前田利家七尾入城以降〜廃藩置県

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1.利家七尾入城から関ヶ原の戦いまで 2.江戸初期から元禄以前まで
3.江戸中期(元禄から文化文政の時代 3.幕末から明治維新

(2000年9月1日一部加筆修正)
(注意:ここでは前田利家個人についてはあまり詳しく書きません。詳細を知りたい人はココをクリックしてください

1)利家七尾入城から関ヶ原の戦いまで

天正9年(1581)8月前田利家は、能登一国を与えられて七尾城に入る。
天正10年(1582)前田利家は、港に近い所口村明神野に新たに小丸山を築いた。築城と同時に七尾城下の町人が呼び寄せられ、運送業者・造船業者・猟漁者、檜物・塗師などの職人も集まって町を作った。
(小丸山築城の特色)
・住民の生業を妨げないことに大いに気を配った。
・中居から鋳物を徴したり、穴水には材木の採集、輸送を命じたり、中世以来の地域的特産物に目をつけ、その集中的利用を図った。
・新城下の町民達の全面的協力をうけていたことがわかる。
天正11年(1583)年4月
柴田勝家に与(くみ)し、賤ヶ岳で羽柴秀吉と戦って敗れた前田利家は、秀吉の勧誘により、降伏し先鋒として金沢へ進撃、26日犀川河口の宮越湊に到着し、宮越の地侍中村主計(かずえ)の先導で金沢城へ進んだ。城主の佐久間盛政は既に場外で逮捕されており、城は盛政の部下により守備されていたが、27日無血入開城し、28日には秀吉が入場した。利家は戦功によって能登23万石を安堵され、新たに加賀の石川・河北の2郡を与えられて能登府中城(小丸山城)から金沢城に入った。小丸山城には、利家の兄の安勝を城代として入れ、越中の佐々(さっさ)成正、越後の上杉景勝、領内の一向宗寺院・門徒に備えた。
天正12年(1584)
佐々成政(さっさなりまさ)が、秀吉に背いて、羽咋郡末盛城へ攻め込んできた。この時、末盛城を守っていた奥村永徳(ながとみ)らの奮戦によって、成政は敗走し、利家が勝利をおさめた。この戦いで、安勝は、その子利好(としよし)とともに、すばやく成政方の鹿島郡勝山城(鹿島町芹川)を攻めて手柄をたてた。
天正14年(1586)7月七尾魚町の特権を認め、魚町以外での魚の売買を禁じ、違反者には成敗を加えるとした。
天正15年(1587) 秀吉は、成政征伐の功により、利家に越中の礪波・射水の2郡を与えた。これにより利家は、越中・能登・加賀の3国を治める百万石の大名となる。
文禄3年(1564)5月 小丸山城城代・前田安勝が死亡し、子の利好が城代となる
文禄5年(1596)4月
前田利家は、三輪藤兵衛吉宗、大井久兵衛直泰(ただやす)に対して、府中城下町(所口町)経営について子細な指示を与えている(七尾町定書)。それは、寛文年間に輪島、飯田、宇出津、中居に所口町奉行補佐の小代官1人〜2人を配置したように、所口町の役割は能登全域における商 品生産の集荷拠点であったことを示すものであり、ここに所口町の領内における都市的機能があった。

