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昭和29年卒業

栗原博邇      赤松 至        死亡

       徳原文周        住所不詳

       栗原博爾

戦 績                  創部直後につき対外試合に至らず

創部当時の思い出

29年卒 栗原博爾

−入部前後−

 数人の同級が、飯田線の牛久保に下宿して居り、そのアパートをしばしば訪れた。

同級とはいっても、30代の年長者もいて、そのオッサンが中心的存在となるのは自然の理であった。

その川村氏が、「田中さん」と敬意を込めて名前を呼ぶのを日ごろよく耳にした。

隣室のその主は、単に上級というだけではなく、逆に川村氏より年下なのである。その訳がやがて解った。

空手の有段者、寡默な勉強家、敬意を持つのは少しもおかしくはない。

こちらも、出会う毎に一礼するが、「オス」と低い声で答えられる様子は、威あって猛からず、畏敬の念を当然もったものである。

そのうちその田中宏さんが空手部を創部されるから、参加しないかと、川村氏が言ってきた。これが始まるであった。

当時は、浅井五也さん(28年卒 CBC)が軟式野球部(今は準硬式)をつくられ、私はそれにも加わっていた。今から思えば、ノンキな、楽しい時代というよう。

 発足時の部員は、 僅か4・5人で、田中さんは、掃除にも率先して雑巾がけをされるなど、主将兼監督兼主務と何役も兼ねて、我々を引っ張って下さった。

初めての合宿練習

 最初の合宿には、鳳来寺が選ばれた。谷間の広くない道は、だんだんと昇りになって行き、やがて頂上の寺へ通じる長い石段につながる。旅篭という方が似合う小さな旅館が途中にある。そこを宿舎に、稽古には鳳来寺高校の講堂を借りた。

東大OB・東大現役主将 応援指導には、豊橋駅前酒問屋の御曹司小島さん(東大OB)と東大現役主将の二人が来られ、臨時に教育大(当時、学芸大)の藤井君が参加していた。

 合宿の猛ケイコで、階段を文字通り這って昇る苦しみを初めて味わった。解散後の、鳳来寺の頂上へ昇ろうという誘いを断ったのもそのせいだろう。

他日を期しながらも、未だ果たしていない。

−二代目主将−

 朝鮮戦争が終わり、米軍向けの特需総額が12億余ドルと発表された。今はその僅少な額に驚くが、当時の日本にとって戦争復興への大きな救いとなった。

 というものの、めぼしい企業は求人に指定校制度を設けていて、入社試験に参加すらできない悲運が珍しくなかった。 田中さんや私が卒業したのはそういう時期であった。

 私が4年生になり、就職に向けて勉強しようとしたところへ、空手と準硬式野球の両部から前後して主将に要請された。どうするか、思案に数日を費やした。

 考えた揚げ句は、空手部はしっかり結束しており私が居なくともやれる。しかし、準硬は未知の状況で、私のような者の一臂の力でも尽くすべきだ。結論はこうであった。

 二代目主将に伊藤藤男君が就くことになった。この選択は正しかったと確信している。

 今の空手道部の盛況は、田中さんから歴代の皆さんによる精進努力の結晶そのものと思う。準硬もその年に全日本大会へ出ることができ、近年では幸いにも全国優勝を遂げることができた。

 後日、昭和37年に、私の弟も愛大に入学した。彼もまた入学後、直ちに空手部に入部したことを聞いたときは、なぜか晴れ晴れとした気持ちになり、喜びがこみ上げてきたのを覚えている。

−道場の羽目板に

 ある日、道場の真ん中その羽目板の高いところに、白いものが見える。近寄ると、大きな紙いっぱいに、力強い筆跡で書かれていた。

若者よ体を鍛えておけ

美しい心が

たくましい体に

つらくも支えられる日が

いつかは来る

その日のために

体を鍛えておけ

若者よ

 田中さんは、張り出したまま何も語ろうとはされなかった。強く印象づけられた私は、今も覚えている。そして今はコーチで小学生に接するごとに、田中さんが示されたこの言葉を、味わい深く思い出すのである。

(相談役、準硬式野球部OB会長)