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FIRST EDITION 2004/02/19
UPDATE 2007/12/23/07:15


 所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について

 まず情報操作という点について申し上げたい。
 以下の記述では信仰者間で鉄則として遵守される尊称・用語を敢えて一切斥けた。たとえば「大聖人」と呼ぶことが信仰の証と知ることを百も承知で「日蓮」とその尊称を省いた。たぶん、これだけで当文書に腹を立てる信者は多く存するだろう。また、「漫荼羅」とは日蓮自身が認(したた)めるところである。それにも拘わらず、信徒会員は「御本尊様」と呼ばないと何か違和感を懐く。

 しかし、考証論考を記す場合、その尊称を略し、一般的用語を使うことは常套なのであって、不敬を目的にしたことにはならない。それ故、ここでは一般常識に準じた。
 もし、この記述法に不快感、憤慨を湧き出る人があれば、その内心をよくよく観察してみていただきたい。そして、呼称一つで「信心がある。信心がない」と峻別してしまうことが如何なることであるのかを考えてみていただきたい。尊称一つで感情が動くこと、そこに情報操作、心理操作がはたらいている自己分析を踏まえ、以下、読み進んでいただきたいと思う。

 また、一般読者、あるいは他の信仰に属する方々には、「本門戒壇之大御本尊」信奉者の心理構造とは斯くなるものであることを認識していただければ、理解を、さらに助けることになると付言させていただくものである。


 ■絶対信を促した情報操作

 なぜわたしは、いとも容易くわかる「本門戒壇之大御本尊(以下、板漫荼羅と記す)」疑義を、永年に亘って認めることができなかったのであろうか。これはしかし、わたし一人の問題ではない。創価学会を含む大石寺系集団の、その信徒会員に共通する大問題である。

 その点について、今回の考証を通じて気が付くことはあった。
 それは創価学会を含む大石寺系集団に共通する禁忌である。

「戒壇の大御本尊様以外は、たとえ日蓮大聖人の真筆でも拝んではいけない。罰が当たる。御本尊を写真に撮るのは謗法だ。御本尊の写真集なんて見るものじゃない」などと言った犹愼貝瓩任△襦

 そもそも各家庭に頒布される「形木本尊」と言われる印刷漫荼羅は写真撮影された原稿を製版印刷したものである。写真撮影を禁じれば、この頒布自体が成りたたない矛盾が生じる。

 にもかかわらず、真筆の御筆大漫荼羅から目を遠ざけさせ、さらに漫荼羅の写真を禁止すれば、信徒会員はビジュアル情報を完全に閉ざされることになる。彼らにとって日蓮真筆は「本門戒壇之大御本尊」唯一つとなる。もっともこれは参拝でも遠目でよく見えない。よく見ることができるのは各家庭に下付された大石寺住職が書いた原本を印刷した「本尊」、あるいは寺院、会館の、同じく大石寺住職が書いた「本尊」だけとなる。信徒会員は御筆大漫荼羅を見ることを謗法と禁じられているわけだから、それが一体どのようなものであるかという基本的となる知識を持ち合わせていない。

 見事な情報操作に舌を巻くばかりだ。こうして言うがままに信じ込まされている、「唯一絶対の御本尊は弘安2年10月12日建立の本門戒壇之大御本尊様のみ」と。

 創価学会を含む大石寺集団では、日蓮の真筆御筆大漫荼羅を見聞することを禁忌として人々の知的欲求を閉ざしている。その「思考停止」という心理操作によって、板漫荼羅を疑う心の自由を奪い取ってきた。それによって、国立戒壇に人々を駆り立て、かつて創価学会は800万人から多額の犇〕椨瓩鮟犬瓠大石寺に正本堂を建立した。さらに大石寺は、その大建築を破壊したうえで新堂宇・奉安堂を建造し、信者相手に公開している。顕正会に至っては、板漫荼羅を見たこともない会員たちが、見ない故に誇大なイメージを膨らませて理想化した「本門戒壇之大御本尊」を夢想し、いまだに日蓮正宗の国教化・大石寺を富士山本門寺と改称せんとする国立戒壇実現の虚構に踊らされている。

 そして、彼らは共通して「本門戒壇之大御本尊」を誹謗することに極端な恐怖を懐き、批判をなすものを憎悪するようにも操作されている。この恐怖と憎悪という二つの操作が板漫荼羅信仰の典型的な特徴になっている。これが社会問題にも発展する原因となっていると観察できる。

 それでも希望の曙光はある。近年、急速に進歩するインターネットで容易に現存真筆漫荼羅を閲覧することができるようになったいま、少しばかりの冷静な観察眼を持つ人があれば、以下、わたしが指摘することには気付くことができるからだ。

