発想転換のススメ

これからの小学校教育って??


世の中変わった,学校も変わった・・・・!?
時代が求める学校像
でも,その一方で・・・・日々の授業の悩み,あれこれ
学習も変わらなきゃ!

世の中変わった,学校も変わった・・・・!?

 社会は大きく変わったといわれています。事実,高度情報化,国際化,高齢化・・・・等々,これまでにない急激なペースで,身の回りのあらゆることがここ数年で変化してきました。その一方で,子どもたちを取り巻く様々な状況の変容も語られてきています。家庭の核家族化,父母の教育力の低下,人のつながりがない地域社会,そして教師自身の技量の低下。
 これらの背景をふまえて,昨今のマスコミが報じる教育関連のニュースは,まさに暗い内容ばかり。校内暴力,不登校,自殺問題,さらに最近では学級崩壊。
 でも,本当に子どもたちは,学校は変わってしまったのでしょうか? 確かに昔とはちがう一面があるのは事実。いや昔とちがって当たり前でもあるのでしょう。でも,わたしたち教育に携わるものが常に目指そうとしてきたものには,世の中がいくら変化しても決して変わらない普遍的な価値を見出せたはず。もし,何かのズレがそこで生じているとするならば,それは教育を取り巻く枠組みの整合性(社会と子どもと学校)の問題ではなく,教育の基盤である子どもの学びを支えるシステムそのものが時代とそぐわなかったととらえることができないでしょうか?
 いずれにしても,わたしたちが今,取り組むべきことは,「社会変化がどうだから」とか「子どもがこうだから」といったデフェンスの発想はなく,時代の求めに応じた新しい学びのスケッチの有りようを子どもたちとともに探り始めていくことなのです。


時代が求める学校像

 時代の求めは,指導要領にあるといってもいいかも知れません。その新指導要領のキーワードの一つにあるのが「生きる力」。
 では,この「生きる力」を具体的にどのようにとらえ,わたしたちは学びのスケッチを描いていけばいいのでしょう?

 よく「生きる力」のとらえ方として,子どもたちの「生活力」と重ねて論じられる場合があります。
 例えば
  • 6年生の修学旅行。自分たちでそのプランニングをおこない,当日も班ごとの旅程で現地の見学活動に取り組んだ事例。
  • 2年生の生活科。自分たちで育てた野菜を調理。その料理方法を調べ,包丁の使い方,ガス器具の調べ方を学びながら実習をおこなう事例。
 二つの事例はともに,子どもたち自身に学ぶべきものも多く,魅力のある実践であることは否定しません。が,気になるのが,これらの事例がよく「生きる力」の具体例として論じられること。「生きる力」ってのは実は「生活力」のことだったんでしょうか?
 自分で旅行の計画が立てられること,JRの駅で切符を買えること,そして乗り継ぎを間違えずに現地に無事集合できること。あるいは,包丁を使って野菜を切ること,鍋でゆでること・・・・それが新指導要領のいうところの「生きる力」? 今夏開かれた,とある総合学習のフォーラムでは指導助言者が,これらの実践を「生きる力」を育む教育事例の典型として絶賛されておられました。
 でも・・・・ちと待てよ,という思い。
 時代が求めている「生きる力」とは,子どもが自分の手で生活していくための力(いわゆる「生活力」)だったのでしょうか? 本当にそれだけなのでしょうか?
 あまりに安直に「生きる力」の解答を求めているような気がしてなりません。実は「生活力」も,「生きる力」を考えていく上での大切な要素には違いありません。ただ,それらはこれまで学校というエリア以外のところでおこなわれてきた教育であったはずです。「生活力」のない子が多い,増えてきた。だからこそ「生きる力」を掲げ,子どもたちに失われつつある「生活力」を身につけさせよう・・・・という論理の流れで新教育は語られるのでしょうか?

