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 "What War Means"第3章と「档案」の異同について

+東中野説批判(長文) 



"What War Means"第3章と「档案」第五十号文書の異同について

 H.J.ティンパレー(H.J.Timperley)の編纂した"What War Means"の第3章「約束と現実」(PROMISE AND PERFORMANCE)はベイツの報告書であり、「南京安全区档案」("Documents of the Nanking Safety Zone")の第五十号文書にも掲載さている。
 ティンパレーがベイツの報告書に手を加えたことは、ベイツ宛てのティンパレーの書簡に書かれており、両文書に違いがあることは主にベイツの了解を得たティンパレーの加筆・改変が原因であることは明白である。また、その違いは「南京大虐殺」の全体像に影響を与えるようなものでもない。

 "What War Means"と「南京安全区档案」の異同については、すでに洞富雄「日中戦争史資料 9」で、すべてを網羅したものではないが資料中に「訳注」として注記されている。洞富雄氏の「訳注」を見るだけでも、両文書は独立して編集されたもであることは明らと思われる。
 しかし、東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』(展開社)では、第五十号文書からベイツの「四万人虐殺説」が削除されていると皮相的な議論をなし、また「自由史観」のサイトにても、この説を無批判に受け売りしているという現状がある。
 そこで、"What War Means"第3章と「南京安全区档案」第五十号文書について、なぜ両者の間に異同が生じたかについて述べてみたい。




(1)ベイツらとティンパレーの協議について

 "What War Means"の編集に当たっては、草稿が出版社に発送された後までもベイツなどの南京にいる安全区の関係者と内容が協議されていた。
 これは、出版後に文書作成者に与える影響などを考え非常に神経質になっていたからである。また「残酷物語」になってしまうことを恐れていると、ベイツはティンパレーへの1938年3月14日付けの手紙でこのように述べている。

きょう、ミルズとスマイスとともに君の原稿を検討したあと、この件について真剣に相談しました。
二人とも、この件はあわててすべきではないと痛切に感じています。イギリスに原稿を送る前に、こちらのグループから誰か(私が適任だと二人は言います)が出かけて行き、君と一緒に作業をすべきだ、ときつく言われました。こちら側のものが一人もいないのでは、必ず間違いが起きるだろうし、しかも、いたんおかした間違いは、日本側に反駁の機会を与えるものであり、全体の効果を弱める結果になる。二人はそういったことを避けたいと願っています。
<途中省略>
上海行きのもうひとつの理由は、こちらでは、「残酷物語」風にとられるのをみな恐れています。読者にはそのような印象を持ってもらいたくないものです。

『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P360
Dベイツからティンパレーへ

 また、この手紙では、後に「南京地区における戦争被害」としてまとめられる調査の途中であり、ベイツは「処刑や強姦」よりも基本的なこととして、経済の破綻、財産や生産手段への被害、社会的諸機関の破壊の追跡調査が必要だと述べている。
 その他の手紙を見ると、実質的には手紙で意見交換したようであるが、最終的にはベイツが上海に行き、かなり細かい点まで南京の関係者とすりあわせが行われたことが分る。
 従って、ティンパレーの"What War Means"の南京に関する記事の編集は、ティンパレーの一存で行ったものではなく、ベイツらの安全区の関係者との合同作業の結果だといえる。




(2)第3章の文書の改変について

 3月14日付けの手紙でティンパレーは「仮原稿」の内容について説明している。その中で、その時点では第4章になっていたベイツの報告書についてこう述べている。

第四章――占領後の難民登録とその結果に関するあなたの記録は、一、二曖昧なところを明確にするために若干手直しがしてあるので、よく目を通してください。

『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P360
Eティンパレーからベイツへ

 「第一章」がなくなったので、すべて1章づつ繰り上がり、ここでいう「第四章」は最終的に「第三章」になった。
 ティンパレーはベイツの了解のもとに「曖昧なところを明確にするために」元の文章を改変していると述べている。
 実際には、ティンパレーは「一、二曖昧なところ」にとどまらず、第3章以外でも、日付を文章の頭にもってきたり、文書の順番を変えるなど手を加えている。

