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第二章 ルサンチマン

あっこ

■ ルサンチマン − Ressentiment

 ルサンチマンとは、ニーチェが定義付けをし、自説を語る上で使用した言葉だ。これはフランス語で、「ル=反復」+「サンチマン=感情」である。英語表現だと、「resentment:憤慨、憤懣、恨み」に相当する。日本語では、「恨み、妬み、嫉み、僻み、怨恨」または「反復感情」と訳される。使用される時と場合と使用する者によって、その意味の解釈は異なることが多い。ここでは、次のように定義づけたい。

「ルサンチマンは、復讐を目的とする価値転換・価値捏造の基になる、恨みや妬みの反復感情のことである。」

代表的な例をあげれば、キリスト教徒の清貧思想をもとにした金持ち批判がルサンチマンだ。「貧しきものは幸いなるかな、天国はかれらのためにある」(新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」より)。貧しい我々こそ神に愛され、浄福が約束される。金持ちで、力を振りかざしている連中は地獄に落ちるのだ。という弱者側からの叫びは、自分に肯定的要素を見つけ出すというような直接的自己肯定ではなく、本質は他者や現状を否定するところにある。それも、強引に非難するのだ。上の例で言うと、先ず最初にあるのは、貧しい状態にある自分の苦しみである。そこから、富める者への嫉妬、羨望が生まれる。しかしその「上下」を覆せない力のなさや、自分にとっての環境の不都合に対しての不満が生まれ、ついには不合理な相手の貶めを生むのだ。しかしこの事の根っこは、この貧しい者が、「本当はお金が欲しい。この貧しさから脱したい」欲求を持っていたことに始まっているのだ。この当初の感触は、「富=上・貧=下」という価値観の世界の中でおこったものである。だとすれば、ここでの問題の解決というのは、この価値観の世界の中で上つまり富める者になるというものである。もしくは、この価値観の世界の中で生きていたとしても、自分が下であったとしても、それを認識した上で、尚且つ苦痛と思わない精神を育むことのみである。どちらにしても、自分自身の変化によって、問題は解決されていくのである。しかし「富める者は地獄に落ちる」というのは、それとは全く違う。ここでは価値観は別の価値世界へと移行している。全く逆の価値観の世界で、そもそもの上者を貶めることで、自分を上位へと持っていくのである。ここでは自分は一歩も動かずに、対象を動かす(ここでは下に)ことによって、反動的に肯定感を持つのである。これは問題の解消ではあるが、解決ではない。

永井均著『これがニーチェだ』では、イソップ童話の『酸っぱい葡萄』を例にあげ、ルサンチマンを説明している。葡萄に手の届かなかった狐が、「あれは酸っぱい葡萄だ」と言うのは、まだ価値転換は起こっていない。もし狐が、「葡萄を食べない人生こそ、良い人生だ」と言ったら、そしてそれを実感したら、そこで、価値の転換が起こっていることになる。狐は、ある価値空間(それは葡萄を欲するという世界)を否定し、それを転換したいが為に、実質的にそれが出来るような価値空間を捏造する。その基になっている感情がルサンチマンだ。

 ルサンチマンの要素のひとつは、正当性の捏造だ。ルサンチマンは、自分の在り方や扱われ方に、不当を感じるというところから来ている。解消できない劣情が基である。そして、その不当感を排除し、自分の在り方を正当化させることを目的としている。つまり、不当感を昇華する為、充足(してしかるべきという気持ち)を補完する為、行う感情運動なのではないだろうか。そこで問題になるのは、「価値の転換」である。これが捏造的に行われることに対して、ニーチェは非難を発しているのだ。

■ 社会に於けるルサンチマンの在り方

 私たちが生きている世界は、良し悪しは問わず、ニーチェの否定したような構造を持っているのではないかと私は感じている。現代においては、「価値転換・捏造」は、誰でも行うことであり、むしろ肯定的に語られる。「元気に楽しく明るく幸せに生きていくために、自分独自の価値観を形成していく。」という言い方をすれば、耳障りも良いだろう。しかしこれは、復讐や恨み感情との関わりは無かったとしても(ここは重要な部分なのだが敢えて。)、ルサンチマンと構造は全く一緒である。ニーチェにとっての「善」つまり<よい(グート)>の価値観は絶対的なものであり、そこから外れる「善」のものを指して、「価値の捏造」と言っていたように思われる。ニーチェ内の価値体系は普遍的であるので、亜種は全て間違ったものとなってしまうのである。しかし、ニーチェの断言する普遍性は、それを正当なものと検証することは不可能だし、もはやそれを正当か否かと検討することも無意味である。「絶対的」なる神話が崩れてしまった現代においては、ニーチェの普遍的価値体系感覚に代替もしくは相当するものは、恐らく「(既存の)共有されているマジョリティの価値観」ではないだろうか。

また、ニーチェの大嫌いな宗教の役割は、今尚厳然と息づいている。ニーチェは言う。いついかなる時代や社会にも、この「悪」が存在すると。この予言は当たっていると私は感じた。宗教という枠からは姿を変え、よりスマートに、より非難し難く、私達をソフトにコントロールする効果を持って存在している。それは道徳であり、規範であり、私達が遵守しているありとあらゆるものである。そこに神が存在していなくとも、信仰心と同義のものによって支えられているのではないだろうか。自分自身の中に内なる目をもつことによって、私たちは間接的にコントロールされる。

