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 資料:『ラーベと発電所復旧』 


 以下の資料は、日本軍占領下の南京・下関発電所の復旧に関する資料をまとめたものです。
 ラーベの日記などを読む上での助けになるものと思いますので、投稿いたします。
 ラーベの日記は、講談社『南京の真実』を引用いたしました。不適切な翻訳がありますが、共通の資料として、そのまま引用いたしまし、問題のある個所には「引用者註」を付しました。

 

目   次

概要

写真資料

和記洋行での出来事
(12月17日頃についての証言)陳徳貴の証言

 

12月15日
  ラーベ日記

12月16日
  ラーベ日記
  ヴォートリン日記

12月17日
  ラーベ日記

12月18日
  中島今朝吾日記
  ラーベ日記

12月19日
  ラーベ日記

 

12月20日
  韓湘淋証言
  梶谷健郎日記

12月22日
  ラーベ日記
  フィッチ「南京日記」
  ヴォートリン日記
  マギーの妻への手紙

1月6日
  ラーベ日記

1月8日
   マッカラム日記

1月1日頃の状況
  南京特務機関報告



【 概 要 】

 南京・下関の発電所には、ジーメンスが収めたタービンが三基あったと思われれる。また、米国製のボイラーもあったという。[「ラーベの日記」10月19日参照 中島今朝吾日記によれば、「下関ノ発電処ハ米式」とあるので、この米国式ボーラーについて述べているのかも知れない。
 ジーメンスの社員であったラーベは、12月15日に、日本大使館の福田氏の訪問の受け、電気・水道・電話の復旧について話し合った。しかし、当日は発電所などに行くことができず、16日に通訳の菊池氏の同行で、下関発電所を調べに行った。17日に発電所復旧について日本大使館より依頼を受け、ジーメンス本社に技術者を送るように電報で要請した。

 南京陥落の日も発電所で勤務していた職員が和記洋行へ避難したところ、政府機関の職員であるとの理由で54人のうち43人が、日本軍の手によって殺害されてしまった。[概要註1]これは、日記などの記述から、12月18日か19日のことと思われる。
 電力の復旧は、第十六師団が担当した。12月18日頃に中島今朝吾師団長は、技術のある者を部隊より45名選び、発電設備の運転を命じたが、下関の発電設備が大きく、日本と違う米国式であったので復旧までに約2週間を要した。
 ラーベは、18日には第十六師団と思われる将校と打ち合わせをした。
韓湘淋は、ラーベの日記にしばしば名前が現れる「韓」のことで、安全区の難民の食料委員会の責任者をしていた。ジーメンスの社員であったので12月20日頃、発電所を日本軍将校と見に行った。韓湘淋は1980年代の調査で、そのときの様子を証言している。なお、韓湘淋は『档案』第一五号文書、第六四件の翻訳をした。

[概要註1]
秦郁彦『南京事件』(中公新書、1999年)では「便衣狩りを徹底しすぎて、警官、消防士、電気会社の技術者まで殺してしまったので...」(p.193)としているが、実際には「便衣」には関係なく、その身分を承知の上で殺害した。

 

【 写 真 資 料 】
発電所全景
爆撃を受ける発電所
1937年9月25日
韓湘淋
和記公司と電気廠周辺

 

【 資 料 】

12月15日

◆ラーベ日記

 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
 十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってブラスだ。このへん、氏はよく承知している。この問題に関しては我々、もしくは私が役に立てるだろう。韓と私は様子がわかっているから、復旧させる自信がある。
『南京の真実』p.112

[引用者註]
最後の行のより正確な訳は、
「これらの三つの施設の機能については、韓氏も私もよく知っているので、復旧させるための技術者と労働者を得ることができるのは疑いない。」


※ この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。

◆議事録

 南京における日本軍持務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
 一九三七年十二月十五日 正午
(途中省略)
七、電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーべ氏とともにこれらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。
(途中省略)
 司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、日本軍特務部長の原田熊吉少将がやってきた。ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。

 残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。
『南京の真実』p.113-115

[引用者註]
「関口鉱造少尉」、「原田熊吉少将」の部分は、原文に従えば、それぞれ「関口海軍大尉(または中尉)」、「原田少将」となる。


12月16日

◆ラーベ日記(12月16日)

 菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、四十〜四十五人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じてわが社のドイツ人技術者をこちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。
(途中省略)
 下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。
『南京の真実』p.121