 「のんし堂」では,「生きる力」を「自己実現を希求する力」ととらえています。
 わたしたち人間はだれもみな様々なつながりをもって,今ここに存在しています。それは自然環境であったり,また社会環境であったり,あるいは人そのものの人間的なつながりであったり。それら身の回りの「ひと,もの,こと」とのつながりに気づき,そしてよりよい関係性を求めていこうとするところから「自己実現」が始まると考えてみました。「今日よりもっとステキな明日の自分でありたい」「自分らしくよりよく生きていきたい」・・・・意識的無意識的に関わらず,だれもが有するはずの人間の根元的な願いを実現していく力こそが,実は今,時代が求めている「人づくり」のあり方なのではないでしょうか?
 「人」をつくる場としての学校。そのあり方が,新しい時代にはさらにはっきりとした輪郭をもって提示されなくてはならないのです。


でも,その一方で・・・・日々の授業の悩み,あれこれ

 さて,日々の授業。
 「生きる力」「子ども主体」「支援活動」・・・・授業に関わる部分でも,かなりのキーワードが語られるようになりました。で,授業は?というと「はい,ここ読んで!」「ここ,覚えておこうね」「わかりましたかぁ?」のあいも変わらずのワンパターン? いえいえ,このとまどいは「のんし堂」の日々の授業といえども同じこと。
 では,学習の具体を考えていく上で,何が一体問題なのか? 「のんし堂」では,まず日々の授業の悩みを整理するところから始めてみました。

■あれもしなきゃ!これもしなきゃ!
 とにかくやることが多すぎる毎日の授業。アレも教えなきゃ,コレも教えなきゃ・・・・この言葉も大切だし,ここのところもテストに出ているし・・・・。ほら,よく職員室で交わされる言葉。「今,どこの単元やってますか?」「ええっ,もうそんなところまで?」「あせるなぁ,うちはまだこことここをやらなきゃいけないし・・・・」いかがですか? 聞き覚えのある会話ではありませんか?
 ここで話題になっているのはもちろん進度(学習の進み具合)なのですが,実はその内容はいわゆる知識理解に関わるもの。言い換えれば「この知識教えてない」「あの知識も抜かしてはだめだし・・・・」。教える知識の量がやっぱり幅を利かせてしまっている実際の授業。何とかならないかなぁ,この現実。

■へぇ,ふぅん,あっそう
 一生懸命がんばったはずの授業。でも子どもたちの反応は「へぇ〜」「ふぅん」「あっそう・・・・」
 例えば5年生の社会科。日本の農業について,その苦しい現実を見つめる学習。子どもたちがぽつんとつぶやく言葉・・・・「大変だねぇ,でもボクんち,農家じゃなくてよかったぁ」。またある時は6年生の歴史の授業。江戸時代の農民のくらしの追求。あるいは戦時中のくらしの調べ活動・・・・「かわいそ・・・・私,今の時代に生まれてよかったわぁ」
 何を学習しても他人事? よくわかったよ! でもボクは○○じゃなくてよかった・・・・学んでも学んでも縮まらない学習対象との距離感。結局は自分が最後まで登場しない授業。学んでる自分と学習している対象との間には,埋まらない深い溝があるのでしょうか? 何とかならないかなぁ,この現実。

■先生,今日は何するの?
 子ども主体といいながら,やっぱり授業の始まりは教師の指示から? 「はい,○ページを開いて」「前はこんなことやったけど,今日はここからですね」「今日の課題は○○です」・・・・それがなければやっぱり始まらない授業。教室へ行けばぼんやり待ってる子どもたち。「先生,今日は何するの?」。課題の連続性も意識のつながりもあったもんじゃぁない。何とかならないかなぁ,この現実。

 やはり求められているのは,わたしたち教師自身の発想転換。では何をどう,発想転換すればいいのか?
 「のんし堂」では,発想転換の糸口を見つけるために,敢えて教師の常識に「?」ハテナマークを打ってみました。そう,わたしたち教師が「それって当たり前じゃぁないの?」と疑う余地のない「常識たち」に敢えて(無理矢理?)疑問符を投げかけてみようとしたのです。 


学習も変わらなきゃ!