ニーチェに於いては、社会と個人とでは、個人にほぼ完全に重きが置かれている。個人の欲求、快楽、総じて個人志向が、ニーチェの文脈から読み取れるような気がする。しかし、好むと好まざるとに関わらず、ひとは大小問わず社会の中に生きているのが通常である。その社会を円滑に保つために用いられるのが、道徳を初めとする規範やルールといわれるものである。それは決められた約束事であったり、ひとの「良心」に期待する倫理であったりする。それらの目的は、社会を円滑に保ち、そこでの暮らしを快適さへと導くことだ。しかしどうだろうか。ニーチェの指摘した問題点は、それとは全く違うことだ。道徳や規範が持つ性質とは、人々の個人の欲求や自分自身の快適さに向かう意欲を殺ぐものだと、ニーチェは激しく非難した。個人志向と社会志向は、ニーチェの説の中では完全に対立するものとされている。個人の力を鎮静するものとして働く社会志向の力は、ニーチェの信じる生のエネルギーを去勢する「悪」的なものとして描かれる。それを良く表現する言葉が、「畜群」である。

 ・畜群

畜群とは群れる弱者を罵った言葉だ。それは人間の大多数を指す。ニーチェは、弱者は群れたがり、そのコミュニティの力によって強者を貶める動きをするとした。何故弱者が強者の妨げとなるのだろうか。そこに、ニーチェの解釈する弱者像が深く関わってくる。

弱者は、自分の力を信じていない。むしろ、弱者は自分の持つ力が充分ではないことを信じている。だから未来に対して希望を持たず、何かを意欲することを初めから断念する。希望を持つことや、意欲を抱くこと、ひととは違う「自分自身」に目を向け、何を望んでいるのかを探ること事態を「罪」のエリアへと押し込めることによって、今の位置を確定してしまうことによって、充足を得る。どこへも行けないと決めてしまうことは、誰もどこへも行かない、自分ひとりだけが取り残されることは決してないという安心を生む。安定や平穏のみに高い価値をつける。それがニーチェの言う「群れたがる」という性質だ。だからこそ、自分のエネルギーを確信し、意欲を持って旅立とうとする者の足を引き、「罪」を被せ、自分たちと同じ、平穏で無欲で無害な人間となることを強引に求めるのだ。強者のエネルギーを肯定するニーチェにとって、それは堪えがたい愚鈍を意味した。ニーチェの書く文章の中では、弱者の愚かさを辛辣に避難する箇所が多々見られる。『ツァラトゥストラはこう言った』の中では、「市場の蝿」と題され、群れる弱者=畜群が、毒蝿として描かれている。

あなたは寛大で、公正な気持を持っているから、「かれらが小さな存在だとしても、それはかれらの罪ではない」と言う。しかし、かれらの狭き魂は言う「大きな存在は、すべて罪である」と。

あなたがかれらに寛大であっても、かれらはあなたから軽蔑されたと感じる。そしてあなたの恩恵に対して、ひそかに害心を抱いて行動する。(『ツァラトゥストラはこう言った』:87)

あなたの隣人たちは、つねに毒蝿になるだろう。あなたの持っている偉大なもの、――それが、かえってかれらをいっそう毒々しく、いっそう蝿らしくしてしまう。

 わが友よ、のがれなさい、あなたの孤独の中へ!(略)蝿たたきとなるのはあなたの運命ではない。(ibid:88)

この文中で、弱者が抱いている「ひそかな害心」がルサンチマンである。強者が強者であればあるほどルサンチマンは大きくなる。このルサンチマンによる顛倒した価値を体系化したものが、「道徳」であるとニーチェは言う。ニーチェの思想の中では、強者の価値は体系化しない。強者は各々の力の感覚によって、それに従い生きている。その感覚は誰かとの共有を必要とはしない。自分の感覚が如何に「毒蝿」つまり周りの人間から非難されようとも、それを信じ、貫くのが強者だ。共存を目的とせず、自分独特の力の感覚や信念によって生きていくと言うことは、つまり、体系化とは無縁なのだ。ここから逆説的に、体系化された「道徳」は、弱者の持つ価値から生まれたこととなる。

このルサンチマンと道徳、特に「平等」との考察を、四章にて行う。

■ ルサンチマンの解決

ルサンチマンについて考察を重ねて私が得たものは、ルサンチマンの指摘からでは、問題の解決や核心に触れることは叶わないということだ。ここに含まれている問題は、不当感や理不尽さの問題であり、そこから生まれる嫉妬や報復心の問題である。ルサンチマンという言葉の解体が行われない限り、問題点に目を向けることは出来ない。ルサンチマンという言葉は、この問題点を孕んでいるという踏まえを必要としたものであり、いつでも解決という課題を携えているものであり、この言葉が独立して使用されるようなものではないのだ。そのことが意識されるような環境が揃わない限り、解体をし、問題点を丁寧に提示せねばならないようなものなのだ。この章では、その解体に試みてきた。

ここで示された問題点を解決へと導くというニーチェの思想が、次章で紹介する「永劫回帰」である。永遠に今の生を繰り返すという永劫回帰が、どのようにルサンチマンの解決をもたらすか、その思想が何を生むかについて、次章にて考察していきたいと思う。




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UPDATE 2003/03/09