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昭和33年卒業

「空手バカ一代の人!!」

 

杉浦健五       

創部50年の記念すべき年を迎え心よりお慶び申し上げます。

大学時代を顧みますと感慨深いものがあります。小生は高校時代には柔道部に所属しておりました。しかし大学では別の武道をと考えておりました処、先輩に空手部を勧誘され入部しました。それは良かったのですが、小生たちを含め20名たらずのクラブと知り、期待外れで非常に落胆したことを記憶している。

小生と同期では、太田(経験者),有馬,駒田,中西(2年より応援団に移る),家本,平川,黒川君が居た。しかし二年生に進んだ時には、太田,駒田,中西が退部している。 

2年生の夏の合宿は、愛知県北設楽郡東栄町本郷の寺院にて行なわれた。稽古が大変厳しく夜逃げしたい気持ちであった。しかし夜逃げはできず大胆にも先輩たちに仕返しをしようと云うことで、一年生(沢根,大塚,小楠君等)を誘い、深夜に先輩の顔に墨を塗った処、後輩の誰かが吹き出し笑いをしてしまい先輩に気付かれ気合をいれられた事など合宿生活の良い思い出である。

3,4年生の時には空手部は100余名の部員数で、体育会の中でも一大勢力であった。体育会の役員においても、空手部より小生と中西(応援団長)が副会長,平川(副主将)が幹事長,大石が事務局を務め、空手部,応援団のワンマン体制で今考えると無茶苦茶である。因みに小生も応援団の副団長であった。

無茶のついでに、同期生はそれぞれ個性溢れる者ばかりで、平川(副主将)は自分の住まいはなく友人,後輩の処に間借生活で、衣服等もすべて人の物で間に合わせるという無茶の徹底ぶりであった。黒川,大石,家本君等は、日常練習は余り熱心ではなかったが、合宿となると彼等は合宿所を抜け出して夜の稽古に精をだしたことを記憶している。まともな学生は有馬君だけであった。

小生の学生時代は現在のような試合制度が無く、各大学との交換稽古、又は、他流(道場)試合にて実力を養ったものである。

(故)大塚最高師範(故)大塚最高師範を中心に、小生は鈴木辰夫先生のお供として、和道会の大学の先輩達と和道空手の普及発展の為、全国に演武会を開催してまわった。その試合では小生は鈴木先生の短刀捕りの相手役を務め、又模範組手試合の選手でもあった。因みにその時の演武者は、(故)大塚最高師範は岩崎先輩(明大0B)と長刀捕り、立石先輩(日大0B)は瓦割り、田畑先輩(国学院大0B)は頭割り、藤井先輩(日大0B)は石割り等、それぞれ大変な先輩達ばかりであった。そして全国各地を武者修行と称して他流試合をした事も格別な想い出である。小生にはスーパーエピソードばかりで改めて別の機会に話す事としたい。

小生が空手バカ一代の人生が始まったのは大学からであるが、入学のその年に鈴木辰夫先生(日大0B)が浜松に遠州支部道場を設立され、その時に入門してからである。

当時の日大現役の先輩達が、遠州支部道場に入れ替わり立替わり来浜して鈴木先生より指導を受け、小生も一緒に稽古すると共に、鈴木先生の稽古相手として努めたことが、小生の空手技術の基本が構築されたのである。その先輩達には、道原,箱石,立石,岡田,藤井の諸先輩がおられ、同期では河野,荒川(信)氏等であった。又、若林,真野,蔵並,田辺(重),荒川,高島,藤本諸先輩には、地方大学の学生である小生を日大の後輩のようなご指導とご支援を賜り深く感謝申し上げたい。又、田中,村井,久郷,松浦諸先輩には良き兄貴として感謝申し上げます。

 最後に人生に多大な影響を与えてくださった故初代大内部長と故二代浜田部長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

練習風景