近代の武士道

――オレたちは武士じゃない――

 これまでは、武士の倫理としての武士道を取り扱ってきましたが、近代以降はそうはいきません。それは端的に武士の消滅と云うことに起因しますが、それでも武士道ということばは生き残っていきます。今日はそこらへんについて。


明治国家と武士道

 近代には武士はいません。それは、革命とも云うべき明治維新によって封建制が廃棄されてしまったせいでもあります。しかし、その一方で明治国家が武士それ自体を嫌ったという側面もあります。いやしくも国民国家たらんとするものは、国民の間に身分の差別があってはいけないのであって、武士だの町人だのと云った差別はいけないと云うのがその理由でした。華族制度があったじゃないかと言われるかも知れませんが、権利的には基本的に誰れでも華族にはなれたという原則があります。まぁ、権利だけなんですがね。権利だけというのが非常に近代的です

 他にも武士が嫌われた理由としては、以前も「軍人勅諭」に関して申し上げましたが、天皇制国家である明治国家にとって、「武士ともの棟梁たる者に」「政治の大權」が落ちた「凡七百年の間」の「武士の政治」は「我國體に戻り且つは我祖宗の御制に背き奉り淺間しき次第」なわけです。「あさましい」ですよ。ひどいいわれようですね。しかも、「国体にもとる」なんて書かれてしまっています。これが昭和時代であったら、武士なんてのは非国民ですね、ハイ。この「軍人勅諭」が出されたころは、まだ元武士もいましたから「世の樣の遷り換りて斯なれるは人力もて挽囘すへきにもあらすとはいひなから」なんて配慮が見られますが、とにかく、「武士の政治」の時代というのは天皇制にとってはイレギュラーでしかないわけです。にしても、仮りに当時天皇統治が2500年あったとしてその700年ですから、全期間の1/3から1/4くらいはイレギュラーと云うことになります。歴史学的に云えば、1/2はイレギュラーですな。というか、これだけのものをイレギュラーということ自体科学的ではないと云えます。

 明治国家の建設者たちというのは、ある意味で反逆者です。つまり、既存の体制を破壊し新しい体制を作ったという点で反逆者です。武士に限らず、こういった裏切り行為というのは相当の理由がない限り難しいのでありまして、木戸孝允なんかは「小忠小義に殉ずることなく、大忠大義に報ぜよ」なんてことを言って合理化しようとしました。小忠小義――つまり主君や藩と云った小さいところでの忠誠心の貫徹ではなく、ヨリ高次の、天皇に対する忠誠心(大忠大義)を尽しなさいってことですが、残念ながらやっぱり詭弁です。どのように言い訳しても明かに主君を裏切っているわけですから、その倫理的な転倒性はどうにも掩いようがない。幕臣から明治政府の役人になった人の問題については、福沢諭吉が『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』という本の中で、勝海舟と榎本武揚を題材に論じていますのでここでは省きます。

 こういった十字架を背負った明治国家の建設者は、従って封建制というものは悪いものだ、暗黒時代だ国体にもとる浅ましき時代だと云うことを強調し、明治の御代はなんて素晴らしいんだ、ビバ明治国家! と自画自賛することで、自らの革命の正統性を強調します。これは、革命の初期にはよくある現象です。たとえば、フランス革命で使われたアンシャンレジーム Ancien Regime ということばもそういう傾向を有しています。つまり、王政ってのはアンシャンなんだ英語で云えばエインシェント ancientなんだ、古くさい廃棄されるべきものだったんだと云う形で、倒してしまった体制を評価することで自らの体制の価値を高めるわけです。

 ここから少し話がややこしくなるのですが、確かに明治国家は武士階級というものを否定するのですが、武士の有していた倫理観というものまでを否定したかというと、仲々にそうは云えないものがあります。封建制度はなくなりましたが、元武士というのはたくさんいたわけです。明治国家の政府を構成しているそのほとんどは武士階級の出身ですから倫理の話になるとどうしても地金が出てくると云うか、そういうコンテクストでないと話が出来ないと云うところがあります。先ほどの「小忠小義から大忠大義へ」というのも武士倫理のコンテクストの上に乗った論理といえます。