 一方、"What War Means"と同じ頃出版された、徐淑希"The War Conduct Of The Japanese"(日人戦争行為論要)でも、ベイツの報告書と「南京安全区档案」が引用されている。
 "Wat War Means"の序文の日付が3月23日、"The War Conduct Of The Japanese"の序文は4月12日付けで、ほぼ同時に編纂されていたと考えられる。
 徐淑希は、1939年に"Documents of the Nanking Safety Zone"を出版して、所蔵していた安全区の公信を全面的に公開した。日本では中国名の「南京安全区档案」として知られているので、この投稿でも「南京安全区档案」あるいは単に「档案」と表記する。"档案"は、"ある機関が保管している文献類"を意味する。




(3)両文書の異同について

 この投稿では、"What War Means"と「南京安全区档案」のベイツの報告書の間の違いについて必要なところのみ述べるが、小さな語の変更や誤植と思われる部分を含めると実際には、3章だけで30近い文に加筆・削除・書換がみられる。(ただし、数字を文字表記にするなどの内容に影響を全く与えない変更はこの数には含まれない。)
 加筆などの改変の主な目的は、曖昧なところをはっきりさせたり、表現を分かりやすい文にすることであると思われる。

 加筆の例としては、第3章の冒頭に
"Registration was begun in the main compound,"(P100)
 とあるが、"What War Means"では
"Registration was begun on December 20 in the main compound,"(P52)
 と12月20日と日付が挿入されている。

削除の例としては、
 "As a general finding, it seems clear that ..."(P106)
 では、"As a general finding,"が削除され、"It seems a clear conclusion that ..." (P59)となっている。

 書換の例としては、
"Next morning there came to the University Hospital a man with five bayonet wounds."(P102)
 が、
"Next morning a man with five bayonet wounds came to the University Hospital."(P54)
 と分かりやすい構文に書換えている。

 しかし、「档案」には見られない大きな加筆が次のように2ヵ所ある。
1) Burial gains report 3,000 bodies at the point, left in row piles after mass executions.
(P57,「档案」P106と"The War Conduct Of The Japanese" P144に該当)

埋葬隊はその地点には三〇〇〇の遺体があったと報告しているが...
『日中戦争史資料 9』P46

2) Evidence from burials indicate that close to 40,000 unarmed persons were killed within and near the wall of Nanking, of whom some 30% had never been soldiers.
(P59,「档案」P105と"The War Conduct Of The Japanese" P146に該当)

埋葬による証拠の示すところでは、四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの約三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人びとである。
『日中戦争史資料 9』P47

 この2ヵ所は共に埋葬記録を根拠としているが原文への加筆であることは「四万人」の埋葬記録のできた時期から明らかとなる。
 なぜなら、ベイツの報告書は1月25日に書かれたものであり[註1]、埋葬の結果が「四万人」ではあることは、この時点でまだ分っていないからである。
 では、「四万人」とはいつの記録であろうか。

 まず、前掲の3月14日付ティンパレー宛てのベイツの手紙で、すでに処刑された「非武装民」は4万人であると述べている。

 すでに調査がほとんどできているような重要なものがあります(これによると、市内および城門近くで銃撃または銃剣により処刑された非武装民は四万人にのぼるとみられます。)

『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P361
Dティンパレーからベイツへ

 また、ベイツと生活を共にし、被害調査に共同で当たっていたスマイスが同じ情報を持っていたのは当然といえるが、このように述べている。

一九三八年三月二一日付
作成者――南京国際救済委員会(スマイス)
〔欄外にローゼンの署名〕
内容――
現在の状況に関するメモ

<途中省略>
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし、後者の数は、長江の川岸沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般市民であると見積もっている。

『ドイツ外交官の見た南京事件』P233

 これより早い記録では、ドイツの南京大使館分館の書記官であったローゼンがこのように報告している。

ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者―ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
内容 ――
南京の状況

<途中省略>
紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路の中に見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い町角にさえ)何週間も散らばったままである。

『ドイツ外交官の見た南京事件』P218-219

 つまり、3月4日頃にはまだ「下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体」があり埋葬の途中であった。
(ただし、後述するヴォートリンの4月15日の日記で「紅卍字会」のデータに下関は含まれていないとしているので、この下関の「三万体」は別のものであるかも知れない。)

 一方、3月21日のスマイスの報告ではかなり具体的な数字が出てきている。なぜこの時期に具体的な数字が得られたかは、ヴォートリンの4月の日記が明らかにしている

二日――きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうちの三分の一は民間人であったという報告が作成された。

『南京事件の日々』P240

 「三万二一〇四体」について、その内訳は、城内 1,793体、城外 30,311体 であることが、『大阪朝日新聞』「北支版」1938年4月16日の記事から分る。[註2]

