武士道の歴史(下)

――近世の武士道――


前説

 前回、戦国期までの武士道というか武士の歴史を概観いたしました。近世以降の武士道は、学芸の普及により、それまで読み書きもできなかった武士自らが自らの倫理を叙述するようになりました。戦国期までの武士道論は、基本的に戦記物や歴史文学に現れる武士の姿から今日の学者が読み解いたものですから、これは画期的事件と云えると思います。


近世の武士道

 太閤政権が行ったいわゆる刀狩は、非職業的戦闘者の武装化を阻止するものとして、極めて重要な意味を持ちました。これによって、これまで流動的であった身分が固定化され、農民は農村を離れることがなくなりました。むろん、その背景には惣無事令(太閤政権による天下の統一宣言)などの戦争状態の休息がありましたが、それにしても、農民階層から出世したくせに、他人の出世を阻もうってんですから、妙な感じですね。「出身階級とその階級意識とは必ずしも一致しない。特に権力にある場合は。」という話がよく分かるいい例です。

 江戸時代になり、元和偃武(1615(元和1)年の大坂夏の陣以後の太平)と呼ばれる無戦争状態において、もはや前代のような武辺者が活躍する場はなくなっていきました。このような中で、本来戦闘者である自己をどのように維持して行けばいいのか、あるいは大名や幕府が、こいつら戦闘者をどうやって維持して行くべきかと云うことを模索するようになります。通説としては、ここで二つの武士道の形態が成立すると云われます。一つは、前代の武辺者的で且つ主君との情誼的一体感を大事にする武士道であり、もう一つは、武士から戦闘性、つまり武性を排除ないしは消極化して新しい支配階級の倫理を作ろうというのものです。

 ここで、テクストを三つほど提示しておこうかと思います。大久保忠教(彦左衛門)が書いた『三河物語』(1622(元和8)年)と、山本常朝の『葉隠』(1716(享保1)年)、最後は山鹿素行の『山鹿語類』(1665(寛文5)年)です。通説的に申しますと、前二者が武士道論、後者が士道論と云われ弁別されますが、わたくし自身はちょっとこの分け方に疑問を持っています。『三河物語』を『葉隠』とを一緒にしたら、多分大久保彦左衛門は怒るんじゃないかなぁと思います。「なんじゃい、こんな青臭いヤツと一緒にするな」みたいな感じで。何しろご意見番ですからね。

 『三河物語』や『葉隠』も主君に対する絶対的な忠誠というものを説くのですが、『三河物語』の場合は主君を択ぶ点で、『葉隠』とは趣を異にします。『三河物語』が成立したのは、三代将軍家光の時代ですが、「只今は御主様[家光]之御かたじけなき御事は毛頭なし。」と言い放ちます。これはエライ話です。『葉隠』が「一、奉公人は一向に主人を大切に歎く迄也。是[れ]最上の被官也。」なんて言ったのを考えますと、とんでもない話ですね。

 でも、大久保彦左衛門は彦左衛門なりの言い分があります。彼れは、「相国様」(家康)と一緒に天下取りの大戦争を繰り広げてきたという自負があり、主君として忠義を尽くしうるとすれば、そういった共に戦場で闘ったという運命共同体的な観念(情誼的一体感)の上に成立するものだ、と考えていました。したがって、家光みたいな「生まれながらの将軍」なんてのは、ただのぼんぼんであって、敬うに足りない。と云うわけです。ですから、前代の情誼的一体感の重視という原則が放棄されたわけではないのですが、それがもはや現実に獲得できなくなってしまったことを嘆いていると云えます。

 だからといって彦左衛門は武士を辞めてしまわないと云うところが面白い所です。彼れは、自らの忠誠を現実の「御主様」から「信光様より此方相国様迄御代々の御情」などの「御家」「御国」といった家国秩序へと向けることで自己を定位させようとします。。主君と云う個人ではなく、より上位の存在としての「御家」「御国」に忠誠対象を転換させるというのは、『葉隠』よりも、職分論を説く『山鹿語類』の方に近いと云えます。これについては、後ほど触れます。

 『葉隠』というのは、著者(口述筆記なので話者でも可)の山本常朝自身が、鍋島藩主のご学友という非常に近しい関係にあったせいもあり、主君への忠誠はもはや恋愛感情に近いものがありました。日本の場合、こういう感情を持つ事自体は、必ずしも否定されていなかったあたり、キリスト教圏と相違するところだろうと思いますが、それはそれとして、これがしばしば「忍ぶ恋」に喩えられる忠誠の在り方です。これは、ある意味で前代における、従って『三河物語』が理想視した情誼的一体感によく似ていますが、常朝は戦場に出てこれを培ったわけではなく、近侍として有していた藩主への「忍ぶ恋」から生まれた忠誠と云うべきですから、前代の武士道とは似て非なるものであると云えるのではないかと思います。ですから、