 かつて「本門戒壇之大御本尊」をひたすらに信じてきた一人として、以上の事実を記すことは断腸の思いであるとともに、著しい痛みも伴う。しかし、事実を事実として受け容れる勇気をわたしは持ちたいと思う。

 ■あまりにも当然の前提

 板漫荼羅とは彫刻である。紙墨を削り取ってしまったものである以上、日蓮の真筆か否かという問は意味を成さない。日蓮は、書をよくしたものの、仏師ではないからだ。仮に日蓮が文字を書き、自ら彫刻を委ね、允可したとしても、板漫荼羅は真筆を基にした模刻であることは変わらない。

 さらに言えば、彫刻の原図は自在にパッチワークができる。たとえば中央題目は日蓮の文字、もしくは模写を用い、他のパーツは制作者の気分に任せ、他筆を持ってくることも自在である。一挙に書き染めた墨痕と違い、形が悪ければ、修正もできる。彫り下げた箇所でも埋めて漆をかければ文字を消すこともできるし、あとから彫り足して、漆をかけ金箔を施せば、遠目からでは識別もできない。故にその真贋を考えることは現存する日蓮真筆漫荼羅の鑑定・鑑別とは根本的に違う。

 以上のあまりにも当然する常識的な見地を前提として、敢えて板漫荼羅の真偽について考えてみたい。
板漫荼羅
板漫荼羅

 なお、考証には熊田葦城著『日蓮上人』(報知社)に掲載された板漫荼羅写真の転載によった。(右図)故にその相貌(そうみょう)その他の詳細を明瞭に読み取ったうえでのものではない。

 万が一、事実と相違する点があれば、是非ともご一報いただきたい。

「不鮮明な写真で真偽論など」と眉をひそめる筋があろうか。しかし、ここに紹介する写真は、わたしが撮影したものではない。明治44年に大石寺が許可して公開されたものである。故に不鮮明さの責任はわたしが負うところではない。むしろ、撮影者の責任に属するだろう。以下、わたしが記すところが実際の相貌と異なっているというのであれば、よろしく鮮明な写真を呈示して、その事実証拠に基づいて叱声を願いたい。

 個人的には、板漫荼羅の学術的な調査を希望するものである。板漫荼羅信奉集団は、国立で戒壇堂を建立し、なかに安置しようと言う。その御本尊が専門家によって何ら鑑定・鑑別の調査を成されていないことはきわめて異常なことであるからだ。

 先ずその実態を徹底調査したうえで、さて「国立の」というのが踏むべき手はずである。もちろん、それが「国主立」でも「民衆立」でも同じことだ。また、「絶対である」と断言するのであれば、その物的証拠を指し示すことは発言者の義務に属するとわたしは考える。ましてや自ら見たこともない御本尊を安置する堂宇を国立で建造する活動を、なんら物的な証拠も示さずに行うことは無責任であるとわたしは進言する。

 安置しようとするものの科学的な学術調査が行ったうえで、堂宇建立へ動くというのが常識である。ものには順序があることを、これまた、あまりにも当然な前提として記しておきたい。

 ■『大石寺誑惑顕本書』

 近代、板漫荼羅に関する偽作説は何度か述べられてきた。その代表的なものは作者不明の『大石寺誑惑顕本書』であろうか。このなかに北山本門寺6代日浄の言として板漫荼羅彫刻の話が載る。(しかし、この原資料はどうやら当たることができず、作者不詳の作文である可能性がある)

 ここにおける偽作論は主に彫刻に係ることで「未聞未見」の、つまりは大石寺秘蔵の紙幅漫荼羅本尊を板に貼り彫ってしまった大石寺9代日有の咎を責めるというものである。その意味では原本となった漫荼羅の真贋を問うものではなかった。

 ■安永弁哲著『板本尊偽作論』

 明治44年、熊田葦城著『日蓮上人』初版に板漫荼羅の写真を載せたとき、わたしが以下記す如き疑義に至る道程は始まったと言えるだろう。それでも、現存御筆大漫荼羅を写真で列挙した『本尊集』が刊行されなければ、この事実は暴かれないで済んだかも知れない。

 これらの資料を手がかりに、彫刻伝説の批判から、さらに原本の偽作説を展開したのは日蓮正宗・創価学会の矢面に立った安永弁哲の『板本尊偽作論』であった。この著述は創価学会の熾烈な「折伏闘争」の被害者意識が根底にあると看取できる。その点は同情するが、極端な他者蔑視、野卑な表現で返してしまっている点がまずは目に付き、不快感を伴う。

