が意見を言い、
その担当者が言った言葉は
「もっと生徒を信じて活動すればよかった。」
ということだった。

決して私から「生徒の力を信じて……」なんてことはひとことも言っていない。
なのに、その若い先生の口からその言葉が出たのは嬉しかった。

なんだか我々は宣教師のようだなぁ。
「信ずれば救われる……」

 2007年1月25日(木)曇り Google

「国語教育」をGoogleで検索をすると、
私のページがトップにくる。
びっくり。

最近「ウェブ進化論」(梅田望夫著・ちくま新書)を読んでいる。
ここではGoogleを絶賛している。情報の民主化を目指しているというのだ。
そんなのを読んで触発され、自分のwebページにGoogle AdSenseを導入した。
掲載広告だ。

最近NHKスペシャルでGoogleを取り上げていた。
ここではGoogleのよい面と、Googleの問題点を挙げていた。
問題点として気になったのは、突然Googleに引っかからなくなった
企業のwebサイトのことだ。
Googleが意図してこのサイトを検索に引っかからないようにしたのでは?
ということだ。

訴訟が起きているが、Googleは「意図してはいない」と言っている。
一企業が意図してあるサイトを検索に引っかからないようにしても
問題はないような気がするが、Googleがここまで大きくなると、そうも言っていられない。
それにGoogleは「情報の民主化」を謳っているから、
「意図していた」とも言えないんだろう。
そうだったとすると、「情報の民主化」は利益のもとの「民主化」になるなぁ。

さてさて、私の「国語教育」のサイトはいつまでトップにいられるかな?
別にトップじゃなくてもいいんだけど……。
webページに広告掲載……時流に乗ってやってみただけです。
収入は全く期待できませんが。小遣いにもならないだろうなぁ。

 2007年1月25日(木)曇り 速読と読解力

23日(火)の新潟日報に、速読術を身につけると
国語のテストの点が上がるという記事があった。
これを読んで、なんだかしっくり来なかった。

根拠は全くない。しかし、感覚として「速読の力」と「読み取りの力」が結びつかない。

私が認識している速読のメカニズムは以下のようなものだ。
普通に読む場合は、文字を文字として認識し、脳に単語がインプットされる。
速読の場合はページ全体を画像として認識し、脳に保存される。
だから速読ではまず何が書かれてあるかではなく、画像が脳に保存され、
その後その画像から何が書かれてあるかを読み取っていく。

結局速読をしたから読み取る力があるんじゃなくて、
速読をしてたくさん本を読んだから読み取る力がアップしたんじゃないの?
じゃあ、速読をしなくても本をたくさん読めば読み取る力はアップする。

記事の最後には
「速読の方法によっては個人差があるから、自分に合った方法を探す必要がある。」
というようなことが書かれていた。
いろんな方法をお金を払って試せというのだ。
その方法でやってみてダメだったら「方法が間違っていた」で済むのかな?
無責任な記事だなぁ。

 2007年1月23日(火)曇り 情報の淘汰

国語の授業ではすでに用意されている情報(教科書)、
または教師が用意した情報(プリントや板書、教師の説明など)を
全て摂取するように教師は求める。
そして、その一部分(重箱の隅のようなもの)を教師があげつらって、
読み取りのポイントにしようとする。

しかしそれには無理がある。
膨大な情報を全て摂取させることは不可能である。
膨大な情報からほんの一部の大切な情報を個人で見きわめるのも
不可能である。

情報には淘汰が必要である。
淘汰は誰がするのか?教師がやっていては解釈の押しつけである。
誰がするわけではない。情報の淘汰は情報自信がおこなう。
「良い情報は伝播する」
伝播させる環境を作れば、良い情報は残り、
伝播しない情報は価値のない情報となる。

さて、どのように伝播させる環境を作ろうか?
とりあえずは、情報の取捨選択を教師側がするのではなく、
子どもたちに任している。

グループで考えて記入したワークシートを、グループで1枚提出し、
それらをコピーして教室の後ろに貼った。
グループごとに記入指定ある内容は違っている。
「参考にしたいのであれば、見てね。」と伝えた。

以前の私だったら提出されたワークシートを見て、
その中から良さそうな部分をワープロで集めて、プリントにし、配布していた。
「結局答えは教師が言ってくれる。」という考えを植えつけていた。
情報の取捨選択を教師が主導していたということだ。

今回の課題(再話)では、貼られたプリントを見比べる姿が
前回より多いような気がする。
課題が難しくて困って藁をもつかみたい気持ちなのかもしれないけど。

 2007年1月22日(月)曇り 対抗策が見つからない(模索中)

明らかに、国語の時間で文学作品を学習するときに、
教師の一方的な解釈の押しつけは良くない。
解釈を押しつければ、想像力が働かなくなり、
「文字に書かれていないこと」を読み取る力はつかない。

一方的な押しつけではないと言いながら、
問題を設定し、発問を工夫し、なんだかんだしながら
教師が設定した「答え」に導くように「押しつけ」ている(かつて私はそうやっていた)。
物語の構造や、表現の仕組みだったら、決まった「答え」があるから、
それはそれでいいのかもしれないが、
文学的作品においては、それだけではない。

例えば「象徴」だ。
何を象徴しているかは、読み手によって受け取り方は違ってくる。
「○○は●●を象徴している。」なんて一方的に決めつけられない。
「作者の境遇から●●を象徴しているのは明らかだ。」なんていっても
作者の境遇を調べないとそれがわからないんだったら、
大した作品ではない。


じゃあ、
押しつけない方がいいと言って、作品だけを与えて、「これを読め」と言っても、
漠として子どもたちは何をどうして良いのかわからない。
そのうちわかるのだろうが、1編の詩に何十時間もかけられないのが実情だ。

決まった時間内に「学んだ」と実感できる学習をするため、
何か「核」になる目標(課題)を設定すればよいのだが、
なんだかうまく行かない。


最近よく使う手は「再話」
「この詩をストーリー化しなさい。」というものだ。
もちろんそのような課題に合う詩や合わない詩がある。
再話方式だと、文字に書かれていないことも読み取らないと
つじつまが合わなくなる。
それを表現させることで想像力が養われることを期待している。

「再話」は評論文にも使える
「この評論文は下手くそでわかりにくいから、
わかりやすくなるように構成を変えて書き直してみよう。」
というものだ。

それはともかく、文学的作品の読みは難しい。
ある時期「これだ!」というものがあったが、
今から考えると、それは一方的な押しつけをさも自分たちで
導いたように錯覚させていたやり方だった。
しかもそのやり方では、教師側に「感激」は全くない。
自分で用意した道筋をたどらせているだけだから。

少なくとも「再話」は、私に感激がある。
「へーそんなふうに考えたのか。すごい見方だね。」
なんて思える。

文学作品で、教師が道筋を付けない授業、
どんなことをしていますか?

 2007年1月19日(金)曇り こんな夢を見た

今朝、こんな夢を見た。

教室学び合いフォーラムの会場をどこにしようか悩んでいた。
そういえば、臨床教科教育学会には、
法人会員の○小学校(群馬県だが、夢の中では埼玉県だと思っていた)がある。
学校全体で学び合いをしようという目標がある学校だ。
その○小学校で開催しようと私が提案した。

しかし第3回にしていきなり県外というのはどうかとか、
実行委員も全員県外に行くというのは大変な移動になるとか、
いろいろ懸念事項はあったのだが、
学校全体で学び合いをしているところが会場だったら、
きっとその学校の全職員の協力が得られるはずだし、
そこでの実践報告を柱に公開ゼミを組んでいけばいい!
きっと校長先生もOKと言ってくれるはず!
なんてことを思って校長先生に話をむけたら即OKをもらった。

なぜかもうその学校にいて、どのように会を進めるかを打ち合わせしていた。
まだ行ったこともない学校だけど、校舎も会場もリアルに思い起こせる。

夢から覚めて(午前4時頃)、よし、今日中にこの案を同志のMさんに電話しよう!
と心に決めて、もう一度寝た。

さて、朝になって目が覚めたら、なんだか夜中に意気込んで興奮した夢を見たような……。
あんまり覚えていない……。なんだっけかなー。と考えたら、
夢がリアルに思い出されてきた(変な表現)。
でも、やっぱりそれはまだ無理だよなーと思ってしまった。
夢というのはそんなものかな?

しかし、何時かは実現してみたい夢です。

 2007年1月16日(火)雨 納豆がないらしい

ちまたでは納豆がないらしい。
カミさんが近くの○水フードに行ったら、納豆がなかったらしい。
しかしうちは毎朝納豆を食べている。
昨晩は息子が1パックまるまる食べてしまった。
生協で大量に買っていたから冷蔵庫に在庫があるのだ。

今困っている○二屋はあるある大辞典で
○二屋の○○を食べるとダイエットできる!なんてのを
流してもらえば、この苦境を救えるかもしれない。(冗談)

納豆を長年食べているが、痩せたためしはない。
またどうせこのブームは1ヶ月もしないうちにすたれるんだろうなぁ。

 2007年1月15日(月)曇り 大人に聞こえない着信音@

ひょんなことから「大人に聞こえない着信音」の存在を知った。
ネットで検索したら、いろいろ説明があった。
もともとはイギリスで、店の前や街角でたむろする
マナーのない若者を撃退するために
若者にしか聞こえない音域で不快な音を発信するのに
使われたそうな。

それはともかく。

ネットでダウンロードできたので、聞いてみたが私には全く聞こえない。
もうすぐで6歳になる息子に「これ、聞こえる?」と尋ねたら
「うん」とあっさり。
「どんなふうになってる?」と、加工して三三七拍子にしてあったものを聞かせると、
「タン、タン、タン……って聞こえる。」とな。

ばっちり聞こえていたようだ。

人の聴覚は4〜5歳頃に最も発達しているということを聞いたことがある。
それからは減退する一方。
この時期にいいものをたくさん聞かせておきたいなぁ。

 2007年1月12日(金)雪・曇・雨 高橋メソッド

私が臨床教科教育学セミナーで発表したプレゼンの方式、高橋メソッドを使い、
国語表現でプレゼンの機会を持つことにした。
この方式は、プレゼンテーションソフトを全く駆使せず
効果的なプレゼンができる。

効果的といっても、言葉の取捨選択をしないといけない。
それが言語感覚を磨く練習にもなる。

そこで今日は「こんなのが『高橋メソッド』だよ」
という例を示すために、臨床教科教育学セミナーで発表したものに
ちょっと手を加えて生徒の前でプレゼンしてみました。

けっこうウケていたし、終わったら拍手をもらった。
生徒が聞いていてもおもしろいプレゼンだったんだと
ちょっと自画自賛しました。

 2007年1月9日(火)雪・曇り・たまに晴れ 出会い

いろんな実践に関わっていると、いろんな出会いがある。
そのであった人からまたすばらしい人を紹介してもらえる。

岡山県の同志より中村文昭さんの講演を紹介してもらった。
すばらしい。おもしろい。

次には本を読んでみよう。

 2007年1月5日(金)晴れ 国語表現の作品

生徒が国語表現で制作した作品をブログにアップした。
とりあえず今アップしているのは

・携帯電話で写真をとり、自作俳句を添えたもの
・著作権保護期間が過ぎた作家の小説や詩などを朗読したもの

である。朗読はポッドキャスティングできるようにしてあります。

http://maglog.jp/manabi/
より御覧下さい。

 2007年1月5日(金)晴れ 依存と信頼

昨年からの課題「自立により救われる」を考えている。
仲間と飲んでいて語っていたら「依存」と「信頼」は違うということに気がついた。

「依存」……他のものをたよりとして存在すること。
「信頼」……信じて頼ること。

大きな違いは、「依存」はたよりとする相手がないと存在せず、
「信頼」はたよりとする相手がいない場合は、自分でするということだ。

教室内で考えると、子どもに依存している教師というのは、
子どもの「従順さ」や「能力」におんぶにだっこで、
子どもあっての教師となっている。
こういう教師は(得に高校では)今までうまくやっていたことが
学校が変わると全くできなくなる。
そしてそのできない理由を生徒や学校のせいにする。

子どもあっての教師となる。子どもが動かないと教師になり得ない。
まさに「依存」である。

「信頼」している教師は、
子どもに能力があるということを信じているので、
その能力を発揮できるようにいろんな仕掛け(目標や場の設定)をする。
子どもの能力が発揮されていない場合は、
こちらの仕掛けの不備を分析する。
こういう教師はいろんなことを子どもに「任せる」ことができる。
何でもかんでも自分でしないですむので、気分的に楽になる。