<七尾町定書>の内容は次の通り

一、府中の蔵や新しく建てた門などに、屋根のふき板が必要であれば、五百でも千でも作れ。奉行を派遣して念を入れよ。

一、町に奉公人がずっと家を借りて住んではならない。但し、しばらく宿を借りるということなら良い。

一、七尾城山の林を伐ってはならない。

一、道奉行は、山、道、橋、植木まで念入りに申し付けよ。人数が足りない時は送るから、油断なく申しつけよ。

一、河原町など、都合のよいように見計らって町をたてさせよ。

一、藤橋村は明神野にたてさせよ。

一、府中のほり道町は、本かじや町にたてさせよ。

一、串海鼠は、いつもの年と同じように捕っておけ。

一、炭千俵と塩二百俵を、敦賀まで送れ。

一、塩千俵を宮越(金石)まで送れ。これは尾山城中(金沢)へ取り寄せて使用する。

文録五年四月十五日 筑前(利家)より

藤兵衛(吉宗)へ

久兵衛(直泰)へ

慶長4年(1599)閏3月3日
前田利家大阪で病死。小丸山城は、利家の次男利政の所領となる
慶長5年(1600)3月

(上杉景勝が石田三成とはかり陸奥会津城の西辺に軍を備えたことを、上杉氏の旧領越後に封ぜられ春日山にあった堀秀治が家康に知らせた。家康は景勝の非を唱え、諸大名に対し会津征討令を発し、自ら関東に向かった。その後、石田三成も大坂において有力大名らと家康弾劾状を発して兵を挙げた。)石田方は、毛利輝元・宇喜多秀家より金沢城の前田利長に対して西軍加盟を求めたが、利長はこれを断った。ついで、徳川家康より、利長に対し西軍加盟の北陸諸城の攻略を 命じてきた。利長は命に応じて、大聖寺城の戦い(山口宗長父子との戦い)浅井畷(アサイナワテ)の戦い(丹羽長重との戦い)で戦勝し、功をあげる。それに対して、
弟の利政(七尾城主)は、大聖寺の石田方・山口宗永を攻め落とすところまで、利政とともに参戦したが、関ヶ原の戦いに参加する事を拒否した
同年10月17日前田利長のその戦功に対して、山口宗長の江沼郡、丹羽長重の能美郡(白山下を除く)、石川郡松任、利政の能登所領などを、旧領と併せもつ事となった(この時小丸山城代として利好が入る)。利長は119万2760石(寛文11年朱印状)の大大名になった。その年、利長は、藩主の地位を弟の利常(3代目藩主)に譲り、越中中新川郡22万石を隠居領として富山城に移った。

2)江戸初期から元禄以前まで
慶長15年(1610)
小丸山城城代・前田利好が死亡、ついで利家の三男知好が城代として入城。
元和2年(1616)

小丸山城城代・前田知好は、大阪陣での恩賞を不満として出奔した(京都へ去る)。前年の一国一城令もあって、小丸山城はそのまま廃城となった。以後、今まで、城代が行ってきた仕事はすべて七尾町奉行が引き継ぐことになり、町奉行所は小丸山の地内(現・馬出町・裁判所の位置と思われる)に置かれた。
元和2年(1616)
最も古い府中町や城の正面に成立した大手町、米問屋の集まった米町をはじめ、同業商人の豆腐町(生駒町)竹町(三島)・味噌屋町(亀山町)鍛冶町・運送業者の馬喰町、他に新町(阿良町)一本杉町かわや町(木町)魚町中小池町(相生町)川原町檜物町作事町大工町(橘町)塗師町の計18町が成立した。
元和6年(1620)
利常、府中四十物船役を定める。また、利常、麻生・佐味・殿・小池河原・多根ころさ・半屋野村などへの検地状を渡す。
寛永2年利常、小池河原へ新開検地状、畠直し検地状を渡す。
寛永10年 江泊村、端の網、古島網の定を作る。前田利政、京都で没す。巡見上使桑山左衛門来る。
寛永11年藩は、金沢の孫十郎に和倉の湯賃運上銀の領収書を与える。
寛永年間 酒造業は101軒。
明暦年間 酒の生産高は、5725石にものぼり、その販路は北は松前(北海道)から南は赤間関(下関)までに至った。
寛永13年(1636)画人長谷川等誉死去。
寛永16年(1639)藩は、船で御蔵米を大阪へ直送することを試みた。
寛永18年(1641)七尾町奉行石黒覚左衛門、和倉温泉を修築し、湯島を作る。
正保4年(1647)船による大阪登米(大阪で米を売りさばくこと)が開始された。
承応3年(1654)町夫が3400人と定められた利常、府中町の小物成銀、地子銀を定める。藩、家中給人に示された蔵宿選定の印判状を七尾町中へ達する。
明暦2年(1656)
(3代藩主)前田利常は、5代藩主前田綱紀の代わりに政治を行っていたが、この年以前から準備試行していた、改作法を完成させた。

