長井純市先生インタビュー         (2001年2月)

『史紀』の新入生歓迎号の新歓特別企画として行われた長井純市先生へのインタビューです。先生は「史学基礎演習(前期)」(一年次より受講)、「日本近代史」(二年次より選択可)などを担当なさっています。これからの参考になると思いますので、ぜひ読んでみてください。

―それでは先生の簡単なご経歴を。

 そうですね、ぼくは1956年に福島県の磐城市で生まれました。それで、ずっと高校卒業まで地元にいて、一年浪人して浪人中は千葉県に住んでましたよ。予備校の寮にいて。そこから東京生活が始まって大学四年間東京にいて、その後大学を卒業した後、福島県の県立高等学校の教員として戻ったんですよ。五年間福島県で教員をして五年で退職をして六年目、29歳になる年にね、東京に再び出てきたんですよ。で、その時に東大で研究生を一年間やって翌年30歳になる年に法政の大学院に入ったんですよ。その時の指導教員は安岡昭男先生でね。だから、1986年から在籍したのは…修士三年と博士三年だから、六年間法政の大学院に在籍して、それで博士課程三年目が終わって四年目に入ろうとしたときに、大学での非常勤講師の仕事が入ったものですから、それで学籍を切ったんですよ。そこで勤めたのが聖心女子大学ってところで、そこにお世話になった人がいたものですから紹介していただいて、六年間非常勤の仕事をしましたかね。で、その間ねぇ、聖心女子大学で非常勤の仕事を始めた二年目のときに文部省に入ったんですよ。」

―文部省ですか?

 それもね、特別な任用制度で試験は受けてないんですよ。あの皆さんよくご存知の教科書検定制度の、その検定を行う職にね、つかないかということで。それも、学部時代の先輩がその職場にいたものですからね。たしかね、93年の6月という中途半端な時期にね、特別採用という形で採用になって、それが98年の3月末日までそこにいました。だから、4年10ヶ月ですか。それで98年4月から法政大学に勤めることになったんです。 

―教科書検定…。 

そうです。だから僕も迷いましたよ、それは。家永先生との間で裁判を行っている状況ですからね。で、しかも教科書調査官ていうのが歴史学研究会の中でも、ほとんど槍玉に挙がっている存在でしたから。ただ僕自身も生活上のこともありますから、もっと平たく言うとお金を稼いで生活していく基盤がないと研究も続けられませんから。文部省に入るときの上司の方の話で、研究は阻害しない、研究活動に関してはご自由におやりください、と。そういう話だったものですから、それなら行きますよ、と。そういうことでね、で僕が在職中に、その家永先生の有名な教科書裁判は最高裁で決定を見たんですよね。その中には文部省の検定がやりすぎであるという二つだか、三つ最高裁の方から判決を受けてね、要するに家永先生の主張が勝ったわけですよね。それで、残り幾つかの箇所については文部省の言い分が通るというね、非常に劇的な場面に遭遇できましたけどね。ただ、僕自身が入ったときには、直接そういう裁判に関わるっていうことは、もちろんないですよね。それでもね、その家永先生の教科書訴訟を支援する色々な団体からは批判の対象になりましたし、出版界、特に教科書を出版する労働組合の人たちの文部省を告発する文献にも僕のプロフィールと名前がね、教科書調査官の一人として出てましたし。それはそれとしてね、僕も知ってましたからそれはまあ良かったんですけど、途中から、今の教科書をもう少しナショナリスティックに書き換えろ、という動きが起きてきて、それはね新しい対応だったものですから文部省の僕なんかより上のレベルの人たちがね、だいぶ気にはしてましたね。というのは、直接例えば自民党であるとか、あの当時は新進党っていったかな、より保守性の強い政治家の人たちが、そのことをひとつの政治争点にしようとしていましたから。その関係で国会会期中のときに色々ね、上の人から説明資料をなんとか揃えてもらえないかということは頼まれたことはありましたね。といってもね、説明資料というのは僕自身が論文を書くわけじゃないんですよ。こういう色々な、概説書も含めて研究論文等、参考になるものがあれば、それをコピーして提供してくれということなんですよね。で、それを判断するのは上の人ですから。我々はあくまでも教科書の記述に反映されていると思われる研究書、研究文献そういうものを材料として揃える、そこまでが我々の仕事なんですよ。そこから先はね、もう求められないというか、だから縁の下の力持ちみたいなものですよね。そこから先はいわゆるキャリア組といわれる人たちの政治折衝の場での判断材料でしょうからね。 

―そのような仕事をなさっているときに仮に御自分の研究で批判…というか都合の悪い事を書いても、別に何も言われなかったんですか?イメージとして言えば、こう上から押さえつけられる、という…。