 2007年1月4日(木)曇 新年

年末年始の6連休は、本当に休めた。
その間、長男はカミさんの実家に半合宿状態であまり会わなかった。
その分次男と一緒にいる時間が増えたせいか、
いつもは「ママ、ママー」と私をそっちのけで母親に駆け寄っていたのだが、
3回に1回は私のところに抱きついてくるようになった。

息子たちにとっての従兄弟姉妹も帰省していた。
その姉妹の下の子が1歳に満たない。
次男はもう少しで2歳。
その下の子の頭をなでなでしたり、手を触ったり、顔をじっと見たり、
あやしているように見える。

こうしているのを見ると、「お兄ちゃんぽくなったなぁ」と驚く。
まだ私が判別できる言葉は喋れないけど。

立場によってその人がどう見えるかが変わるんだなぁ。
ということは、次男と比較すると長男はお兄ちゃんぽいけど、
まだ6年しか生きていないんだからまだまだ子どもなんだよなぁ。
ということを忘れずにいないとね。

 2006年12月25日(月)晴れ 自立により救われる

村上龍の「最後の家族」について続き

DVについて引きこもりの男性が弁護士と話している中に、
引きこもりの男性は母親の自立によって救われたという話があった。
それまで母親は引きこもっている息子のことが心配で心配で、
あれこれ言って、それに反発して息子は母親や父親にに手を挙げたりした。
暴力をふるっても息子は救われない。
しかし、母親がカウンセリングに通って、自立するようになり、
それによって息子も自分のことを自分で決めるようになったというのだ。

「自立によって救われる」
教室に当てはめてみた。

自立していないのはどっちだろう?
これを読んで教師ではないか?と思うようになった。
教師が子どもに依存して、あれこれ手をかけ、
結果として子どもたちが自分で何もできないように仕向けている。

自立するべきなのは教師なのだ。

 2006年12月25日(月)晴れ クリスマス@

長男がサンタクロースに手紙を書いた。
文字の書けない次男の分も書いてある。
そしてサンタへのプレゼント券も作ってある。
見事なものだ。

その甲斐あって希望のものが手に入ったので、
朝から浮かれていた。
手紙を書くようになったのかぁ。
私には書いてくれないけど。

 2006年12月22日(金)曇り 「救う」=「暴力」

村上龍の「最後の家族」を読んでいる。
村上龍の小説はメッセージを小説の形で書いてあるので、
主張を受け取りやすい。

その中でドメスティックバイオレンス(DV)についてのエピソードがある。
DVに遭っている女性を救いたいという引きこもりの男性に対して
弁護士がDVを説明している場面があった。

その女性を「救いたい」という気持ちは「DV」の第一歩だというのだ
「救う」ことで相手に対して主導権を握ろうとしている。
つまり、「救う」ということは相手を対等とみなしていないというのだ。
そしてもし救った後、相手に対しての束縛を求め、それがかなわないと
暴力に走るということを述べていた。

これは教育現場にも言えることじゃないだろうか?
「目の前の子どもを救う」と言いながら、主導権を握ろうとしていないか?
万が一「救った」としても、その子どもが思い通りの反応(感謝や敬意を表すこと)をしないと
「何だこいつは?」と思わないだろうか?

「救う」なんていう言葉を使う時点で、
子どもの有能生を信じていない証拠だとわかった。
自戒します。

 2006年12月19日(火)晴れ 歯がもげた@

昨日長男が「お父さんに報告がある。」と言って帰ってきた。
歯がもげたそうだ。生え替わりだ。
数週間前からグラグラしていた。

「痛くなかった?」「どうやったらもげたの?」と聞いたら、驚くべき真実が。

○○ちゃん(お友達の名)が僕のことをぶってきて
それをマネして●●ちゃん(次男の名)もぶってきて
そうしたらもげた。

だって。どうやら初めての生え替わりは
次男に殴られて達成したらしい。
次男の狂暴さには驚かされる。

 2006年12月18日(月)曇・雪・晴れ 外から見える仕事

高校という職場では、なかなか他人がどのように仕事をしているか見えない。
他人の授業を見に行くことはほとんど無い。
教科が違ったり、科務室(いつもいる部屋)が違えば
どのように仕事をしているか全くわからない。

それでも発言や仕事の結果からそれらを垣間見ることができる。
ちょっと列挙してみる。

1)その人のところへやって来た生徒への発言
2)生徒がいないときに生徒について話す内容
3)授業のため科務室を出る時刻
4)授業が終わって教室から帰ってくる時刻
5)監督している清掃区域の清掃状況

他に何か無いかな?

 2006年12月13日(水)曇り 指導の量と質

指導の量が多ければ多いほど成果が出ると考えている教員は多い。
「多い」というよりもむしろ「ほとんどだ」といった方がいい。
受験指導なんかも教員が介入すればするほど
合格に近づくと思っている。

介入し、介入し尽くしても、不合格だった場合
「もっと早くから始めればよかった。」
「もっと多い時間しどうすればよかった。」という反省の元、
教員の介入はさらに強化される。

どうして介入すればするほど子どもたちは意欲が減退するのがわからないんだろう?
明らかに意欲が減退している姿を見て
「もっと本気になれ。」
「そんなんじゃダメだ。やる気を出せ。」
「先生はもう知らない!」
と、「わけのわからない」指導になる。

一番必要なのは子どもたちにやる気を起こさせることなのに、
その意欲をそいでいる。
たまに「いやぁ、やりすぎちゃったから生徒はひいちゃったのかな?はははは。」
なんて冗談めいて言う教員がいるが、実は全く反省していない。
別の時にまた同じようなことをしている。

この種の教員の最も重視するのは過程であって結果ではない。
自分がいかに時間を割いたかが重要なのだ。

就職指導でも同じだ。
子どもが意欲を持って就職試験に臨もうとし、
面接指導や、作文指導をお願いしてきたとき、
自分の固定観念にある「型」に当てはめようとする。

指導する教員は、自分の押しつけた型を守ろうとしない子ども
(「こっちのほうがいいんじゃないですか?」と言い返す子ども)
に対して
「あれじゃあだめだ。採用されない。」
「不採用になって自分を知るんじゃないか?」とまで言う人もいる。
ところがちゃっかり採用されたりする。
見放された子どものほうが合格・採用されたりするものだ。

教師が介入せず、子どもの心に火を付けることに
時間を割いていきたい。

 2006年12月11日(月)晴れ 本当に正解を伝えない授業U

2006/11/22の記事の結果です。

期末考査をしました。
結果は……まぁ、正解を伝えていた授業時の考査(中間考査)と、
あんまり変わらなかったなーというものです。

厳密に比較をしたわけではないのですが、
印象としてです。
特によくもなっていないし、特に悪くもなっていないというのが
正直な感想です。

感覚的な分析は、
正解を私が伝えようが、自分たちで考えようが、
正解を記憶できる人は記憶できるし、
記憶しない人は記憶しない(テスト勉強しない人はしない)んじゃないかな?

そこら辺の授業をストリーミング配信してもらう予定です。
あ、セミナーの時、DVDを渡すのを忘れた!

 2006年12月11日(月)晴れ 臨床教科教育学セミナー

9日(土)に無事終了した。今回は5回目。
我々の年代が第1回目を開催した。
回を重ねるにつれて、どんどん大きな大会になり、
今回は約70名の参加を得た。
内容はどんどん多彩になり、
「おもしろい!」と思えるものが増えてきた。

「学会」と銘打ってあるが、本当は現場の先生の
「思いつきの実践」と「それに対する子どもの観察」を紹介する場で
あってもいい。
もちろん研究発表もあっていい。
互いに刺激を受けながら、互いの実践や研究が
高まるのがこの学会の核になってほしい。

高崎市の八幡小学校の発表はとてもいいものでした。
我々が心のよりどころとしている理論を
学校単位で実践している学校だった。

それを聞きながら思ったのは、
「学び合い」を広めるためには、
我々のような「学び合い」にどっぷりつかっていたり、
ばりばり実践している人ではなくて、
「あっ!」と気づいた、変わりたての人に話してもらうのが
一番いいんじゃないでしょうか?
どうでしょう?>N先生。

「専門科は教えることはできない。」というのが
この「学び合い普及」にも言えるんじゃないかな?

 2006年11月30日(木)雨 寺脇研

嫌いな人ではない。
先日文科省を退職した。
「ゆとり教育の弊害の責任をとって辞職」なんて言われているが、
きっと寺脇研は「ゆとり教育」なんてひとことも言っていなかっただろう。

学校週休2日制にともない、自然と授業時数削減となる。
それに「総合的学習の時間」や「情報」やいろんなものを組み込んで
物理的に「教科書の内容が3割減」とならざるを得なかった。

「じゃあ何で週休2日制にするの?」という問いに対して、
「だって教員は休まなければならないでしょ?」という正論を
寺脇研はひとことも口に出さなかった。
「じゃあ、週休1日制にすればいいじゃん。」という意見を出させないで
「ゆとり教育の弊害」という言葉にすげ替えて、
結果的に我々教員を守ってくれた(?)のかもしれない。
本人はその意識はなかったかもしれないけど。

週休2日制導入時の講演で
「教師たちから子どもたちを離すために週休2日にしたんです。」と
教員を目の前にして堂々と言ってのけた。
驚いたけど、ある意味これは正論だと思った。
子どもたちは学校に縛り付けられすぎる。精神的に。
子どもを家庭に帰そうという気持ちで言ったのだ。本心かどうかは別として……。
きっと週休2日制導入のスケープゴートとして言ったんだろうけど……。

私が朝の読書をなかなか学校職員に理解してもらえないと質問したとき、
「それは地域、保護者を巻き込みなさい。そうすれば学校は何もしないではいられなくなる」
とアドバイスしてもらえた。
その時、私の頭の中にはそんなことは全くなかったので、
目から鱗の意見だった。

いろいろ過激なことを言って、批判された人だけど、
頭がよすぎて、時代がついてこなかったんだろうなぁ。

 2006年11月30日(木)雨 教育再生会議

体制(規模は別として)を批判して(?)ヤンキーになっていた(と思われる)
元高校教師が教育再生会議のメンバーになっていた。(びっくり!)
まぁ、元ヤンキーだから会議のメンバーになるのはおかしいということではなく、
言っていた内容にびっくり!

いじめをした児童生徒にを隔離せよと
ということだった。
それから、いじめた、いじめないは判断がつかないから、
「(別教室での教育などの措置についても)国が基準をつくらなければ、現場で判断するのは無理」
とも言っている。

国任せじゃん……。
どうしてこういう意見になるのか……、きっとそういう授業(学校教育)を
受けさせられてきたから何だろうと思う。
元ヤンキー委員は、なんかひどいことをしたら、きっと隔離され、
現場の教師の判断でまるく収めてもらうということはされなかったんだろう。

その人は元高校教師だったのだけど、教師だったとき、
どうやって子どもたちに接していたんだろう?
手に余る子どもを隔離(排除)していたのかな?
隔離(排除)されたときの気持ちは忘れちゃったのかな?

もしかしたら元ヤンキーというのは経歴詐称だったなのかな?

 2006年11月24日(金)曇り N先生の気持ち

本日職朝で打ち合わせが長引いた。
SHRのため、教室へ向かったのはSHRのチャイムが鳴った後だった。
廊下を歩いているとうちのクラスの生徒が逆方向に歩いてくる。
トイレに行くんだな?と思って
「始まるよ〜。」と言うと
「もう終わりましたよ。」と返された。
ええっ!?