<改作法>の内容は次の通り

○検地を行って田の良し悪し、広さを調べ、同時に隠し田も取り調べる。

○検地の結果、米の取れ高に応じた年貢の率を決め、農民から毎年決まった年貢を取りたてる。

○貧しい百姓に働く生き甲斐を持たせ、大いに新田開発をすすめる。

○藩の家臣が、直接百姓から年貢米を取るのをやめ、百姓は年貢を直接藩に納め、藩から家臣へ米やお金を給与する。

改作法は、貧しい百姓を助ける一方で、決まった年貢を確実に取りたてるということで、農民から税を搾り取るという面を持っていた。
(参考:税体系について)
改作法によって、草高(米の取れ高)(年貢の率)、それに小物成(米以外にかけられる税)などを書いた、藩主の捺印がある書類を「村御印」という。村御印は、承応3年(1654)、明暦元年(1655)、明暦2年、寛文10年(1670)と4回出されている。各村とも、定納米百石につき、百四十目の夫銀(ぶぎん)(藩の仕事の人夫なって働くかわりに銀で納める税)、一石につき一斗一升二合の口米(くちまい)(年貢を集める役人の事務経費)を納めることになっており、他に小物成があった。この年、また七尾の町夫が3600人と定められた
寛文2年(1662)所口町奉行に蔵宿定書が下附される。

寛文5年(1665)道閑事件(浦野事件)に対して浦野一党に組した十村に所磔または刎首を命じ、その他の者も追放、入牢などの刑を受けた。詳しい事は「道閑と宗閑」(浦野事件)のページがあるので、興味のある人はココをしてください!
寛文6年(1666)
藩、御用宿につき、定を申し渡す。
改作法後のこの年には所口町の戸数1428軒、人口7473人であった。(この数は、あくまで町民で、武士・神社の神官・僧侶は含まれていないと思われる。

寛文6年(1666)藩、難破船助力の報酬を定める。藩、村御印を改め、明暦2年のものと交換する。
寛文11年(1671)
多根村、藩に対し石動山との境界につき返答書を出す。藩、長領の鹿島半郡と藩内の散在地を交換させる。村肝煎、藩へ阿弥陀起請文を出す。
延宝2年(1674)
多根村、十村へ石動山の乱暴を訴える。湧浦を改めて和倉とする。道奉行が廃しされ、道修繕は十村の仕事となる。
延宝4年(1676)藩、七尾町奉行へその勤方を申し付ける
延宝5年(1677)藩、口郡へ鹿追禁止令を出す。藩、七尾における馬荷物などの条々を定める。阿羅加志神社拝殿が造立される。
延宝7年(1679)
山崎村・東浜村両村の領境定書を作る。藩、長氏旧領の能登藩郡の諸村へ村御印を頒つ。国下村、藩へ洪水被害を求める。
延宝9年(1681)
庵村枝郷、清水平、柑子山、外林、槇山、小栗は独立し、土方雄賀領となる。
天和3年(1683)藩、町人の服装矯正令を出す。
貞享元年(1684)
宮崎彦九郎義一、西光寺・海門寺・長寿寺などの梵鐘を作る。大阪屋九郎衛門など、気多本宮へ石造狛犬を寄進する。
加賀藩領の中に散在していた土方雄賀領が、幕府に没収されて天領となる
<七尾の天領の推移について知りたい方は、ココをクリックしてください!>
享4年(1687)幕府生類憐みの令を出す
貞享5年(1688)千野村、国下村山役銀を報告する。

