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北村稔『「南京事件」の探求』批判
 『曾虚白自伝』引用の問題点 


 ティンパーレー(H.J.Timperley)が、1937年12月の南京陥落時や占領後の南京にいなかったことに疑問はない。しかし、2001年に刊行された、一見学術的な体裁の「南京事件」否定書、北村稔『「南京事件」の探求』(文春文庫)には、驚くべきことに、次ぎのような福田篤泰証言をもって、ティンパーリーが日本軍占領下の南京にいたとしている。

曾虚白は、ティンパーリーとの接近について次のように言う。「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。そういうわけで彼が〔南京から〕上海に到着すると、我々は直ちに彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口〔南京陥落直後の国民政府所在地〕に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することに決定した。〔中略〕このあとティンパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。引用文中に、ティンパーリーが日本軍占領直後の南京にいたと注を付したが、これは当時の日本外務省外交官補であった福田篤泰氏からの板倉由明氏による「聞き書き」に基づく(前出、板倉由明「南京大虐殺の真相<続>ティンパーリーの陰謀」)。[P43]

 ここで、ひとつの疑問は、『曾虚白自伝』を引用して記述しているのに、ティンパーリーが南京にいたという部分だけ、北村氏が福田証言に依っていることである。
 又聞きである福田証言を引用するまでもなく、『曾虚白自伝』の引用された部分の直前の一文には「剛巧有両個外国人、留在南京目睹這惨劇的進展;一位是英国曼徹斯特導報記者田伯烈,一位是美国教授史邁士。」[『曾虚白自伝(上集)』p.200] と、ティンパーリーとスマイスが都合良く「南京に留まり、この惨劇の進展を目撃した」とあり、従って、上海に「帰った」のは南京からということになるのである。しかし、北村氏は『曾虚白自伝』のこの一文を割愛し、「ティンパーリーが日本軍占領直後の南京にいた」根拠を板倉由明氏による福田篤泰氏からの「聞き書き」に求めている。
 これは、既に否定されているティンパーリーが日本軍占領下の南京にいたという記述があっては、『曾虚白自伝』の該当部分の信憑性が冒頭から失われてしまうことを恐れ、恣意的に割愛したと考えざるをえない。実際、ティンパーレーが南京にいて「目撃」したという記述が間違いであるとすると、引用個所全体の脈絡が崩れてしまう。

 福田篤泰氏本人が、「聞き書き」と同様の記事を一九七九年に『1億人の昭和史』に書いているので見てみよう。

さて、問題の“残虐事件”のことだが、まずこれを世界に流したマンチェスター・ガーディアン紙の記者T[ママ]・J・ティンパレーについていえば、彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので、日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが、このとき持ち出した資料をもとに『中国における日本軍の残虐行為』(一九三八年七月編集発行)を発表したと思われる。
残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。

『1億人の昭和史 日本の戦史 3 日中戦争 1』p.261

 南京で「出国証明」は必要ない。そこで、これを上海でのこととする見方もある[註1]。しかし、一九三七、八年には上海から出国するのに日本軍の「出国証明」は必要ない。ティンパーリーは エリザベス・チャンバースと一九三七年八月に結婚しているが、それは日本軍の南京占領以前で、北村氏がティンパーリーが「英米」で「国民党の戦時宣伝に従事した」とする頃である。エリザベスは、アメリカン・ヘリテッジ誌一九九九年七・八月号で、日中戦争が始まった頃ティンパーリーと結婚して上海で居を構え、ティンパーリーが香港に行っている留守の感謝祭(十一月)にエドガー・スノーと食事をしたとしている[註2]
 福田篤泰氏は、恐らくドイツ人のクリスチャン・クレーガーと取り違えていると思われる。なぜなら、ラーベの一九三八年の日記によれば、当時の南京で結婚のために南京の外へ出る許可を日本大使館からもらった外国人は、クレーガーだからである。

一月十六日
(途中省略)
日本大使館での晩餐会はいともなごやかな雰囲気のうちにすぎていった。 (途中省略)
この席でクレーガーは、上海への旅行が許可されたとの知らせを受け取った。やれやれ、本当によかった。なにしろ、クレーガーは結婚を控えているのだから。

『南京の真実』P187

※この訳には問題があるが、引用の目的には支障がないので『南京の真実』をそのまま引用した。

 この証言で、どうしても気になったのが「出国」、「日高氏が骨を折って軍にかけ合い」という言葉と、当時は南京ではなく上海にいた日高信六郎氏がでてくることである。日高氏は、1937年4月13日から8月16日まで、南京日本大使館参事(南京総領事代理)として勤務、8月29日から1938年3月3日まで、同じ資格で上海で勤務、3月17日総領事に転官した。南京事件の間に4回、南京を訪問している。

 最近、1937年9月9日付公電により、ティンパーレーが新婚旅行のため日本に入国できるかと日本領事館に問い合わせし、承諾を得ていたことが分かった。この事実から、「福田証言」にある「日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが」の部分は、ティンパーレーが新婚旅行で日本へ行けるように日高氏が助力したことを述べていると考えられる。