◆ヴォートリン(12月16日)

ジョン・ラーべ氏は、自分としては電気・水道・電話の復旧を手伝うことができるが、城内に秩序が回復されるまでは静観するつもりだ、と日本軍の司令官に伝えた。今夜の南京は、壊れてしまった惨めな貝殻にほかならない。通りに人影はなく、どの家も暗闇と恐怖に包まれている。
『南京事件の日々』p.59-60


12月17日

◆ラーベ日記(12月17日)

 私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。

 ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路二四四号。「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーべ

 日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官に、次のようにことづけた。 「 『市長』の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています 」
『南京の真実』p.125

※当時、発電所の職員が避難していた「和記洋行」の、12月17日頃の状況については、末尾の「陳徳貴証言」を参考にされたい。


12月18日

◆中島今朝吾日記(12月18日頃)

十二月二十七日ヨリ三十一日ニ至ル行事

南京ノ電灯ト水道ハ十三日朝迄運転シアリタリトノコトナリシモ軍隊ノ入城掃討ノ際技師モ職工モ片付ケタラシク之ヲ運転スル要員ナシ軍ニ於テモ考ヘアルトノコトナルモ手足持タヌ考案ハ何時実現スルトモ明ナラズ、予ハ之ニ関セズ直ニ着手スルニ決シ師団内ニ於テ曽テ電灯又ハ水道会社ニ勤務セシ技士技手職工ヲ調査セシニ四十五名を得タリ 工兵隊ニ技士少将アリ依リテ之ヲ招集シテ検査、運転ヲ命ジタルハ十八日頃ナリ
下関ノ発電処ハ米式ニシテ日本ニテハ多ク独式ナレバ技士等ハ稍ゝ不慣ノ点アルニヤ見ヘタルモ之ヲ激励シテ試運転セシメントシ結極[局]城南ノ小発電処ヨリ着手シ送電ノ上下関ノ発電処ノロストルノ散灰機ヲ動カスコト丶シテ着手セリ
『南京戦史資料集』p.235-236


◆ラーベ日記(12月18日)

 私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがあった。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、目と鼻の先で車が盗まれたこともあった。何とか苦労して取り戻すことができたが。将校の言うことになど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。

 中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!
 私は発電所の復旧の件で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に戻った。

 家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。
 ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたという。私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。「一人で先にいってください」。次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。
 しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」
『南京の真実』p.126-127



12月19日

◆ラーベ日記(12月19日)

 いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。これでは発電所を復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。今日そのことでまた菊池氏がやってきた。
私はいってやった。「作業員は逃げてしまいましたよ。そりやそうでしょう、私たちヨーロッパ人さえひどい目にあっているというのに、自分たちが安全なわけがないと思ってるんですよ」
 すると菊池氏はいった。
「ベルギーでもまったくおなじ状態でした!」
『南京の真実』p.129


12月20日

◆韓湘淋証言(12月20日頃) 《写真》

  日本軍が入ってきてから、水道と電気が停まりました。七日目になって、日本軍は慌てて電気工事人を探して水道と電気を修復しました。わたしはドイツの商社で働いたことがあるので、ドイツ商のラーべがわたしに電気労働者を何人か連れて機械を見に下関へ行かせましたが、日本の将校二人と憲兵一人とに護送されました。珠江路から車で下関へ行ったのですが、その道で、打っ遣られた物がいっぱいなのが見られるだけで、車は早くは走れず、死体にぶつかる時もありました。
(途中省略)
  首都電気工廠は、兵士の死体が五十ないしは六十体あって、電気工廠の労働者はみんな和記洋行に逃げて行ってしまっていました。
  下関から城内に入ると、熱河路が破壊されて様を為さなくなっていました。両側の家が九割がた焼き払われていて、焼け焦げた大人や婦人や子供の死体もありました。
加藤実翻訳『『この事実を……』「南京大虐殺」 生存者証言集』、株式会社星雲社、2000年2月11日 第一刷
p.309, 311


◆梶谷健郎日記(南京・第二波止場司令部・騎兵軍曹)

 ◇ 十二月二十日 晴
(途中省略)
独逸人電気技師来る。鈴木部隊も漸く大世帯となり人員は倍化せり。
『南京戦史資料集U』 p.434-437

[引用者註]
第二波止場司令部は、電灯廠に置かれていた。「独逸人電気技師」について、ラーベは何も記録していない。可能性があるとすれば、クレーガーである。


12月22日

◆ラーベ日記(12月22日)