 なお、ヴォートリンは4月15日に紅卍字会の本部で次のようなデータをもらったと述べているので、埋葬記録の数字は日々更新されている状態であった。

...すなわち一月の中旬頃から四月十四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうちの八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三[シ叉]河の地域は含まれていない。

『南京事件の日々』P240

 ベイツは、戦後に数字の根拠を「安全区の検査報告、および紅卍字会の死体埋葬報告」としている。

安全区の検査報告、および紅卍字会の死体埋葬報告では、男女の子どもの死体数はまったく不完全で、実数に比べて少なくなっています。平民の死者はけっして一万二千にとどまらないのです。武器を持っていない軍人で殺された者も三万五千を下ることは決してありません。

『南京事件資料集 2中国関係資料編』P306
南京金陵大学歴史教授ベイツ博士の声明書 一九四七年二月六日

 従って、ベイツの3月15日の「四万」という数字は「紅卍字会の死体埋葬報告」だけに基付くのではなく、その時点の「安全区の検査報告、および紅卍字会の死体埋葬報告」の最新情報であり、上記のスマイス報告と同じ内容の数字を得て3月下旬ないしは4月始めの土壇場で"What War Means"の原稿に挿入したと考えるのが自然である。
 なお、「声明書」で平民「一万二千にとどまらない」、非武装の軍人が「三万五千を下ることは決してありません」と述べているように、ベイツは被害者「四万」人説を唱えていたわけではない。

 1月25日付のベイツの報告書である「档案」第五十号文書の原文に、紅卍字会の「一月二三日」に始まったばかりの埋葬において、3月21日のスマイスの報告と同じ結論が得られるはずはない。
 従って、"What war Means"第3章にある2ヵ所の埋葬の記録に基付く数字は、ティンパレーまたはベイツが相互の了解のもとに原文に加筆したという結論になる。

 洞富雄氏は、かつて次のように疑問を呈していた。

ベーツ博士の記録は一月二十五日に書かれたものであるとされているが、(ティンパーリー編著・『南京安全区档案』とも)、埋葬死体四万という数字の根拠を、ベーツ博士が「埋葬の示すところでは」と書いているところに、不審が感ぜられる。というのは、当時、いくつかの埋葬隊が処理していた遺棄死体は、まだ一万にも達していなかったからである。それで、書翰の書かれた日づけを一月二十五日としたのは、なにかの間違いであろうと思われる。

『決定版「南京大虐殺」』P135-136

 しかし、この文書の日付は、本来は1937年12月25日ないしは26日で、内容に現れる日付も1月7日を最新のものとする。また「十二月三十一日に作成された報告書の草稿と一月三日のメモをもとにしたものである」という記述があり、更に「档案」第五十号文書の置かれた位置も1月の文書であることを示しているし、そもそも「档案」は2月19日までの文書しか掲載されていない。
 洞富雄氏の疑問は、埋葬の記録に関する2ヵ所は"What War Means"の編纂にあたって、最新の情報が挿入されたと考えることによって解決するのである。
 従って、この個所が"What War Means"の第3章以外の文書に見られないのは当然である。




(4)中国語訳との異同について

 "Waht War Means"の中国語訳とされる「外人目睹中之日軍暴行」の第3章との違いを検証してみたい。

 まず、最初に述べておかなければならないのは、この翻訳は刊行された"Waht War Means"の翻訳ではなく、ティンパレーから渡された草稿を翻訳したものであるという事実である。
 このことは、原書の題名が"The Japanese Astro-cities in China "("Astro-cities"は"Atro-cities"の誤植と思われる)と和訳の「外国人の見た日本軍の暴行」で述べられていることにも示唆されている。
3月21日のベイツのティンパレー宛て書簡から なお書名が決まっていなかったことが分る。そこで、仮の題名で草稿を中国語の翻訳者に渡したものと思われる。
 3月28日付書簡からも、まだ本の内容がチェックされている状態であったので、中国語訳のために渡された草稿と、出版された英語原本とでは違いがあるのは当然といえる。

 ティンパレーの加えた改変は、その内容に大きく影響を与えるところは少なく、翻訳にすると改変されたかどうかさえ判別が困難な個所が多い。
 しかし、"What War Means"と「档案」を較すると、前者に一致する個所と後者に一致する個所があるように思われる。

