武士道の歴史(上)

――武士の成り立ち――


 ええっと、そろそろなにか書かないと週刊にならないので、最近とっても熱い武士道の歴史についてお話ししようかなぁと思います。でもすでに他の所で書いたものをまとめたようなものになるので、多分、新しいことは何もないかと思いますが…。


武士成立前史

 武士道というのは、武士の道ですね。何だそんなことわかっているわ、とおっしゃられますが、武士とは何か、道とは何かというとこれまた厄介な問題でありまして、日本における「武士」ということばの初出は、『続日本紀』の巻八に「文人武士は国家の重んずる所」と云うのがあるのがそれであると云われています。『続日本紀』は「しょくにほんぎ」と読みますが、まぁ大体奈良朝を中心にした歴史書だと考えていただくと変わりやすいですね。つまり、律令時代です。ここでの用法は、いうまでもなく「文人」に対句的に用いられていますから、中世の武士と云うよりは、「武官」の意味が強かったと云えます。東北や北海道を侵略し続けていた古代日本国家にふさわしいことばですね。

 「武士」と書いて「もののふ」と読む場合、これは由来が更に古くなります。「もののふ」というのは「物部」と書きまして、「もののべ」とも読みました。これは、大和朝廷の職掌でありながら、部族の名前でもありました。名前というのは正しくないですね、氏(うじ)と云うべきでしょう。「もの」というのは、現代でも「えもの」とかいうように「武器」のことです。したがって「もののふ」も、武官であったといえます。

 武官であると云うことは、官僚制の内部に定位されていたと云うことを意味します。つまり、その暴力(軍事力)が、恣意的に用いられるのではなく、ある権力意志によって計画的に用いられることになります。まぁだからと云って、暴力が宜しいという訳ではないのですが。

 そうそう、「さむらい」ということばもあります。「侍」ですね。本来これは「さぶらふ」の連用形が名詞化してできた「さぶらひ」が更に転訛して「さむらい」になったものです。出現は、平安期だと考えられます。つまり、令外官として検非違使などの形で、外部から導入された新しい軍事力です。検非違使とか云っている限りではまだ律令の埒内なのですが、平安中期以降、貴族のみならず天皇までも武官以外に独自の軍事力を持つようになります。これが、禁中滝口、院の北面、や東宮帯刀(たちはき)といった武士集団になりました。しかし、これが貴族によって雇われている限りにおいてはまだ中央(朝廷)の管理内にあったといえます。これが、中央の羈縛を受けなくなると、ここに初めて、現代で云われているような武士が登場します。


いわゆる武士の誕生

 現代の我々が、「武士」という場合、それは封建的諸関係(土地の給与)によって活動していた戦闘者、ないしはその集団全体を指すと思います。ただし、この「封建的」ということばは、割とくせ者でして、近代史学の洗礼を受けた我々は、「封建制=feudalism」だと考えて、ヨーロッパ中世のそれに同定させてしまうのですが、しかし当の武士たちは、そんなもの知りゃしません。当たり前です。大体にして、feudalismなんて英語自体なかったはずですから。しかし、武士は自らの体制を「封建制」ないしは「封建の制度」と呼びました。これは、ヨーロッパ中世に溯ること1500年ほど前の中国殷・周代の国家体制が土地を媒介にした君臣関係を形成しており、これを封建制と呼んでいたところから来るものです。ちなみに、このことは近世の儒学者にとってうれしい話でした。儒学者にとって周代の治世(封建制)は、儒学の祖である孔子によって模範的な治世と考えられていましたから、同じく封建制である日本は、大陸の中央集権的な国家体制(郡県制)とは違って、ヨリ神聖な統治形態であると云うことになるからです。まぁ、ヨーロッパの封建制度と中国の封建制度、更には日本の封建制度とでは各々内容が違うのですが…。

 こういったことを考慮に入れた上で、今日の意味での武士はいつ頃に始まるのかと云うことを考えると、大体平安時代末だといえると思います。律令制という全国家的支配秩序が崩れ、それに代わる私的な権力(暴力)が必要になってきた時代の産物です。具体的に云うと、荘園を守るための軍事力でした。