SHRは週番がチャイムと同時に初め、連絡もなかったんだろう、
さっさと終わっていた。
さすが我がクラス。教師の到着なんて待っていない。
ちょうど扁桃腺が腫れて、声を出したくない日だったから好都合。

10年前の私だったら「なにぃ!」と思って、
トイレに行った生徒を呼び返して、また私が仕切ったんだろうけど、
今の私は「そうかぁ。」と思って自慢にしています。
(実際は10年前だったら勝手に初めて勝手に終わることは無かったろうけど。)

N先生がゼミに遅れていっても、とっくに始まっているというのを
誇らしげにメモしている気持ちがわかりました。
また、ちょっと寂しく思っている気持ちもわかりました。

 2006年11月22日(水)晴れのち雨 本当に正解を伝えない授業

漢文の授業に入った。
「皆さんの力をもってすれば、この漢文は自力で読めるはずだから、
頑張って正確に読めるようにしてね。」

1時間目は班討議で正解を探り、
2時間目は「読める班は読んで」と言い、もし間違ったら「残念」と言って
次の班に読んでもらった。

あるクラスはその時間に読める班が出た。
あるクラスはその次の時間に読める班が出た。

そして次の課題
「皆さんの力をもってすれば、このプリントの問題は解けるはずだから、
頑張って解答欄に正しい答えを埋めてね。」

あるクラスは提出されたプリントの解答を寄せ集めれば
完全正解となった。

プリントは全班後ろの黒板に貼りだした。
見比べると違う解答となっている。
あえて正解は伝えない。様々な解答のうち、納得する答えが
きっと正解だと思うからだ。

例えば、正しい答えを私が解説して、生徒がそれを写したとして、
どのくらいの定着が望めるのか?
今までそんな授業をしていて、そんなに定着したことが無かった。

自分たちで解決する課題で、もしそれも定着しないとしても、
どっちみち定着しないんだったら、自分たちでやる方が頭は使っているはずだ。

定着しているか否かは期末考査でわかる。

 2006年11月21日(火)晴れ 「なぜ国語は難しいと言われるのか?」

先日の授業でのこと。
いつものように10分読書をし、言語楼(小テスト)をし、その時間の課題の説明をした。
そうしたらその説明がわからないから何をすればよいのかわからないという生徒がいた。
「どこがわからないの?」と質問して、一つ一つ説明してようやく生徒は理解した。

「わからない」の主な原因は、私が使った語が生徒の語彙にないことだ。
まぁ、それはいいのだが、その時に質問してきた生徒がこんなことを言った。

「先生は国語のことをいろいろ知っているから、うちらの『わからない』ということが
わかんないんだよ。」

まさに、「なぜ理科は難しいと言われるのか?」に書かれてあることだ。
この本を読まなくても、生徒達はすでにわかっているんだと驚いた。

ということは、私も高校時代にわかっていたということか?
どうしてそれを忘れてしまうんだろう?

でも昔(10年前)の私だったらそんなことを言われると「なにー!そんなことはない!」と
自分の力を過信していたが、
今の私は「そうだよねぇ。」と納得してしまう。
こういうことを忘れずにあと20年仕事をしていきたい。

 2006年11月17日(金)くもり 一喜十憂

仕事では一喜十憂している。量的に出はなく質的に。
差の九憂分が給料分か?なんて思う。

授業やクラスがうまく行っていると、十喜になってニコニコしていられるが、
貧乏性の悲しい性か、そのニコニコが当たり前(日常化)になってきて、
さらに上を目指そうとしてしまい、十喜が一喜となっていく。

しかし十憂は、いくら日常化しても一憂になることはなく、
むしろ二十憂にも三十憂にもなりそうな恐怖も感じる。

「仕事が楽しくなければ人生が楽しいはずはない。」という言葉を聞いたが、
性分上、相対的に「憂」の方が多いまま定年を迎える気がする。

本当に「差が給料分」と思うしかやっていられないなぁ。
他の仕事はどうなんだろう?
うはうは楽しいことばかりをしてお金をもらっている人って、
「仕事」という気がするのかな?
ということを考えると、仕事のやりがいというのは
「憂」をどのように「喜」に替えるかということにあるのだろうか?
または、「一喜」の中にのみやりがいは存在するのか?

 2006年11月9日(木)晴れ テストと授業

テストがあるから授業内容を考えなければならない。
これって本末転倒だよな。
授業内容の定着度を測るためにテストがあるんだけど、
私の場合はテストなんてしなくてもそれがわかるし、
私がやっている授業はペーパーテストで測ることが難しい。
というよりも、ペーパーテストは国語の能力のほんの一部しか測れない。
ペーパーテストで測れる能力しか授業で伸ばさない(伸ばせない)と
考える国語教師は多い。(というか、それ以外の発想がない。)

しかし3週間後には定期テストはある……。
定期テストのために授業をするなんてどう考えてもおかしい。
あれ?これって「大学受験のために必要な教科をする」という構造に似ているぞ。

おかしいからつじつま合わせのために年度末テストの時に
「国語の授業で『生きるために必要だ』と学んだこと」作文
をおこなうのです。

 2006年11月7日(火)大荒れ 就学前検診@

長男が今日、就学前検診に行った。
私が行ったとき(36年前)のことを鮮明に覚えている。
用紙を持たされ、検診をしたのだが、
その用紙が風で飛んで、検診を受けていた子の足下に落ちた。
その子は笑顔で渡してくれた。ホッとした。

私の通っていた保育園からその小学校に行ったのは私だけだったので、
その時は友達が誰一人としていなかった。
でも、「見ず知らずのこの子達と一緒にやっていくんだよな。」と思ったことを記憶している。

あれ?母親と一緒に行ったかな?それは記憶にない。
一人で行くはずないよなぁ。

 2006年11月7日(火)雨 助け合い

ここ2週間くらいテンションが下がりきっていた。
理由はわからない。秋のせいかな?

しかし、こういうときに限って、いろんな刺激を受ける。
元気が出るメールが来たり、ブログを読んだり、アルビが試合に勝ったり、天気が良かったり……。
そうすると自然にローテンションが治ってくる。

不思議なものです。
そういうものをキャッチするアンテナがしぼんでいなかったから
受けとめられたんだろうけど、
アンテナがしぼまない程度のローテンションだから、
そんなに深刻ではなかったということかな?

 2006年11月2日(木)晴 未(不?)履修問題

新潟県は県教委がらみで「読み替え」をしていたという報道もあった。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200610290226.html
なぜこういうことが起こっているのかというと新潟県に漫然とある
「大学進学至上主義」である。

教育長の話には必ず大学進学率が全国で何位かという内容がある。
順位が上がる→いいこと。順位が下がる→悪いこと。という考えがある。
しかし、官製の研修の時の質問や、管理職と話したときに
「どうして大学進学をすることがいいことなんですか?」と聞いて
まともな答えを返した人は誰一人としていない。

明確な理由も考えずにある目的に突っ走るというのは、
カルトな宗教や、戦時中の国家体制、犯罪を犯す企業に似ている。
だから手段を選ばず目的を達しようとする。
そこにどっぷりつかっている人は、「いや、待てよ。」という気持ちを持たなくなる。
周りの意見は聞こえなくなり、思考停止となる。

県教委や管理職が大学進学率向上の理由付けとしているのには
「生徒の希望だから。」ということだった。
第2次大戦中、日本人の希望は日本が戦争に勝つことだったはず。
その目的を達するためには手段は選ばなかった(日本人ですら弾圧した)。
「希望だから」というのが理由にならないのは明確である。

さてさて、県教委ぐるみの不正も発覚したので、
文科省は県教委への圧力を強めるらしい。
中央集権を強化しようという流れになりそうだ。
あれ?戦争直前に似ていないか?

私が考える解決策は、極論だが(実現不可能だと思うが)
文科省も県教委も廃止する。
高校自体が独自のカリキュラムを作成し、それを子ども(と保護者)たちに選んでもらう。
受験科目のみ教える高校が出たってかまわないだろう。
それを選択するのは子ども(と保護者)の自由だ。

しかし、受験科目のみを学んだ子どもが大学でどの程度力を発揮できるのか、
社会でどのぐらい通用するのか、生きる力がどれくらいあるのか、
大学側もわかってくるだろうから、大学側は必履修科目を設定したり、
受験科目を増やしたり、または、存続の危機にある大学は
受験科目を減らしたり、必履修科目を減らしたりする。

多様な形があっていいと思う。
文科省が無くなれば、大学側も自由にそういうことを設定できるはずだ。
そういうことを続けていくと最終的には今の正規のカリキュラムに近づいていくんじゃないかなぁ?
ということは、学習指導要領を文科省が定めなくても
行き着く先は同じ。あってもなくてもいいんだったら、
ない方がいいんじゃないだろうか?

今気づいた。
この問題の根本にあるのは、文科省というお役所だった。

 2006年10月27日(金)雨のち晴 すばらしい

うちの学校は明日が文化祭だ。
当然ながらクラス企画がある。
うちのクラス(1年生)は自主的に取り組んでいる。めちゃめちゃ自主的である。
すばらしい。

どのくらい自主的なのかというと、担任にほとんど相談に来ない。
企画は自分たちで決め、その企画の修正も自分たちでした。
私がダメ出ししたわけではない。

作業班分け、作業班の責任者決め、
作業分担、作業スケジュールも自分たちで決め、やっている。
以前の私だったら「こら、早くやりなさい。」「そんなところで遊んでいるな!」
なんてことを言いまくっていたが、全く言わなくてよい。

ちょっと寂しかったので、帰りがけにふら〜っと教室にいき、
「なにしてんの?」と言ってちょっかいを出す。(N先生に似てきたなぁ。)
昨日なんか、折り紙で箱を作っていたので、作り方を習って私も1個作った。

担任が必要な時(○○を使わせて欲しいという時)に私がいなかった時も、
他の先生にお願いするという臨機応変さがある。
すばらしい!

担任はちょっと寂しい方がクラスは良く回っているということかな?
「あてにされていない」と紙一重なんだけど……その見極めが難しい。

 2006年10月26日(木)曇り 無駄なこと

全国で指導要領通りにカリキュラムを組まず、
卒業できなくなるおそれが出た高校3年生が続出している。
これから70時間の補講をしなければならないようだ。

インタビューで生徒が

「東大にいきたいのに、そんな無駄なこと(世界史の授業)を
しなければならないのは困る。」

なんて言っていたが、世界史は「無駄なこと」らしい。
学校の方針で「受験教科以外は無駄なこと」としているから生徒はそう答えたのだろう。

「なぜ世界史を勉強するべきか?」「なぜ○○を勉強するべきか?」
と語れない教員がほとんどだからそうなるんだろう。
「受験にあるから。」としか答えられないのは寂しいことだ。

追記
内田樹さんのブログにも分析的に同内容のことが書かれてありました。
http://blog.tatsuru.com/archives/001970.php

 2006年10月25日(水)曇り 効果的なこと@

最近長男が返事をしなくなった。
しかし最も効果的な言葉を見つけた。
名を呼んでも返事をしなくなったら
「あれ?○○(息子の名)がいなくなった〜。どこいったのかなぁ?」
ととぼけるとすかさず「はいっ!」と言い出す。

自分の存在が認められなくなることが一番恐いようだ。

 2006年10月23日(月)曇り おもしろいブログ見つけた

内田樹さんのブログです。
この方の著書「先生はえらい」をよんで、目から鱗状態になり、
検索してみました。毎日ブログを書いているようです。

http://blog.tatsuru.com/

ですが、10/21の記事はおもしろかった。
   ↓
http://blog.tatsuru.com/archives/001961.php

 2006年10月17日(火)晴 「生きるために必要だ」と学んだこと(メ)

単なるメモ書き(備忘録)です。

試験に国語辞書持ち込み可とすることにより、半強制的に
辞書を使わせることになる。(もちろん使わなくてもOK)
それにより辞書の引き方を身につける。

全てのものを辞書を引いていると時間が無くなるので、
漢字はたくさん覚えておいた方がよいと思うようになる。
同訓異義語があるので、これも覚えておいた方がよいと思うようになる。
語句の意味も調べるので、自然と覚えられる。

授業中に「使え」と指示するより効果的か?

 2006年10月16日(月)晴 「プロデューサーズ」

映画館の予告編を見て、ぜひ劇場で見たかったが、
機会がなかったのでDVDで観た。

最悪の脚本・最悪の演出家・最悪の出演者を集めて、
ミュージカルをコケさせると、儲かるのはわかったけれど、
それが当たるとどうして刑務所行きになるのか?
うーん、それがわからなかった。

ブロードウェイのミュージカルの映画っていいなぁ。
なぜか好きだ。ブロードウェイに行ってみたい。

 2006年10月16日(月)晴 「太陽」

イッセー尾形主演。昭和天皇の人間像に迫った作品。
こんな形で昭和天皇を描いたものは、テレビやマンガや小説や、
全てのメディアにおいて無かったと思う。
ロシア映画(だと思う)だからできたのかな?