 まず、明らかに"What War Means"と一致するのは第3章の最初の文である。

「档案」では、
"Registration was begun in the main compound, occupied mainly by women (P139)
 となっているが、"What War Means"では12月20日と日付が挿入されている。
"Registration was begun on December 20 in the main compound, occupied mainly by women"( P52)
 これは、中国語訳では、
 「十二月二十日,登記在校内開始了。...」(「侵華日軍南京大屠殺史料」P188)
 と"What War Means"に一致する。

 一致しない個所は、埋葬の記録に基付く2ヵ所の記述が「档案」同様にないことである。
 また、次の個所も"What War Means"ではなく「档案」の方に一致すると思われる。

 「档案」では、
"As a general finding, it seems clear that a large majority of the men were taken off from the University were murdered the same night, some of them after being mixed with groups from other origins.."(P146)
 となっているが、"What War Means"では"As a general finding,"が削除されているところが主に異なり、
"It seems a clear conclusion that a large majority of the men were taken off from the University were murdered the same night, some of them after being mixed with groups collected from other places."(P59)
 となっているが、中国語訳では、
「各方面的情形推測,那一天従校内...」
と、"As a general finding"が訳出されているように思われる。

 これらの事実から、英国と米国で刊行された英文と、中国語版には内容に違いがあり、第3章については原文の改変により違いが生じていることは明らかである。
 また、埋葬記録を挿入するという大胆な改変は3月下旬ないしは4月始めに行われたために、中国語訳の原稿には含まれなかったと考えるのが妥当であると考えられる。




(5)"Wat War Means"と「南京安全区档案」の
依存関係の有無について

 次に、"Wat War Means"と徐淑希の「南京安全区档案」や"The War Conduct Of The Japanese"の内容は、どちらかが一方を転載したのか、あるいは、これらの書籍の元となった資料が別に存在するのかを検討したい。

 「南京安全区档案」に収録されている69の文書と"The War Conduct Of The Japanese"、"What War Means"の対照表を作成したところ、"The War Conduct Of The Japanese"が17件、"Wat War Means"が55件の文書の全部あるいは一部を引用していた。
 更に、「南京安全区档案」あるいは"The War Conduct Of The Japanese"と"What War Means"とは互いに参照した形跡はなく、独立した文書であることが明らかであった。

 まず、"What War Means"を元に「南京安全区档案」を作成することができないのは明らかである。
 また、その刊行にあたり、"What War Means"を参照していないことも明らかである。
 「档案」には文書の欠落により暴行事例(Case No.)444件の内46件が掲載されていない他、第二十五号文書の第一四九件に添付されていた日本大使館員宛ての12月25日付のスマイスの手紙が、「保存記録中になし」(Not among the documents secured.)と注記され、掲載されていない。
 一方、"What War Means"の「付録A」には、第二十五号文書の抜粋に加えて「档案」に欠落しているスマイスの手紙が掲載されている。(P189)
 従って、徐淑希は"What War Means"の内容をある程度知っていたことは「南京安全区档案」の序文で分るが、その刊行に当たり"What War Means"を参照していないし、あるいは"What War Means"自体が手元にないためにスマイスの手紙を掲載できなかったと考えられる。

 次に、"The War Conduct Of The Japanese"であるが、著者が同じであるので当然、掲載されている部分の内容は「南京安全区档案」に一致する。

 以上のように、ティンパレーの"What War Means"と徐淑希の刊行した文献は、全く独立に編纂されたもので、どちらの文書にも互いに依存する部分はなく、それぞれが南京安全区の"档案"の写しを持っていたという結論になる。





(6)東中野修道『「南京事件」の徹底検証」の
「削除説」について

 東中野修道氏は『「南京虐殺」の徹底検証』(展開社)ではこのように述べている。

三月二十三日現在、記録上は四万体近い埋葬数であった。そこでベイツは最終原稿の段階で、「四万人近い人間」の埋葬と書き込んだのであろう。

『「南京虐殺」の徹底検証』P330


 従って、ベイツの報告書、すなわち「档案」の第五十号文書の原文には埋葬の記録はないと東中野修道氏は推察しているのである。
 ところが、この記述が徐淑希の編纂した英文資料など「四書」では「削除」されていると矛盾したことを述べている。
 更に、加筆された2ヵ所について、東中野修道氏はそれぞれについて違うことを言っている。

 「埋葬隊はその地点には三〇〇〇の遺体があったと報告している」については、「四書」から「削除」されたので「ベイツが支那人から聞いた話は不確かなものとなってくる」と述べる。(P329)