 うん、そういうのも僕自身は、あんまり、というか、全然経験無いですよ。もしかしたら、主任と称する偉い人達とかはあったのかも知れないですけれど。僕自身としてはプレッシャーを感じたり、明らかな職務上の支障を生ずるような圧力を感じたりするような事は無いです。それから、何かものを言うのに、抑制してしまうようなものを感じた事も無いですね。というか、要するに研究状況をきちんと調べていなければいけない、という前提でしたからね。それは自分と歴史上の、研究所との、見解が違うという論文はありますよ。勿論。ありますけれど、それは純然たる自分の研究の範囲の話であって、職務上は、とにかく学校の教科書の記述に反映されていると思われる、幅広い研究文献を自分なりに押さえておく、理解しておくという事が大事ですから。それは裁判に都合が良かろうが悪かろうが、活字になって出ているものを扱わないという事は無いですね。 だって、そういう風に学部時代からそういうものだと思って日本史研究をしてきたつもりでいるから。だから今でも、これは余計な話ですけれど、都合が悪いものだと判断して、史料を隠したりとか、故意に改ざんするとかいう事は僕自身の中では絶対にありえないですね。だから、卒業論文などでもそうなんですが、中略とか、後略とかいうのは、非常に慎重にやってもらいたいというか、そういう気持ちはありますよね。 

―それは身に染みますね(笑)

在るものをね、在ったものを率直に見ないっていうのかな。それから、自分の視点に引き付けて強引な解釈をするっていうのはどういうものかな、と。主張があるのはわかりますよ。ただ、論文を書くときには、こういう風に言いたいんだけれども史料を見る限りはそこまでは言い切れない、しかしその方向でここまでは言えるという、そういうストイックな所が無いと研究にならないような気がするんですよ。だからね、また教科書の話に戻ると、主張の部分と、研究で到達できる段階とを区別しない人に対して、多分今ナショナリスチックな人達がその弱点を突いてきているんだと思うんですよ。じゃあそのナショナリスチックな人達がやっている事が、果たして僕が言っているストイックな部分でやっているか、と言うと全然違うんですけれども。だけど、弱点を突く、というテクニカルな部分で彼らは非常に巧妙なので、またそういう人をブレーンとして随分引き込んでるみたいですから、対応する人は非常に慎重であった方が良いんじゃないかな、と思うんですよね。とまあ、経歴に引っ掛けて余計な話を。

―いえいえ、非常に面白かったです。それでは、先生の研究テーマをお聞かせ願えますか? 

僕は明治期の政治史がメインテーマなんです。少し具体的に言うと、政治指導家論というんですか、必ずしも国会議員であるとか閣僚であるとかは限らないんですけれど、地域のボス等でもいいんですけれど。政治指導者論というんですか、政治指導論というんですか、そういうテーマでやっているんですよ。今少しずつ進めているのは、山県有朋という人物を中心にした、明治国家建設期の政治課題を含めて政治指導者というものはどういう風な政治を行うのか、その政治手法なり何なりを見ていこうという。まあ、山県有朋っていうと通常では徴兵制度とか、あるいは原敬との明治後半から大正にかけての政治史過程をあつかうことが多いんですけど、僕はね、彼の地方自治制度を作るっていう側面から彼を政治指導者として捉えていこうと、そういうふうに考えているんですよ。つまり地方自治なんていうのは藩閥政府のもとでは、通常考えれば必要とされないものっていうかな。その藩閥政府の指導者が自治制度をつくろうとした。それは今の自治とは大きく違うんですけどね。だけど制度をつくって、いったんその機能が稼動してしまったら作った人の意図とは、まったく違うかたちでね、運用され利用されていくんですよね。それはやはり一部の国民から選ばれた政治指導者がそれを運用していくわけですよね。そうするとまあ、上からの近代化ってよく言われますけど、上のほうで制度をつくった人と、その制度にもとづいて運用にあたる人との間で、いつかの時点で接点ができて制度改変が起きるわけですよ。それがおそらく日露戦争前から、まあもっと言うと20世紀に入ったころだろうと僕は見ててね。そこまでのことを、今は全体として、できたら一冊の本にするぐらいまとめたいと思っているんですけど。要するに上からつくったシステムが下から選ばれた人達との間で接点を見せはじめるっていうね、そこがやっぱり日本の近代化にとって大事だと思うんですよ。でも日本近代史を専門にする前、最初は中世、特に平安末期から鎌倉あたりの地方武士団の発生とか形成について興味がありましたよ。 

―というと大学時代のゼミは? 