イッセー尾形と佐野史郎が出ているのに、笑えるところはこれっぽっちもないのが笑える。
映画マニアにはぜひ見てほしい。

 2006年10月13日(金)晴 伝えることの難しさ

私がどんな授業をしているかを伝えるのは本当に難しい。
きっとある日の授業を見に来てもらっても、
何でそんなことをしているのか伝わらないだろう。

ある1時間を見たとしても、その時間は何の変哲もない
作業を黙々としているかもしれない。
また、別の1時間を見たとしても、音読をずーっとしているかもしれない。
また、私が説明をして、子どもたちは黙々と個人作業をしているかもしれない。
たまにイベントのある授業もあるが、
その授業が全てではない。いつもそんなイベントを用意しているわけでもない。
だからそのイベントだけを見てもらっても私の授業全てではない。

私の授業を一番理解してもらうのによい手段は
年度の終わりに生徒に書いてもらう
「この授業で『生きるために必要だ』と感じたこと」作文
を読んでもらうことだ。

毎年書いてもらっているが、
「ああ、自分はこんな授業をしていたのか、こんな風に受け取ってもらったのか。」と
毎回驚く。

長いスパンで、自分はどこが成長したのか(「何をわかったか」・「何を覚えたか」ではない)
を子どもたちが実感できる授業をしていきたい。
そのためには自分自身で学べる環境を作らなければならない。

最善の手段は結局は「本」なのかな?テレビやインターネットじゃなくて「本」が一番いいのかな?
と思う今日この頃です。

 2006年10月11日(水)曇り 成長と痛み@

長男は5歳。どんどんかわり始める頃だ。
前歯がぐらぐらしてきた。保育園の同級生はもう抜けている子もいる。
自分の歯ではないのになんだか恐い気がする。

ウソをつくようになった。それも少々手が込んでいる。
今、トイレに行ったあと、自分で拭くように教えている。
「でたー」「おしりシャワーして一回拭いてごらん?」と言ってしばらくして行くと、
「紙が奥に入っていった。」と言った。何のことだか分からなかったけど、
自分で拭いた紙がウンチの下に入っているから、
その拭いた紙はもう見えないよというつもりらしい。
みえみえのウソである。まだ自分で拭きたくないようだ。

こういう手の込んだウソをつくようになったのかと思った。
でも、敢えてウソはいけないと怒った。
ウソつきは泥棒の始まりだから、泥棒の仲間になれと脅した。
大泣きして「ウソはつかないと言った。」

次の日、
部屋でサッカーをやっていた。強いボールを1回障子に当てた。
「次に強く当てたらおうちでサッカー禁止だよ。」と言った。
気をつけてやっていたみたいだけど、そのうちボールを台所の方に大きく蹴ってきた。
さすがに自分でも悪いと思ったのか、ベッドのフトンにもぐっていた。
しばらくして行ってみた。「何でかくれてるの?」
「今、○○ちゃんとかくれんぼしているの。」
「ウソでしょ?」「ううん、かくれんぼしているの……。」
「ウソでしょ?」「……うん。サッカー禁止されると思って……。」

理由にウソを使うようになってくるというのは、
知恵が付いてきた証拠なのかな?
でもこれって「言い訳」ってことかな?

 2006年10月4日(水)晴 学び合いの段階

授業で「グループで話し合って答えをまとめなさい。」ということを言う。
これは次の2点の理由からだ。
1点目、グループで自分の考えをつきあわせることで自分の考えを説明する機会となる。
(=自分の考えを発表する場面を全員に作る)
2点目、クラス全員の考えを教師が把握しないでも授業を進められる。
(=40の意見を検討するより10の意見を検討した方が効率がよい)

1点目はポジティブであるが、2点目はネガティブな理由である。
学び合いを促進したい(無理矢理関係を持たせたい)場合は有効な手段である。

今日の授業では前半はグループで声を合わせて音読する時間、
後半は机を合わせたままプリント問題とした。

そうしたら、「先生、答えをグループで1つにしないとダメなんですか?」
という質問が何人からも出てきた。
そんなことは一言も言ってはいなかった。

うーん、グループにしなくても、周りと相談して回答していくのが理想なんだけど、
グループになることで、「答えを一つにする」というスイッチが入ってしまうんだろうなぁ。
グループ学習の持って生き方に問題があった。

 2006年10月3日(火)晴 本を読んで日本代表になろう

今回のオシムジャパンに初招集されたジェフ千葉の水本裕貴を
初めて知ったのは、昨年三重に朝の読書の交流会に行ったときだった。

たまたま分科会の隣に居合わせた女性の方が
「うちの息子はJリーガーなんです。」とさらりとおっしゃった。
私が講演でサッカーの話をちょっとしたから、話をふってくれたようだ。
びっくりした。身内にJリーガーがいる人と会うのは初めてだった。

ジェフ千葉にいて、その当時はケガで試合にあまり出ていなかったから
私は全く知らなかったのだが、サインが書いてあるトレーディングカードを
もらってからファンになった。
オールスターファン投票では水本選手に投票しまくった。(残念ながら落選)
ビッグスワンでの試合に出場したときは、心の中で水本選手だけ応援していた。

その交流会の時のお母さんの話だと、高校時代からよく本を読んでいたそうだ。
だからそこで
お母さんが「本を読んでJリーガーになろう」という本をお書きになったらいかがですか?
と勧めてみた。「本を読んで甲子園に行こう」という本が実際にあったのだ。

ところがところが日本代表にまでなってしまった。
「本を読んで日本代表になろう」という本が書けるじゃないか。
明日(ガーナ戦)出場して活躍してくれないかな?

 2006年9月29日(金)晴 「ばか」@

昨夜風呂場で息子が「ばか」と言った。
最近多用しているようだ。
「ばか」は差別用語であり、それを平気で言う人間になってほしくないから、
説教をした。

「ばか」の意味を知って言っているの?知らないで言っているの?
「ばか」は人を悪く言う言葉なんだよ。悪く言われたら嫌でしょ?
人を殴ったり蹴ったりしてうれしいの?うれしくないでしょ?
「ばか」というのは、ことばで人を殴ったり蹴ったりすることと同じなんだよ。
ほめられるとうれしいでしょ?でも「ばか」といわれるとうれしくないでしょ?
人がうれしく思わないことをして楽しいの?

というようなことを行ったら、真剣に聞いていて、
終いには大泣きしてしまった。
大泣きはフロから上がるまで続いていた。
大泣きしたのは意外だったが、分かってくれたかな?と思う。

 2006年9月21日(木)晴 理想の授業2

「理想の授業はどんなものか?」とメールが来たので
返事をここに書きます。

私の理想の授業とは子どもが目標や課題を設定し、子どもが解決していくものだ。
教師が目標や課題を設定し、子どもが解決していく授業はしているが、
子どもが目標や課題を設定する授業はしていない。

このような授業では、子どもが学びたいところを決め、目標と課題をみんなに伝え、
みんなはそれに取り組んでいく。
このような授業を恒常的にしたいと思っている。

今はそれができない(と思っている)原因は何点かあるが、

目の前の子どもはまだ自分たちで目標や課題を設定できないんじゃないか?
子どもが設定した目標を他の子どもたちが共有して取り組めるのか?

というものが主たるものだ。

そう思っているから一生実現できないような気がする。
かといって、今の段階で満足に授業ができていないのに、
さらに上のレベル(だと思う)の理想の授業ができるんだろうか?と
二の足を踏む。

現実には実現している人もいるが、なぜ私にはできない(やろうと思わない)んだろう?
何を捨てなければいけないのか?

 2006年9月20日(水)晴 理想の授業

自分には「理想の授業」なるものがある。
しかし今の授業の延長線上にはない。
じゃあ、その「理想の授業」をやればいいじゃん?ということになるが、
なかなか踏み出せないでいる。

それはなぜか?捨てられないものがあるからなのか?
もうすでに私の理想とする授業をしている(自然にそうなった?)人もいる。
過去にその授業をしていた人もいる。
なぜ自分にはできないのか?
自分は何を捨てられないのか?

 2006年9月15日(金)晴 目標の共有

日記を読んでくれた西川先生からエールのメールが来た。
そして関連してメモにも書いてくれた。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/iamjun/memo/memo1449.htm

昨日の自分の授業の流れをふりかえってみると、
「じゃあ、昨日の続き」てな具合に授業に入っていた。
前日は目標を語り、「こうしてこれを探っていこう」と子どもたちに話していた。
しかし昨日は「じゃあ、続きを」である。
これでは前日から当日にかけて様々なことを経験している子どもたちにとって、
何の続きかわからない。

こっちは国語教師だから、「昨日の続き」と言えば、
「昨日のそのクラスの授業の続き」なのだが、
子どもたちはそうはいかない。
授業始めに課題の意味を語るべきだった。

ちょっと「うまく運んでいるな」と思うと、あぐらをかいてしまって、手抜きをしてしまう。
常に目標を共有するというのは、
最近はまっている経営の本にも書いてあったことだった。
反省せねば。

 2006年9月14日(木)曇り 懺悔 自己嫌悪

目標設定が上手くないと、活動が停滞する。
活動が停滞すると活動内容を指示する。
活動内容を指示すると行動・態度を指示する。
そうなるとさらに活動が停滞する。
停滞するから、子どもたちで結論を出せるのに
こちらで答えを示してしまう。
そうだったら「初めから先生が言えばいいじゃん」ということになる。
うー、悪循環だった。懺悔します。

なんで自分のクラスでは授業が上手く行かない場合が多いんだろう?
いらぬところに目がいったり、気づいたりしてしまうからかな?

 2006年9月13日(水)曇り 何を捨てるか?

国語に関して言えば、「教科書の文章を崇めること。」

国語の教科書に掲載されている文章、特に評論文は、
難解なものがほとんどである。
よく読むと、いいことが書いてあるのだが、書き方が下手だ。

「もっとすっきり書けばいいのに。」「どうして言いたいことを初めに持ってこないの?」
「タイトルと内容の順番が逆じゃん。」
なんてことは当たり前だ。

どうしてこんな文章を載せるのかというと、
結局は受験のためなのだろう。すらすらわかる文章では、問題が作れない。
ということは、受験問題に出されている文章は
「よく読まないと内容がわからない下手な文章」ということになる。

しかしこのような文章ばかり無理矢理読まされていると、
「よく読まないと内容がわからない下手な文章」しか書けなくなる。
子どもたちの書く文章を長年読んできているが、
言いたいことをすっきりと書かず、回りくどかったり、不必要なことを先に書き、
言いたいことが後になり、ぼやける文章ばかりを書く。

今の時期になると、生徒が進路に関する作文や自己推薦文を
「添削してください。」と持ってくる。
私はざーっと見て、「つまり、あなたが言いたいのをひとことで言うと何?」と聞く。
生徒は「えっ?」とした感じでしどろもどろになって、ようやく「○○○です。」と答える。
「それじゃあ、それを初めに書いたら?」とアドバイスをする。
私の大学院時代の指導教官○○先生の口調と全く同じである。

いまだに新聞の社説を読ませて、要約させる国語教師がいるのだが、
あれほど奥歯に物が挟まった書き方(どの方面にもいい顔をするのが新聞※日経を除く)を
している文章はないのに……。
社説なんて無理矢理読ませていると、自分で責任をとらない文章を
書くようになってしまう。(例:○○は○○するべきだ。)
                   ↑
         「じゃあ、おまえはどーすんだ?」と突っ込みたい!

つまり、「これはいい文章」という思いこみを捨てることから始める。

 2006年9月12日(火)曇り 「何を受け取ったか?」

国語の問いでよくあるのは、
「この文章は何がいいたいのか?」「著者は何を言っているんだろう?」
というものである。
こういう場合の「答え」はだいたい1つである。
そして、生徒は唯一の「正解」を出そうと思い、
それが出せないで、半数以上の生徒がなに何も書けないでいる。

そこで
「この文章からあなたは何を受け取ったか?」
という問いに変えてみた。
「40人が読めば40通りの受け取り方があるはず。」
「答えを探し出そうと思わず、自分の頭の中に残っているものを書きなさい。」
「もし、人によって全く違った受け取りがなされるようだったら、
その文章自体が下手な文章ということです。」
ということを付け加えた。

そうして書かせた文(1文)には、半数の生徒が
「この文章のいいたいこと(いわゆる「答え」)」=「結論」が書かれてあった。

これは設問の工夫というよりも、
文章を読む視点の変化である。
書き手本意の文章の読み方より、読み手本意の文章の読み方だ。
国語の授業は読み手本意の授業にしていくほうが
効果が上がるんじゃないか?