 安永は板漫荼羅の現物もその正確な臨写の存在を見ることがなかったこと、また、それを見た人々のいうところを見聞することがなかったようで、その批判論考は正鵠を得たものになっていない。また、本文中、「願主弥四郎は不明の人物 一歩譲っても闇討横死」と悪し様に述べる。しかし、大石寺17代日精は「南部六郎実長・法寂房日円…其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主」という伝説を語っている。となれば、日蓮宗僧侶の立場からは重視すべき身延山久遠寺開基檀那の、その嫡子である可能性のある人物まで口汚く詰ったことになる。(もっとも日精が記述した弥四郎国重・波木井実長嫡子説は根拠はないようであるが)

 それにしても「大石寺歴代管長」、また創価学会、牧口、戸田への悪口雑言は、僧籍学者としての良識を疑わせる。これら感情的な記述が鑑別論考を斜に見せる逆効果となっていることは至極残念である。

 また、相貌に関する非難もいくつか的外れなものがある。たとえば「帝釈天王を勧請する板本尊は偽作なり」と憶測で批判したところを、反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗布教会編・細井精道)で「戒旦の御本尊は釈提桓因大王」とその事実から斬り返される一面もある。

 ■安永が示す「経」の考証

 しかしそれでも「板本尊『経』の止筆は偽作の証拠」という1項には頷けるところがあった。

 安永は「経」の一時に着目する理由を以下のように説明する。 「立正安国会の山中喜八氏が大崎学報で述べているように、経の字の変遷は『聖筆ノ真偽ヲ判ジ、或ハ臨ぼ(リンボ=見て写すこと)作為(サクイ)ヲ弁別(ベンベツ)スル場合ハ、第一ニ考察スベキデアロウ』と述べているように、経の書体の年代的相違は決定的なものである」 弘安2年経の比較9

 そのように紹介したうえで、弘安2年における日蓮の「經」の筆法は、旁の「工」の三画は止めずに細く伸ばしている点を挙げる。(これを日蓮門一般では「光明点」という)そして、安永は「光明点は先が、尖っている」が板漫荼羅ではそうなっておらず「規格に反して太く止められている」と指摘するのである。

 これは実に重要な鑑別識である。写真で見る限り、確かに經の最終画は止筆になっているように見える。仮に止筆ではないにしても、同時期の光明点のように細く長く伸ばして書かれていないことは動かない。

 この点を弘安2年11月御筆大漫荼羅(No.69)で比較してみよう。上図、左が板漫荼羅の「經」、右が真筆の「經」である。たしかに同一書体とは見えない。筆法の差は歴然であり、板漫荼羅の字体は、弘安2年という時代性を反映していない。 經の旁の比較

 また、『「ツ」の字形の経は弘安二年のものではない』という1項も設けている。「板本尊の旁(つくり)は片仮名の「ツ」の字の如くに、筆が切られている」という。この安永の指摘もまた頷ける。真筆では一筆に流麗に書かれるが、板漫荼羅は「ツ」様に彫られている。(右図)

 こうして改めて板漫荼羅の相貌の全体を見直すと、御筆大漫荼羅と比較して、全体的な構成に大らかさがない。日蓮御筆の特徴とも言える紙幅に縦横無尽に筆をふるった闊達さがない。全体的な構成も著しく相違し、中央題目と花押が大きく場所を取り、弘安2年当時の特徴を示していないのである。

 ■板漫荼羅と下付漫荼羅の相違

 さて、以下はわたし自身が懐く板漫荼羅への疑義である。

 その前提となる板漫荼羅を崇拝するそれぞれの集団のアナウンスを一々に列挙しないが、概ねまとめれば、日蓮は弘安2年10月12日、熱原法難に農民信徒3人が斬首に遭う殉教の姿を見て、いまこそ出世の本懐を遂げる時が来たと図示し、日蓮の弟子の一人である日法に彫刻させたのが板漫荼羅であるという。また、彼ら信徒各位に下付する印刷漫荼羅本尊は歴代の大石寺住職(彼らが言う御法主上人猊下)がこの板漫荼羅を書写したものであるともいう。

 まず先に述べておけば、創価学会を含む大石寺系集団の信徒は、各家庭に下付される印刷漫荼羅本尊は板漫荼羅と相貌が一緒であると信じ込まされているようであるが、実際には違っている。

 最も大きな違いは二つある。一つは下付漫荼羅に記される「福過十号…」「頭破七分…」といった文言が板漫荼羅には記されていないこと。そして、もう一つ。各家庭の印刷漫荼羅本尊の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」となっているが、板漫荼羅では「二千二百二十余年」となっていることである。