 結局、「金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することに決定した」という部分を、そのまま事実として採用することは、困難だということになる。なお、「スマイス報告書」の作成は、難民救済のために「南京国際救済委員会」が依頼したものであることは、スマイスとベイツが述べており、『曾虚白自伝』の記述は事実に反する。(例えば、『日中戦争資料 8』p.57、詳細は、季刊『中帰連』21号[2002夏]p.72 以降を見られたし)
 北村稔氏の資料引用がいかに恣意的であるかを示す、一例である。




<参考資料>ティンパーレーに関するタイムライン

1937年  
8月28日
南京・英国大使館(領事館)にてエリザベス・チェインバースと結婚
9月5日前後
日本軍の空襲を避け、汽車と徒歩にて上海へ疎開
9月9日
新婚旅行で日本へ行く件につき外務省電報(結局、新婚旅行には行かなかった)
10月中旬
南市安全区設立で松本重治氏に相談
11月上旬
南市安全区成功、ジャキノ神父と祝う
11月27日
日本軍、上海の郵務局・交通部電報局・国際無電台・交通部放送局への検閲官派遣、海底ケーブルによる電信の検閲を通告
11月下旬〜12月上旬
香港経由で漢口を取材
12月上旬
上海へ帰る、エリザベスはティンパーレーに帰国の意志を伝える
12月
ティンパーレー、日本当局と検閲に関する論争をしたと思われる

1938年  
1月4日 日本官憲による海底電信の検閲開始
1月6日 米国記者・ビクター・キーン、杭州における日本軍の残虐行為に関する電文発信を阻止される
1月16日 ティンパーリー、上海と南京の間の地区(揚子江デルタ地帯)で市民30万人が虐殺されたとの電文発信を阻止される
1月21日 ティンパーリー、南京で1万人以上の非武装の人々が殺され、ドイツ人の同僚によれば2万、8千人以下とは思われない女性が強姦されたというベイツ情報の電文発信を阻止される
1月21日 ティンパーリー、在上海英国総領事ハーバート・フィリップスに、日本官憲による電文検閲について、書面で抗議を要請
1月27日 ティンパーリー、南京の25万難民のための、上海からの食料送付・医薬援助が日本軍によって阻止されているという電文中、2個所を削除される
1月28日 ティンパーリー、英国総領事ハーバート・フィリップスに、日本の検閲に対して抗議するようプッシュ
1月28日 英国総領事ハーバート・フィリップス、ティンパーリーに対し外務省の指示が必要で回答待ちと返信、しかし、同日、英国と米国の総領事は日本にプレスメッセージ検閲に対し抗議を行う

1月末、ないしは2月初め

エリザベス米国へ向けて発
4月上旬 ティンパーリー、上海を発つ(船中で What War Means の執筆が続けられたと思われる。中国語訳のもとになった草稿は香港で関係者に手渡され、英語版の最終原稿は埋葬記録をベイツ文書に挿入してロンドンで6月頃に完成されたものと推測される。)



― 脚注 ―

[1]
  福田篤泰証言で、これがティンパーリーについての証言であるとすると、上海でのことになる。そこで、洞富雄氏は次のように述べている。

ここには、ティンパーリーが南京にいたとは書かれていない。上海にいて、出国の斡旋を日本の外交官に頼んだというだけのことである。  洞富雄『南京大虐殺の証明』P48

 しかし、本稿で指摘したように、一九三七、八年当時、上海から出るのに日本軍や日本の外交官に頼む必要はない。また、秦郁彦『南京事件』では、このように書かれている。

しかし彼は、結婚のためという理由で中国を離れる直前に、松本重治同盟通信上海支局長を訪ねて刊行計画を打ち明け、...   『南京事件』P11

 ところが、松本重治『上海時代』には「結婚のためという理由で中国を離れる」とは書かれていない。秦『南京事件』の主要参考文献に、『福田篤泰回想』(『一億人の昭和史 日中戦争 1」昭54 毎日新聞社)が入っており、更に秦氏自身が聞き取りをした記号「*」が付けられているところから、「結婚」の件は『福田篤泰回想』によるものと推察される。秦氏は洞氏と同じように、上海でのことだと理解されているようである。
 ティンパーリーは、南京陥落以前すでに結婚しており、当時の妻エリザベス・チェインバース(現在の苗字はトゥロウブリッジ)は、一九三八年二月に上海を離れて帰国の途に向かったとアメリカン・ヘリテッジ誌で述べている。[註2]

[2]
American Heritage, July/August 1999, Volume 50 Number 4, Elizabeth C. Trowbridge, "News from Nanking" p.29-30

In July the Japanese invaded; they came in at the Marco Polo Bridge in the north and began to seize the railways. The ministry evacuated Nanking for Shanghai. My job ended. But not my adventure. Under wartime conditions I married H. J. Timperley , an Australian who had lived in Peking for many years and was a correspondent for the Manchester Guardian. We proceeded to set up housekeeping in Shanghai. Heady stuff. He was in constant touch with the Chinese and the British as he sent his dispatches to the Guardian. At Thanksgiving I had dinner with Edgar Snow and his wife while Tim was in Hong Kong.
Since my husband was now traveling so much and conditions were so uncertain (in August, Shanghai was inadvertently bombed by its own Chinese planes), it was decided that I would go home as soon as a ship was available. In February 1938 I boarded the Empress of Russia en route to Vancouver.