「直感(「直観」ではない)で読む国語」を開発中。

 2006年9月11日(月)雨・曇り こんどは「伸ばす社長 つぶす社長」より

「千円札は拾うな。」の著者の以前に出した本を読んでいる。

「伸ばす社長は、捨てられる社長だ。」ということだ。
今まで社長が大事にしていたものを捨てられれば会社は伸びるということだ。
「社名」「利益」「社屋」「業種」……などなど
会社を伸ばすためにはほとんど必要ないものばかりだということだ。
「社長が一番いらない場合もある。」とまで書いてある。

教師に当てはめてみた。
教師が一番大事にしているものは何だろう?
なかなか捨てられないものは何だろう?

「教える」ということか?

 2006年9月7日(木)曇り さらに「千円札は拾うな。」より

「労働時間を短くすれば、収入は上がる。」というのを
授業に当てはめてみた。

私は授業始めに10分読書をしている。
「10分間読書にとられると、進度は遅くなりませんか?」と聞かれる。
しかし、10分読書を取り入れて10年近くなるが、
「進みが遅くなった」、「時間が足りない」と感じることはない。

教育は時間を増やせば効果が上がるという
誤解から解き放たれなければならないんじゃないか?

少なくとも私は10分読書をする前より
授業展開を、内容を吟味し、メリハリをつけるようになった。
授業を生徒が聞いてくれないという先生は、
「同じ内容を半分の時間でやる。」というシバリをつけると、
自然と工夫するようになるかもしれない。
半分の残った時間は生徒と雑談でもしてればいいんじゃないかな?

 2006年9月6日(水)晴 わからぬ

昨日グループになって、教科書の問題を協力しながら
ノートに解いていく課題をおこなった。
あるグループは全員が協力して一生懸命やってるようだったし、
あるグループは全員がノート自体を開かなかった。

さて今日、続きをおこなった。
今日は指示をどうしようか迷った。
班に問題を割り振り、黒板に解答したものを書かせようかとも思った。
しかし、結局そのまま昨日の続きにした。
1つ指示したのは「班のみんなができたら一緒に提出すること。」だった。

そうしたら活動するじゃないか。
単に「一緒に提出」だけで活動しだしたのだろうか?
そんな単純なことじゃ無いとも思う。
わからぬ。

 2006年9月5日(火)曇り・雨 涙のかっぱ寿司@

先週末カミさんが飲み会だった。
カミさんが飲み会の場合は夕食は出前か、弁当にしていた。
しかしこれも後かたづけが大変だ。
出前は食器を洗わないとだし、弁当はゴミの処理がある。

そこでかっぱ寿司に行けば、すぐに食べられるから、
次男はぐずらないのではないか?
後かたづけもいらないから思い切って行ってみよう!ということで行ってみた。

金曜日だったので少々待たされて、次男は不満気味だったけど、
長男があやしてくれたので大丈夫だった。

席について玉子が流れてきたので、それをすかさず取り次男の口へ。
長男はインターホンで自分の好きなものを注文している。

「いいか、お父さんはエイスケ(次男)にかかりっきりだから、
唯一郎(長男)は、自分のことをしっかりやるんだよ。」
「うん」
と、長男に言い聞かせた。長男はうれしそうに、次何を注文しようかと
メニューを手に取ってみていた。
ちょっと私の目が離れたとたん、水をテーブルやイス、床にこぼしてしまった。
やってしまったー。

私は次男をだっこしたり、注文したものが流れてくるか見ていないといけないので、
「唯一郎がお店の人に水をこぼしたのを言ってきなさい。」
と言った。長男は行きあぐんでいた。涙も浮かんでいた。
ちょっとテーブルから離れたと思うと、また帰ってくる。
「言ってきたの?」
「まだ」
なんてことを繰り返した。

「いい?お父さん、あれだけ言ったでしょ。
今日は自分のことは自分でしなさいって。
お店の人に言ってこないと許さないよ。」
と強く言ったら、しぶしぶまた歩いていった。

しばらくしたらヒクヒク泣きながら戻ってきた。そして店員も来てくれた。
長男は私の隣に座って、しょぼんとしていた。
私は「えらかったね。よくやったね。」とほめて、
「じゃあ、お寿司食べたらデザート食べようね。」と言った。

5歳の心にどんな葛藤があったのかな?約20mの我々のテーブルと店員のいる場所との距離は
きっと20kmくらいに思えたんじゃないのかな?
「初めてのお遣い」くらいのドラマがあったんだろうな。
見てればよかった。

 2006年9月5日(火)曇り・雨 給料を上げるには

昨日の「千円札は拾うな。」を読んでさらに気づいたこと。

この本の中で、「給料を上げるには、労働時間を減らせ。」と書いてあった。
なんで?と思ったが、労働時間を減らすことにより、「工夫」が生まれるということだ。
工夫を無理矢理するようになると、同じ労働時間でも利益が上がり、
労働単価は自然と高くなる。
長時間労働を美徳と考えているようでは、
全ての問題を「たくさん働けば解決する」と思ってしまうそうな。
しかしそれで解決できる問題は今の世の中にはほとんど無い。

これを自分に当てはめてみた。
昔は教材研究をして、仕事を家に持ち帰って授業準備をしていた。
「忙しい、忙しい」と言って、それを自慢にしていた気持ちもあった。
当時は、授業準備を長時間することで、授業自体は落ち着きのあるものに
なったところもあった。
しかし、それはプリントでコントロールされていた授業だったかもしれない。

今は全く家に持ち帰らない。
授業のプリントを作るために家でパソコンに向かうことは全くなくなった。

なぜか?何とかなるからだ。
なぜ何とかなるのかというと、教材に集中して時間を割くよりも、
目標設定(この教材で何をするのか)さえしっかり提示すれば、
プリントなんか作らなくても、子どもたちは活動するからだ。

土・日、目標設定をどうすればよいのか、頭から離れないときもあるが、
なぜか日曜日の夜までにはぽっと頭に浮かぶ。
不思議だ。なぜだろう?

公務員はどうやっても給料は決められた額以上に上がらない。
ということは、労働時間を減らす(=サービス残業をやめる)ことにより、
相対的に給料が上がることになる。

授業のネタを考えて、自分の自由な時間を割いて教材作成や
ネタ集めをしている教師はたくさんいる(私の最も身近な国語教師もそう)。
しかし、労働時間を減らすということで、
一生懸命プリントを作っていた頃にはなかった「感激」が生まれる授業に出逢えるようになった。

家で仕事をしないということは、息子たちと接する時間や睡眠時間が
増えるということだ。ありがたいありがたい。

 2006年9月4日(月)晴 文化に投資

大量の借金をして今の家(マンション)を買った。
「不動産に投資しても資産にはならない。」
「持ち家を持ったからといって、資産は目減りしていくだけだ。」
なんて文章をいろんな本で読んだ。

「千円札は拾うな。」(安田佳生著 サンマーク出版)を読んで、気づいた。
自分は借金し、不動産を手に入れたが、
不動産を手に入れたくて買ったのではなく、
新潟駅の近くで、歩いて飲み屋やヨドバシカメラに行き、
遠出するときは列車の発車時間の10分前に家を出ればよく、
休みの日は全く自動車に乗らなくてもほとんどのことは足り、
なにしろもう引っ越しをしなくても良い(実際はするかもしれないが)という
余裕を手に入れたんだと気づいた。

職に就いてから魚沼を数年ごとに転々とし、
引っ越しごとに上や隣にどんな人が住むのかと思って気分は休まらなかった十数年。
それに比べると、
月々平均すると10万以上の支払いになっているが、
それでも文化を手に入れたと思った。決して資産を手に入れたとは思っていない。
文化への投資は文明への投資よりも高く付くものです。

 2006年8月30日(水)雨・曇り 新潟県の群読 

本日NHK新潟の沢田アナウンサーがわざわざ私の学校まで取材にいらっしゃいました。
現在の子どもと子どもを取り巻く状況に危機感を覚えていらっしゃるようで、
コミュニケーション能力の低下を悲観されていました。

そこで、クラスの子ども同士で声を合わせ、コミュニケーションをとれる群読に
着目なさったようだ。

朝テレビでニュースを読んでいた沢田さんが
学校に来て会っているのは不思議な気がした。
(ちゃきちゃきの素人ですから。)

教育に関しても真剣に考えていらっしゃって、意気投合までは行かないけど、
久しぶりに教育に関して話し合った気がする。

すぐにニュースになるというわけではないけど、
どうなるのかな?その際はぜひ私の担任のクラスの群読を収録してほしいな。

 2006年8月27日(日)晴・曇り 大地の芸術祭

3年に1回越後妻有地区(十日町・津南など)で開催される大地の芸術祭に
今年も行ってきた。今までは中越地区に住んでいたから近かったけど、
新潟市から行くのは遠かったなー。

とりあえずそばを食べ(メチャ混み)、キナーレに行きガイドブックを購入し、
興味と時間を考えて、結局寄ったのは莇平(あざみひら)にある
明後日新聞社文化事業部でした。 3年前もここに寄ったんだよなー。

廃校の小学校を使っていたんだけど、子どもたちは、走り回り、
少々展示されているものを破壊したり(ちゃんとなおしました)、
カマキリを見つけて恐がったり、バッタを見つけて突っついたりしていました。

もと小学校だからかな?子どもたちは楽しんでいました。
長男はこれに味を占めて、「他も行こう!」と言っていたのですが、
次に見たいところはかなり離れているところなので、
断念し、帰り道の途中にあるちょっとしたオブジェを見ました。

もっと早く出発して、昼飯も時間がかからなければ、
もっといろいろ見られたのになー。計画性のなさがたたります。

カマキリににらまれている次男は、明後日新聞社の社員に
写真をとられて、「新聞に載せてもいいですか?」と言われてOKしたんだけど、
明後日新聞手に入れるにはどうしたらいいかなぁ?

 2006年8月25日(金)晴 誰が決めること?

なんたら学会で冥王星は惑星じゃなくなったそうだ。
でも、惑星かどうかはなんたら学会が決めることなんだろうか?
その学会がそう決めたからと言って、冥王星の存在や性質が
変わることではない。

私は教育関係の学会に所属しているけど、
「これは○○だ。」「これは○○ではない。」というようなことは決めない。
現状・状況・現象を見て、何が起こっているのかを明らかにするのが
その学会の役目だ。

「水金地火木土天海冥」と覚えていて、今年から「海冥」ではなく、「冥海」になるんだよと
言われて驚いた記憶がある。
それほど冥王星は惑星として一般人に馴染んでいるのに、
なぜわざわざ外すのかな?というか、
そんなことをわざわざ議論して、多数決で決めることなんだろうか?
多数決に馴染むことなんだろうか?と思う。

それよりも、多数決でしか決められないことを
決めてしまうなんたら学会はどういう学会なんだろう?
真実は多数決可決されようが、否決されようが、真実じゃないのか?

それでも冥王星は回っている。




セーラープルートの立場は……?(って、考え過ぎか。)

 2006年8月23日(水)晴 ホンネとタテマエ

建前論を振りかざし、本音を隠そうとするのは卑怯だ。
建前論で本音をつぶそうとするのも卑怯だ。

もちろん建前は必要だけど、それは後付のはず。
本音の部分でOKか、NGか、決めてから建前を考えていこうよ。

だから決まってもぐだぐだ言って、
周りを不快にし、仕事を停滞させるんだ。
ったく、割り切っていこーよ。

 2006年8月17日(木)晴 この夏の仕事

「国語指導とその理念」というサイトをコツコツと書いている。
昨年の夏は、自分の国語指導の本を出版しようと
原稿を書いていたが、
出版社からボツを食らったり、
50万円を出資するなら、出版しても良いと言われたが、
50万円を捻出できないので、断念してしまった。

教育書で買われているのはノウハウ本やネタ本である。
それならと思い、ノウハウを書き、その裏にある理念も書いて、
1つのネタごとに短くまとめれば、
出版してくれるんじゃないかな?と思って、
サイトを作り、そこにまとめている。

http://katagiri.web.infoseek.co.jp/shidorinen/

に、途中までまとめているのを載せてあるので、
ぜひ御覧ください。

 2006年8月8日(火)晴 責任を感じない人々

テレビの手法だが、
事故や事件が起きてからその責任をどしどし追求する
じつは○○○だった…… やっぱり○年前から○○○だった
など。

プール吸水口事故で、あきれたのが、数年前に管理責任者だった人の
インタビューだ。顔や声を隠して、
「私が管理責任者だったときから、ずさんな管理態勢でした。」
だって。
「ずさん」だとわかっていたんだったら、その時に声を上げろよ!と思ってしまう。
あんたが声を上げれば、今回の事故は防げていたんじゃないか?
とそのテレビでは誰も突っ込まない。

あきれたもんだ。事故当時に直接関係していなければ
責任はないと思っている。

パロマの事故も同じだ。

 2006年8月7日(月)晴 経済観念

ヤンキー先生が新聞で連載している。
いつもほとんど読んでいなかったんだけど、たまたま目にとまった。
ある教員養成系大学の学食では、大学生が朝食を摂らないため、
朝食時に学食で食べた場合、ポイントをつけ、そのポイントを
昼間や夜に使えるそうな。

ヤンキー先生は、それに噛みつき、
そんなポイントをつけなければ朝食を摂らないような人は
教員なるな!
ポイントをつけて朝食を食べさせようとする大学もおかしい!
面倒くさくて朝食を摂らない人は、面倒くさくて子どもにお乳をあげないのと
同じだ!

