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 史料:「王新倫事件」と東中野氏の「反日攪乱」説  


  東中野修道氏は、安全区に中国将兵がいて反日攪乱行為をしていたと、驚くべき説をとなえている。
 「驚くべき」というのは、安全区の外国人はもちろん日本側にもそういう資料がない上、当時の状況からみて不可能と思えるからである。
 以下、関係資料を掲載いたしますので、東中野修道説の正否は読者が判定してください。
 東中野氏が逆の立場なら、このような出所不明の「南京日本軍憲兵隊の報告書」を引用した記事である「四等史料」と意味を取り違えてトリミンしたマカッラム証言を元にした議論を、ぼろくそにけなすことだけは間違いないが...

東中野修道説:
つづけて『チャイナ・プレス』一月二十五日号は、その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。
≪その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民の第四部門のグループを指揮していた。また、前第八十八師の副師長馬[足+包]香(音訳)中将や、南京警察の高官密信喜(音訳)もいると言われている。
 馬中将は安全地帯内で反日攪乱行為の煽動を続けていた、と言われる。また、安全地帯には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。≫
 安全地帯に潜伏中の支那群将兵が悪事を働いたのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』P.276-277


 なお、ここで問題となる「王」は、ワン・シンロン、ワン・シンリン、あるいは東中野氏によれば、ワン・シンロウ(労なら「ラオ」のはずだが...)と表記されているので、王興龍、王新倫、東中野説によれば王信労などの漢字表記がされている。
 以下、「王」に関する記述は下記の、安全区の関係者が書いた記録に一致する。ここでは、軍人であったかどうかが問題であり、「反日攪乱行為」などいう話はでてこないばかりか、呉という人によれば、「王」は元、南京警察の刑事であったという。

『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』
p.291
ウイルソンの手紙

 十二月三十日 木曜日

(途中省略)きょう哀れな愚か者が、大学の養蚕施設に
ある難民キャンプに避難している男性のことを怒って、こと
もあろうに日本兵を数人連れてきて、六挺のライフル銃が埋
めてある場所を教えてしまった。激しいののしり合いがあっ
て、四人の男性が連行された。うち一人は中国陸軍の大佐だっ
たという忌まわしい罪をきせられた。彼がまだ生きていると
は考えられない。


『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』
P.148
86B 南京日本大使館宛書簡
      ――十二月三十日

                南京、金陵大学
                 一九三七年十二月三十日

  南京日本大使館諸賢
拝啓
 午後二時頃、金銀街六号の金陵大学蚕桑系の建物に憲兵隊
将校および兵士が来ました。彼らはWC(便所)の後ろに小
銃六、拳銃三―五およびそばで見た人たちによれば機関銃の
部分と思われるものを発見しました。人々によれば、これら
の銃は敗残兵によって投げ捨てられたもので、面倒を避ける
ために埋められたものだと言います。
 憲兵隊は以下の男四人を連行しました。陳嵋(または王興
龍)、楊広発、王二(通称)、姜銘珠(いずれも音訳)。
 彼らについて言うと、陳嵋(または王興龍)はいくらか教
養のある人で、難民の世話に自発的に当たっていました。今
日この事件が発生するまでなにも悪い情報はなかったのです
が、いま彼はかつて保安隊に勤務していたと言われています。
 楊広発(徳)は金陵大学蚕桑系の職員で、私たちは保証で
きます。
 王二(景和)は金陵大学蚕桑系の門番で、これも私たちは
保証できます。
 姜銘珠は蚕桑系の建物の難民の息子です。他の人々が彼に
ついては喜んで保証すると言っています。
 (注意。後に人力車夫の愈懐永が加わりました。)
 以上が私たちがこの事件について持っている情報のすべて
です。
 おそらく、中国軍敗残兵が大量の銃を投げ捨てた後、人々
が驚いて埋めたり、池に投じたりしたのでしょう。もし憲兵
が池を調べたら、大量の武器を発見すると思われます。
              敬具
 金陵大学安全区住居委員会 チャールズ・H・リッグズ
 金陵大学緊急委員会委員長 M・S・ベイツ

[引用者註:「拳銃三―五」の「―」は数字の一ではなく、本文では「|」。]


『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』
p.146
87B 南京日本大使館宛書簡
      ――十二月三十日

