| 能登出身もうひとりの阿武松(阿武松和助)

阿武松緑之助
〜江戸時代の能登出身横綱〜

寛政12年(1800)  横綱阿武松緑之助は、鳳至郡鵜川村七見(現・能都町七見(しつみ))の漁師・仁兵衛の子、幼名・長吉として生まれた。長吉は体力が抜群であったという。父の仁兵衛は、貧しく馬子を業ともしていたと言われる。
文化12年(1815)  江戸に出て、柳屋の蒟蒻屋に下男として奉公する。
 まもなく同じ能登出身で観世新道の力士・武隈文右衛門のもとに弟子入りし小車(おぐるま)というしこ名をもらった。一時期、技の磨きの上達が進まずスランプに陥る。いったんは帰郷しようと思うが、江戸に残り、根津七軒町の錣山(しころやま)喜平治の門に入って小緑を名乗り、努力を重ねた。
同年冬 冬場所、小柳と改名、はじめて東方序の口に張り出される
文化13年(1816)2月 西方序の口2段15枚目
同年10月 西方序の口3段目尻
文化14年(1817)正月 西方序の口16枚目
同年10月 西方序の口6枚目
文化15年(1818)2月 西方序の口3枚目
同年10月 西方序の口2枚目
文政2年(1819) 西方序の口2段目17枚目
文政3年(1820)2月 西方序の口2段目15枚目
同年10月 西方序の口2段目10枚目 
文政4年(1821) 東方序の口2段目7枚目
文政5年(1822) 東方序の口2段目2枚目
同年5月 東小結手柄山・戸田川を破り、玉川、千年川と引き分け入幕。
同年7月 大関四賀峰を破る。
同年10月 東前頭7枚目。大関玉垣、関脇岩見潟、前頭5枚目の玉川に破れたが、小結四賀峰、幕内千年川、越戸以下に勝越3番。6勝3敗1分
文政6年(1823)3月 東前頭5枚目。7日の興行中、四賀峰・千年川に破れたが、大関玉垣、2枚目の音羽山に勝越。4勝2敗1無。
同年10月 東前頭2枚目。玉垣・千年川に破れ、関脇岩見潟と引分けの他7日間連勝。7勝2敗1分。
文政7年(1824)正月 東前頭2枚目。稲妻(後年、阿武松につぐ4代目横綱となる)に破れた他は圧勝。8勝1敗1休。
同年10月 東小結。稲妻・箕島に敗れたが勝越。6勝2敗2休。
文政8年(1825)正月 東小結。稲妻、四賀峰を破り、高砂、戸田川に破れる。8勝2敗。
同年夏 平河天神の勧進相撲に稲妻を破る。
同年10月 東関脇となり、5日間健勝。6勝2敗2休。
文政9年(1826)正月 東関脇。5勝1敗1預3休。
同年10月 東大関。稲妻と引分け、全勝(8勝1分1休)。
文政10年(1827)3月 東大関。阿武松緑之助と改名。阿武松の名は萩藩主 毛利 斉熙が萩の名勝「阿武の松原」に因んで命名した。
4勝1敗1預1休。
同年11月 東大関。6勝
文政11年(1828)2月 吉田司家から横綱を免許。
同年3月 東横綱。3勝3敗1預2休。
同年10月 東横綱。7勝1敗2休。
文政12年(1828)2月 東横綱。5勝1分1休。
同年10月 東横綱。6勝2分1預1休。
文政13年(1829)3月 東横綱。7勝1敗1預1休。
同年3月25日 江戸吹上御殿で行われた将軍・家斉上覧相撲で稲妻と対戦し「巻き返し」で勝ったことが「家斉年表」や『甲子夜話』に記録されている。
同年11月 東横綱。3勝1敗2預4休。
天保2年(1831)2月 東横綱。4勝2分4休。
同年9月6日 故郷に錦を飾る。金沢城下では、阿武松を一目見ようと群集が押しかけ、相撲興行の行われる浅野川河原は人で埋まったといわれています。
同年11月 東横綱。3勝5休。
天保3年(1832)閏11月 東横綱。7勝1敗1分1休。
天保4年(1833)2月 東横綱。5勝4分1休。
同年11月 東横綱。2勝2敗3分1預
天保5(1834)年正月 東横綱。6勝1敗2分1休。
同年11月 東横綱。5勝3敗1分1休。
天保6年(1835)正月 東横綱。7勝2分1休。
同年10月 東横綱。4勝2敗2分2休。
天保6年(1835) 45歳で大関を弟子の小柳常吉(長吉ともいう)に譲って引退。年寄となった。横綱の在位は8年であった。
通算 26場所 142勝31敗24分8預1無37休。優勝5回。
嘉永4年(1851)12月29日 61歳で歿す。法名常建院法鷲月山居士、墓は深川区日蓮宗平野町浄心寺内玉泉寺にある。
表は、鳳至郡鵜川村役場『阿武松緑之助』、「加賀能登史跡散歩ー地方史の支店ー」(田中喜男著・北國出版社)や日本大相撲協会のデータなどから
 上記の表に書いてないですが、人気の出てきた小柳(後の阿武松)は、文政2年4月〜 3年10月は盛岡藩の抱えとなり、7年(1824)の正月以降は長州藩主・毛利斉熙のお抱え力士となり、50俵の扶持米を給されました。四壁庵茂蔦は、彼のことを「豊殿下の卑賤より起りて即闕の官位に任ぜられ給ひしに似」、しかも「角道始まりてまだかくの如き出世を聞かず」と賞賛しているように当時の相撲好きの江戸っ子の人気を一身に集め、その巨体は錦絵にも描かれ、一世風靡しました。後ほど書きますが落語や講談にも彼の出世話が取上げられたほどでした。