とおっしゃっていた。
学食がポイント制にしたのは、ポイントをつけて売り上げを伸ばそうとしていることに
他ならないのではないか?
コンビニに顧客を取られているから、学食まで足を運んでもらおうということなのではないか?

ヤンキー先生ネタ切れかな?

 2006年8月5日(土)晴 髄膜炎?

長男がダウンした。
数日カミさんの実家に泊まっていて、カミさんが帰ってきても
早朝地引き網に行くというのでまた泊まった。

地引き網に行ったのだが、元気がなく、熱があり、
早めに帰った自動車で嘔吐したそうだ。
あわてて医者に連れて行ったら髄膜炎の可能性を言われた。
入院が必要かもだって
髄膜炎って何?

ネットで調べたら、脳炎の一種らしい。
おろおろしていたら帰ってきた。
入院は必要なく、安静にして様子を見るということだった。
お茶を飲んだら全て吐き出した。
大丈夫か?

熱のまま一晩寝たら、少々元気を取り戻してきた。
ひとまず安心した。

子どもをいつもうるさい!と思っていても
元気が無くなるととたんに火が消えたようになる家庭です。

 2006年8月4日(金)晴 やることが……

今年の大きなイベント(フォーラム・群読大会)が
どちらも7月に開催されてしまったので、
8月はイベントがない。なのでぽっかり空いた感じ。

何しようかな?

 2006年8月4日(金)晴 博士の愛した数式(DVD)

雰囲気はとてもきれいにできていた。
寺尾聡はもっと崩れて(狂気じみて)いたほうがいいかな?
撮影場所がよい。どこで撮ったのかな?見たことがあるなぁ。
懐かしい風景だと思っていたら、長野だった。
行ったことあったっけかな?でもあんな風景は新潟にもあった。
懐かしい。

深津絵梨は適役だった。
博士が子どもを非常にかわいがった理由を
脚本家はあのように解釈したけど、小説の雰囲気から、
そこまで2人の関係をどろどろさせなくてもいいんじゃないかな?

お兄さん夫婦の息子を博士もとってもかわいがっていたけど、
その息子はルートと同じ年頃で死んでしまった……てなのはどうでしょう?

 2006年8月4日(金)晴 ゲド戦記

あれ?「ゲド戦記」ってこんなストーリーだったかな?
と映画を見て思った。5年以上前に読んだので、ストーリーはほとんど忘れていたのだが、
こんな、いかにもありがちなストーリーじゃなかったような気が……。
でも忘れているから何とも言えない。

絵はジブリ風だが、ところどころ何でこんな雑なの?というものがある。
エヴァンゲリオンテレビ初版で、制作時間がなかったせいか、
ある回はタッチが歪んでいたのがあった。あんなかんじ。

うーん、見なけりゃ見たいと思うけど、見たら見なくてよいと思った。

 2006年7月30日(日)曇り 群読全国大会

始発の新幹線で東京に行き、最終ので帰って来るという強行軍だった。
始発で行けば余裕で受付前に間に合うことがわかった。

私は高校の実践発表をしたのだが、
キーワードは「群読で学力向上」
学び合いもそうなのだが、群読や朝読やそういう活動をすると
「それで成績は上がりますか?」という質問を必ず受ける。
成績(テストの点)をあげる目的でやっていないのに、
それがわからない人が多い。

それなりゃ、「群読をやると成績が上がります」と胸を張って言える
データや実践を持っていこうかな?と思った。
敬語を群読で覚えるものや、古文と口語訳を群読で覚えるものを発表した。
それなりにつじつまをつけて、こじつけて、「学力が上がる」と言い切ってみた。

それでも、「歴史上の人物で、誰が何をしたかを群読でやってみようと思うんです。」
と言った小学校の先生がいたので、それなりに刺激を与えられたかな?

まぁ、群読会の異端児の役割でした。

 2006年7月29日(土)晴れ 教室学び合いフォーラム

第2回が無事に終了した。
今回の内容は多岐にわたっていて、とても楽しめるものだった。
特にパネルディスカッションは非常におもしろいものだった。
パネルディスカッションはメンバーがものを言う。
あれだけのメンバーを集めるのは大変だが、
Mさんのおかげである。

公開ゼミは少々私の思っていた「ゼミ」とは違う感じのものもあったが、
おおむね好評だったんではないか。
1分科会の参加人数をもうちょっと少なくしなければ
いけないかもしれない。

打ち上げとしてMさんとYさんと飲んだが、
私が来年に向けて考えたのが、
参加者対象の模擬授業をおこなうこと。
2時間ほどあれば実現できる。
学び合いをしくんだ模擬授業をして、
その後自分がどのような学びをしたのかを
意見交換し、学び合いの仕組みについて考える分科会である。

授業に参加する人と、それを観察して分析する人もいるなぁ。
楽しみ楽しみ。

 2006年7月24日(月)雨 夏休み

夏休みである。1学期は長かった。うちのカミさんはまだ夏休みに入っていない。

面談がある。今日は8人。明日は4人。明後日は3人。明明後日は1人。それで終わり。

今週は日程がつまっている。
まず水曜日は結婚記念日。アルビの試合(対鹿島)もある。
金・土とフォーラムを開催する。100人集まるかな?
日曜日は東京までいって群読の全国大会。おっとそこで発表もあるんだった。

とりあえずはフォーラムのパンフレットを印刷せねば。

 2006年7月23日(日)曇り 大泣き@

昨夜息子が部屋を片付けていたら大泣きしだした。
何事かと思ったら、パンが腐っていたというのだ。
そんパンは先週日曜日、カミさんの弟夫婦に子供が生まれ、
祖父母に連れられて千葉までいったとき、
お土産に持たされて帰ってきたものだったらしい。

そのパンにカビが生えていたのだ。
しかし1週間忘れて放置しているんだから、
それを見つけて泣かなくてもよいと思う。

子どもの論理はわからない。
「せっかくもらったパンをそんなふうにして悪いと思った」と解釈していたのはカミさん。
いや、たんに
「食べられなくなった」ことに大泣きしていたんじゃないかなぁ?

大泣きしていた長男を見て、次男も泣いていた。
何でもマネしたがる年頃である。

 2006年7月11日(火)曇 お泊まり保育@

先週末の金・土と保育園で宿泊保育があった。
長男はこともなげに帰ってきた。
楽しかったようだ。

どんどん手を離れていくなぁ。
しかしまだ一人でおしりを拭けない。
これは早めにできるようにしなければ。
小学校ではきっと先生はおしりを拭いてくれないだろう。

 2006年7月4日(火)曇 テスト

期末考査真っ最中である。
私の試験を監督した先生に
「いやぁ〜時間の最後まで一生懸命やっているテストを
初めて見た。」
と言われた。

考査とはいえ、授業時間50分を使う。
ほとんどのテストは50分の中、30分くらいであきらめた生徒は
机に突っ伏して寝出す。
普通の授業中にそういうことをしたらどうなるか。
教師は起こすだろう。(起こさない人もかなりいるが)
しかしテストとなると、起こさない。起こさなくてもOKという雰囲気がある。

これはおかしい。テストでも50分間飽きさせず、活動させなければならないはずだ。
ほとんどのテストが記憶に頼るテストを作っているからこうなる。
私のテストは時間と労力をかければ点数がとれる割合が多い。
テストは別形態の授業という考えだ。

今回は国語辞典持ち込み可のテストをしてみました。
初めての試みですが、功を奏したかな?

 2006年7月2日(日)曇 イッセー尾形とフツーの人々

新潟公演があった。
昨年の11月から8ヶ月たった。
あっという間だったなぁ。

公演はおもしろかったが、カミさんはまったりした登場人物の時には
寝ていた。うーん、前見に来た時も寝ていたぞ。

私だけが残って、「フツーの人々」を見た。
今回はイッセーさんが仕切る形で、
あるグループは伸ばしたり、あるグループはうち切ったりして、
間延びせずに演じられていた。
去年の反省を生かしたんだろうなぁ。

見ていて、前のワークショップで一緒になった、懐かしい人々が出ていて、
私もそこに加わりたいと思ったが、
1週間このワークショップに費やすバイタリティーが
私にはもう無いんだろうなぁ。と思った。
それに、8ヶ月前の経験で、この先生きていける。

驚いたのは、○○高校の先生(前回のワークショップで一緒だった。
私とそれほど歳は違わない……たぶん。)
が制服を来て女子高生役で出演していたこと。
イッセーさんも「無理がある」と言っていましたが、
まぁ、舞台上ではそれなりに見えていましたが……。でも、あー驚いた。

 2006年7月1日(土)曇 ダビンチ・コード

を見にいった。本を読もうかと思った時期もあったが、
借りられなかったので、読まずに行った。

なんだか展開(どんでん返し)が早くてよくわからない部分があった。
よくわからなくても、まぁまぁ楽しめた。
1点疑問が……。
ピストルの弾が現金輸送車のドアに挟まった時、
どうして運転手は主人公たちを撃たないで、
ドアを閉めようとしたのか?うーん?

外国の映画は登場人物が多いと
よくわからなくなる。それはきっと名前からのイメージが
顔と結びつきにくいからだろう。

でもおもしろか。

 2006年6月26日(月)曇 今更ながらの疑問

今、古文にある「本意」は、どう読むべきなのかわからなくなっている。
古文にはよく出てくる語であり、「かねてからの望み」という意味である。

教科書ではルビが「ほい」とふってあるので、今まで「ホイ」と読んできた。
しかし、「ン」の無表記の形というのを辞書で見て、
無表記だったら本当は発音するのでは?と疑問を持つようになった。
いろいろ調べたり聞いたりしているのだが、結論が見えない。

御存じの方教えてください。

別件で、解明したものですが、
「比喩」の「喩」という漢字の旁は「兪」です。
よく見ると上の部分にちょこっと左側に突き出たひげがあります。
今まで何でだろう?と思わず、そのまま書いてきましたが、
上の部分は「入」なのですね。知らなかった。

ということは、今まで書き方を間違っていた。
私はひげを書いて左に払って、次に右側を書いていたが、
本当は、「入」と同じ書き順で、ひげの部分は2画目に書かなければならなかったのか。
うーん、生徒に明日説明して、今まで自分の誤りを正さなければ。

 2006年6月22日(木)曇 教職専門大学院

昨日の「クローズアップ現代」で教員養成専門大学院での授業についてレポートがあった。
(実は家事や子どもの世話をしながら部分部分を見ていたから、
これから書くことは番組で報道されたことと違うかもしれない。)

その中で大学院の先生や、番組解説の苅谷剛彦先生の話の内容は
「ごもっとも」ということだったが、1点、おかしいな?と思うところがあった。
大学院の先生が、
「大学院ではコミュニケーション能力を学ぶ授業をして、子どもや保護者や同僚の
先生とうまくコミュニケーションをとれるようにする。」
といって、その風景もでていた。院生はなんだか困ったような表情で、学んでいた。

授業内容が難しくて(コミュニケーションがうまくとれなくて)困っていたのか、
取材に来ていたから困っていたのかわからない。
大学院の先生はさもこれが大切で、これが中心なんだという感じで授業をし、解説をしていた。
番組もそれを一番大きく取り上げていた。

しかしちょっと待てよ、である。
教師になろうという、または教師のプロになろうという人(院生)が、
今更取り立ててコミュニケーションを学ばなければならないのだろうか?
そういうものはそれまでにいた小、中、高、大学で学んでいたはずである。
今更学ばなければならない人は、
それまでの12〜3年の学校生活で、何も学んでいなかったと同義である。
そういう人がプロの教師になれるんだろうか?