3)江戸中期(元禄から文化文政の時代)
元禄の世5代藩主綱紀(つなのり)は、武芸に打ち込み学問を好んだが、藩士たちの間にも文武両道を奨励した。そして、各地から学者(林羅山、木下順庵、室鳩巣、稲若水、雨森芳州など)を招き、古今の書物も収集し、「加賀は天下の書府」と言われた。元禄の世は、貨幣中心の経済社会となり、町民は活発に活動していたが、藩の経営は苦しく、家臣の生活は次第に困窮していった。
元禄4年(1691)藩、盗賊改方の職を設ける
寛文12年に、西廻航路が開かれてから、瀬戸内海廻りの上方行きの船が急増し、藩でも、船による大阪登米が急増し、この年には23万石に達した。
元禄5年(1692) 藩、能登一向宗泣念仏禁止令を出す。
元禄6年(1693)
藩が百姓の持ち高(持っている田)の売買を認める「切高仕法」のお触れを出す。これは、この頃、改作法によって、年貢の率は固定する一方で、貧しい百姓に米を貸し与える制度が滞っていたため、百姓同志の貸借が増えており、実状にそった触れを出した。これにより、土地を失った百姓は一層増加した。
元禄13年(1700)能登郡を鹿島郡と称える事となる。
元禄15年(1702)藩、七尾を所口を称えることに定める
宝永5年(1708)八幡・下村両村、地境を定める。
正徳3年(1713)幕府、御料所百姓へ定書を下附する。
享保2年(1717)
森田盛昌は、『能州紀行』に、「家数二千の余有て、越中・越後・佐渡・出羽・奥州・松前・えぞへ船便り宜しき故、繁盛の所なり、酒屋数百軒、是は佐渡・松前・えぞへ酒を商売する故也。其外魚多し。金沢へ毎朝魚を出すゆえ、春の内は所には希也。夏に成、金沢へ不登時は沢山有。魚風味不宜。串海鼠・葛粉・がうな・海雲(ウニ)多し。(略)、何にても不自由成事なし」と誌している。所口が海港として、殷賑の町であり、能登特産品の集散商業都市として城下町と農村・漁村・在町との結節点をなしていたことをよく示している。
享保7年(1722)幕府、その領地・八幡村など13ヶ村を加賀藩預地とする。
享保14年(1729)府中町四十物組合頭ら、四十物礼の由来を答申する。
宝暦2年(1752)9月2日徳川吉宗が評定所前に設置した「目安箱」に山崎村の枝小河内(こうち)の四郎左衛門が訴状を投げ入れた。事件の顛末を知りたい方はココをクリック!
明和3年(1766)所口町に火災が起こり、2千余軒を延焼する。
安永8年(1779)古屋敷村、猪鹿の被害届を出す。
天明6年(1786)黒崎村が御預所となる。小島村の漁民、あしかを猟することを許される。
寛政2年(1790)所口町奉行、鰤(ブリ)、鱈(タラ)の浜揚場所を定める。
寛政5年(1793)作事町、府中町、不漁、不況のため、肝煎へ借米を要請する。
寛政6年(1794)藩、町方、郡方の者に衣食住等につき触書を出す。
寛政12年(1800)藩、村々へ夜法談の禁止令を出す。
享和元年(1801)藩、奉公人座仕法を申し渡す。
享和3年(1803)
(同年2月に伊能忠敬率いる第4次測量隊が、東海地方及び北陸地方の海岸線の測量に出発している)
伊能測量隊が測量のため、この年、七尾を含めた能登を測量している。詳しい事を知りたい方はココをクリック!
文化3年(1806)麻生村・清水平村境松を植える。
文化4年(1807)
ロシア人がエゾ地で乱暴をは働くという事件が起きた。幕府は同年、加賀藩に能登半島の警備を厳重にするよう命じた藩は早速海防策の立案に取り組む。
文化5年(1808)
多根村、十村へ滝村への海岸防備諸人足仕訳書を出す
藩は海防策の一つとして、「異国船漂流の時の心得」という今で言うなら緊急対策マニュアルを、能登沿岸の村々に渡した。
(この年、幕府は「異国船打払令」を出している。すなわち、わが国に近づく外国船は見かけ次第、うち払えというもの。)

