僕とスピセクの歩み

自己紹介に書いている時代順に書いています。

 船出編

 僕が一回生の時、龍大のスピセクはいろんな意味でやばかった。例えば大会に出た事が無い人がいました。別に特別な事を教えている事ではなくこのセクションを盛り立てて行こうなど誰一人思っていなかったような気がします。うちのESS内ではドラマとかディベの落ちこぼれの逃げ道とまで言われたほどほどだった。現に僕も志望動機の欄に”何となく”書いているぐらいでした。スピ−チ大会に出場することは消極的というよりもエリミに出しても誰一人通過する人はいませんでした。ぶちゃけた話一年たったら僕は辞めようと思っていたました。しかし、とある(*1)関西で有名な大会を見学したことでその考えが変わりました。世の中にこんな奴等がいたのかとビックリしました。またスピ−チを極めれば英語が上達するんだなぁという事がわかりました。さらにスピ−チ大会に出場したことでスピ−チが終った後の充実感が癖になったみたいで今思うとどうやらスピ−チが好きになってしまったようです。
*1これは末川杯です。めちゃめちゃ出場したかったが予選落ちてしまった
ア−−悔しい!!

外交編

 スピ−チ好きになってしまった私はどうせやるなら”日本一“になってやる〜と思うわけです。なんて単純なんでしょう!!そう思ったもう一つの理由は10年ぐらい前ディベが日本でNo.3まで伸し上がったのだから日本一になれないはずが無い!!と思ったのです。そこでどうすればスピ−チが上手くなるんだろう!!と考えました。考えた結果スピ−チの理論と技術が無いことに気付きました。スピ−チの専門の技術を知っているセク員がいないのでわからないことがあったら他大学から学ぼうと思い積極的にスピ−チ大会に出場して(*2)写真外交(和歌山大学からやってました)を初めてわけです。後にこれはセクションを運営する時にかなり役に立ちました。
(*2)渉外日記を参照して下さい。

大外交時代(真冬の時代

 この時期僕は4代目スピセクチ−フに就任しました。やっと僕にスピセクの梶を握る事ができました。方針はスピ−チの楽しさを知ろうまた他大学と積極的に交流しよう!!でした。まず初めにしたことはエリミを通す実力をつけるように教育することでした。
 そこで私は一回生を集めてスピ−チの講習会をしました。不思議なことに今まで先輩方はLogicしか見てくれなかったのです。一回生の時書き方がわからなくて苦労したので僕がわざわざ集めてスピ−チの書き方を教えました。
 その次に今までスピコンの出場は申請で決めていました。つまり出たくなかったら申請しなくても良いのです。それを強制にしました。なぜそうしたかというとスピ−チで一番楽しいのは大会に出ることだと思ったからです。スピ−チの楽しさをわかってもらえたら絶対に率先してスピコンでようとするし!!そういう人たちがいればみんなも大会に出ようという雰囲気が作れて龍大スピセクもレベルアップすると思ったからです。スピコンに出ると他大学の友達が出来てまた楽しくなってスピ−チセクションを引き継いでくれると思ったからです。だから必死でエリミの無い大会を探しました。とある大会では一週間前にも関わらず無理言って出してくれました。ほんとあの時必死で外交した事が身になった瞬間でした。
 しかし、情けないことにこの頃僕はスピ−チ大会のエリミ全部落ちてしまいました。チ−フとしてとても情けないことです。自分がスピコンに出ろ出ろと言ってるにも関わらずどこも出られって本当に苦しい時期でしたが、関西の有名な大会を見に行ったことでいろんな人に出会いまたエクステ素晴らしさわかりスピ−チの色々な技術を学んできました。これは今思えばチ−フやスピ−カ−としてかなり良い経験になりました。

遠征時代

この時期セク員は中だるみの時期でした。そこでは僕はインナ―大会(木下杯)を開くことを決めました。その理由はセクションの雰囲気がスピ−チを書きたくないと言う雰囲気があったからです。それと春の大会に出すために強制出場の大会を作ってスピ−チを書かせるためもありました。この大会がスピセクの転機なりました。思っていない効果が出たのです。大会が終った後何故かセク員はやる気出て来ました。あるセク員はメモライが出来なかったら散々な結果になることを実感して反省している者などが出てきたのです。僕は本当にビックリしました。多分ジャッジが良かったのでしょう!!
 さらに一番上に立つ者が雰囲気を一気に変えることもわかりました。セク員のエクステ嫌いを治すために関西KIEF大会に出ました。そして見に来させてエクステの素晴らしさをわかってもらいました。また、
僕はいつも関東の大会に出ろと言ってました。小川杯に出ることが決まったことで関東でスピ−チするぞ!!という雰囲気が出て来まし。これは僕が目標にしていたことに近づいてきました。この頃からスピセクは変わったなぁとインナ―から言われ始めました。

大遠征時代

夏に代が替わり後輩のケア―をしていました。つきに2回ぐらい関東でスピ−チしてました。そんな中家のスピセクに誰もが予想だにしなかった一報が入りました。それは大隈杯出場です。この出来事でセク員みんなが”日本一”を意識するようになりました。最近では来年も大隈杯に行くぞ!!と言う奴も現れる始末です。

最後に

 僕は日本一のスピ−カ−にはなれませんでした。しかしそれに向かって努力したことは無駄ではありません!!普通の大学生では味わえない物を経験しました。どんな環境にあろうとも努力し続けたらいずれは叶うと思います。結論は僕ってスピ−チバカだなぁ!!