コミュニケーションとは、「思い遣り」である。テクニックではない。
思い遣りを今まで身につけなかった人は、
教師どころか、どんな仕事だってできないはずだ。
思い遣りを身につけなかった人は、教員養成専門大学院の入試時点で
不合格にすべきである。

 2006年6月20日(火)曇 不覚

このあいだのサンデーソングブックでカミさんが書いた私への
誕生日メッセージが読まれたらしい。
しかし録音に失敗してしまったため聞けなかった!
残念。

今、ラジオの録音はコンポからパソコンにライン入力を使い、
ハードディスクにMP3録音している。
しかし先日スカイプのためのカメラとマイクを設定したから、
ライン入力からは録音できないように設定されてしまっていた。
うーん、困ったもんだ。

何でこんなややこしい録音のしかたをしているかというと、
新車にはカセットテープデッキがついていないからだ。
MP3をCD-RWに焼いて、聞けるんだけど、こんな失敗が起こってしまう。
ローテクは失敗が少ないからいいんだよねぇ。

そういえば、今、私の電波腕時計が2時間遅れている。
電波を受信できない。
うーん、困った。

 2006年6月19日(月)曇 不惑

まさか自分が40になるとは思ってもいなかった。
いつか20はなると思っていたし、その延長で30もきっとなるだろうと思っていた。
しかし40のイメージが付かなかった。
きっとそれは自分の周りに40歳としてしっかり生きている人の
具体像が無かったからだろう。

もちろん40を過ぎて、しっかり生きている人、
40を過ぎているのに、40らしくなく、若々しい人はたくさんいる。
40らしい40というのが全くイメージつかなかっただけだ。

しかしそれは、自分が40になるということを無視していたせいかもしれない。
気持ちの中に40ということを考えていれば、「あ、あの人は40なのか。」と意識できたはずだ。
理想の、憧れの「40」というイメージを作り出せたのかもしれない。
そういえば、35〜36あたりから、歳をとることに不安を覚え、
1歳とる事に「もう終わりだ……(なにが?)」と思っていたかもしれない。
さすがに39になったらあきらめたけど……(なにを?)

40って何だろう?
「惑わなくなる」というのではなく、
「惑ってはいけない」という意味の「不惑」なのかな?とも思う。
孔子はうまいこと言うなぁ。「惑っている場合か!」ということか。

 2006年6月18日(日)曇 日本人の口癖

最近気になり始めて、気になると耳についてしまう言葉がある。
素人から、有名人から、テレビのインタビューや解説で
必ず言う単語がある。

それは「やはり」だ。

特に最近のサッカーの解説ではひどいもんだ。
一言一言に「やはり」を付けないと喋れないのかー!と思ってしまう人がいる。
解説者だけじゃなくて、日本人全体が使いまくっている語だ。

前置きもなく、いきなり「やはり(やっぱり)」を使う。
例えば、
「あなたの好きなサッカーチームはどこですか?」
「やはりアルビレックスでしょう。」
てなぐあいに。

「やはり」は、「前と同じように」「思った通りに」という意味があるが、
前置きもなにもなく「やはり」を使うのは、違う意味で使っているような気がする。
「あのひとも、あなたも、みんなも、同じように……」
という同意の強制の匂いが漂う。

「やはり」を使うことで、「みんながそう思っているんだから、
私のいうことは正当なんだよ。もし違っていたとすると、
みんなが間違っているんだよ。」という
責任逃れの雰囲気がある。

つまり、使わなくてもいい言葉「メタ・ディスコース」である。

「やはり」を使わない人の話し方や、話す内容は
とてもすっきりして、わかりやすい。

かくいう自分も気を抜くと“やっぱり”「やはり」を言ってしまう。

昨年、アンデルソンリマとエジミウソンの握手会に行って、インタビューコーナーで、
通訳がアンデルソンリマの言葉を訳していたときに、
「やっぱ……」と言っていて、「おいおい、リマは『やっぱ』なんて言わねぇだろー」と
心の中で突っ込んでしまった。

 2006年6月13日(火)曇 スカイプ

スカイプを導入した。
思いの外音質がよい。携帯電話よりもクリアーな感じだ。
どなたかスカイプ導入しませんか?
手持ちのヘッドフォンとマイクでもできますし、
数千円で受話器を買えます。
IDをお教えしますのでメールください。

といっても、私はほとんど電話をかけないし、かかってこないから、
スカイプを導入したからって、電話代の節約になるという
わけでもないのだなぁ。

別件ですが、
体調はほぼもとに戻っております。
しかし爆弾を抱えている感じです。
自転車に乗ったらなんだか違和感が……。

 2006年6月6日(火)曇 大地主2

土曜日の朝方ガーゼを見ると大量の膿が出ていた。
金曜日の夜、熱っぽかったので、座薬を入れたせいかもしれない。
土曜日中、調子よく過ごした。息子のサッカースクールもつきあえた。
(自転車に乗れなかったので、歩いて引率)

ところが夕方当たりから具合が悪くなってきた。
かかりつけの医院は土曜日午後もやっているという良心的なところである。
午後閉院間際に新車で駆け付けた。
見てもらったら、どうやら奥の方で膿がたまっているということだ。

さっそく大手術となった。
これがまた痛いの何のって、第1回の手術以上の痛さだった。
前回切ったところをさらに開き、管を入れるというものである。
切るのも痛いし、管を入れるのも痛い。
看護婦さん3人に押さえつけられて、手術を受けた。

看護婦さんが「もうすぐ終わりますよー」なんて言ってくれるんだけど、
「何いってんだ、まだ終わらないよ。」と医者が言う。
そんなこと言わなくてもいいのに……。看護婦さんは気休めで言ってくれているのに。

なんて、看護婦さんに気遣いながら、痛みをこらえる。
ぐぐっと痛いので、ぐぐっと押さえつけられる。
薬剤師(?)研修医(?)らしき女性も呼ばれる。
「○○さん、足だけ持ってあげて!」
女性4人に押さえつけられた。有り難い(意味不明)ことである。

管を一度入れたら、失敗したらしい。別の管を通すこととなった。
「○○さん、××持ってきてー」
「××ですか……ちょっと待ってください。」なんて会話が……
なんだか段取りが悪い。手術するんだったら段取ってからにしてほしかった。

鏡で患部を見せられた。患部から管がこんにちは。
管の先から膿がポタ……ポタ……と落ちている。
見たくない風景だが、今現在すっかり慣れてしまった。
痛みも引いて、クッションをしてだが座れるようになった。有り難い有り難い。
いつになったら以前の生活が戻るのかな?

ショックだったのは、この手術では生命保険金がおりないこと。
なんでだー!病気を差別するなー!

 2006年5月31日(水)曇一時雨 大地主

またやってしまった。2回目である。先週末ぐらいから具合が悪く、
日曜日に引率で長時間自動車に乗っていたのも悪かったかな?
(十日町日帰り往復)
月曜日に痛み出した。夜は痛くて寝られない。
薬を買って試してみたが、全く効かない。
高校の時、担任の先生が「薬なんか買ってつけるよりも、
手術をした方がすぐに治るよ。」と言っていたのは本当だった。

実は3年前にも手術をした。
そのときは夏休みでもあったので、すぐに医者に行った。
今回は「授業を休めないな〜。」と思ったから薬を買った。
結局医者に行ったので、その薬は無駄になった。(約千円)

新潟市の○○科の医者はどこにあるかな?と思って
タウンページで調べて、一番大きな広告が目に入った。
ホームページもあるらしい。痛いのをこらえてアクセスしてみた。
「日帰り手術の流れ」なんていうのもあって、
「今はレーザーを使うから、痛みは伴わない。」なんて書いてあった。
そうかぁ、ここ数年で技術開発されたのかな?
なんて思って、開院前に着いた。
そうしたら、昭和40年台に作られたようなボロっとした建物だった。
「外側はこんなんでも、きっと中身は超近代化されているんだろう。」
と勝手な解釈で中に入った。
入り口はガタピシャしている。

中に入っても同じだった。
古びた待合室に、年代物のソファー。
医院なのに、今どき灰皿が置いてあった。(あれ?健康増進法は?)

呼ばれて中に入ったら、いかにも前時代的な消毒器具や、正目器具が置いてあった。
こんなんでも、開業医として続けられるんだから、
きっと腕はいいんだろうなぁ。と思って、気を確かに持っていた。
現れた医者はかなりのご高齢だった。
私の話す言葉があまり聞こえないらしく、何度も聞き返してくる。
それでいて、周りの看護師さんや、研修医らしき女性には
大きな声で「あれもってこい、ああしろ、こうしろ」と言う。
気はしっかりしているらしい。

さて、手術。案の定、レーザーメスではなかった。
かすかに期待していた私がバカだった。
そんな近代技術とは無縁の空間だった。
先週の山下達郎のサンデーソングブックで、手術時に頭の中で「ヘロン」が流れたという
ハガキが読まれた。だから私も「ヘロン」を思い出そうとしていたが、なかなか浮かんでこない。
結局ザ・ブルーハーツの「ロクデナシ」が流れていた。
 「〜痛いのは初めだけさ、慣れればあとは同じ……」てなのが。

3年前と同じ痛さだったので、3年前の医者と比べて
腕がいいのか悪いのかわからなかったが、
無事に終わった(のかな?)。
しかし、メス持っている途中で「あっ!」という大きな声を
出すのはやめてほしい!

今日は抜糸してきた。
まだ傷口が痛い。座れない。
あまりにもいい経験だったので、自分のクラスの授業で
この件を喋った。「きっとこの中の十数人は30過ぎると通る道だよ。」なんてね。

 2006年5月29日(月)曇り 風呂@

私が家に帰って先に風呂に入ったときは、長男には風呂を1人で入らせる。
以前は「一人で入る!」と言って、私を入れないときがあった。
その後一人で入れると、泣いて「一人だと寂しい〜」と私を呼んだ。

しかし最近は「一人で入りな」と言うと、「背中だけは洗ってね。」と言って、
当たり前のように入る。
「お泊まり保育が7月にあるんだから、一人で入れるようにしないとね。」
と言って、一人で入らせようとしていたが、
ここまで「当然一人で入る」と思われると寂しいところがある。
仕事から早く帰って一緒に風呂に入りたいと思う。

親というのは勝手なものだ。

 2006年5月25日(木)晴れ イッセー尾形の作り方 番外編

昨夜ワークショップに参加した人が集まって、同窓会を開いた。
会場に着く前、楽しみであったけれども、逃げ出したい気持ちもあった。
これはワークショップに参加する直前の気持ちと同じだ。
15分前くらいに会場入り口にいたんだけど、
ちょっとそこら辺をぐるっと回って、時間を潰したり……。
すぐに入ればいいのに……。不思議な行動。

2回目に入り口近くに行ったところ、参加者に呼び止められて、
一緒に入りました。

入ってみたら、見知った顔があった(当たり前)。
それでほっとした。
考えてみればメールでのやりとりは一部の人とはあったけれど、
ワークショップが終わってから会うのは初めてだった。
知っている顔が見えて「今までの逃げ出したかった気持ちは何だったんだろう?」
と思った。

その後は異常に盛り上がり、会は終了した。
次はあるのかな?もうないかな?

歳も職場も生活環境も
多種多様な人が出会って、7ヶ月も会わない人たちが
これだけ盛り上がれたのは、
「演劇を作りあげた」という目標を共有した同志だったからかな?