 天保2年の故郷に錦を飾った時の様子を記録したものも残っています。
「能州出生相撲取阿武松と申者、他国において仕上、弟子同道生国へまかりこし候。」(毎日書抜帳)
「当秋軽き者共取続之為之由にて、本締仕る者これあり、浅野川河原に而して角力興行あり。日本大関阿武松、次に緋縅力弥等参り大角力これある也。」(年々珍敷事留)

 このあと故郷の能登・七見へ帰り鎮守の白山神社境内で土俵入りを披露したといわれ、この時、村へ配った朱杯と横綱の幣一片が子孫の佐々木平松氏に伝わっているといいます。
 阿武松緑之助は、身長5尺8寸(176cm)、体重37貫(138.7kg)。北陸生まれのせいか肌は白くて肥満型、力が籠もると満身に朱を注いだ様になりました。今の出島(金沢出身)のような綺麗な肌だったのかもしれません。技に巧みで、取りこぼしが少なかったといいます。

 慎重な取り口なので立合いに待ったが多く、文政13年の上覧相撲でも7代目横綱の稲妻雷五郎に再三「待った」をして、じらして勝ったことが有名になりました。落語にも「ひと仕事をして戻ってみると、まだ仕切直しをしていた」というのがある。このため市中では、何かの用事で長く待たされるようなことがあると、「阿武松でもあるめぇし」と言うのが流行語になったほどでした。

 平戸の城主松浦静山は、「実に今の相撲は古法にあらず、既に寛政度に大関小野川、谷川の勝負を行事吉田追風の小野川は気負と称し谷風勝となりたり、これ小野川待ったと言しゆゑとぞ、文政十三年夏の上覧には大関阿武松、稲妻立合の時、行事木村庄之助なりしが稲妻は直に立合たるに阿武松待てと云て 右ゆゑ再び立合ひ稲妻負たりしを、御前にても御気色よからざりしと内外の取沙汰なりし、何にも下れる世の風にや」(「甲子夜話続編」巻四十一)と阿武松の取組みの姿勢を批判しています。

 しかしながら、相手の稲妻雷五郎は西の大関で、体格は今の寸法でいうと身長約2m、体重157.5kgあったといいます。ただでさえ日本人の平均身長が小さかった江戸時代にあっては、巨人というか化け物というしかありません。稲妻の次位にあって得意の“鉄砲突き”を封じられた程の「古今無双の大力」関脇緋縅力弥も、稲妻に敵わず大関たるを得なかったほどのこの「天下無双横綱免許の力士」(四壁庵茂蔦「わすれのこり」)を相手に勝つことは極めて至難でありました。

 だからこそ阿武松は非難を覚悟の上で「待った」をかけ、相手の気力を削いで勝負に徹し勝を得たのです。こうしたことから阿武松の相撲は相手に応じ工夫するという頭を使った相撲ともいうべきもので、松浦静山のようjな非難があったにしても、非難することはできないと思います。
 