 一方、「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され」については、『ベイツは最終原稿の段階で、「四万人近い人間」の埋葬と書き込んだのであろう』(P330)と「加筆」であるとしている。最終原稿の段階で書込んだのであれば、"What War Means"だけに埋葬記録が現れ、他の文書に現れないことは当然である。しかし、東中野氏は別の個所で「再三再四削除されたベイツ説」(P356)と「削除」されたとも述べるのである。

 しかし、すでに見たように、徐淑希は"档案"の写しを持っていたのであり、二次資料の"What War Means"から"The War Conduct Of The Japanese"や「南京安全区档案」を編纂したのではない。
 従って、原資料にない"What War Means"の改変された記述が徐淑希の 著作に現れるはずはないのである。

 東中野修道氏は、それぞれの序文の日付を列挙し、あたかも"What War Means"が最初の文書で、それより後に刊行された徐淑希の著作では問題の部分が「削除」されたかのような錯覚を読者に起こさせているのである。 「削除」されたというのなら、まず、徐淑希らの著作が"What War Means"を引用したことを立証しなければならない。

 更に『「南京虐殺」の徹底検証』の読者は、あたかも第3章でこの2ヵ所だけが「削除」されたかのように錯誤するであろう。しかし、これ以外に第3章だけでも30ヵ所近い異同があり、東中野説に従えば「削除」されただけでなく「四書」に加筆まであったことになってしまうのである。

 つまり、そのような推論をするなら"on December 20"のような個所まで何故わざわざ削除したのか、逆に"As a general finding,"などの語句を何故わざわざ加筆したのかも説明しなければならない。東中野氏の議論は予断に合わせた極めて恣意的なものであると言わざるをえない。





(6) 結  論 

 "What War Means"の第3章と「南京安全区档案」第五十号文書との違いは、ティンパレーとベイツの同意のもとに加筆、削除、書換などにより原資料の内容を改変をしたために生じたものである。
 この事実は、第3章に挿入された埋葬の記録が第五十号文書が書かれた1月にはまだ得られず、3月中旬以降になって明らかになったものであることからも言える。
 従って、埋葬の記録が「档案」第五十号文書の原文にあるとか、あるいは「档案」の刊行のときに削除されたという推論は誤りである。 また、"What War Means"と徐淑希の著作は独立に編纂された文献であり、相互に内容の依存性はない。「档案」は徐淑希の持っていた原資料の写しを掲載したものである。






【 脚 注 】

[註1]一月二十五日に書かれたが、それは十二月三十一日に作成された報告書の草稿と一月三日のメモをもとにしたものである。

『日中戦争史資料 9』P44


[註2]昭和十三、四、十六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋〔弁証二六九〇〕

南京便り第五章衛生の巻 林田特派員
<途中省略>
そこで紅卍会と自治会委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握つて片づけはじめた。<途中省略>最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動[ママ]いてゐる。

『日中戦争史資料 8』 P393
(東京裁判)四 不提出証書 B 弁護側証書
『決定版【南京大虐殺】』P140-141 にも引用あり





【 参 考 文 献 】

1) H.J.Timperley,"WHAT WAR MEANS: The Japanese Terror in China", London, Victor Gollancz Ltd, 1938
2) 徐淑希"The War Conduct Of The Japanese"(日人戦争行為論要), Shanghai, Kelly and Walsh,Limited, 1938
3) Timothy Brook,"Documents on the Rape of Nanking", The Univrtsity of Michigan Press, 1999 (投稿中、「南京安全区档案」からの引用と原頁数は本書による。)
4) 復刻版「外国人の見た日本軍の暴行」(龍渓書舎,1972年)
5) 岡田良之助/伊原陽子訳「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店,1999年)P172
6) 石田勇治編集・翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)
7) 洞富雄編「日中戦争史資料 8 南京事件T」(河出書房新社,昭和四八年)
8) 洞富雄編「日中戦争史資料 9 南京事件U」(河出書房新社,昭和四八年)
9) 南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」(青木書店,1992年)
10)南京事件調査研究会「南京事件資料集 2中国関係資料編」(青木書店,1992年)
11)"南京大屠殺"史料編輯委員会、南京図書館編輯「侵華日軍南京大屠殺史料」(江蘇古籍出版社,1985年)
12)洞富雄「決定版【南京大虐殺】」(徳間書店,1982年)
13)東中野修道『南京虐殺」の徹底検証』(展開社,平成10年)

「問答有用」No.13306 2002/03/04 17:29