久しぶりに気持ちよく酔えた日でした。

 2006年5月24日(水)曇り 公開感謝状

昨日N先生に「新入生意識啓発講演会」の講師として
我が校に来ていただいた。
「最長1時間半」として、講演していただいた。
お話の内容は、きわどいものから、データを元にしたもの、
「高校生活は何をすべきなのか?」という核心をついたものだった。

正直いって、研究を元にした話の部分で睡眠状態に陥った生徒はちらほら見られたが、
初めの「きわどい話」と、「何をすべきか」という部分はほとんどが聞いていた。

N先生は「玉砕」とおっしゃっていらっしゃったが、
そうでもないと思う。講演後の質問では、
「関わり合う人数は多い方がいいのですか?」や、
「先生は高校ではどんな風に過ごしていましたか?」や、
「部活動はどんな風でしたか?」などの質問が出た。
それらに生徒は関心を持って聞いていた。

また、先生がおっしゃった「玉砕」の原因には
うちの学校の環境の悪さも起因している。
照明が暗い、OHPが暗い、スクリーンが小さい、雨が降る音がうるさく響くということもあった。
特に照明の暗さは何とかしてほしいといつも思っている。

講演後私のクラスに来ていただいた。自己紹介をN先生に対してするということをした。
そしたら先生が「片桐先生の授業の感想をひとこと付け加えて」という注文を出した。
「作文が多くて嫌だ」
「読書ができてよい」
「細かすぎる」
「放置(放任)主義だ」
「グループ学習が多い」
「嫌いだ」
などという意見が出た。本人を目の前に……とは思い、だんだん落ち込んでいったが、
本人を目の前にこれだけ言えるのはいいことなのかな?とも思った。
また、私を気遣っていいところなんとか見つけて言おうとする生徒もいて、
みんないい子どもたちばかりだなぁと思った。

N先生に来ていただけなければ、このように、子どもたちの授業に対する
意見を直接聞くことはできなかった。
そしてそれに対してN先生から手厚いフォローをしていただいた。
「片桐先生の目指しているものは○○○○なんだよ。」と。

ちょうど私が昨日子どもたちに語った内容を裏付けてくれるお話でもあった。
実に有り難かった。本当に感謝しています。

また機会があればよろしくお願いします。

 2006年5月15日(月)晴れ 自転車操業

いよいよ自転車操業に
明日は息子達の遠足に同行するために
サントピアワールドへ。
ということは試験が作れない!いつ作るのかな?

フォーラムの仕事も、思いついては文書を作り
メールを次から次へと流す状況になった。

ちょっと家庭訪問もしないといけない状況にも。

さて、どのように時間をひねり出そうか?

 2006年5月11日(木)雨のち晴れ 「やろうよ」と言ったから2

先日、グループに分かれての群読学習で、全く活動しない班があった。
1時間目はその時間帯何も交流しないように見えた。

2時間目テープ収録の時間にした。
どうなるかなぁ?と2年前と同じように見守っていた。
今回は2年前の失敗はしなかった。
2年前は全く交流しないグループに私が段取って、
活動させるように仕向けたが、結果的に失敗。
その後見守っていたら活動しだした。

今回は初めから見守っていた。
そうしたら、案の定、活動しだした。
テープに群読を収録した。
その後、テープにとった自分たちの群読を聞いて自己モニターしていた。
そしてしばらく何もしない時間が過ぎていた。

このまま終わりの時間を迎えるのかな?と思っていたら、
終了時間ぎりぎりから再収録しだしたのだ。
驚いた。いったい何があったんだろう?

当事者に質問してみた。
やはり

「やろうよ」と言ったから

という回答が返ってきた。2年前と同じだ。
しかも、どうして再収録したのか?と聞いたら、

自己モニターしたときに、声が全然大きくなかったことに
みんな気づいた。これではダメだということをみんなわかっていた。
そしてもう一度録ろうと言ったら、みんなが乗ってきた。

と言った。
活動が不十分だったとき、子ども自身は「これでいいんだ」なんて、
全く思ってはいないということを
再認識した。

 2006年5月9日(火)晴 帯に短し襷に……

夏の研修会の会場を探している。
一番いいのは学校なのだが、つてのある学校では工事があったりして
使用不可能だった。

新潟テルサを仮押さえしたが、
広い研修室が空いていない。また、安いようで細々と別のところに
お金がかかる。

それならばと昨年使った新潟ユニゾンプラザに電話をしてみたところ、
予定していた日は全て埋まっていた。残念。

県民会館も安くていいのだが、
やはりその日は埋まっていた。

ぽっと思い出した。県立図書館(新潟県立生涯推進学習センター)。
そういえばあそこにホールがあったと思って、調べてみたら、
100人収容の研修室もあった。
しかも非常に安い。
仮押さえしてしまった。

県の施設なので、少々融通が利かない部分もあるけど、
安いだけいいか。
ということで、夏の研修会はここになります。

 2006年4月28日(金)晴れ 恐いもの@

長男の行儀をよくさせるために今までいろんな「脅し」をしてきた。
とても小さな時は、「オバケ」
その次は「恐いおじさん」、そして「トリゴラス(絵本の中の想像上の怪物)」
最近は「電話をする」である。

なんで「電話をする」に長男が敏感なのかというと、
市から小学校就学事前相談の案内が来た。
その中に「食事にお手伝いが必要なお子さん」という項があった。
最近の長男は食事は遅いし、手遊びをしてよく箸や箸置きを落として行儀が悪い。

「それじゃあ、相談してみようか?」
と言うと、あわてて「しないで、しないで。」と言って行儀がよくなる。
でも、ちょっとするとまただらけてくる。

大きくなっているということを周りに認めてもらいたい気持ちが
強いんだな。きっと。

 2006年4月28日(金)晴れ ニコニコ

昨日LHRの時間、クラスの親睦のため、ゲームをした。
単純なゲームである。十数名で輪になり、
名前を言って、好きな食べ物を言う。
次の人はその人の好きな食べ物と名前を言う。
その次の人はそれまでの人の好きな食べ物と名前を言う。

盛り上がるネタと盛り上がらないネタがあったが、
私はそれを輪の外から見ていてニコニコしていた。
以前担任だった時の私は絶対そうじゃなかった。
輪の中に自分も入っていただろう。

西川研に2年間いた成果かな?

 2006年4月24日(月)雨のち晴れ ジェイいい人@

長男(5歳)が突然「ジェイいい人と悪い人」と言いだした。
なんだ?と思ったら、
「『ジェイイースト(J East)』と、『ジェイいい人』、似てるでしょ?
ぼくが考えたんだよ。」
といった。なんと、だじゃれを考えているじゃないか。

そういえばオールスターサッカーファン投票で、誰が1位になっているか
とか、アルビレックスはJ Eastだ
という話題になったことがある。

その語感をもとにしゃれを考えたらしい。
なんと、頼もしいじゃないか。
中学卒業後の進路は、桂歌助に弟子入りか?

 2006年4月19日(水)曇り 点滴とゴダイゴとTOTO

久しぶりに内科にいったら「溶連菌感染」だって。
すかさず点滴をうった。点滴を打つと即座に治るそうだ。
抗生物質の点滴なのかな?案の定熱がひいた。
その後飲み会であった。点滴打って飲み会に出るなんて……と自分でもあきれる。
でもまだ扁桃腺は腫れている。

ゴダイゴが聞きたくなった。アマゾンで買った。
94年発売のCDだった。
10年以上前の曲だが、やはりいい。当時聞いていたときもよかったが、
今聞いても古臭くない。いいものはいい。
この良さは決して「むかしのおんがくはいいな〜」とか、
「これを聞いていた時はよかったな〜」というものではない。
いい音楽はいつ聞いてもよい。

Jリーグの前節、TOTOのはずれが2つだった。
1年以上買い続けているが、これだけあたったのは初めてだ。
昨シーズンまでは2つはずれは3等でいくらか返金が来たが、
今シーズンは当たりは2等までになった。残念。
やっぱりガンバの勝利に賭ければよかった。
1等当てて住宅ローンの返済に充てるぞ!

 2006年4月17日(月)晴れ 熱が出た@

やはり長男は熱が出た。
土曜日晴れたと思っても冷たい風の中、アルビ応援のために
1日中外に出ていたせいもあるのかもしれない。
日曜日、「クレヨンしんちゃん」の映画を見たあと39度超の熱が出た。

カミさんも私も微熱気味
元気なのはもうすでに熱が下がった次男のみ。
担任生活はなかなか大変である。

アルビリーグ戦2連勝だけが心の支えだなぁ。

 2006年4月14日(金)雨のち晴れ 1週間終了

長い長い1週間が終わる。
その間、次男は熱を出し、長男は寝るときに「パパ」と言って抱きついてきた。
次男は熱が下がったと思って、今日保育園にあずけたが、
39度の熱を出したと連絡が来た。

長男は私のことを普段は「おとうさん」と呼んでいるが、
なぜか昨夜に限り「パパ」と言って、すり寄ってきた。

2人とも無理をしてもらっている。
夫婦も1年担任で無理をしているところがある。
人の子どもの面倒を見るのに、自分の子どもに無理をしてもらっている。
矛盾を感じるが、お金を稼ぐためにそうせざるを得ないのが
経済なのかな。

「先生にもってもらいたかった。」と言ってくれたり、
「え、本当に先生なんですか?」とうれしがる生徒の顔を見ると
少しは救われる。
あ、もちろん、あからさまに嫌な顔をする生徒もいますよ。

 2006年4月12日(水)晴れ イタリアン

今日は天気がよいのでもうひとつ。

新潟市内には「イタリアン」なる珍味がある。
新潟市民なら、知らない人はいない焼きそばのような、パスタのような、
焼きうどんのようなものである。
それがビッグスワンで発売されるようになって、市外勢にもメジャーになってきた。

と思ったら、私の近所の新潟駅にあった売店が姿を消してしまった。
けっこう売れていたと思うんだけど、あの場所。
新潟市に引っ越してきてからの2年間、月に1度以上のペースで
土・日のお昼をそれにしていた。
今度はどこに買いに行けばよいのだー!

別の売店だと自動車で行かなければならないし、
しかも、けっこうできあがるまで時間がかかる。
そこまでして買いに行こうとも思わないくらいの「珍味」です。
でもむしょうに食べたくなる「珍味」です。

一番身近な売店はビッグスワンになってしまった……。

別の話だが、
小針あたりに「ラーメンたかの」という店があって、
「ナポリカン」というのを売っていた。「タ」じゃなくて、「カ」ですよ。あやしい!
これは「イタリアン」と同じようなものだけど、
「イタリアン」の麺を1.5倍の太さにしたようなもの。
これもおいしかった(当時)。高校時代はよく食べた。
今も売っているのかな?

 2006年4月12日(水)晴れ 開花

新潟市は桜がようやく咲き始めた。
三条市はまだまだだ。気温がちょっと違うんだろうなぁ。

私の授業がようやく始まった。
1年担任はLHRや、全体行事が多いから
2日間は特別時間割で授業が外れている。
今日から授業だ。

ほっとした。授業でほっとできるなんて幸せなのかどうなのか……。
そろそろペースを取り戻したいが、
まだまだ作らねばならぬ文書がある。
久しぶりの担任だから、忘れていることが多すぎる。

 2006年4月11日(火)曇り 4年ぶりの担任

いやぁ、担任の仕事ってこんなんだったかな?
4年ぶりなので全くペースが掴めない。
1年生をもったのは7年ぶりだ。
7年前は何でもかんでも自分でしようとして大変だったけど、
今は、どうやって軌道に乗せようか?と思っている
軌道に乗ったら後はみんなに任せるだけ……になるかな?
楽しみでもある。

なかなか更新ができなくなったけど、
頻繁に更新ができるようになったら、軌道に乗ったということかな?

 2006年4月5日(水)雨 入園式@

昨日は次男の入園式だった。
長男と同じ保育園に通えて幸せだ。
長男が転園したときにも入園式に出た。
そのとき保育士さん達は保護者や新入園児に
安心して通ってもらえるようにレクリエーションとして
モーニング娘。の曲で踊ってくれていた。
あの時のイメージが強烈だった。

今年はモーニング娘。はなかったけれど、
ニコニコして歌ったり踊ったりしてくれた。
カミさんは明日、私は明後日新入生を迎える。
見習わなきゃなぁ。
でも私は歌も踊りもできません。残念。

 2006年4月3日(月)雨のち曇り 肉体労働

担任の仕事は肉体労働だと実感した。
今日はロッカーの搬入日。ついでだから使用に耐えない机を
新しいものに替えた。

廊下の端から端まで机を2つずつ持ってなん往復もした。
腕に疲労感が……。
しかし、日々力仕事をしていないのがありありと分かる。

床や廊下や戸を水拭きしたり、すすを払った。
新入生なのに、こんな汚い教室で迎えなければならない。
私が新入生の親だったらがっかりするなぁ。
少し華やかな教室にしたいと思っているけど、
どうしたらよいかなぁ?と考えるのも楽しい担任の仕事。

担任日記(非公式)はこちら


Atnet Japan!の素材を利用しています。