文化8年(1811)御預所61ヶ村、幕府直支配願を出す。所口町、700軒ほど延焼する。
文化9年(1812)鵜浦村、藩へ山方、浦方分村願いを出す。
文化10年(1813)
職業は、商業の業種は、68種類。商家は、1919軒。廻船業が122軒、続いて四十物商90軒、米糀商売81軒、たばこ小売商68軒、素麺商48軒、古手商37軒、太物商33軒、菅笠小売商33軒、茶小売商32軒が目立ち、魚鳥商・油小売・小間物商が多かった金沢とは対照的である。
文化11年(1814
)所口町で火事、923軒焼け、外に府中村延焼する。
文化12年(1815)御預所、私領同様取扱につき、62ヶ村庄屋連判状を出す。
文化14年(1817)石動山神職大森越後、三階へ移住する。
文政4年(1821)藩は、各港の渡海船を調査し、翌5年、領内の船所有者に、大阪登米を命じ、浦方以外の者にも渡海船の所持を認めた。この頃、二百石以上の回船は、わずか6艘であったが、このあと回船業が栄え、幕末までには二百石以上の回船は21艘に増えた。
文政元年(1818)藩、諸浦、諸売物、出津、入津の口銭を定める。
文政2年(1819)藩、十村中有力者を検挙投獄(十村断獄事件)し、あるいは流刑に処する。
文政3年(1820)所口町役所、7ヶ条の定を作る。
文政4年(1821)流刑十村全員赦免。藩、十村の百姓支配を止めさせ、郡奉行の直轄とする。肝煎、組合村へ十村廃止の旨を申渡す。
文政10年(1827)
この頃、所口町の四十物商は、126軒もあった。また、所口の港には、外海船40艘、35軒、外海船並(近海路をさす)90艘、87軒があり、活躍していた。
この年、所口で作られ、他所へ津出(移出)したものは、米・酒・むしろ・なわ・灰・油粕・菅笠・米糠・四十物・ほしか・塩鱈・小麦ひきがらなどで、他所から津入(移入)したものは、藍・杉材木・こんにゃく玉・生鑞・くり綿・黒砂糖・鉄などでした。薪・炭・牧木(ばぎ)などは、近在より津入りされ、所口で売られました。また、米・紅花・小豆など海上運搬のみの物もありました。


4)幕末から明治維新
天保5年(1834)藩、備荒倉を設置して凶作に備える。
天保9年(1838)藩、口郡細民の稼として松前へ輸出する筵の製織を奨める。
天保10年(1839)藩、改作法を復旧し、年寄を廃して十村をおき、百姓を支配させる。
天保12年(1841)府中町間高の絵図出来る。鵜浦村川尻部落、鱈網くくり付漁業を願い出る。
天保13年(1842)この頃、所口町の鍛冶屋は、60軒もあり、120人の職人が働いていた。主な製品は、釘、鍬(くわ)、鎌などで、原料の鉄は、石見、但馬から移入していた。
天保14年(1843)8月
幕命により、加賀藩は能登警備強化をはかり、あらたに津田修理を派遣することとなった。その任務は「能登一国縮方(しまりかた)」とあり、海防対策の一端としてであったが、代々所口町奉行が兼務した能登盗賊改役の加役も命ぜられている。津田修理は諱(いみな)を正直と称し、人持の士で1万石という大身で、所口町奉行が中期以降もっぱら平士の役柄であったが、人持というのは上級の士であった。
弘化元年(1844)
津田修理は、9月任地に向かっているが、上下約100人で能登海岸を巡検し、逗留100日という大袈裟なことであった。巡検先々で、十村・庄屋・肝煎などを集めて案内させたり、指示を与えたものらしい。
弘化3年(1846)この年、能登中居(穴水)で大筒(大砲)が造られ、また藩士達が江戸へ派遣されて方術を学ぶ。能登一国縮方の津田修理はまも亡くなるが、藩はその役屋敷の重要性をかんがみ、幕末に至るまで所口在住を置いた。
小丸山に、海防の為の役人が住まう屋敷(155坪)を作る