 結局のところ、明治時代におけるインテリゲンツィアの多くは武士階級をその出身母胎としているために、倫理を考える場合どうしても武士の地金が出てこざるを得ないわけです。で、それ自体はさほど悪いわけではありません。しかし、日本人の大多数は武士階級の出身でも何でもないのですから、縁もゆかりもない武士階級の倫理を「日本人の国民道徳」なんていわれるとかなり困ります。町人にも町人なりの倫理というものがあったのですが、どうもあまりよい評価が与えられなかったように思えます。これには、町人が自らの手で自らの倫理を体系化しなかった(乃至は「しえなかった」)と云う事情の他に、武士階級の有していた賤商論的な見方が関わっていると思います。

 ところで、日本における賤商論は武士の専売特許ではなく、実に最近まで日本の学術を規定しておりました。これは、偉大なマックス・ヴェーバー先生の不朽の労作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中に、「日本や中国なんてのは倫理がないから、その資本主義は賤民資本主義にしかならない」なんて規定してくれたおかげで、日本の町人というのは前期的資本主義(あるいは原始蓄積)の段階にあったとしても、それは賤民のつまり儲けることだけが優先されるそういった賤しい人間のやる資本主義である、と云うことになりました。誠に有難いことです、正しくはありがた迷惑ってヤツですが。(但し、ヴェーバ自身ユダヤ人の冒険的資本主義を賤民的だと言ったので、日本や中国を名指しして賤民的とは言っていません。しかし日本や中国には「禁欲のエートス(倫理的傾向性)がない」ともいうので、そういうところから日本の学者が日本を賤民資本主義と規定したので、いわば自業自得というか金科玉条です。)

 それはそれとして、明治時代における体系的な倫理思想は、外から移入したもの、あるいは保守的な目的で復興された儒教道徳以外は、基本的に武士道に基盤を置くものでした。福沢諭吉は、「門閥制度は敵でござる」と言ったように封建制というものが大嫌いでしたが、結局最後には、倫理として武士を以てこざるを得ないと非常に残念がっています。そうした明治期の倫理学説として特筆されるべきなのが、新渡戸稲造の『武士道』ではないかと思います。

 『武士道』は元々英文で書かれたことからも分るように、国内に対してと云うよりも世界に向けて発表したものです。で、原題が“Bushido, the Soul of Japan”と云うんですから、気負ってます。直訳すれば「武士道―日本の魂―」ですね。大和魂と関係があるのかは分りませんが、「日本人にはこれしかない、決定版だ」と云うことなのでしょう。内容は新渡戸自身がキリスト者であることから、日本におけるキリスト教の在り方について述べており、『葉隠』のように「死ね死ね」とか言いません。当たり前ですが。

 具体的には、日本にキリスト教が育つには、人々の心の底に流れている道徳的特性の合成体としての武士道が思い起こされなければならないと新渡戸は言います。じゃぁその武士道はどういうものなのかのかと云うと、「卑劣な行為を忌む義」「敢為堅忍としての勇」「惻隠の情たる仁」「礼儀作法」「信実としての誠」「名を惜しむ」「忠義」「克己」などのもろもろの徳から成っているそうです。そして、為政者の道徳としての武士道は消滅する運命にある、とする一方で、武士道を形成していた個々の道徳は日本人の土壌として残っているのであり、新しい道徳(キリスト教)はその上にのみ結実しうるであろうと説くわけです。ここらへん、内村鑑三がも日本の思想的伝統を道徳の高さとしてとらえ、自らの信仰を「武士道の上に接ぎ木されたるキリスト教」としていたのによく似ています。