 本来は耕作地には租税やその他の税がかけられている訳ですが、荘園は貴族や大寺院が持っているので、税は納めないわ(不輸)、国司の監査は入れないわ(不入)と、いわば権力の真空地帯が出来上がっていました。で、ここが問題なのですが、この荘園というのは、貴族や大寺院が自分で開いたものではなく、地方の有力農民などが開墾した耕作地を寄進されてできたものですから、名目上所有者は貴族ですが、実際はこの有力農民が管理運営していたものでした。こういった中で、土地の境界線や利水権などでもめごとが起こると、この有力農民自体が自力で何とかしなくてはならない。なにしろ、国家権力の介入を排除してしまったんですから、警察・裁判権は自分で行使しなければならないわけです。かくしてここに、律令外存在としての武装集団というものが成立します。これが武士の誕生です。


中世の武士とその倫理

 武士道と云ったときに考えられる特徴としては、「忠君」「勇猛」の二つがあるのではないかと思います。これは、間違いないのですが、それが何のための「忠君」であり「勇猛」であったのかと云うことを少し考えて見たいと思います。

 中世武士――ここでは鎌倉幕府に所属している武士(御家人)ですが――は、将軍と御恩・奉公関係にあった、と云われます。将軍によって自分の持っている土地の領有権を認証してもらう(御恩)代わりに、すわ鎌倉の時は、一命をなげうって働きます(奉公)というものです。ですから、非常にビジネスライクであったとも云えますが、その一方で実際に戦場を共にした主君とは、合理性を越えた感情的なものとして、運命共同体のような感覚が生まれてきます。「将軍の死は我々の死だ」みたいな感じですね。丸山真男なんかが「情誼的一体感」と呼ぶああいった感覚です。こういうのは感覚なので、論理的には把握できませんが、そういうものがあったんだなぁと云うことだけ理解していただければ結構です。

 鎌倉時代というのも、結構争いごとが多く、大きいところでは天皇が捲土重来を期した承久の乱や二度にわたる元寇があります。いずれの戦争にも、武士は勇ましく戦ったと伝えられています。それは、鎌倉のためとか神国日本を守るためとか云う以上に、「ここでがんばれば恩賞がもらえる」という打算がかなり強くありました。

 例えば、「蒙古襲来絵詞」と云うものがあります。これは肥後の豪族で竹崎季長というおじさんが、「オレが今回の元との戦いで如何にスバラシイ功績を挙げたかを見てくれ」ってんで作らせたものです。で、実際この人は戦場一番乗りを果たした功績で肥後の東三郡と云うところに恩賞の地を得ています。ただし、この人は極めてめざましい功績があったので恩賞をもらえたのですが、その外の普通に動員されて、そんなに大して手柄もなかった人たちには、恩賞がほとんど与えられませんでした。というか、与えるべき恩賞地がなかったんですね。基本的に恩賞地は、戦争をやって滅ぼした相手の領地を分け与えるものな訳ですから、元寇のような防衛戦では勝っても領地は増えないことになります。それどころか、フビライ自体3度目の日本征服計画を企てていたというのですから、勝ったと云うよりは、休戦状態と云った方がよく、鎌倉幕府は九州警衛の軍備を解くことが出来なかったので、これもまた大きな負担となりました。

 封建制下の軍事力というのは、基本的に領主個人の持ち物ですから、軍事費は自弁であって、支給されません。したがって、戦争後の恩賞を目当てに軍事費をやりくりしている、そういった自転車操業的なものであったので、一度恩賞がもらえなくなるとたちまち破綻し始め、ついには没落したり、有力な他の御家人の勢力下に入ったりとさんざんな目にあってしまいます。

 こういう不満がどんどん募っていったところで、鎌倉幕府が倒され、建武政府を経て、室町幕府が成立いたしますが、この間、基本的に武士の行動規範というものは「御恩があるか」と云うところに機軸があり、御恩がある限りあなたについて行くし(忠君)、勇敢に戦争しますよ(勇猛)という倫理観を持っていました。むろん、これだけで済む問題ではなく、先ほど申しました「情誼的一体感」というヤツも大きな位置を占めていたので、一概にどちらか一方と云うことは出来ません