能州所口在住リスト
縮方名 禄高(石) 在 住 備 考
津田修理正直 人持 10,000 天保14年8月28日〜弘化2 弘化2年 死去(37) 内1500石与力知
多賀数馬直良 人持 5,000石 弘化2年9月28日〜嘉永3年5月7日 依願御免 内1400石与力知、600石同心知
前田主馬玄前 寄合1,500石 嘉永3年5月7日〜嘉永7年2月24日 御馬廻頭、定番頭並当役御免 内500石与力知
大野木良之助克貞 人持 1,650石 嘉永7年2月24日〜安政2年10月11日 筑前守様(藩主のこと)御付
関屋一学政均 人持 1,050石 安政2年10月28日〜安政6年8月9日 安政6年8月9日死去(35)
篠原織部忠貞 人持4,000石 安政6年8月14日〜文久元年7月29日 寺社奉行再役 内1,300石与力知
前田将監恒敬 人持 3,400石 文久元年8月1日〜元治元年3月15日 自御奏者番、寺社奉行 内与力300石
松平久兵衛康保 人持 1,500石 文久3年6月11日〜慶応4年6月5日 自地頭町在番、依願御免
奥村助六郎慎猷 人持 1,700石 元治元年3月16日〜慶応元年9月14日 自御奏者、免御番
上坂蔵人景光 人持3,000石 慶応4年6月28日〜 蔵人平次兵衛

嘉永3年(1850)藩、和倉温泉の役銀、湯銭取立等を改定する。
嘉永6年(1853)藩主・前田斉泰、能登巡見のために発途する斉泰、能登巡見の途中所口町越中屋喜兵衛宅に宿泊する。所口東新町に火災あり、372軒焼失する。ペリー浦賀に来航。藩、異国船来航のための非常事態宣言を発する。
安政元年(1853)鉄砲射撃訓練の為の、角場(射撃場)を所口に作る(藩内では金沢に次いで2番目)。所口町奉行、足軽に毎月3・7・9日を鉄砲稽古定日と定める。
安政2年(1855)藩は村々に申し渡しを出し、もし外国船がきたら、太鼓をたたいて村中に知らせ、肝煎り、組合頭が引率して、御蔵所、武器土蔵、御塩蔵、御台場などを防備するよう命じた。
所口町奉行、従来の火消方制度を改める。
安政3年(1856) 家数は1883軒である。
安政5年(1858)日米修好通商条約・貿易章程に調印。安政の大獄始まる。
矢田村組合頭など、大高持百姓へ切高願を出す。幕府外国奉行堀織部正鹿島郡内を巡視する。加越能三州各地に騒擾起こる。
安政7年(1860)桜田門外の変。所口町年寄、府中村領字違堀の請地願を町奉行へ出す。
文久2年(1862)
加賀藩は、
七尾軍艦所を所口町出崎(現在のPSコンクリート工場の場所)に(広さ約65,000平方m)作られた(金沢で同時に金沢西町軍艦所を開設した。ただしこちらは航海術学科中心で実習なし)。蒸気製造所とも呼ばれ、桟橋、造船所、製鉄所、起重機のほか倉庫、住宅なども置かれた。ここをヨーロッパから購入した7隻の艦船の基地とした。前田家の家紋・梅鉢の船印をつけたので、「梅鉢海軍」と呼ばれた。いまその大略を記しておこう。