 私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。
 ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ! それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。
『南京の真実』p.136


◆フィッチの「南京日記」(12月22日)

 下関にある電気会社の技師の呉(訳音)氏がおかしい[驚くべき(引用者補足)]ニュースを伝えてくれました。彼によれば、五四人の労働者は南京陥落の日まであれほど健気に職場をまもり続けたのですが、とうとう揚子江岸のイギリス系の国際輸出会社に避難する破目になり、そのうち四三人は、発電所が政府機関だという理由で(実際にはそうではありませんが)拉致されて銃殺されたとのことです。日本側官憲は、これら労働者の一人一人をつかまえて発電機を始動させ、送電しようとして、毎日私の事務所にやってきたのであります。あなた方の軍隊が労働者の大半を虐殺してしまったのだと、彼らにいってやることはせめてもの慰めでした。
『日中戦争史資料 9』、p.37-38、ティンパーリー「戦争とは何か」に掲載された、フィッチ「南京日記」

[引用者註]
『日中戦争史資料 9』では、(訳注)としてこのように書かれている。
「この日記は電気工の避難先をイギリス人経営の国際輸出会社(The International Export Company)としているが、実際は下関と草鞋峡のさかいにあった肉類卵加工工場の和記公司であったのかもしれない。本書の旧訳本『外国人の見た日本軍の暴行』がよった中国語訳本はこれを和記公司としている。」
和記公司(原文では、和記洋行)は、中国文献では「和記洋行」として現れている。「洋行」とは海外と取引を行う商社のことで、The International Export Company が英語名のように思われる。和記公司は専用の埠頭を持っていた。
フィッチの『南京日記』は、報告のために後日作成され、リアルタイムで書かれたものではない。


◆ヴォートリンの日記(12月22日)

 午後、アメリカ聖公会伝道団のフォースター氏が訪ねてきて、次のような悲しい話をした。日本大使館は、電燈が点燈できるように発電所の修理をさせたいと思っていた。そこでラーベ氏は従業員五〇人を集め、彼らを発電所に連れて行った。午後、彼らのうち四三人が、中国政府の官吏であるとの理由で日本兵に射殺された。
『南京事件の日々』p.75


◆マギーの妻への手紙(12月22日付)

(途中省略)
何日か前に日本の官吏が、工兵隊将校を伴って国際委員会に来て、電気に詳しい労働者を探してほしいと頼んだので、ラーベ氏や他の人たちが54人の人たちを探した。
その人たちは電気の仕事を始めて国際輸出会社(和記洋行)に住んでいた。
兵士がその54人のうちの43人を撃ったのは昨日だと思う。
残りの11人が殺されなかった理由は、輸出会社のシーク教徒の警備員が彼らを知っており、以前そこで働いていたと言ったからだ。
他の43人を殺した弁解は、電灯廠が政府関係であり、それ故、彼らは政府職員であり殺されなければならない!、ということであった。
実際のところ、電灯廠はすべてが政府に所有されていたわけではないが、それは、すこしの違いにもならなかった。

<原文>
Several days ago Japanese officials with an engineering officer came to our Committee asking us to find them workmen familiar with the electric light works, so Mr. Rabe and others did find 54 men. These men began working in the electric light works and living at the International Export Co. I think it was yesterday that soldiers shot forty-three of the fifty-four workmen. The only reason why they did not kill the remaining 11 was that the Sikh watchman at the Export Co. recognized them and said they formerly worked there. Their excuse for killing the others was that the electric light Co. was a government concern and there-fore these men were government employees and should be killed! As a matter of fact the company was not wholly owned by the government but that makes not the slightest difference.
["Eyewitnesses To Massacre" p.179]

[引用者註]
マギーの手紙は、谷滝二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1992年)に、その抜粋が邦訳されている。
しかし、"Eyewitnesses To Massacre"に掲載された英文と比較すると、各所で簡略化されて訳されているなどの問題があったので、改めて自分の翻訳を付した。


1月6日

◆ラーベ日記(一月六日)

 十時ごろ日本軍のトラックがきて、うちの収容所から下関の発電所の作業員を十五人連れていった。みなしぶしぶ出かけていった。前回、食事をちゃんと与えると約束しておきながら、ろくなものを食べさせてもらえなかったからだ。まったくありつけなかった者もいた。それだけではない。発電所ではなく、市の南部の門のちかくで塹壕掘りをさせられた者も何人かいた。
『南京の真実』p.168