 なんてのも、実戦経験で生まれたことばと云うよりは、藩主が死んで、殉死禁止令で殉死も出来ずに遁世している初老の隠居の観念的なことばであったとも云えます。ところが、このことばがやたらめったら流行ったもんで、武士道と云えば『葉隠』、『葉隠』と云えば「武士道は死ぬことと見つけたり」と云う言説が一般化してしまいました。一般化されたことばが必ずしもその内容を代表していないと云うよい例ではないかと思います。

 さて、こういった武士道に対して新たに立てられた武士の倫理が「士道」です。「士道」というのはその字から見ても分るように、士の道です。何か先週もこんなこと云ったような気もしますが、基本は大事です。

 士というものを主張したものとして早い例は、岡山の池田光政なんかが、御触書や日記なんかに書いているのがそれにあたるでしょう。

 ここで、想定されている士とは、すでに戦国時代に存在した武辺者としての戦闘者(武士)ではなく、治者としての儒学的士大夫であるといえます。従って、士とは武士から「武」性を消極化した官僚であるといえるでしょう。また、ここに引用した池田光政の文章は、

 と云うヒエラルヒーを成しています。これは名分論と云われる儒学的思考様式に則った世界認識です。つまり、各々の人間は生まれながらにして各々のステイタス(カースト)に属している、それは天から与えられた職分であって、これを越えたり破壊したりしてはいけません、と云うことです。これは、幕藩体制が強固に成立しつつあった近世前期に似合った考え方です。そして、この考え方を体系づけたのが山鹿素行です。

 ここでは、武士が「耕さず造らず沽(うら)ざるの士」という形で、士農工商の身分秩序の頂点に立つ存在であることが認識されています。そして更に、その「職分」を全うしないのは「遊民」だと言い放ちます。それでは、その職分を全うするとは何ぞやと申しますと、先ほども申しましたように、治者としての自らの立場を知り三民(農工商)を教化することだと素行は言います。しばしば「知足安分(充足を知り、身分に安んずる)」なんてことを言って、儒学の停滞性を強調したりしますが、そういった側面も確かにありました。しかし、この職分論は家臣としての武士たちや庶民のみならず主君(藩主)をも縛るものであったことは注意すべきでしょう。

 つまり、藩主も藩主の職分があるのであって、やらずぶったぐりなことをしてはいけませんよ、そういうことは非道徳的な行為なんですよ、「殿様ご乱心」なんてぇのはいけませぬ、と云うことです。このことは、暴君出現の抑止効果として働きました。そして、もし暴君が出てきた場合は、「御家大事」と云われて、藩主の座を追い払われたりします。これを、笠谷和比古さんは「主君「押込(おしこめ)」の構造」と呼びました。これについては、平凡社から同名の書籍が出ていますし、最近では岩波の同時代ライブラリーでも『士(サムライ)の思想』という形で出ていますので、興味がありましたらお読み下さい。

 藩主が「押込」られるというのは、かなり象徴的です。つまりこれは、近世には戦国期までに見られた、あの主君の情誼的一体感と云うものが消滅していると云うことを意味します。つまり、先に大久保彦左衛門が現在の主君(家光)に恩義を感じないから、「信光様より此方相国様迄御代々の御情」などの「御家」「御国」といった家国秩序へとその忠誠対象を移行させていったのと同じことが、全社会的に、しかも倫理体系として認められるようになったと云えます。

 しかし、こういった「士道」的倫理観は、徳川太平二百年のなかで、徐々に変質していきます。つまり、職分論というのはその職分を自覚化し、実践していくことで磨き上げられうる倫理なのですが、一方で世襲であるその職分(具体的には家禄)に安住するようになると、その家禄(=御家)を守ることだけを至上命題とするようになります。そうなると、もはや「耕さず造らず沽(うら)ざるの士」は、士大夫的な治者としての職分を全うしなくなり、武士は「武」性も「士」性も消極化された「遊民」に過ぎなくなってしまうという倫理的頽廃状況に至ります。これは、封建官僚制が、本質的に世襲制を旨とする家産官僚制であることに由来する必然的な矛盾でありました。

 こういった矛盾をはらみながら二百年、遂に武士道もその太平の終焉を迎えようとしていました。幕末維新期の始まりです。しかしこれはもはや、武士道という枠を越えた話になるので、日を改めて幕末維新期における忠誠転換というお話をしたいと思います。従って、次回はいきなり近代の武士道に行きます。


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