<梅鉢海軍>
1、発機丸、のち錫懐丸と改称、鉄製蒸気船、250トン、慶応2年(1866)ポルトガル商人より横浜にて購入。英国製。上海にて機関入替え。
2.李白里丸(別の資料では季白里丸)、鉄製蒸気船、500トン、慶応2年長崎にて、文久2年(1862)に購入した最初の発機丸を下取りとしてポルトガルの商人より購入。
3.有明丸。木製帆前船、トン数不明、江戸石川島にて製造。
4.駿相丸、木製帆前船、158トン、慶応3年英国人より長崎にて購入。
5.起業丸。木製帆前船、309トン、慶応3年オランダ人より長崎にて購入。
6.猶竜丸、鉄製蒸気船、398トン、明治元年英国人より長崎にて購入。
1隻たりないが、七尾市史でも6隻しか、書かれていないので、ここではそのことを記しておく。私が思うに発機丸と錫懐丸が同じ船であるのを後世の人間が重複してカウントしたのではないか?

これらの艦船は、のちに河井継之助率いる長岡藩との上越戦争で、兵員・軍需品の輸送で活躍した。七尾軍艦所は、これらの艦船の倉庫やドッグとして建設されたのである。
(七尾軍艦所の作られた理由)
七尾軍艦所は、文久元年、幕府より英国艦船が測量のため加が藩領内に入ることもあろうという警告も受けたので、壮猶館の組織の中から航海の部門だけを独立させ、所口と金沢西町に軍艦所が作られた。西町は航海術学科を主に、七尾は艦船実習と軍艦根拠地を分担することになったのである。
文久3年(1863)
藩は、お触れを出し、外国船に備えての、農民を銃卒に育てる為の、銃卒稽古場を各地(藩内22カ所)に設ける。
矢田新村肝煎など御預所役所移転反対申し出る。
慶応3年(1867)
イギリス、アメリカ、フランス(フランスは7月11日入港)などの外国船が相次いで所口港に入港し、町民を驚かせた。
中でも、
5月に来たイギリスの艦船セレペント号は、5月26日珠洲沖で大砲を撃って驚かし、同日七尾入港、英国人は29日まで土地の役人らの案内で各地(城山、矢田村天満宮、同出崎付近、小島村妙観院、本宮社往環、古府村、万行村、須能村、麻生村、佐野村、佐味村)を遊び歩き、6月1日能登島の測量をはじめたまま去った。
6月12日、アメリカ船が入港し
、長大隅守ら藩の重臣がやってきた。その間矢田村、万行村、佐味村にわたる敷地に製鉄所(軍艦所の東隣、その東隣に砲台場あり)をつくる計画が出された。
7月8日、英国艦船は、一度に3隻シェルミス(サラミス)号、ベスレスク(バジリスク)号、セルベント号(サーペント)も入港した。この時も人々は上陸者を見物しようと町中が大騒ぎになった。(イギリス人がその時作成した海図を見たい人はココをクリックしてください。)
このバジリスク号には(※1)ハリー卿(イギリス公使ハリー・スミス・パークス)はじめ、公使代理ミットフォード通訳官(※2)アーネストサトウ(のちにイギリス公使となる)がいました。。しばらくして、軍艦所の錫懐丸とイギリス船を見に、本多播磨守らの重臣が七尾に来ている。ハリー卿は艦内に、加賀藩の重役を招き、所口港を貿易港にせよと交渉しましたが、加賀藩の重役はこの要求を拒み、交渉は不成立に終わる。(結果、開港場は幕府直轄の新潟に変更された。)当時、加賀藩は、七尾港を海港場にすると、幕府に取り上げられるのではないかと心配していたのです(幕府が長岡藩から取り上げた新潟港の実例などがあった)。目的を達成できなかったパークスは軍艦で7月11日港を去ったが、ミットフォードとアーネスト・サトウはここ七尾より、陸路、大阪へ向かった。ミットフォードは、途中金沢へ寄り、藩主に所口港の海港を交渉しようとしたが、藩主は病気を理由に面会を謝絶した。
この時のアーネスト・サトウの記述(「一外交官の見た明治維新」の石川県関係の抜粋を見たい人はココをクリック!
おなじく英国外交官・ミットフォードの記述(「英国外交官が見た幕末維新」の石川県関係の抜粋を見たい人はココをクリック!
8月18日は、幕府の外国奉行が入港
また、
この年、七尾軍艦所の東隣に近代的な七尾製鉄所ができた。この施設には、2万歩(約66,000平方m)の広い敷地に鋳造所、機械所、職人小屋、出局の他、納屋などが建っていた。
明治2年(1869年)
版籍奉還
によって、加賀藩は金沢藩となり、藩主慶寧(よしやす)は藩知事となる。
七尾製鉄所に陸蒸気(おかじょうき)が陸揚げされた記録がある。これは、最近の研究ではSLではなく、工作機械を動かす15馬力の蒸気機関ではないかといわれている。
同年七尾軍艦所内に、藩は七尾洋学所を設け、教師としてオーズボンを招きました。オーズボンについては、別ページでも紹介しておりますので、詳しくはそちらを参照ねがいます。オーズボンについて知りたい方は、ここをクリック!