 「為政者の道徳としての武士道は消滅する運命にある」と結論づけたのは、一つの見識であると思います。こういった、武士道から階級性(支配者性)というものを排除し、近代に適応した形での武士道を提示しようと云う動きは、キリスト者に限らず明治知識人の一般的な傾向でありました。むろん、武士道から階級性を排除してしまった時点ですでに近代以前の武士道とは本質的に異なって参ります。また一方でこのように武士道を分解・分析し、徳目にまで純化させてしまうと、その徳目が独り歩きするという事態が起ります。つまり、ここで武士階級にとっての武士道は系譜的にその命脈を完全に断たれ、総ての日本人に適応可能な或る範型 prototype として普及するようになります。もはやここまでくると新渡戸の予想を超えて、「日本人=武士道者」という等式が国民道徳として教育現場で普及徹底されていくようになります。

 こうして武士道は国民道徳として、明治国家にとって都合のよい国民を作るために、修身や国語や歴史の時間にたたき込まれるようになります。新渡戸の『武士道』に前後しますが、「教育勅語」に謳われた「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」というあの一節、これはあの「いざ鎌倉」という「忠義」徳目の対象を天皇にすり替えたものだといえます。しかも「勅語」にいわせると、こういった「義勇奉公」は「此レ我カ国体ノ精華」なのですから、武士道も名誉恢復という感じが致します。

 しかし、よく考えてみればあの「いざ鎌倉」というのはそもそも如何なるものであったかというと、例えば承久の乱(1221)では、武士の政権を覆そうとする京都朝廷から鎌倉を守ろうというものだったわけで、武士の持っていた「義勇奉公」は天皇なんかには向いていなかったわけです。つまり、先ほどの木戸孝允の言葉を逆手に取れば、「大忠大義に殉ずるのではなく小忠小義に奉じよう」、観念的な天皇なんかではなく現実に目の前にいるこの主君のために働こうというものでありました。当時存在していた武士道を持ち込んで天皇崇拝の教育を行うこと自体が自己矛盾と云うことになります。

 この点について最も早い時期に且つ最も先鋭的に糾弾したのが、北一輝『国体論及純正社会主義』です。これについては、もっと深く追究したいところですが、簡単にいうと古代から変わらずに尊皇の伝統を我々の祖先は有していたわけではないし、むしろ国家が強調する「義勇奉公」なんてのは天皇に対してではなく、現前の主君のためのものであったわけで、その意味では日本国民は総てが天皇に背き国家に負いた「乱臣賊子」なんであって「忠良ナル臣民」なんてものを過去に求めるのは、アナクロもいいところだ、と北は喝破します。なかなか小気味いいので機会があったらお読み下さい。

 こういった非難を力尽くで押さえ込みながら、「日本人=武士道者」という教育は徹底されていきます。修身では美しく死んだ武士を賛美しながらも、その武士が何のために死んだのかについてはほとんど触れられることがありませんでした。実際は、御恩のためとか天皇ではない現前の主君のためとか色々理由はあったのでしょうが、そういうことは一切無視して、潔く、パッと咲いては散るようなそういった桜のような人間像だけがひたすらもてはやされるようになります。かくして『葉隠』が再発掘され、「武士道のあるべき姿」なんて感じになってきます。そもそも『葉隠』というのはきちんと刊行された書物ではなく、佐賀藩の内部で通行していたいわば秘書(秘密の書)であり、その受け取られ方は様々でしたが、別名を『鍋島論語』と呼ばれたように、或る種の主君第一的な修身の読み物と見做されていたようで、同藩出身の大隈重信が明治になって『葉隠』をかなりこき下ろしています

 明治国家における教育の主軸は二つありました。一つが初等教育であり、もう一つが軍隊です。この軍隊においても、「軍人勅諭」に「我國體に戻り淺間しき次第」と言われながら武士道の教育、正しくは、軍隊に都合のよい形での武士道徳目の叩き込みがなされました。これは日露戦争以後とくに強力に打出されます。これは、日露戦争といういわば総力戦(日本だけですが)を経て軍隊内部(特に最前線の兵隊)で戦争を忌避する傾向が現れてきたことへの対処であろうと思います。