                 南京、金陵大学
                 一九三七年十二月三十日
  南京日本大使館諸賢
 拝啓
 過去二日間、付近の兵士の数はずっと減り、状況は著しく
改善されました。このことを私たちはとても感謝しています。
 しかし兵士による犯罪はなおやまず、私たちおよび学内の
人々(難民)に危害を加え続けています。そこで以下、.少数
の事件を報告し、貴下の規律および秩序回復の一助としたい
と思います。
 (一)本学の蚕桑系、農村教師養成学校、農業経済系(小
桃園)と付属中学の建物には毎日一、二回、毎夜一回女を捕
まえに兵士が来て、ときには難民から略奪する。二十八、九
日の夜には婦人二名が農村教師養成学校から連れていかれた。
 (二)一日に三軒の教職員宿舎が兵士の侵入にあっている。
昨日、彼らは金銀街六号から相当の教師の財産を盗んだ。
 (三)私たちの保護下にある難民が、毎日数名、労役のた
め兵士に連行されている。もちろん私たちは正規の方法での
労働者確保は喜んで援助するものである。昨日、農村教師養
成学校に数人が戻ってきたが、彼らは二日間食料なしで働か
されていた。付属中学からは難民が二名、兵隊の輸送のため
城外遠くまで連れていかれ、そこで「安民護照」(平和的市
民証明書)を破られた。この後者のトラブルは市内で頻繁に
起きており、貧しい勤労者にとって貴重なこの証明書を尊重
するように兵士に明確な指示を出す必要があると思われる。
 (四)私たちは先日御報告した一事件、最近来兵士の乱暴
な行為によって生じた不幸のよい例である事件について、貴
下の御援助をお願いしなければなりません。十二月二十三日、
本学の用務員潘樹慶はある難民女性を本学から病院へ運ぶの
を手伝っているとき、一兵士に捕まって、板橋鎮(南京の西
南一五キロ)まで輸送人夫に使われてました。これは釈放さ
れた人から聞いたことですが、潘はそこに留め置かれて、ま
だ釈放されていません。彼はある未亡人の一人息子です。こ
の件を、憲兵により、または領事館警察の最良と思われる方
法により早急に調査してくださるようお願いします。中国文
の原報告を添付します。
 貴下の秩序確立および民衆の公正な扱いへの
 友誼的な関心に感謝しつつ
               敬具
      金陵大学緊急委員会委員長 M・S・ベイツ


『日中戦争史資料 9』
p.176-177
第二十八号文書 王新倫事件にかんする
           会談の覚書

            一九三七年十二月三十一日午後二時三十分
出席者
 C・Y・徐(訳音)博士 収容委員長
 呉国珍(訳音)第六収容区長
 M・S・ベイツ博士 金陵大学緊急委員会委員長
 ルイス・S・C・スミス博士 国際委員会書記
 1 徐博士は自分は収容区長にたいしては何ら責任をもつものではな
いと指摘したので、区長らは自ら下部の人々を任命した。
 2 第六収容区長は呉氏で、この男、王新倫(訳音)をよく知らなかっ
た。しかし、両者は同郷人で王が収容委員会の職員になってから近づき
になった。養蚕所の元責任者は呉氏の父親が任命したもので任則賢(訳
音)という。この人はさして有能ではなかったので、この王新倫に手助
けをたのんだ。
 3 呉氏は王氏が南京警察の刑事であったことを知っている。
 4 この任という男は王氏をねたんだので、この件を憲兵に報告した
任はいまだに養蚕所にいる。
 5 呉のいうには、ほかの四人の男が銃を埋めたそうである。王は銃
を埋めたのはこれらの四人であると兵隊にいった。
 6 ベイツは、中国語の書類に署名した男はこれ以前は「リエン・チ                    
ャン」だったというが(呉はそれを「ルー・チャン」(a)だと主張した)、
金銭上のことでこの元「リエン・チャン」(b)と王はごたごたをおこした。
後には彼「リェン・チャン」は日本兵と一緒になり、昨日、妻を養蚕所
からつれ去った。「田中氏が昨日、私にいったところでは、この王とい
う男はそこでも女を強姦したそうだ。」呉は王が強姦をおこなったこと
はないといって否定した。
   (a)リェン・チャン(LienChang)は大尉。
   (b)ルー・チャン(LuChang)は大佐。
 7 徐博士はわれわれの態度はどうかと尋ねた。ベイツは、もしこの
王がもと兵士だったならば、われわれの手出しはできないといった。そ
れは軍事上の問題だからである。王は未知の人間としてわれわれのとこ
 ろへ来た。しかし、二人の召使いについてはわれわれ大学委員会は身元
 を保証するだろうし、難民を含めて他のものも保証をするであろう。
  8 徐博士は日本大使館に報告にいった。
                               L・スミス


『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』
P.148
88B 南京日本大使館宛書簡
     ――十二月三十一日

                一九三七年十二月三十一日
  南京日本大使館諸賢
 拝啓
 本学の用務員潘樹慶が昨晩釈放されたことを喜んで報告い
たします。彼は蕪湖までの行程を含めて、八日間労働を強制
されました。彼は、食料については厚遇を受けたが賃金はな
かった、と言います。
 昨日の蚕桑系事件での重要人物(陳嵋こと王興龍)につい
て、彼を難民介護の仕事に派遣した国際委員会住居委員会は、
本日、彼がどういう関係で委員会に来たか、また彼について
どういう情報があるか、調査のうえ、報告する予定です。
 ここで、昨日福田氏に、またより簡単には田中氏にも述べ
た口頭声明を繰り返させてください。私たちはこれまでつね
に捜索・調査にオープンであったし、いかなる種類の犯罪を
行った特定個人をも保護しようとしませんでした。私たちは
一般兵士の不当かつ頻繁な侵入を好みませんが、将校が正当
な方法で行ういかなる調査もつねに歓迎します。この陳また
は王という男はこれまで決して本大学に関係を持っていませ
んでした。実際、他のヘルパー(難民区工作員)は本学の教
職員であるか、私たちが個人的に知っている者ですので、同
様な事件はもう起きないものと考えます。
              敬 具
          (ベイツ―訳者、以下( )内は同じ※)

※南京日本大使館へ提出した書簡には当然ベイツのサインが記されていたが、本資料はベイツが控のために保存していたコピーなので、サインはない。