 もちろん、その他、勧請の諸尊の相違も指摘できる。たとえば、板漫荼羅では「釈提桓因大王」となっているところが大石寺住職書写の印刷下付漫荼羅では「帝釈天王」となっている如くである。

 先にも記したとおり、板漫荼羅は、熱原法難で農民信徒の殉教を機縁にして日蓮が記したという。しかし、この伝説には矛盾がある。

 というのは、この漫荼羅本尊に記される日付は先にも記したとおり弘安2年10月12日である。しかし、刑の執行は遅れること3日後の10月15日であり、日蓮が知ったのは17日のことだったというからだ。つまり、機縁としたはずの出来事の認知があととなっている。これでは時系列が合わない。
 なお、斬首刑は翌年という説もある。
弘安2年11月御筆大漫荼羅 No69
弘安2年11月御筆大漫荼羅 No69

 ■弘安2年10月12日

 この日付であるが、これは板漫荼羅の真偽を問ううえで重要な鍵になる。まずその点を記述したい。 弘安11年御筆大漫荼羅の日付の書き方

 日蓮は漫荼羅(以下、現存する真筆を「御筆大漫荼羅」と記述)に日付を記載する際に必ず干支を書いていた。例として弘安2年11月に図示された御筆大漫荼羅(右図)に記された日付を挙げる。(左図)

 ここに「弘安二年太才己卯十一月日」と記されてあるのがわかる。これはこの御筆大漫荼羅一舗の日付の書き方であるのではなく、一貫した日蓮の在り方である。ところが板漫荼羅では「太才己卯」といった干支が記述されていない。とはいうものの板漫荼羅の写真が世に出たのは明治44年発刊の熊田葦城著『日蓮上人』(報知社)に掲載された1回だけである。この不鮮明な写真からその詳細は読み取れない。しかし、大石寺の文献でその記述されているものがある。『富士大石寺明細誌』『有師物語聴聞抄佳跡上』などによれば「弘安二年十月十二日」とその記述を伝えている。

 この干支を記さない日付の書き様は日興の特徴である。一説によれば板漫荼羅の日付の文字は日蓮の字ではなく日興の字体に似ているという。

 その字が誰のものであるか。少なくとも日蓮が自ら決め護った書き方ではない以上、日蓮その人のものではないであろう。日興の書き様であれば、日興その人の字か、あるいはその漫荼羅書写の有様を嗣ぐ大石寺住職のものかと類推される。

 ■板漫荼羅の造立者は弥四郎国重か

 ところで、先の日付の前文には「現当二世の為に造立(ぞうりゅう)件(くだん)の如し本門戒壇の願主・弥四郎国重法華講衆等敬って白(もう)す」とある。文字どおり読めば、この板漫荼羅を彫刻制作したのは弥四郎国重であると上述の大石寺文書は伝えているのだ。

 こう記せば、大石寺の所伝を信じてきた人は訝しく思われるかも知れない。大石寺の伝説では、板漫荼羅を彫刻したのは日法であるというからだ。しかし、これを証明する上古の資料はない。なおさらのこと、日蓮がこの允可を行った証拠も、身延の山中でこの板漫荼羅が制作された証拠もない。もっと言えばこの漫荼羅原本を日蓮が記した証拠すらない。

 では、板漫荼羅は誰が造立したのであろうか。この脇書きを文のままに素直に読む限り、この造立者は弥四郎国重その人となる。そして、自称他称かはわからないがその人物が本門戒壇の願い主なのであろう。しかしながら、願い主である弥四郎国重が板漫荼羅を造立し、そこに「本門戒壇」と彫ったからといって、その模刻本尊を「本門戒壇之大御本尊」であるとするのは短絡と言うしかない。第一、弥四郎国重は、その脇書きを読めば、「本門戒壇願主」なのであって、本門本尊願主ではない。

 わたしはこの脇書きは、造立者、すなわち弥四郎国重という不明の人物が書き足したものと考える。ただし、その詳細がわからない限り、何らかの言い伝えを用いた架空の人物である可能性もある。となれば、脇書きの文面を造り、その文字を刻んだ人物こそ、板漫荼羅の制作者、あるいは仏師に造立を依頼した人物であることになるであろう。

 ところで大石寺は、日興が唯一の日蓮の後継者であり、国主が帰依したときに戒壇建立を命じた証文があるという。これは元来、北山本門寺に存ったとされるものだが、それを自山の相承のように扱う。二箇相承といわれるものである。ここに「国主被立此法者 冨士山本門寺 戒壇可被建立也」と戒壇建立の条件が記されている。つまり、戒壇建立には国主帰依を条件としている。