 さて,わたしたち教師の身の回りに,どんな「当たり前」「常識」が転がって(笑)いるのでしょうか? 今まで何の疑う余地もなかったこの「当たり前」たちに敢えて疑問符を打ってみました。そこから見えてくるものは,きっと発想転換のためのヒントであるはず・・・・
  1. 教科書って本当に大切?
     教科書をめぐるこんな授業観3つ。比較してみて下さい。
     ●教科書で勉強をする
     ●教科書の勉強をする
     ●教科書も勉強をする
     上記の3つの文。みなさんはどれでしょうか? 「で」「の」「も」の一文字が異なるだけですが,そこには教科書の使い方(いえ授業における教科書観かな?)の違いが大きくあらわれてきています。
     考えてみれば,山の学校も海の学校も,北の学校も南の学校も,同じ教科書を使って同じ勉強をしている・・・・とっても凄いことであると同時にとっても変なことだと思われませんか?  実は10の学校があれば10通りの授業や学習があって当たり前。,子どもがちがえば,あるいは地域がちがえばちがうのが当たり前。今回の新指導要領でも,その考え方がはっきりと打ち出されていますね。
     地域や学校,さらにはクラスの特色を生かした「教科書も勉強する」スタイルの授業。つまりは教科書ありきではなく,目の前の子どもたちを前提にした授業づくりについて,本腰入れて取り組んでいかなくてはならない時期が来ているようです。
  2. 授業時間って本当に45分でなきゃだめ?
     1時間は45分,コレ当たり前。でも,本当にそうでしょうか? 考えてみて下さい。1年間何百時間もする授業。そのうち45分の時間枠ぴったりで終わる授業って一体どれくらいありました? 思いっきり調べたい,話し合いたい,子どもたちは乗りに乗ってるのに・・・でも,チャイムが鳴ったらさぁ終わり。あるいは早く終わっちゃた算数の練習問題,残り時間はどうしよう? 「じゃぁこのページでもしておきなさいよ」と全然予定になかったことを急にさせたりして(^-^;;
     子どもたちの学びは多種多様。ならば時間枠だってもっと柔軟に対応させるべきではなかったのかな? 教科書と黒板とチョーク,この3種の神器?だけで教え込む授業スタイルからの脱却を考えるときには,当然時間の使い方も見直していかなくては・・・・と思うのです。
  3. 基礎基本ってなぁに?
     小学校時代に「絶対これだけは知っておかなくてはならない!!」っていうモノは,一体いくつあるのでしょう? 能力面では求められるモノは確かにあります。でも認識として,絶対にコレは!!・・・・というモノは? 例えばそれは日本の工業地帯(地域)の場所と名前でしょうか? 農家の人々の苦労や工夫でしょうか? 花びらのや雄しべ雌しべの数でしょうか? あるいは残雪に対する大造じいさんの気持ちの変化でしょうか?・・・・そんな風に考えていくと,培うべき認識としてこだわるべき内容は,この期の学習にあまり多くないのかも知れません。
     ただ,わたしたちがこれまで考えてきた基礎基本は,もしかしたらこれらの認識に関わる内容にあまりに偏りがちではなかったでしょうか? もちろん,認識も子どもたちにとっては大切な学びの要素の一つであることには今も昔も変わりません。でも,例えば今後,能力面や態度面からの基礎基本の洗い直しをしていくとすれば,またちがった学習観も成立してくるはず。
  4. 教師は授業で勝負する?
     よく言われてきた言葉です。「いい授業」「悪い授業」その是非も論争されてきました。で,よくある研究授業の反省会。「発問がよくなかったですねぇ」「板書計画が素晴らしかったです」「チョークの色の使い方もよかったですね」「子どもたちの発表の仕方はよく訓練されていましたね」「資料の提示の仕方をもっと工夫していれば」・・・・確かに授業の基本はそんなところにあるのでしょう。でも,そればっかりで子どもたちの学びをとらえていくのはどうなのでしょう?
     子どもたちの学びって言うのは,実は45分のひとコマの授業で完結するのではなく,もっと長いスパンの活動レベルでとらえる必要はなかったのでしょうか? つまりそれが「単元」なのです。ただ,ここで言う「単元」とは,教科書にある「てこのはたらき」とか「源頼朝と鎌倉幕府」ってなモンじゃぁなく,活動をひとまとまりと考えたUnit(ユニット)として考えていこうとしています。
     教師は「授業」ではなく「単元(Unit)」で勝負する? そんな立場から当「のんし堂」では単元(Unit)づくりのあり方を提案していきたいと考えました。




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