 田中義一という山県有朋の一の子分がいました。この人は後に陸軍大将からとらばーゆ(古い)して、政友会の総裁になり、その際に軍の機密費を持参金として持ち込んだんじゃないかなどと噂されつつも、首相になり山東出兵なんかやったりしていましたが、結局張作霖爆殺で天皇に怒られてビックリして自任し翌年心労が重なりなくなってしまったというちょっと可哀そうな人です。如何に天皇に力があったかがわかるよいエピソードですね。それはそれとして話を戻しますが、田中義一がまだ陸軍少将だった頃に、将校団に対してこういう講演をしています。

 原則として、将校は兵隊に「死ね」と命令できる。できるが、そのように兵隊をし向けるのは結構難しい。そこで出てくるのが、日本人だけが持っている「義理」と云うものであって、上下の間に「恩情」「情誼」と云ったものが深く存しておれば、部下は将校にどこまでも付いて行かざるを得ない。「そこで初めて死生を共にするといふ心」が起る。「義理」というものは、「能く人を縛ることが出来る、また人を殺すこともできる」わけで、それが「隊長としての真価」・「統御の妙」なんだといいます。

 ここでは、武士道の徳目を叩き込むと同時にその倫理的構造をも利用して、兵隊を如何に効率よく殺すかと云うことが検討されています。つまり、鎌倉武士の「御恩―奉公」関係がここではもう一度――しかも明かに御恩が皆無に等しいような状態で――復活しています。大体にして、「恩情」や「情誼」などと云っていますが、兵隊はどんなに奉公したところで反対給付は基本的にありません。「忠良ナル帝国臣民」がそのように努めるのは、臣民の義務だからです。将校が個人的に何かするとしても、ぜいぜいお汁粉をおごるとかそんな所でしょう。そもそも鎌倉武士が命を懸けて守ったものは、主君と同時に主君からもらった自らの生計(所領)です。これはまさに「一所懸命」といえますが、はたして将校の「恩情」や「情誼」には命を懸けるほどの価値があったのかというと甚だ疑問です。また、「死生を共にする」にしても、兵隊は死生を共にせざるを得ないかも知れないが、一方で将校自身はどうなのかと云うことも気になります。なお、この田中の講演を私に教えてくれたのは城丸章夫という方の『星とさくらと天皇と』という新書ですが、このこの方はこういう似而非な恩情関係を「与太者の論理」「私兵化」と呼んでいます。なかなか云い得て妙ですね。特に与太者に関しては現在でも一部の政治結社の方で残存しているとも書いてあります。

 日本の軍隊に関しては色々問題があるので今回は触れませんが、武士道はここでも人間を支配するためのツールとして用いられていたことがご理解いただけたかと思います。倫理がそれ自体を目的としてではなく、単に他者を支配する手段として用いられるとき、それはもはや倫理ではなくイデオロギーと呼ばれます。イデオロギーについては、すでに申し上げましたので繰り返しませんが、近代日本における、より精確にいえば明治国家における武士道は、初めから服従を意図して教育の現場に持ち込まれ普及徹底がなされたものでありました。そこには、「日本人=武士道者」というハリウッド映画も斯くやと言わんばかりのステレオタイプ化された日本人像が造られており、日本人はその鋳型にはめ込まれていました。これは、国民の創造であり、一方で人間性の抹殺でもあります。既存の倫理観念を廃棄させ、イデオロギーに服従させる、しかし人間はそれほど頭が悪いわけではないので、面従腹背と云うのが正確なところだったと思いますが、それはまた逆に良心における倫理をも混乱させることにもなりました。

 わたしたちの多くは武士の子孫でもありませんし、且つまた現在武士でもありません。我々の倫理は我々自身の手で磨き上げ、あるいは造り上げるべきであり、決して権力やその他外部からの圧力によって形成されるべきものではありません。「日本人であればこのような道徳を持っているべきだ」、「こういうものに敬意を払うようにしなさい」などというのは余計なお世話というものです。私たちは或る国民である前に一個の人間として在るのです。自分自身の格率(自己律法)は自ら作りなすべきではないでしょうか。


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