なお、この時代について「慶応3年七尾開港問題」として別に1ページ(「七尾の歴史と文化」を転記)設けたので、そちらも見たい方は、ココをクリックしてください!

(大学入試の日本史の試験などにも登場する有名人物だから、下記の2名チェックしておこう!)
※2、パークス(1828〜1885)
イギリスの外交官。上海領事を経て、1865年(慶応元年)駐日公使。フランス公使ロッシュと対立して薩長を支援。明治維新政府の外交政策を援助。
※1、アーネスト・サトウ(1843〜1929)
イギリスの外交官。日本学者。号は薩道。「英国策論」に日本の政治体制は天皇を元首とする諸侯連合と主張。パークスの対日政策を助け、影響を与えた。1895年イギリス公使として再び来日。日本文化の研究・紹介に業績を残す。外交については、彼の著書「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)に詳しい。

明治3年(1870)
十村制度の廃止。七尾語学所の金沢への移転。
(軍艦所・製鉄所の末路)明治4年(1871)(廃藩置県に先立ち)七尾軍艦所、七尾製鉄所の廃止。金沢の元蔵宿宮田屋吉郎右衛門らが払い下げを受けた。軍艦所は造船所に変身したが、事業不振で
同6年海軍省に買収された。そして、これが同8年に至り鹿児島人桐野利邦に払下げられ、同9年鹿児島へ運ばれて兵器所となった。これは、時の海軍大輔河村純義の画策によるものであったが、同10年西南戦争の勃発にあたり、反乱軍が最初に襲撃した磯の集成館銃砲製作所はその後身であったのである。
 これより先、同3年5月、関沢明清・遠藤直方及び大聖寺の石川嶂の3人が、軍艦所所属機械の一部を譲り受け、兵庫湊川川口へ移し、加州製鉄所と称した。小規模船や船具を製造したのであるが、台風の被害などあり、経営不振となって政府に買い上げを乞い、工部省所管となった。政府は同19年に至ってこれまた鹿児島県人の川崎正蔵に払下げ、これが現在の川崎重工業神戸造船所の前身となったのである。
 とおあれ、わが七尾地区にはこれらの近代的な諸施設が芽生えながら、一つも根をすえることなく、明治維新の進行とともに消えていった。これは、七尾が軍事経済上ともに、全国的な要地としての地位を失っていたことや、維新当時の加賀藩と薩摩藩との力関係が作用していると考えられる。
明治4年
太政官、金沢藩を改めて金沢県とする。

(参考図書)
「加賀百万石」(田中喜男、教育社歴史新書)
「幕府天文方御用・伊能測量隊まかり通る」(渡邊一郎、NTT出版)
「伊能忠敬」(童門冬二)
「四千万歩の男」(井上ひさし)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)
「オーズボン紀行−侍の娘と結ばれた英人一家を追って」(北国新聞社)
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)
「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)
「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ著:岩波文庫)
「英国外交官の見た幕末維新・リーズデイル卿の回想録」(A・B・ミットフォード著:講談社学術文庫)
「広辞苑」(岩波書店)
「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)