1月8日

◆マッカラムの日記

一月八日
(途中省略)
建設団ガ電気ト水道ヲ回復スルベク希望シマス。「ラビ(John H.Rabe)」氏ヲ通ジテ職人ヲ仕事ニ就カセル様ニ最後ノ取極メガ為サレタ前日ニ、下士官ヲ長トスル陸軍ノ一隊ガ英国輸出会社ノ工場へ行キマシタ。ソシテ電気会社所属ノ傭人四十三名ヲ整列サセテ彼等ヲ機銃掃射シマシタ。
 此ノ電気会社ハ個人経営ノ団体デシタ。該兵士達ハ、調査モセズニ射殺サレタ者達ハ政府ノ傭人デアルト主張シマシタ。
『日中戦争史資料 8』p.123-124 マッカラム日記[検察文書二四六六号=法証三〇九]

<原文>
The constructive group want to restore electricity and water. The day beforethe final arrangements were made through Rabe to get the work men back onthe job, a military detachment headed by non-commissioned officers went to the British Export Co.'s factory and picking out a group of Electric Light Co. Employees, 43 of them, lined them up and machine-gunned them. The Light Co. was a private corporation. The soldiers without investigation claimed they
were government employed.
["Eyewitnesses To Massacre" p.238、日付は1月9日になっている。]


1月1日頃の状況

南京班第二回報告(二月中状況)

宣撫概況

一方電気ハ当初下関発電所ヨリ着手セルモ機械設備大ニシテ補助発電所ナクシテハ通風竝給水ヲ得ス圧力上ラスボイラーニ危険ヲ感シタル為直ニ中華門外六里ノ地点ニ在ル上城門発電所ヲ試運転シ途中城外外線ニ多大ノ損傷アリシモ昼夜兼行電気水道両々本年一月一日ヨリ一部軍隊ノ利用ニ供シ次テ下関発電所ノ復旧ト共ニ水道電力モ之ヨリ供給ヲ受ケ漸次需要範囲モ拡大シテ今日ニ及ヘルモノナリ。
(1行省略)
電気及水道ノ両事業ハ今日ニ至ル迄軍直営ノ形式ヲ以テ経営セラレタルモ移動性アル軍隊ノ当然ノ帰結トシテ其ノ経営主体ハ第十六師団ヨリ派遣軍経理部ヘ更ニ第三師団経理部ヘト順次変更セラレタリ
当初ハ技術竝労働力不足ノ為専ラ軍隊ノ需要ニ応スル第一義トシ所轄部隊ノ許可ヲ得テ供給セリ。
『十五年戦争極秘資料L 華中宣撫工作資料』不二出版、p.160


 




【 参 考 資 料 】

和記洋行での出来事(12月17日頃についての証言)

陳徳貴(陳徳貴、男、67歳)の証言

  1937年12月12日に、わたしは下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日こ、日本軍が下関にやって来て、ここにわたしたち難民がいっぱい居るのを見つけました。翌日の朝、日本兵が二百人近く来て、何千人もの難民の中から二千八百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを四人一列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、わたしたちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。三日目の朝、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人が直ぐに押し出されて行って、間もなく、一頻り銃声が聞こえました。少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されて行き、又もや一頻り銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、わたしには分かりました。日本軍が三番目の人たちに出て行かせようとした時に、わたしは出て行きました。それは午前八時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵がわたしたちを押して行くのでした。長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に三十何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだとわたしはすぐ気づきました。わたしが水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、わたしは思いつきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう側まで潜って行って、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから十人ずつ、十人ずっと日本兵に銃殺されて行くのをこの目で見たのです。朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が六、七百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。暗くなり、日本軍が行ってしまってから、わたしは手探りで岸辺までやって来て、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れ絨毯を一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。明くる日日本兵が何人か桟橋からやって来て、わたしが震えているのを見つけ、わたしを狙って二発撃ちましたが、弾はわたしの太股を抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵はわたしが死んだと思って、行ってしまいました。三日目になって、死体を片付ける人たちがわたしのまだ活きているのを見つけて、わたしを救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。(李文奎と劉[雨のしたに文]と馮中美が記録)

加藤実翻訳『『この事実を……』「南京大虐殺」 生存者証言集』、株式会社星雲社、2000年、p.24-25