愛知大学学長武田信照 五十周年を迎えるにあたり 杉浦健五師範
イギリスより愛を込めて 早川明心 連合王国より声のある限り 早川明心
故大塚最高師範 50周年史の発刊に際して 田中宏 私の欧州30年の回想 坂神国昭
同窓会会長 出席者の方々
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平成12年度 LINK  

昭和35年卒業

 

同期生

戸松 忠          死亡         主  将

内山良基(大崎)               副主

小笠原東介        死亡         マネージャ

佐藤好央

松村冶之

赤羽弘久

 

青春を謳歌した愛大空手部にありがとう!

赤羽弘久  

s34年 第1回東海学生空手道選手権大会優勝 熱田神宮 小生と愛知大学との出会いは、思いもがけない縁で始まります。当時の松本市から大学への進学は、中京方面より東京方面がほとんどでありましたが、小生の場合、当時の小岩井学長が遠い縁戚にあたることと、英語の大林教授が信州大学教授の頃、子息が小学校の同級生であったことなどで、愛大にお世話になりことになりました。入学した春、一般教育科目の体育単位取得の一環として夏季に行われた「上高地キャンプ」準備のため、山岳部の手伝いとして入山した際、茨城山岳隊が遭難をし、その救難の信州大学山岳部が二重遭難となり、その場にいた我々が再度救難活動をしましたが、このことにより親の反対もあり山岳部の入部はなくなりました。スポーツに執着する小生は、高校生のとき柔道2段を取得していましたので、柔道部への入部を考えていたとき、まったく未知の世界の空手部に杉浦先輩・平川先輩より誘われ、新鮮さの誘惑もあり空手部に入部させて頂きました。

 鈴木師範・田中先輩・杉浦先輩等の尽力により、「第1回東海空手選手権」が開催され、愛大空手部が団体優勝の栄誉に耀きましたが、その際、小生が個大戦で準優勝の栄誉に浴することが出来ました。当時の組手試合は投げ技も有効でしたので、柔道経験者で体格も大きかった小生は、大変有利な立場にあったと記憶しています。

 四年生となったとき、厳しい修練に耐え兼ねなかったのか、同級生は戸松・内山(大崎)・小笠原・佐藤・松村の6名になっていました。しかし、戸松主将の卓越した指導力と、幸せなことに実力ある数多くの後輩にも恵まれたこともあり、先輩達の偉業に汚点を残こすことな 諏訪湖合宿く「第1回東海学生空手選手権大会」優勝の栄誉を獲得しました。この布石となったのは、長野県「諏訪湖合宿」であったと思います。鈴木師範の厳しい練習スケジュールによる地獄の特訓をやり遂げたことは、当然、選手の自信に繋がりましたが、それに加え、たまたま台風に遭遇し諏訪湖の支流が氾濫して合宿していた宿舎周辺も水浸しとなる事件がありました。だれ云うともなくボランティアとしてその後の清掃に従事しましたが、この行動が四学年の垣根を取り除き、一体感と信頼感をもたらしたことが、優勝に結びついたものと確信しています。また、私事ですが四年生のこの年、小生が「全日本学生東西対抗大会」の東軍選手として推薦され、出場したことも栄誉と心得ています。しかし、このときの試合では、天理大学の選手と対戦し、回し蹴りがまともに相手の側頭部に当たり脳震盪をおこし反則負けとなり、東軍に勝点を得られず迷惑をかけしました。

 卒業して二年後でしたか、突然、鈴木師範より空手演武の要請があります。当時、「黒部ダム工事」は岩石の破砕帯によりトンネル工事が難航を極めていました。この題材は石原裕次郎の主演で映画となりましたので諸兄も周知のことでしょう。この難局を打破する「工事貫徹祈念祭」の場で空手の演武を行うとのことでした。松本市に隣接する浅間温泉で周到な稽古(鈴木師範は手を抜きませんから、身体中黒痣だらけ)を行い、大町市の工事現場に紅白の幕を設えた特設会場に於いて、多数の来賓と工事関係者が見守るもと、刃止めをしていない真剣の短刀により、鈴木師範と小生で短刀取りを演武しました。短刀をかわされた小生は床に叩きつけられ当て身を食らい、息も出来ぬ苦しさに堪えて演武を終えたことを思い出します。

 時は移り、昭和53年に長野県に於いて国民体育大会が開催されました。次年度の宮崎県では空手競技が、国民体育大会での正式種目として決定していたことにより、長野県での「第六回全日本空手道選手権大会」は、デモストレーション・プレ競技大会でありました。しかしこの当時、空手協会が(財)全日本空手道連盟を脱会し紛争中であったこと、長野県の空手界が空手協会の圧倒的なシェア下にあること、会長も長野県選出の衆議議員である故小坂善太郎氏であること等の特殊な事情と絡み大会の開催に赤信号が灯ります。空手協会はよこしまで自分勝手な面子を保とうと県庁幹部に圧力を掛け、会場の使用許可を先回りして取得し、この大会の阻止を試みたのです。江里口先生や亡くなった真野先生達と苦労に苦労を重ねて、ようやく小生の出生地である松本市での開催が実現し、小生も大会実行副委員長として、無事に職務を果たすことができました。大会を阻止出来なかった空手協会幹部の落胆ぶりは今でも眼に浮かびますが、小生としては苦労があった分、やり遂げた充実感も人一倍です。その後に空手協会は全空連に復帰しましたので、当然、長空連にも復帰してきましたが、一部の会派に弄ばれる長空連の組織に嫌気がさし、副理事長の職を辞してから、現在は空手界と疎遠になっていることをお許し下さい。

 四年間寝食を共にした戸松君も早世し、最近には小笠原君が亡くなったと風の便りで聞きました。岩川先輩のときもそうでしたが、同い年の同輩の旅たちは辛い思いがあります。合掌!