 実際、こんな相撲をとった阿武松でありますが、江戸庶民の人気は非常に高く、彼の出世は、落語の噺にもなりました。6代目三遊亭円生が語る古典落語の噺「阿武松(おおのまつ)」の録音が残っていますが、阿武松の当時の人気の程がわかります。少し粗筋を紹介しましょう。 

 長吉という若者が、能登の国鳳至群七海村から江戸へ出てきて、京橋の観世新道(かんぜじんみち)の武隈文右衛門という関取のもとへ、が名主の紹介状を携えてやってきました。武隈文右衛門も能登の出身だからです。弟子入りした長吉は、小車(おぐるま)というしこ名を貰います。しかし、物凄い大飯ぐらいのため、おかみさんが驚き、暇を出してしまった方がいいと武隈に訴えました。小車は一分の金を持たされ破門されてしいます。生国能登に帰る道中、戸田の渡しで身投げしようと思いますが、貰った1分の金を生かすつもりで板橋の平尾宿へ戻り、橘屋善兵衛の旅籠に泊まります。これが今生の飯の食い納めと、普段以上の大食いの様です。

 善右衛門は、余りにも食いっぷりの良さに感心し、事情を聞くと、同情して新しい親方を紹介してやろうと言い、翌朝出かけます。巣鴨の庚申塚を抜け、本郷追分けを通り、根津七軒町の親方、錣(しころ)山喜平次の所に改めて入門し、錣山の出世名・小緑のしこ名を貰います。その後、彼は死んだつもりで努力し、驚くほど早い出世を遂げ、入幕して小柳長吉と改名します。文政五年、蔵前八幡の大相撲で元の師匠武隈とのわりが出て、おまんまの敵と対峙。この取り組みが、長州侯の目にとまり阿武松と改名、六代目の名横綱になる。」というめでためでたの噺で、阿武松の人柄を愛でる江戸っ子の気持ちが窺がえます。しかし、これは勿論作り話で実際とはかなり違います(師匠の武隈は阿武松が入門した文化2年に引退していました)。

 落語以外にも、阿武松には、こんなエピソードは他にもあります。
 或時、阿武松は、江戸の長州藩邸で相撲を家来達と取っていました。彼は長州藩の家臣が怪我しないように手加減してとりました。しかしそのように手加減しても勝つ阿武松の姿が、毛利 斉熙公は、面白くありません。彼を呼び、仕切りながら「お前が負けるのじゃ」と命令されたが、彼は承知しませんでした。そこで斉熙公は「100両の褒美を遣わす」と言うと、彼は承知して負けました。しかし、そののちしばらく日々が過ぎても何の沙汰もありません。

 不思議に思って藩邸を訪ね、斉熙に訊ねると「100両で負けろと申したのは、余の手じゃ」と高笑いされた、という話です。彼は歌舞伎の中村 歌右衛門とも交友がりましたが、歌右衛門は少し長躯だったので気遣って、 2人が並んで歩く時は歌右衛門は常に雪駄を用いたといわれています。長州では、博多織の一種で大変に強い帯が、彼に肖って「小柳帯」と命名されて婦人の間で大流行したと言われています。
西光寺にある阿武松の墓
 彼は、色々と批判されたりもしましたが、人格者であったと言われています。『阿武松緑之助』(鳳至郡鵜川村役場)も「寛厚の長者」の風格を持っていたと書いています。
 阿武松は、幕末のペリー来航の2年前(嘉永4年)に亡くなり深川の玉泉寺に葬られますが、安政2年(1855)10月、武隈文右衛門・勇島磯吉・千賀ノ浦庄吉らによって金沢市寺町4丁目の立像寺に分骨し、玉泉寺の墓と同じ大きさの戸室石で墓石が建てられました。

 武隈文右衛門は、師であり、小柳常吉は天保6年(1835)に阿武松から大関を譲られた長吉であろう。また、昭和11年8月、出身地鵜川村の決議によって鵜川港の海底から引き揚げた高さ4.5mの自然石に毛利元昭氏が「横綱阿武松碑」と書いた顕彰碑を七見に建立した。珠洲市正院町にも石碑があるそうですが、由緒は明らかではありません。
 七尾にも、小丸山第二公園下西光寺の境内に、土俵に軍配を立てた一風変わった阿武松の墓があります。