 ところで、しばしば「武士として恥ずかしくない行為」とか云われますが、高い倫理があったから恥ずかしくない行為をしなかったとは云いにくいです。というのは、基本的に法律(律令)外の存在である武士にとっての法は、習慣です。で、その習慣からはずれるような行為をすることは、必然的に犯罪者になるわけで、結局は「犯罪者になるな」と云っているのと同じことですね。よく、高倉健とかが、「仁義を通さなければなりません」などと映画の中で云っていますが、結局あれもアウト・ローである彼れらを規範づけているのは、実定法ではなく彼れらだけにしか分らない法なわけですね。従って、近代的な法治国家の観念(rule of low;法の支配)というものとは、まるで無縁です。まぁ、武士は近代にはいないので、それはそれでよしとしましょう。


戦国期の武士道

 封建的な武士の在り方を変えたのが、応仁の乱以後の戦国時代です。封建制は土地を媒介にした支配秩序ですから、経済が土地・農本制から離れて貨幣経済が行くにつれて必然的に零細領主は没落していきます。没落した武士は前節で申し上げましたように、より大きな領主の支配下に入ったりして何とか生きていくことになります。

 こういった武士内における淘汰の一方で、新しい武士の形態が登場します。自分の実力だけで戦場を渡り歩く土地を持たない武士です。一種の傭兵と云ってもよいのですが、これも支配秩序の混乱と貨幣経済の浸透とが生み出した新しい戦闘者の在り方だといえます。つまり、相継ぐ戦闘の中で兵器が大衆化され、誰れでもこれを保有することが出来るようになる、あるいは保有していないとこの身が危ないかも知れない「野武士を雇うだ」という自体になるかも知れない。そういう時代状況にあって、元は農民であったり、商人であったりする人間が、刀や槍を以て戦場に出て、手柄を立てて立身出世するなんてこともありました。

 ところで、古来日本には槍というものが存在しませんでした。古墳から発掘される武器も基本的に矛が多く、槍は見られません。槍と矛とでは、使い方に決定的な差がありまして、端的に言えば、槍は突くもの、矛は斬るものです。矛や長刀というのは、結構技術がいるのですが、単に突くだけの槍というのは、大して技術もいらないので、いわゆる臨時雇いの兵隊に持たせるのにうってつけでした。ここに、一騎打ちによる戦法から、兵力の大量投入による戦法へと戦術形態が変化するようになりました。このことは、軍事に関る人口を激増させる結果となり、支配階級ではない戦闘者を増やすことになりました。

 こういった中で、武士の倫理(武士道)には、実力主義というものが付与されるようになり、家柄や、出身といったもの以上に武勇がその大きな判断基準となるようになっていきました。つまり、鎌倉時代の御恩・奉公に基づいた家中心の武士道から、個人中心へと重心が移動した、そこまで云うのは言いすぎだとしても、そういうファクターも出てきたと云うことは言えるでしょう。いわゆる、「ぶへんもの」(武辺者)は戦闘の技術に特化した武士であり、主君に使えるその忠義の度合いによって称賛されるよりも、むしろその勇敢さを称えられたものであったわけです。

 無論一方で主君がこういった新しい武士をとりまとめ、そしてともに戦場で闘っていく過程で、情誼的一体感による君臣関係が成立してきます。特にこの場合、家臣としての武士は鎌倉時代のような独立封建領主ではなく主君から俸禄や領地を直接にもらっているので、主君の没落は即自らの没落に繋がるという実にシビアな環境にありましたから、いやが上にも運命共同体的な観念を抱くようになります。主君の方でも、同盟関係から支配関係に移ったような親族や旧領主よりも、こういった直属の常備軍の方が、いざというとき裏切る可能性が低い分、なんぼか頼りになると云うので、大変厚遇しました。こうして、君臣は名実ともに一体化いたします。

 ただし、こういった武士およびその倫理は、太閤政権や江戸幕府の成立に伴い、徐々にその位置を失っていき、変質を迫られます。それでは、次回は近世の武士道から始めたいと思います。


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