 いや近代史でしたけど。皆さんと同じで古文書読むのが面倒くさいと思ったんで、近代史なら少しは楽かなと思って。そしたらね、近代史のほうが史料全体の分量がとても多いのと、活字になっていない史料のほうが多くて読めないんですよ。誤算でしたね。そのときに大学院生の人がくずし字を読めるようになる勉強会を開いていてくれて。それにいくとコーヒーをおごってもらえたり、卒業論文のうまいクリアのしかたも教えてくれるのでね、のこのこついていってね。それで、だいぶおぼえさせてもらいましたね。それで、卒業論文はできたら自由民権運動でやりたかったんですよ。同じ福島県の出身で、こうのひろなかという人の史料が相当数ありましたから、彼が受け取った書簡を中心に民権運動の実像にせまろうと。それから政治運動のリーダーでもあるし、政界のリーダーでもあった河野広中という人物像をね、描きたいと思って。それで彼の書簡を読んでいたら彼のイメージが崩れていくわけですよ。これは政治屋であると。まあ、それは若き日の僕の失敗のもとなんですけど、最初の理想があって史料で内実を見てみたら民権運動であれ、その後の国会議員としての政治活動であれ、お金もからむし、それから人を組織化するというのは、いわゆるきれいごとだけでは済みませんよね。大勢の人を支持基盤に持たなければ政治権力ってのは振るえないわけですよ。そうわかったときに、卒業論文であつかいたくないって思ってね。先輩に相談したら、君はようやく政治ってものがわかったんだから、そういうふうに素直に書けばいいんだ、って言われたんですけど、どうしても嫌だったんですよね。大学三年の後半から四年のはじめにかけてねだいぶ河野広中文書を原稿用紙に書き写して卒業論文に使おうと思ったんですけど、結局使いませんでしたね。今だったらちょっとはやってもいいかなと思うんですけどね。少し年をとりましたからね。ただまだその気になれないですけどね。だから、色々な先生おられるでしょうけど、僕はあまり研究対象を好きにならないんですよ。好きだった時代はありましたよ。でも内実と、自分のぼんやりとしたイメージにギャップがあって時々がっかりするっていう自分のありかたがわかりましたから。あんまり好きになっちゃいけないし嫌いになりすぎてもいけない。だから山県有朋をとりあげても、山県は大好きじゃないし、嫌いな部分はあっても大嫌いではないですからね。そういうふうに少し距離を置いて見たほうがいいかな、と。客観的に見てるっていう気持ちをどこかに持っていたほうがいい。だから自分に置き換えてみると少しは分かる気がするのは、いわゆる反抗期といわれる時期にね、身のまわりの大人に対して非常に不満を持つわけですよね。その不満の原点にあるのは、反抗期にいる自分を理解してくれない、あるいは理解してくれないまま自分にとかくの批評を下すっていうね。今その自分の反抗期における気持ちを歴史研究に活かすとすると、死んでしまった反論のできない人に対して自分が評価を下してますよね。例えば伊藤博文でも東条英機でも近衛文麿でも誰でもいいんですけど、彼らがもし仮に生きていたとすれば、それは違うって言うと思うんですよ、その研究者に対して。ところが言えない。死んでいるから。その言えない人に対して批評を下している。いたら絶対反論するだろう。そういうのと、思春期に自分が感じた周りが理解してくれない、その憤りの気持ちっていうのかな、イライラした気持ち、今風に言うとムカツク気持ち?をね、その死んだ人に対して投影するわけですよ。すると色々な伝記、研究論文があるけども自分が一番あなたの真実に近いことを書いてあげましょうかねって。書いてあげましょうかって言い方おかしけど、書いてみましょうかって。そういう気持ちに少しなれたんですよね。年とってからね。あなたのことは嫌いだけれども、でもあなたは、こういう生き方したでしょ。あなたに一番正確な政治経歴というものを私が再現しましょうかっていう。ただそれもね、僕の中ではいまだにやっぱり理想論で、史料を読んでいるときに少し感情的に昂ぶったりしますよね。 

―今後もやはり政治指導論を? 

うん、そうですね。でも本当に好き嫌いでいえば僕は政治っていうのは嫌いなんですよ。それから政治指導者になる人も嫌い。政治運動も嫌い。政治運動のリーダーをとろうとする人も好きじゃない。つまり政治っていうのは非常に多様な人間の欲望を調整する、あるいはその一番共通な部分を最大公約数にして人をまとめあげる、納得してもらうっていう作業でしょ?こんな面倒なことはない。そういう面倒なことは自分には不向きであると思ってい るし、まず意欲が湧かない。でも現実にそういう人達がいないと、地域なり国なり色々な意味でのまとまりがこわれちゃうでしょ。であれば、そういう人達が、まあ僕は日本の近代史って、ある程度ステージが限られてますけどね、その中でそういうことを目指した人達、活動した人達が、どういうふうな活動をしたかを、できるだけ正確に再現して人前に提示したい。そういうことなんですよね。自分と異質だからこそ興味関心が湧くのかもしれない。逆にいうと僕みたいにそういうのから離れたいと思う人を研究対象に選ぶってことはないですね。だから授業でも時々言うんだけれども「一寸先は闇」だって言ってそれを不安に思う、あるいは慎重になる人よりも闇ならおもしろいや一歩足を出してみようと、闇に行ったらどうなるんだろうと思って踏み込んでいって、その闇をね一つ一つ自分の世界に組み込んでしまうようなそういう人達に関心がいきますね。 

―どうもありがとうございました。

プロフィール
長井純市

1956年 福島県出身 文学修士

法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学
1992年3月 聖心女子大学非常勤講師
1998年4月 法政大学専任講師
1999年4月 同助教授
[論文] 「山形有朋と地方自治制度確立事業―明治21年の洋行を中心として」(『史学雑誌』第100編第4号)

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