 そうなると、板漫荼羅の脇書きは概ね2点につき問題となる。第1は戒壇の願主は国主でなければならないのに、不明の人物・弥四郎国重では不相応となる。第2に、脇書きに「戒壇願主」を言いながら、実際意味するところは漫荼羅本尊の造立となっていることである。これでは二箇相承と板漫荼羅の脇書きに整合性がない。なお、確認のできることではないが、この脇書きもまた日蓮の字ではないという。

 断るまでもないが二箇相承の真筆は現存しない。他日蓮門下は偽書というものである。

 ■板漫荼羅の愛染は日蓮のものか
愛染筆法の変遷
愛染筆法の変遷

 やや横道に逸れた。いま一度「弘安二年十月十二日」という日付に話を戻そう。
 日蓮の御筆大漫荼羅は『本尊集』(立正安国会)にまとめられているし、インターネットでも誰でも閲覧することができる。

 Nichiren Shonin Gohonzon Shu

愛染の比較

 これを一瞥すれば、日蓮の筆法の変遷は容易に看取できる。
 弘安2年10月前後の御筆大漫荼羅を順次見てみれば容易に気付けることがある。板漫荼羅の相貌は、その時期のものとは似ても似つかないということだ。板漫荼羅の素本となった文字は本当に日蓮の真筆なのであろうか?

 愛染の有様に、わたしは注視した。
 左、左図が板漫荼羅の愛染、右図が弘安2年11月漫荼羅の愛染である。並べてみれば、明らかなようにこの二つの梵字の筆法は根本的に違う。とても同時期に書かれたものであるはずはない。というより、板漫荼羅のような愛染の書き方は、まったく現存御筆大漫荼羅には見られないものである。

 日蓮弘安2年当時の愛染は、左、左図の如くである。ところが板漫荼羅は右図のとおりで日蓮の筆法とは見えない。

 真筆の愛染と板漫荼羅のそれはまるで違っている。真筆と似つかない筆法の文字とはなんであるのか。わたしは他筆であると断ぜざるを得ない。

 ■板漫荼羅題目は禅師授与漫荼羅の模写

 ここに重要な指摘をしたい。
 わたし犀角独歩は板漫荼羅の題目等は弘安3年5月9日の禅師授与漫荼羅との相似に特に着目する。そのことから、この模写を元にした彫刻であろうと類推している。いま、その最終的な分析の段階に入っているが、本日、平成16年(2004年)3月29日午後5時00分、ここにその考えを挙げておく者である。

 なお、この最終確認作業のために、本日、RI師(G研)にこの考えを開陳し、また、TH師(元R大学)に資料その他の蒐集に関する支援をお願いしたことを付記したい。

 この成果は、近く発表する『図解・板漫荼羅の鑑別』に詳しく掲載するものである。

 ■板漫荼羅から日蓮の実像に向かって

 当然のことであるが、日蓮の教えは何一つ、板漫荼羅に収斂されていない。「本門戒壇之大御本尊」から離れ、虚心坦懐に真跡に眼を向けるとき、日蓮の真の教えを垣間見ることができる。板漫荼羅幻想から目覚めるとき、信徒会員は、はじめて実像の日蓮に会うことができる。


§


【参考】

 文献的な考証から板漫荼羅を問う『大石寺本尊真偽問答』(参) は短編で読みやすい簡潔な秀作です。一読をお薦めします。

大石寺本尊真偽問答
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/n_kusuyama_001.html

【謝辞】

 まだ原稿の段階でお読みいただいたMU氏から「戒壇之大御本尊といった器物崇拝が日蓮の本懐でないことがわかり、ほっとした」との感想を聞き、大いに勇気付けられ、一挙に文章をまとめることができました。

 ご多忙のところ、わざわざご感想をお寄せくださったTK師、EN師、またここ数年、繁く板漫荼羅談義を重ね、疑義に至るまで懇切にお付き合いくださり、さらに綿密な注意を与えてくださったMO氏には衷心より御礼申し上げます。そして、編集的視点から、何度も感想と校正を下さったHK氏には感謝申し上げるものです。

 皆さま、有り難うございました。


saikakudoppo@rio.odn.ne.jp


> <何故わたしが、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのかも、是非、併せてお読みください

> 必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別
> 大石寺漫荼羅本尊の真偽について

> 大石寺持仏堂安置本尊の偽作図形論証
> 『風塵舎/本門戒壇大御本尊に対する邪妄を破す』に反証する
> 「風塵舎/犀角独歩と称する妄乱を憐れむ」に反証する